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第13話
1・人形の口づけ
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エルクウァルの城の前に小さな馬がつながれている。馬の背には女用の鞍が置いてあり、エルクウァルが用意してくれたものだとわかった。馬は琥珀を見るなり嘶いて、足踏みしだしたので、琥珀は急かされるまま鞍によじのぼった。
熊の腕に手綱をからめ、後ろ髪を引かれる気持ちで城の窓を振り向こうとしたとき、
「……きゃ――――っ?」
馬が風のように疾走をはじめる。
山を下り河を飛び越え、丘をのぼってまた下る。絶対にこれはまともな馬ではない。魔法がかかっているのに違いない。
(落ちたら死んじゃう、けど、乗っていても死にそうっ……だけど、行くしかない、わ。エルクウァルに啖呵きって出てきちゃったのだもの、わたしは、わたしの役目をきちんと果たさなければ……)
地平近くにエリウ王宮と神殿が並ぶ丘が見えてきた。その緑の丘が震えて見えるのは、それぞれ二頭の馬に牽かせた十数台の戦車が一斉に駆け下ってきたからだ。
いちばん先頭。重武装した棘だらけの戦車で槍を構えている戦士の姿を見つけ、琥珀は息を呑んだ。ディランがそこにいる。
顔や手足、見える部分すべてに藍の染料で禍々しい模様を描き、そのせいで顔つきまで変わってしまったように感じる。エルクウァルと戦う気なのだ。
「……とまりなさい!」
琥珀が叫ぶと、魔法の馬は前脚を挙げて、ぴたりと静止した。
「そこにいるのは何者だ――琥珀っ?」
ディランが叫ぶ。戦士団をとめ、自分も戦車を飛び降り、手を伸ばせば届くほどの近くまで駆け寄ってきた……琥珀がなにも言わないうちに、ディランは馬の鞍から琥珀を引きずり下ろして抱きすくめる。
「おまえっ……無事だったのか! エルクウァルのところから逃げだしてきたんだな? おれが気を失っているうちに、あいつがおまえをさらいやがって……どんな目に遭わされているのか、心配でおかしくなりそうだった」
ディランの肩も腕も力強いが、体温は感じない。琥珀は唇を噛みしめた。まさかこの人が……だなんて。
信じたくないけれど、エルクウァルが嘘をついていないということも信じている。
琥珀は首を横に振り、ディランの胸に額を寄せた。
「ごめんなさい……ディラン。ほんの今日まで気を失っていたの。でも、無事よ。エルクウァルももうひどいことはしなかったわ。黙ってここに送りだしてくれたもの」
「そもそもあの野郎がおまえを殺そうとしたのに、ひどいことをしなかっただなんて言えるわきゃねえだろ。でも……よかった。ほっとした。これで心おきなくエルクウァルと戦うことができる」
「ディラン、あのね」
「たとえ結果的に無事でも、あいつがやろうとしたことは消えない。おれの婚約者をさらい、岩につり下げ、殺そうとしやがった。それに……おまえが気づいているかどうか知らないが、この手を熊にしやがったのも間違いなくエルクウァルだ。あいつを殺さない限り呪いは消えない」
ディランが肘まで熊になった琥珀の手を取り、毛皮に鼻をうずめる。琥珀はどきまぎしたが、必死になって声を絞りだした。
「違うのよ。呪いをかけたのはエルクウァルじゃなかったの」
「おまえ、あいつに言い包められちまったのか?」
「違うの……」
ディランの眼差しが痛い。くすんでいて光に乏しい黒色でも、その奥にはちゃんと感情があるのだ。琥珀は、ディランに裏切られたとは思ってほしくなかった。
「じゃあなにが違うんだ」
「言えない、けど、エルクウァルは約束してくれたわ。わたしとあなたが英雄の剣を手に入れるのを邪魔したりしないって。それを、手に入れたらあなたの目的は達せられるのよ。兄弟で争うことなんてないの」
「争いのもとを吹っかけてきたのはあっちだ。まさかおまえは、ハゲワシの餌にされかけたことまで許しちまったわけじゃないんだろ」
「許したわ。この手で一発ひっぱたいてきたから、それで充分。それ以上はいらない」
「あのなあ」
「ディラン」
琥珀は緊張していた。エルクウァルの話をすべて信じた上で、もう一度ディランに会ったとき自分がどう感じるのか、いまこの瞬間までわかっていなかったのだ。けれど……ディランに欠けているのは魂と人間の体、かもしれないけれど、こうして話しているときの気持ちはすべてを知る前もいまもまったく変わらない。
琥珀が一度、婚約者と決めたのはこのディランだ。
「あなたと結婚したいの」
ほかのものはいらない。選ばない。琥珀はずっとディランの味方でいる――だから、エルクウァルとは戦わないで。
眼差しに力を込めてディランを見つめると、眉根を寄せて琥珀を睨んでいたディランの表情が、ふと緩んだ。なにかを思いだしたらしく面白そうに唇を歪める。
「誘ってんのか?」
「なに、それ」
「知ってんだろ。寝所でのあれやこれや」
ここでそれを持ちだすのか。せっかく勇気を振り絞ったのに、冗談なんかでごまかすのはひどい。
「知らない……っ」
恥ずかしさに頬を爆発させて、婚約者を押しのけようとした熊の腕をディランはさらに強くつかんで引き寄せた。ぷいっと顔を背ける琥珀の顎に手を添えてこちらを向かせるなり、素早く唇を触れあわせる。
「――……っ!」
一瞬のことだ。まわりに戦士たちがいるのに……全身を桜色に火照らせている琥珀をまじまじ見つめ、ディランは珍しいくらいに優しく微笑む。
「甘い、キスに免じて――エルクウァルを殺すのは諦めてやるよ、今回だけな。このまま神殿に向かってシアヴィルから剣の在り処を聞く。それでいいんだな?」
小さく頷いた琥珀は、ディランの胸に頬を預け――そこから響いてくる音が鼓動ではなく、洞穴のように空虚な響きだとわかった。
彼の息は洞を通る風。鼓動は聞こえず、魔法の流れを感じるだけだ。
熊の腕に手綱をからめ、後ろ髪を引かれる気持ちで城の窓を振り向こうとしたとき、
「……きゃ――――っ?」
馬が風のように疾走をはじめる。
山を下り河を飛び越え、丘をのぼってまた下る。絶対にこれはまともな馬ではない。魔法がかかっているのに違いない。
(落ちたら死んじゃう、けど、乗っていても死にそうっ……だけど、行くしかない、わ。エルクウァルに啖呵きって出てきちゃったのだもの、わたしは、わたしの役目をきちんと果たさなければ……)
地平近くにエリウ王宮と神殿が並ぶ丘が見えてきた。その緑の丘が震えて見えるのは、それぞれ二頭の馬に牽かせた十数台の戦車が一斉に駆け下ってきたからだ。
いちばん先頭。重武装した棘だらけの戦車で槍を構えている戦士の姿を見つけ、琥珀は息を呑んだ。ディランがそこにいる。
顔や手足、見える部分すべてに藍の染料で禍々しい模様を描き、そのせいで顔つきまで変わってしまったように感じる。エルクウァルと戦う気なのだ。
「……とまりなさい!」
琥珀が叫ぶと、魔法の馬は前脚を挙げて、ぴたりと静止した。
「そこにいるのは何者だ――琥珀っ?」
ディランが叫ぶ。戦士団をとめ、自分も戦車を飛び降り、手を伸ばせば届くほどの近くまで駆け寄ってきた……琥珀がなにも言わないうちに、ディランは馬の鞍から琥珀を引きずり下ろして抱きすくめる。
「おまえっ……無事だったのか! エルクウァルのところから逃げだしてきたんだな? おれが気を失っているうちに、あいつがおまえをさらいやがって……どんな目に遭わされているのか、心配でおかしくなりそうだった」
ディランの肩も腕も力強いが、体温は感じない。琥珀は唇を噛みしめた。まさかこの人が……だなんて。
信じたくないけれど、エルクウァルが嘘をついていないということも信じている。
琥珀は首を横に振り、ディランの胸に額を寄せた。
「ごめんなさい……ディラン。ほんの今日まで気を失っていたの。でも、無事よ。エルクウァルももうひどいことはしなかったわ。黙ってここに送りだしてくれたもの」
「そもそもあの野郎がおまえを殺そうとしたのに、ひどいことをしなかっただなんて言えるわきゃねえだろ。でも……よかった。ほっとした。これで心おきなくエルクウァルと戦うことができる」
「ディラン、あのね」
「たとえ結果的に無事でも、あいつがやろうとしたことは消えない。おれの婚約者をさらい、岩につり下げ、殺そうとしやがった。それに……おまえが気づいているかどうか知らないが、この手を熊にしやがったのも間違いなくエルクウァルだ。あいつを殺さない限り呪いは消えない」
ディランが肘まで熊になった琥珀の手を取り、毛皮に鼻をうずめる。琥珀はどきまぎしたが、必死になって声を絞りだした。
「違うのよ。呪いをかけたのはエルクウァルじゃなかったの」
「おまえ、あいつに言い包められちまったのか?」
「違うの……」
ディランの眼差しが痛い。くすんでいて光に乏しい黒色でも、その奥にはちゃんと感情があるのだ。琥珀は、ディランに裏切られたとは思ってほしくなかった。
「じゃあなにが違うんだ」
「言えない、けど、エルクウァルは約束してくれたわ。わたしとあなたが英雄の剣を手に入れるのを邪魔したりしないって。それを、手に入れたらあなたの目的は達せられるのよ。兄弟で争うことなんてないの」
「争いのもとを吹っかけてきたのはあっちだ。まさかおまえは、ハゲワシの餌にされかけたことまで許しちまったわけじゃないんだろ」
「許したわ。この手で一発ひっぱたいてきたから、それで充分。それ以上はいらない」
「あのなあ」
「ディラン」
琥珀は緊張していた。エルクウァルの話をすべて信じた上で、もう一度ディランに会ったとき自分がどう感じるのか、いまこの瞬間までわかっていなかったのだ。けれど……ディランに欠けているのは魂と人間の体、かもしれないけれど、こうして話しているときの気持ちはすべてを知る前もいまもまったく変わらない。
琥珀が一度、婚約者と決めたのはこのディランだ。
「あなたと結婚したいの」
ほかのものはいらない。選ばない。琥珀はずっとディランの味方でいる――だから、エルクウァルとは戦わないで。
眼差しに力を込めてディランを見つめると、眉根を寄せて琥珀を睨んでいたディランの表情が、ふと緩んだ。なにかを思いだしたらしく面白そうに唇を歪める。
「誘ってんのか?」
「なに、それ」
「知ってんだろ。寝所でのあれやこれや」
ここでそれを持ちだすのか。せっかく勇気を振り絞ったのに、冗談なんかでごまかすのはひどい。
「知らない……っ」
恥ずかしさに頬を爆発させて、婚約者を押しのけようとした熊の腕をディランはさらに強くつかんで引き寄せた。ぷいっと顔を背ける琥珀の顎に手を添えてこちらを向かせるなり、素早く唇を触れあわせる。
「――……っ!」
一瞬のことだ。まわりに戦士たちがいるのに……全身を桜色に火照らせている琥珀をまじまじ見つめ、ディランは珍しいくらいに優しく微笑む。
「甘い、キスに免じて――エルクウァルを殺すのは諦めてやるよ、今回だけな。このまま神殿に向かってシアヴィルから剣の在り処を聞く。それでいいんだな?」
小さく頷いた琥珀は、ディランの胸に頬を預け――そこから響いてくる音が鼓動ではなく、洞穴のように空虚な響きだとわかった。
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