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第二章 燃える冬の夕景

2-12 轟く砲声③  ……セレン

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 鳴り止まぬ狂騒が全身を震わせる。
 再び始まったそれらから逃げるように、セレンは目を閉じ、耳を塞ぎ、神に祈った。

 ミカエルと別れ、退避した屋形馬車の中で、セレンは十字架のペンダントを握り締め、祈った。戦う教会遠征軍の者たちに……。自分を守ってくるれる親衛隊の白騎士たちに……。そして、強き意志を携えた月盾の長と、勇敢なる月盾の騎士たちに……。

 神よ。どうか我らを守りたまえ。敬虔なる〈教会〉の子らを救済したまえ。二百年前、〈東からの災厄タタール〉を退けたときと同じように、偉大なる〈神の奇跡ソウル・ライク〉をもって〈帝国〉の矛を鎮め、〈教会〉に勝利と栄光をもたらしたまえ……。

 しかしいくら祈りを捧げても、天啓はなかった。〈神の依り代たる十字架〉は、何も答えてはくれなかった。

 終わることなき戦場の狂騒が、その激しさを増していく。そのたびに、祈りの歌は途切れ、揺れ、か細くなっていく。

 誰か助けて──時折、偽らざる本音が漏れる。
 周囲の者に聞こえているかもしれないと思ったが、反応はなかった。侍従長のリーシュら、同伴する侍従たちはみな、祈ることに必死のようで、こちらを見てはいない。
 それを見て、セレンはなぜか安堵していた。聖女の化けの皮が剥がれ、人形同然の中身がバレていないことに……。
(すぐ外では殺し合いをしているというのに、命の危険に晒されているというのに、こんな些末なことを気をにするとは……)
 己の矮小さに、セレンは思わず自嘲した。その自嘲はやはり周囲にはバレていないようで、セレンはまた安堵した。

 しかし、そんな安堵も束の間、始まりの雷鳴が、再び全てをかき消した。

 刹那、体が、宙に浮いた。
 あまりの轟音に、木造の馬車が軋み、揺れる。窓枠は震え、ガラスに無数の亀裂が生じる。

 間髪入れず、さらなる雷鳴が轟く。鈍い金属音と、泥が飛び散るような音が、ゴロゴロと転がっては消えていく。

 そして、音が消える。
 しばらくの間、あらゆる音が聞こえなくなった。外の狂騒はおろか、同伴する侍従たちの悲鳴も、何か喋っているリーシュの声も、聞こえなかった。
「頭を下げて下さい!」
 耳元で、遠くぼやけた声が響く。リーシュが、覆い被さるようにしてセレンの体を押さえる。

 それなのに、セレンは顔を上げていた。

 危険は嫌というほど理解していた。それでもセレンは、馬車の車窓から、外の景色を覗いてしまった。

 車窓から見える冬は、赤かった。

 血帯び燃え上がる夕景に、戦場には不釣り合いな笑い声に、セレンは目と耳を疑った。
 赤い粉雪が舞い、笑い声が近づいてくる。飢えた怪物の如き奇声を上げる狂獣たちが、飛ぶようにして馬を駆り、その極彩色を露わにする。
 熊のような大男が、血飛沫を巻き上げ、その先頭を飛翔する。長槍パイクの林を吹き飛ばし、親衛隊の白騎士たちを蹴散らし駆けるその姿は、ほとんど羽の生えた悪魔か怪物にしか見えず、同じ人間とは到底思えなかった。

 目に映る全てが恐ろしかった。それなのに、目を背けたくなる光景を前にしても、しかし目は離せなかった。

 車窓の外で、果てなき惨劇が続く。喊声、怒号、罵声……。絶叫、悲鳴、断末魔……。あらゆる声色が、剣戟と銃声の間に間に響いては、消えていく。
 また北風が吹き荒ぶ。何かが風を切り、天使の錦旗を持つ旗手が射殺される。旗手は倒れ、十字架を奉る天使の紋章も、地に崩れ落ちていく。

 状況は、まるで理解できなかった。

 第六聖女親衛隊は五千人いた。ここボルボ平原で戦いが始まったとき、本隊には五万人の兵がいた。初期の動員兵力ならば十五万人もおり、彼我の国力差は、五万人の動員が限界と予想されていた〈帝国〉を圧倒していた。
 それなのに、それだけの数の兵に守られているはずなのに、セレンは今、死地にいる。
 〈第六聖女遠征〉を実質的に取り仕切っていたヨハン・ロートリンゲン元帥は、鉄の修道騎士と名高い将軍だった。その息子であるミカエルは、ロートリンゲン家の精鋭部隊である月盾騎士団ムーンシールズを率い、危急に駆けつけてくれた。だが、彼らの力を持ってもしても、流血は治まるどころか、その激しさを増す一方である。

 遠征が始まる前、教皇猊下から贈られた言葉を思い出す。

 大義と正義は〈教会〉にあり、勝利は約束されていたはずだった。〈黒い安息日ブラック・サバス〉と呼ばれる冒涜的殺戮を犯した〈帝国〉は疑う余地もないほどの賊軍であり、神は〈教会〉の味方であるはずだった。

 それなのに、教会遠征軍は負けている。

 古き伝承ならば、数多の絵画に描かれる様を信じるならば、〈神の奇跡ソウル・ライク〉は死地を前に顕在し、敵は怒りの業火の大魔法によって焼き払われるはずである。
 しかし、それが現実に起こる気配はない。いくら祈っても、いくら助けを乞うても、〈神の依り代たる十字架〉は沈黙を保ったまま、何も答えてくれない。

 なぜ? 何で? どうして……? ──考えても、何もわからなかった。

 戦場で、私は何もできない……──その感覚だけは、はっきりとしていた。

 そして息をすることさえ忘れ、セレンは白い闇の中へと落ちていった。
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