桜の舞う時

唯川さくら

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さくらフワリ

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風は奈々を急かすように吹いて、桜はそれにのって奈々に何かを囁いたようだった。ほのかに赤みがかった髪が、そんな意図的な風に泳いで桜の花弁を絡ませている。

『うるさいなぁ…。学校なんて面倒くさいし、靖国にも行かないよ~。』

風は少し怒ったのだろうか?嵐のようにざわざわとざわめいて、周りの木々もそれに便乗している。風の音が、微かに耳をかすめて通り過ぎていった。

『おばあちゃんは…何で毎回「靖国に行こう」ってあたしを誘うんだろ…。』

それに答える声はない。眼下に広がるこの街に降り続ける桜の雨だけが、交響曲にでも合わせるかのように乱舞している。

『あたしに関係ないじゃない…。70年以上も前でしょ?戦争があったのなんて。』

風の勢いが増してざわめきが輪唱のように重なりあい、桜は吹雪のように奈々の体にまとわりついてくる。辺り一面が桃色に染まって、桜の中に飛び込んだみたいだ。
…その時だった…。ゆっくりと視界を遮るように近づく桜の花弁が、奈々の2つの瞳に被さるように無理矢理目を閉じさせたのだ。

『痛っ…!』

目を閉じたのは、そんなに長い時間じゃなかった。ほんの一瞬だった。奈々は前髪をかきあげるのと同時に、瞼に柔らかく乗った桜をはらった。

『いったいなぁ…。何なの…。』

そういった奈々の瞳に、見慣れた街並みは映らなかった。眼下に見えるのは、色鮮やかな街ではなかったのだ。全てが茶色に見えるといってもいいほど、木造の家々が連なっていた。クレヨンのように色とりどりの屋根なんて、どこにもない。右下にあったコンビニも、むこうに小さく見えた大型スーパーも、卒然と消えてしまった。自分の住んでいたマンションも、隼人の家も、学校やレストランさえない。

『えっ…何…?どこ…ここ…。』

そういうしかない。セピア色の景色の中で、桜だけが鮮やかなこの場所で、ただ…呆然とするしか出来なかった。しばらく周りを見回した後、奈々は慌てて鞄から携帯を取り出した。画面の右上には、冷たく“圏外”の文字が映っていた。日付も、さっきのままだった。時間は、わずか1分しかたっていない。

『なっ…なんで…?ここ…どこ…?』

奈々は泣きそうになった。右も左も分からない砂漠の真ん中に、突然ポツンと1人置き去りにされたような気持ちだった。ここがどこかも分からないし、何が起こったのかも、どうしたらいいのかさえ分からない。一体、何の悪夢なのだろう?夢なら覚めて欲しい…そう思うのが精一杯で…。


パキッ…


地面に散らばった枝が踏まれた音がした。奈々は大袈裟なぐらい驚いて、音のした方に振り返った。

『…紫雨…?お前、その格好どうしたの…?』

『…えっ…?…隼人…?』

『えっ?何寝ぼけてるんだよ。オレは隼人じゃなくて雪斗!』

現れたのは、見慣れないカーキー色の学ラン姿の青年だった。整った顔立ちに切れ長の目、どこかで聞き覚えのある鼻にかかったような声…。年は17、18歳ぐらいだろうか。彼は、奈々の目に焼きついている姿によく似ていた。奈々の通っている高校も、今時珍しく、男子の制服は学ランだったから、見間違えても無理は無い。髪型と髪色が違うだけで、あとは何もかもが隼人と瓜二つだったから…。

『…まったく、何してんだよ…。こんな所にいないで帰ろうぜ。』

『あの…えっと…。』

『ほら、行くぞ。』

奈々は何が何だか分からなくて、手を引かれるままについて行った。きょろきょろと辺りを見回しながら、そのまま山を降りていって、木造の家屋が連なる見慣れない町並みを通過していく。すれ違う人はみんな、継ぎ接ぎだらけの衣服に身を包み、物珍しそうに奈々を見ていた。心なしか通り抜ける風も、いつもとは違うような気がした。
たどり着いた1軒の家は、やはり木造で馴染みのない風貌だった。雪斗と名乗った彼は何の躊躇もなく中に入っていき、奈々も手を引かれて中に入った。どうやら家族は留守のようで、静まり返る中で壁にかけられた柱時計がコチコチと音を立てている。
見渡す限り、不思議な家だった。横開きのドアを開けると玄関がなく、床は土がむき出しになっていて、流しと見慣れないかまどがある。靴を脱いで畳敷きの部屋に入ると、どうやらそこが居間のようだった。

『とりあえず、そこ座ってていいよ。飲み物取ってくる。』

雪斗は奈々を居間に残して、そのまま台所に引き返してしまった。
奈々は混乱して、あたりを見回してみた。見慣れない家に、見慣れない町並み…。そして、幼なじみの隼人に瓜二つの青年…。桜の木の下にいて目を閉じたほんの一瞬の間に、一体何が起きたのだろう…?奈々はもう1度、ポケットの中にある携帯を見てみた。相変わらず…“圏外”の文字が、右上に表示されている。…瞬間的に電波も届かない場所に来てしまったんだろうか?

『…紫雨…どうしたの?何かあった?』

すぐに雪斗は台所から麦茶を持ってきて、ちゃぶ台の前に座った。奈々は慌てて携帯をポケットにしまいこんでただただ動揺しながら、正面に座った雪斗とあまり目を合わさないようにしていた。部屋の中に響く古びた柱時計の音が、妙に大きく聞こえる…。

『…なぁ…お前本当に紫雨だよな…?』

『…えっ…いや…あの…。』

奈々はオロオロしながらふと壁にかけられた日めくりカレンダーに目を移した。するとそこには…

『…えっ…嘘…。』

1942年4月8日と書かれていたのだ…。

『…あの…今は…何年…?』

『…えっ?1942年だろ?…お前どうしたの?』

…あり得ない…夢でも見ているんだ…。それも、繋ぎ違えたフィルムのような支離滅裂さもない、妙にリアルな現実感のある夢。奈々は混乱する頭でその答えを導き出した。どう考えても、そうとしか思えないではないか。瞬間移動の呪文があるゲームでもあるまいし、一瞬目を閉じた瞬間にどこかに移動するなんて、物理的に考えても出来るはずがない。そんな事が簡単に出来てしまったら、神隠しとかそういうたぐいの事件が多発する世の中になってしまうし、さすがの警察もお手上げになってしまう。誰も解決する事の出来ない迷宮入り確実の難事件だ。そんな事がそう易々と起きてもらっては困る。奈々は納得出来ないながらも何とかそう思い込んで、適当な愛想笑いを浮かべた。

『あはは…ごめんごめん。疲れてるみたい。』

雪斗の言葉を適当にかわして、戸惑いながらあたりを見回してみる。随分古くからの家らしく、作りもかなり年期がありそうだ。
それにしても、ここの家はリビングにテレビすらない。コンポもないし、電話もない。第一、テーブルもないし、フローリングもない。目の前にいる青年だって、さっきから1度も携帯を見るそぶりすらない。もしかしたら、かなり貧乏なのかもしれない。この不景気真っ只中の世の中だから、仕方ないのかもしれないけど…。

『そうそう、配給でもらった砂糖、ちょっと盗み食いしちゃおうぜ。』

『…えっ?砂糖?』

『うん。ちょっとぐらいなら大丈夫だって。』

雪斗はそう言って、古びた障子を開けて部屋を出て行った。落ち着いてゆっくりと部屋の中を見てみる。細く切られた新聞紙が米印に貼られた窓、エアコンもないし、パソコンもない。洋服ダンスもないし、さっき通過した台所にだって、炊飯器も冷蔵庫も電子レンジもなかった。たしか、ガスコンロもなかったんじゃないか…。

『1942年…だったりして…。まさかね…。』

きっと日本中に1軒ぐらいは、こんなレトロな家があってもおかしくはない。きっと何か、そういう昔からの文化を大事に生きているに違いない。きっときっと、おじいちゃんとかおばあちゃんが頑固な人で…。
そんな事を思っていたら、雪斗は小さじ1杯ぐらいの砂糖が盛ってある小さな皿を大事そうに両手で持って、居間のちゃぶ台の上に置いた。奈々はキョトンとして、それを見つめている。

『…お砂糖…だけ?』

『…お前、贅沢言うなよ。ん、これお前の分な。』

雪斗は自分の手に砂糖を半分ぐらい取って奈々にお皿ごと手渡して、自分の分を一気に口にほおりこんだ。そして、料理番組のレポーターのように大袈裟にかみ締めている。奈々は唖然としながらそんな雪斗の姿を見つめていた。

『うまいっ!やっぱ砂糖は最高だよな。』

…この家はどれだけ貧乏なんだろう?気の毒に、お菓子を買うお金も持っていないのか…。奈々はそう思いながら、ご馳走らしき砂糖を口に入れた。砂糖だけで食べるなんて初めての試みだからなのか、何だか変な感じだ。口中にじょりじょりと甘ったるい粉がへばりついて、歯が浮く感じがする。

『…ご馳走様でした…。』

あまりの甘ったるさに、奈々は口の中の砂糖を洗い流すかのように麦茶を一気に流し込んだ。これなら、あんこを単品で食べた方がまだいい。でも何となく、この場はお世辞でもそう言っておいた方がよさそうだ。奈々は顔が歪むのを必死にこらえながらも、不自然な作り笑顔を振りまいておいた。そしてやれやれと言うように小さくため息をついたその時、ふと目を移して妙なものを見つけた。スピーカーのような作りをした箱だ。

『…ねぇ…あれって…。』

奈々が指を指してそう言うと、雪斗は思い出したかのようにその箱の方へ這っていって、付いているダイヤルを回した。

『そうそう、気になるよな。』

ジジ…という不定期なノイズ音…。どうやらラジオのようだ。しばらく耳をすまして聞いていると、雪斗が徐々に音量を上げ始めた。すると、割れた音声の中から聞こえてきたのは、思いもよらぬ言葉だった…。

“大本営発表!本日、我が日本軍は…”

『…はぁっ?』

『おぉ~!やっぱ日本は無敵だな!』

…大本営?日本軍?一体、この箱は何を言っているんだろう?

『こないだの真珠湾も大勝利だったから、こりゃあ勝てるだろ!』

『…真珠湾??…って…?』

『ほら、こないだ真珠湾攻撃があっただろ?あれあれ。』

『真珠湾攻撃!?』

奈々はつい大きな声を出した後、呆然とした。確か、今日の授業で先生が言っていた言葉だ。1941年に、日本がハワイの真珠湾を攻撃して…。

『…何びっくりしてんだよ…?知ってるだろ?』

『…真珠湾…攻撃って…。いや、知ってるけど…。』

『神の軍隊だもんな。負けるわけないって。』

雪斗は笑いながらラジオを切って、ちゃぶ台の上の麦茶を一気に喉に流し込んだ。奈々はひたすら瞬きをしながら、頭の中を整理していた。神の軍隊…どこかで聞いた。あぁ、確か何年か前に大規模なテロがあった時、テロ組織の人間が似たような事を言っていたっけ…。
疲れているのか寝ぼけているのか…。はたまた精巧に出来た夢の仕業か、奈々はとにかくこの状況から逃げたいと思った。これ以上いたら、何だかおかしくなりそうだ。

『…あの~…そろそろ帰ろうかと思って…。』

『ん?もう帰るの?送るよ。』

『いやいや、大丈夫なんで…。それじゃあ…。』

奈々はしどろもどろしながら立ち上がって、台所らしき所に脱いだ靴のかかとを潰して引きずりながらドアを開けた。不思議そうに見送る雪斗に軽く頭を下げて、逃げるように家を後にした。

まったくおかしな話だ。まるで本当に昔にでも来てしまったかのような感覚になる。奈々はぼんやりと俯いて歩きながら、そう思った。深く深く考えたって、きっと答えなんかない。ずるずる引きずって歩く靴のかかとみたいに、神経が磨り減りそうだ。奈々は引きずったものを断ち切るように、1度足を止めて顔を上げた。
…現実というのは皮肉なものだ。いくら自分が前向きになったって、それを許さない事がある。
立ち並ぶ木造の建物、継ぎはぎだらけの服を着て通り過ぎる人々…。ゆっくりと周りを見渡してみても、見慣れた景色のかけらも見当たらなかった。通り抜ける風も、いつもとは違う。どこか知らない世界に1人置き去りにされたような感覚を植えつけて去っていくだけだ。

『…何…?…マジでここどこ?』

さっき、雪斗という青年について歩いていた景色…。あの時は何が何だかわからなくて考えようがなかった。映画のセットみたいだななんて呑気に思っていた。でも、確かにおかしい…。
奈々はポケットから携帯を取り出して、すぐさま右上の表示を見た。“圏外”…さっきと変わっていない。奈々はそれを無視するかのように、慣れた手つきでメール画面を開き、手早くメールを打った。

“隼人、いまどこにいる?迎えに来て。”

送信を押してみても、メールは送られるはずがなかった。奈々は大きく1つため息をついて、もう1度辺りを見回した。ここは一体どこで、自分の帰るべき場所は一体どこに消えてしまったのか…。なす術もなく、立ち尽くすしか出来ない。知ってる人もいない、わかる場所も…

『…桜山だ…。』

奈々はそう思った。ここで唯一分かる場所…桜山…。あの場所に、何か答えがあるかもしれない。奈々はそう思って、足早に歩いていった。さっき雪斗と歩いた道を逆に行けばいい…その道しか、分からないんだ…。


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桜の雨は、いつもと変わらずに降り続けていた。見上げた夕暮れの空に溶けるように、桃色の花びらは空を舞っている。奈々はゆっくりと近づいて、桜の木に触れてみた。いつもと変わらない温もりと、木の幹のごつごつした感触…。何も変わってない。でも、そこから見下ろすオレンジの街は、まったく変わってしまったようだった。どこまでも続く風景…一昔前の町並み…。
奈々はちょっと泣きそうになって、力が抜けたようにその場に座り込んだ。そしてそのまま倒れこんで、桜ごしに夕焼け空を仰ぎ見た。

『…目が覚めたら…夢も終わるって…。』

そう呟いて、目を閉じてみた。さっきと同じように目を閉じれば、きっとおかしな事もなくなるだろう…そう信じて…。


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『…ねぇ…あなた大丈夫?』

穏やかで柔らかい口調。どこかで聞いたような懐かしい声に、奈々はびっくりして目を覚ました。寝転がっている自分を見下ろすその女性は、和服を着ていて艶のある漆黒の髪をまとめて結い上げていて、キラキラした大きな瞳が印象的な綺麗な人だった。どこかで見覚えのあるようなその姿と、その後ろに見える星空を背景にした桜の花びら…。この時間じゃ夜桜になるんだろう。

『…びっくりした…寝てたのね…。』

『…あっ…いや…。』

奈々は慌てて起き上がって、髪の毛をかき上げた。その時に目に飛び込んできたのは…

『…あれっ…?』

目に映る景色が信じられなくて、起き上がった姿勢のまま街を見下ろしてみる。…さっきと何も変わらない。木造の町並みを、ぽっかりと浮かんだ月が照らしている。こんなにも薄暗くなったという事は、少しは眠っていたはずなのに…すべてを元に戻そうとして再起動させたはずの脳内は、先ほどと変わらない光景をシンクロさせている。

『…素敵な髪の色をしているのね。私、大好きよ。その色。』

『…えっ?』

思いもしなかった反応に、奈々は驚きを隠せずにいた。高校生なのにわりと明るい、赤みがかった肩までの髪…。大人にはいつも訝しげな顔をされてばかりいたっけ…。それが、彼女は裏表のないような透き通る笑顔を浮かべてそう言った。奈々はただキョトンとしたまま、彼女の顔を見ていた。

  ――――――― どこかで…会ったな…。…この人…。 ――――――

奈々はふと、そんな事を思った。確かにどこかで見覚えがあるような気がする。それも、すれ違っただけとかその程度ではなく、はっきりと知っている人物なような気がしたんだ。

『私は雪村 伊吹。…あなたは?』

『…あ…あたしは…奈々…。松下 奈々…。』

『…奈々ちゃん…いい名前ね。』

伊吹はそう言って、奈々の隣に腰掛けた。伊吹は、柔らかい春の夜風に髪をなびかせながら、うっすらと笑みを浮かべてこの街を見下ろしている。その澄んだ横顔は、どこか懐かしくて、遠い彼方に置き忘れてきてしまった記憶の断片に似ていた。

『…奈々ちゃん、家には帰らなくていいの?もう日も暮れたわ。』

『…いや…その…。』

奈々は何て言えばいいのか分からなかった。『帰る家を見失った。』そんな記憶喪失かのような台詞が通用するとは思えない。奈々はしばらく考えて、頭をよぎった行き当たりばったりな言葉を口にした。

『…家出…みたいな…。』

『…家出…?』

『…そう…そう家出しちゃって…。…こう…親とケンカして…。』

『…そう…。』

伊吹は少し笑顔を曇らせて、考えこむかのように俯いた。何かいけない事でも言ってしまったんだろうか?いや、家出したという発言自体、笑って聞き流せるような事でもないが…。
…でも、これで警察か何かにつれていかれたら、むしろ帰り道が分かるかもしれない…奈々はふとそう思った。何にせよ、家出人という立場になったのは正解だったのかもしれない。
しかし、伊吹はため息交じりに呟いた。

『…私もね、父とうまくいってないの。だから、奈々ちゃんにお説教出来る立場ではないわ。何があったのかは知らないけれど、気持ちは分からなくもないもの。』

伊吹が少し悲しげに俯いた理由は、どうやらそれが理由だったようだ。奈々は少し悪い事を言わせてしまった気がして、そのまま黙ってしまった。

『…母が亡くなってから、人が変わってしまってね。だからなるべく父と顔を合わせないように、母屋じゃなくてアトリエにいるようにしてるのよ。』

『…母屋?アトリエ?』

『私ね、絵を描いているの。昔から絵を描いていて、まだ人が変わる前に父が建ててくれてね。』

『…へぇ…何かすごいね。画家みたい。』

『そんな大袈裟なものじゃないわ。』

伊吹は少しだけ笑顔を取り戻して、さっきと同じように柔らかく笑った。奈々はその笑顔に安心して、伊吹を見て笑顔を浮かべた。不思議とその伊吹の姿は、今眼下に広がる違和感を感じる景色と合っているように思えた。桜の花びらは、ぽっかりと夜空に浮かぶ月に手を伸ばすかのように舞いあがっている。

『…奈々ちゃん、絵のモデルになってくれない?』

『…えっ?モデル?』

『そう。しばらく私のアトリエにいればいいわ。』

綺麗な顔をしてとんでもない発案をする人だ…奈々はそう思った。まさかそんな提案が出てくるとは思っていなかったせいか、奈々は言葉に詰まって何度か瞬きをした。
そんな奈々を気にもしないで、伊吹は立ち上がって奈々の手をとって笑った。

『…行きましょう。お腹も空いているでしょう?』

『…えっ…あっ…ちょっと…。』  


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歩いてほんの10分ぐらいで、伊吹の家に到着した。一流の日本料亭を彷彿とさせるような大きな門をくぐると、美しい石畳が玄関まで敷かれていて、その両脇には、どこか懐かしさを感じるような庭園があった。右側に見えるのは、大きな錦鯉がゆったりと泳ぐ綺麗な池、左側に見えるのは、整えられた庭木…。奈々から見ても、充分なほどに豪華だった。

『…伊吹さんて…お嬢様なの?』

『お嬢様なんかじゃないわ。…絵描きよ。』

彼女は笑いながらそう言った。母屋の横を通り過ぎると、母屋の隣に小さな離れが建っている。伊吹は離れの鍵を開けて、奈々に中に入るように言った。母屋から、白い割烹着を着た40歳ぐらいの家政婦らしい女性が出てきて挨拶をした後、少し驚いたような表情を浮かべて奈々を見つめていた。伊吹はただ一言、

『私の絵のモデルさんなの。しばらく私のアトリエにいてもらうわ。』

そう言って、軽く奈々の背中を押して離れの中に入っていった。
平屋の離れの中に入るとすぐに、油絵の具の独特の香りが鼻をかすめる。昼間に雪斗の家で見たような、土がむき出しになっている床が大体4畳半ほど、そして右手に簡単な水場があって、色々な色が混濁している木製のパレットや、色の付いた水が溜まっている水入れが放置されていた。

『すごく散らかってるんだけど、ここがアトリエなの。』

そう言って、伊吹は左手にあった横開きの扉を開けた。その扉の向こうの8畳ほどの一間は、まさに【画家のアトリエ】という言葉がぴったりな空間だった。様々な画材道具が所狭しと置かれ、壁にはとても立体感があって、今にも動き出しそうにリアルな、色鮮やかな絵画がかけられていた。その部屋の中央に置かれたキャンバスの絵…まだ描き途中のその絵を見て、奈々は息を飲んだ。

『…あっ…。』

そう言葉を漏らして、奈々は恐る恐るその絵に近づいた。

『その絵はね、私が1番尊敬している先生に習っている絵なの。』

『…和木先生…って人?』

『あら、知ってるの!?』

『…うん…。』

奈々はその絵に見覚えがあった。様々な角度で描かれた能面が3つ、バランスよく並べられ、薄暗い背景の中で浮かび上がって見えるその絵は間違いなく、祖母の部屋に飾られていた絵そのものだったのだ…。その時、何か頭の中でばらばらになっていたパズルのピースが全部はまったような気がした。納得の出来ない現実が、完成したパズルの答えなのかもしれない…本当に…。

『なんだか不思議ね。私、奈々ちゃんが他人に思えないの。』

彼女はそう言って、イーゼルに立てかけられたその絵を、大切そうに壁にかけて、真っ白なキャンバスに取り替えた。そして、部屋の隅に置かれていた椅子をキャンバス近くに持ってきて言った。

『その椅子に座って?』

奈々は愕然とした表情を浮かべながら、静かに椅子に腰掛けた。伊吹は奈々に指示を出しながら、慣れた手つきでデッサンをし始めた。奈々はその真剣な目を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。

『伊吹さん…変な事聞いてもいい?』

『あら、なあに?私はちょっとの事じゃ驚かないわよ?』

伊吹はどこかいたずらっぽく笑いながらそう言った。やっと分かった気がする…。この穏やかな笑顔に何で見覚えがあったのか…なぜ、彼女がどこか懐かしいような感じがするのか…。でも、その不可思議な疑問の果ては、あるはずのない現実が答えなのだと示していた…。伊吹に聞きたい事の答えによっては…それを証明する事になる。

『…今は…何年の何月何日…?』

奈々は少し震える声で、そう尋ねた。確認するのが怖かった。夢のように支離滅裂な現実に、体がこわばって震えている。伊吹はそんな奈々の様子を不思議そうに見ながらも、すばやく手を動かしながら言った。

『ごめんね。アトリエにはカレンダーがないから分からないわよね。…1942年の4月8日よ。』

『…えっ…?』

奈々は言葉を失った。さっき雪斗という青年が言っていたのは、本当の事だったのか…?
2020年―――宇宙に行く事すらも可能にした人類の努力を持ってしても、未だに時間を操作する事は不可能だった。…不可能なはずだった…。でも、もし時間を操作する事が出来るようになって、何かの間違いで70年以上も前に来てしまったのだとしたら…化学では証明出来ないような事が本当に起きているのだとしたら…。
現に、今は1942年…奈々が生まれる何十年も昔。それが事実だとしたら…ずっと思っていた疑問にも納得がいく。この女性の正体は…

「…おばあ…ちゃん…?」

奈々は悪夢から目覚めたばかりかのような目をして伊吹を見つめていた。真剣にキャンバスに向き合って、ちらちらとこちらに向けるまなざし…。あぁ、こんな事が前にも確かあったっけ…。

“奈々ちゃん、絵を描くから、そこに座ってくれる?”

ついこの間出くわした場面が、ひどく遠い記憶のような気がする。
でも、こんな事が現実にあり得るのだろうか?自分が生まれる何十年も前に、自分が存在してしまっている。台形の面積の求め方も化学式も分からない奈々でも、そんな不自然な摂理にはどうにも納得がいかない。でも、考えれば考えるほど…その方程式を当てはめればすべてに説明がつく事に気がついていく。発想をひとたび変えてみれば、この街の情景に自分が違和感を感じるのではなく、自分自身がこの街の“違和感”の塊だという事に…。

『…伊吹さん…。』

『…あっ、動いちゃだめよ。もう少し…。…なぁに?』

『…伊吹さんはさ…あたしがありえない事言っても信じてくれる?』

『…あら、どんな事かしら?』

伊吹は目だけ真剣にキャンバスをとらえていながらも、うっすらと微笑んで言った。

『…あたしは…完成したあの絵を見た事があるんだ…。』

奈々は今さっき壁にかけられたばかりの能面の絵を見つめながらそう言った。その瞬間、伊吹は手を止めて奈々を見た。奈々は伊吹と目があった後、ゆっくりと先ほどまでイーゼルに立てかけられていた絵にもう1度目をやった。

『…えっ…あの絵…?だってあの絵…私がデザインした絵よ…?』

『…うん…完成したあの絵…うちのリビングに飾ってあるんだよ…。』

…不自然な沈黙が、その場に凝縮されていた。それを打破するかのように、外の池で鯉がパシャッと跳ねた音がした。今までは耳に残らなかった柱時計の振子の音が、妙に鮮明に残っている。

『…それは…どういう事…?』

『…あたしは…1942年なんて知らない…。あたしは…2020年の時代にいたんだ…。リビングに飾られているあの絵は…おばあちゃんが昔に描いた絵なんだ…。』

『…つまり…それは…。』

『あたしは…何かの間違いで1942年に来てしまって…今目の前にいる伊吹さんは…あたしのおばあちゃんって事になるよね…。』

…静けさが空間を占めた狭い部屋の中に、時計の音だけが重々しく響いていた。奈々と伊吹の間には、時空という大きな距離が開いた気がした。しかし

『…そう…。だから、奈々ちゃんが他人に思えないのかもしれないわね。』

その距離を縮めるかのように、うっすらと微笑みながら、伊吹はそう言った。奈々は少し驚いたように、顔を上げて、またコンテを持つ手を動かし始めた伊吹の顔を見つめていた。

『…疑わないの…?あたしの事…。』

『…人は自分自身の事に対して嘘をつく時、自分に得になるようにつくものよ。』

『…。』

『でも、奈々ちゃんが未来から来たという事が嘘だとしたら…果たしてそれは奈々ちゃんに得になる事かしら?』

『…そっか…。』

『つくならもっとマトモな嘘をつくでしょう?つまり…そんな複雑な嘘はつかないという事よ。』

『…伊吹さん…。』

奈々は少し救われたような気がした。心の緊張がほぐれて、ずっとひた隠しにしていた事実がポロポロと口から零れた。

『…こんな事って…現実にあり得る事なのかな…?だって…あたしはタイムスリップしたって事でしょ?』

『…それが今起こっているとしたら…現実にもあり得る事なのかもしれないわ。』

伊吹は動揺するそぶりも見せずに、ひたすらコンテを動かしている。絵に集中しすぎて、今何が起きているのか…本当に把握しているわけじゃないんじゃないか…奈々はそう思いたくもなった。

『あたしがいたのは、2020年だよ!?70年以上も後の世界なんだよ!?』

『…そうね。それまで私が生きていて、奈々ちゃんという孫が出来るとしたら…それはすごく面白い事だと思うわ。』

『…えっ…?』

『だって、私は子供もいないのに、もう孫に会う事が出来たんですもの。』

伊吹の笑顔は、どこか菩薩の顔を彷彿とさせた。…あぁ…そういえばそんな顔をして笑っていたっけ…祖母も…。少し変わった性格なのは、この頃からだったんだなんて、少し納得してしまった。

『…伊吹さん…あのさぁ…。』

『…ん?なぁに?』

『…さっき…たまたま聞いちゃったんだけどさ…。大本営とか真珠湾とかって…。』

その瞬間、伊吹の手が止まって、少し暗い表情になった。奈々は何かいけない事でも言ったのかと思って、少しドキッとした。母屋にあるらしい柱時計の音が突然鳴って、余計に心拍数を上げた気がした。

『…そう…奈々ちゃんは、戦争なんて知らないのよね。』

伊吹は重々しく口を開いて、そう言った。奈々の頭には、つい先ほどの授業で聞いた歴史の昔話が渦を巻いている。“ハワイ真珠湾攻撃”…あぁ…確か…。

『…知ってるよ。…第二次世界大戦って事ぐらいは。』

『…第二次世界大戦?』

『…違うの?』

『今は、大東亜戦争が幕を開けたばかりよ。』

“大東亜戦争”―――――確か、祖母はいつも戦争の話をする時、そう言っていたような気がする。その時は何も気には留めなかったけど、あれは第二次世界大戦の事だったんだ…。

“ごめんね~。あたし、戦争とか興味ないしさ。”

今日の事だったか、それとも随分昔の事だったか…祖母にそう言って笑った事があった…。あの時祖母が言いたかった事も、そして自分がしてしまった過ちも、今なら分かるような気がした…。

“あたしに関係ないじゃない…。歴史なんて、ただの昔話でしょ…。”

『…関係なく…なくなっちゃったじゃん…。』

今現在自分がいるのは…まぎれもなく第二次世界大戦が始まったばかりの時代なのだから…。昔話の真っ只中に、放りだされてしまったのだから…。

『…奈々ちゃん。』

『…ん?』

『この戦争は…果たして本当に正しい戦争なのかしら?』

伊吹はコンテを動かす手を止めて、そう言った。その目はどこか悲しそうな、憤りのようなものを含んでいる気がした。

『…正しいっていうのは…?』

『間違っているなら…負けるという事よね?』

『…あっ…。』

『この戦争…日本は勝つのかしら?負けるのかしら?』

真っ直ぐに奈々を捕らえるその瞳は、伊吹からも、そしてこの時代からも目をそらす事など許されないような色をしていたのだ。奈々は、頭の中で歴史の教科書をめくりながら、少しの沈黙の後に呟いた。

『…負けるよ…。』

『…そう…。』

伊吹はコンテを置いて、少しの間だけ空中をぼんやりと見つめていた。時々軽いため息をつきながら、何か考え事をしているようだった。そして…

『…当然でしょうね…。』

そう、悲しそうに呟いた。


❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.


それからしばらくして、デッサンを書き終えた伊吹は、母屋から夕食を取ってきてくれた。奈々にしてみれば少し質素なような、どこか精進料理のような野菜中心の食事に、あまり箸が進まなかった。食欲がない理由は、それ以外にも思い当たる事があるけど…。

『今日、デッサンは書き終えたから、本格的に色をつけたりするのは明日からする事にするわ。』

伊吹はしぶしぶ箸を動かす奈々の様子を気にもしないように、そう言った。奈々は一言だけ、『うん。』と呟いてゆっくりと口を動かし続けた。

少し床を片付けたアトリエに布団を引いてもらって、油絵の具の独特の香りの中で奈々は眠れぬ一夜を過ごした。ぼんやりと天井を見上げながら、何度も何度も携帯を見る。“圏外”―――――。
その文字はここでは異常なほどに冷たく、そして心細く感じた。先ほど送信出来なかったメールを何度再送信しても、届くはずもない。何度か携帯をいじったあとで、奈々は諦めて重い布団にもぐりこんだ。この長い夜が、一刻も早く明けてくれますようにと願って…。
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