桜の舞う時

唯川さくら

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落園

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“明日さ、雪斗は先に病院に行ってて。あたし、龍兄の所に寄ってから行くから。”

飛行機が完成した昨日、奈々はそんな約束をして雪斗を見送った。もちろん、飛行機は奈々の手元にあって、光のお見舞いに行く前に龍二に完成品を見せに行くつもりだ。近くで見ると、多少粗い点はいくつかあるが、遠目から見るとまるでプラモデルレベルの完成度の高さに、奈々は十分満足していた。画用紙と竹ひごで作られたとは思えないほど、立派な戦闘機に仕上がった。

『伊吹さん、龍兄は映画館にいるかな?』

『えぇ、いると思うわ。』

『分かった。じゃあ、行ってくるね。』

奈々は柄にもなくテキパキと支度をして、足早にアトリエを後にした。走って転んだら、手に持った飛行機を破壊してしまう恐れもあるため、なるべく早歩きで映画館に向かう。通り過ぎる人々…特に子供たちは、奈々がそっと両手に乗せているリアルな戦闘機を見て感嘆な声を上げているようだが、一目散に映画館を目指している奈々にはそんな声など耳に届かなかった。

午前中とはいえ、商店街は少しだけ賑わっている。こんな目立つ格好で人通りの多い場所を通るのは少しはばかられるが、奈々は周りに目もやらずに映画館の看板を目指して足早に歩いた。映画館の外にある看板は、前と同じ時代劇ものの映画のものだった。うっすらと塗装が剥げていて、少し古びた感じに見える。奈々は飛行機をそっと片手で持って、この間入った舞台裏へのドアを、軽くノックした。

『はい?』

そう言ってドアを開けたのは龍二だった。心なしか、少し顔色が悪いように思える。そんな龍二を見て、すべてを知る奈々は思わず切なさとも悲しみとも言える感情が表に出そうになったが、気丈に振る舞おうと強い眼差しで龍二を見上げた。

『…どうしたの?そんな怖い顔して。』

どうやら龍二には、気丈に振る舞おうとしている奈々の不自然な顔が怒っているかのような顔に見えてしまったらしい。それに龍二はかなり驚いた様子ではあったが、奈々が手に持っている飛行機に目を移すと途端にいつものように顔をほころばせて笑って、中に入るように促した。

『飛行機、完成したんだね。』

『うん。これから光ちゃんの所に持っていく所。』

『そっか…。それはよかった。光くんも、きっと喜ぶよ。』

この間と同じ映写室の手前の控え室は、以前来た時よりも散らかっているように見える。あちらこちらにゴミが散らばっていて、これでは気が休まる休憩所とは呼べなそうだ。奈々はそこにあった椅子の埃を掃って腰をかけると、テーブルの上に完成したばかりの飛行機を置いて龍二に見せた。龍二も椅子に腰かけて、飛行機を覗きこんで感心している。その顔は、まるで何事もないかのような優しい顔だ。毎日役者を見ていると、自然と演技も上手くなるものなのかもしれないと、奈々はふっと思った。

『…龍兄、手伝ってくれるって言ったのに、全然来てくれないからさ。大変だったよ。』

『ごめんね。体調を崩してしまってね。』

奈々がそれとなく話を持って行こうとしても、龍二はさりげなく逸らしているような気がする。それでも、体調が悪いのは嘘じゃないのかもしれない…。龍二の青白い顔色を見ていると、それが何だか引っかかった。

『…風邪?』

『…のようなものかな。』

『何?“風邪みたいなもの”って。』

『…“醤油”だよ。』

『…醤油?』

予想外の答えに、奈々は不思議そうな顔をして龍二を見た。龍二はくしゃくしゃになった煙草のソフトケースから1本煙草を取り出して火をつけると、大きく吸い込んでため息にも似た煙を吐いた。

『…醤油を飲みすぎると、胃が痛くなったり、風邪に似た症状が出るんだよ。』

『…醤油なんか飲んだの!?何で!?』

『…兵役を逃れたかったからさ。』

“醤油を飲む”という常識を逸脱した行動に、奈々は驚きを隠せないでいた。まさか、そんな答えが返ってくるとも思っていなかったからか、その後の言葉が見当たらない。徴兵検査で合格しないために、醤油を飲む…。そんな話は聞いた事もないし、まして飲みすぎたら命に関わる事だ。そんな都合よく不合格になる体になるなんて、到底出来るはずもないのではないか…。奈々はそう思って、ただ黙って龍二を見ていた。

『うまくいけば、不合格になれると思ったんだけど…。そんなに飲めるものでもないからね。ほんの少ししか飲めなくて、結局は第二乙種合格。挙げ句、体調も崩して、ちょっと寝込んでたんだ。』

『…軍隊に…入りたくないから…?』

『そう。…それで体調を崩すなんて、おかしな話だろう?』

龍二がそう言って笑った声は、どこか自分自身を軽蔑しているかのような、嘲笑うかのような声に聞こえて、奈々は背筋が凍るような思いがした。この侮蔑の嘲笑の奥底に、狂気が覗いているような気がしたからだ。龍二の奥底に潜む、冷たく狂った殺意のようなものは、一体誰に向けられているのかは分からない。それよりももっと恐怖なのは、それを押し殺す龍二の穏やかすぎる笑顔だ。目が笑っていない道化にしか見えなくて、奈々はますます言葉が出なくなってしまった。

『…どうあがいても…無駄だっていうのに…。僕も諦めが悪いよね。』

『…龍兄…。』

『誰にも内緒だよ?こんな事は。』

『…うん…。…えっ、赤紙は…?』

『まだ、来てないよ。そのうち来ると思うけどね。』

『…でもさ…赤紙が来ても、すぐに戦地に行くわけじゃないんだよね!?』

『うん。軍隊に入って、訓練をするだけだよ。』

『…じゃあ…死んだりしないんだよね!?』

『…そうだね…。は。』

その時、俯いて遠い目をした龍二の言葉の真意は、奈々には分からなかった。軍隊に入るという事は、泊まり込みで訓練をつむ事だと思っていたのだが、それは間違いなのだろうか?下手をしたら、命を落とす危険もあるのだろうか?そう思うと、軍隊に行くという事そのものが、戦地に足を踏み入れている気がして、奈々は体が震えるのをこらえる事など出来なかった。

『…おそらく…って…?』

震える声でそう聞いた奈々に気付いたのだろう。龍二はハッと顔を上げて、嘘のような笑顔を浮かべながら煙草を消した。

『大丈夫。死んだりしないよ。』

『…。』

『…ただ、軍隊の生活は厳しいものだからね。体調を崩したり、ケガをする人も多いって事さ。』

『…本当に?』

『本当だよ。…それより奈々ちゃん、病院行かなくていいの?』

『あっ…うん…。じゃあ…行くね。』

奈々は心細そうな顔をして立ち上がり、テーブルの上に置かれた飛行機をそっと手に乗せて控え室を後にした。龍二はそんな奈々を見送るように外に出てきて、眩しく照らす太陽にしかめっ面をしながら奈々の背中を見つめていた。奈々はトボトボと肩を落として道路に出ると、ふと足を止めて振り返った。

『…龍兄…!』

『ん?何だい?』

『…絶対、死んだりしないよね?』

『…うん。』

『ちゃんと無事でいるって、約束してくれるよね?』

『心配しないで。僕は大丈夫だから。ありがとうね。』

そう言って微笑んだ龍二の顔は、おそらく演技ではないはずだと奈々は思った。映写技師として毎日演技を見て勉強している龍二の言動は、一体どこまでが演技で、どこからが真実なのか…奈々には見抜くだけの力はない。今はただ、龍二が言うその言葉を信じるだけだ。

『じゃあ、また遊びにくるから。絶対…絶対ここにいてね!?』

『うん。分かった。じゃあね…。』

奈々はそう言うと、目に涙を溜めながら踵を返して足早に病院に向かった。別に、急いでいるわけではない。自分を徐々に縛りつけようとする歴史の鎖を引きちぎりたくて、それから逃れたくて、心なしか足もどんどん速くなっていくだけだ。零れ落ちそうな涙を振り切りたかっただけだ。
恐怖と不安と切なさが入り混じって、涙ながらに叫ぶ奈々の素の表情は、どこか伊吹に似ている…。龍二はそう思いながら、小走りに立ち去る奈々の背中に手を振りながら微笑んでいた。

『…死んだりしないよ…。』

奈々が見えなくなった瞬間、龍二は力が抜けたように振っていた手を下して、目つきが急に厳しくなった。そして、ポケットに入っていた緑色の小瓶を取り出すと、中から白い錠剤を2粒ほど取り出して、それを噛み砕くように一気に飲みほした。

『……ね…。』


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こみ上げる涙を目の奥に押し込みながら、奈々は目を赤くして足早に病院に向かった。時々、不安を吐き出すように大きく息を吐いて、張り巡らされる電線に縛られる事のない空を見上げてみる。抜けるように青い夏空には、じりじりと近づいてくるような太陽が覗いていた。
もし、携帯電話が使える時代なら、毎日のように龍二に電話なりメールなりをして、安否を確かめたい所だが、それも出来ない。
“命の保証なんてない兵隊になんか、なって欲しくない。”そんな相談さえ、誰にも出来ない。
歴史の重圧、時代のしがらみ…。あの空に浮かぶ太陽のようにじりじりと、全てが奈々の小さな背中に圧し掛かってくるような気がする。それも、これはまだまだ序章に過ぎない。これから先、もっともっと圧し掛かってくるのだとしたら、耐えられる自信なんてない。

奈々は人気のない路地を曲がって2・3歩行った所で立ち止まると、こらえきれずに零れ落ちた涙を右手の袖で拭った。1度頬を伝うと、涙腺が緩んだのかとめどなく涙が溢れてきてしまい、奈々はしばらくその場に立ち尽くして、声を殺して泣いていた。

『…ありえないわ…マジで…。』

張り裂けそうな思いを言葉にするのは、それが限界だった。
龍二はどんな思いで、隠れて醤油を飲み続けたのだろう?それを考えると、胸が張り裂けそうなぐらいに切なくて、涙がこみ上げてくるのが苦しく思えた。
そんな無謀な事をしてまで守りたい、胸に抱く夢がぶち壊れていく様をただ見守る事も、命の保証もなく、負け戦と分かっているのに平気で送り出す事も、絶対に出来ない。それでも、止める術などどこにもない。どっちに転んでも地獄であり、八方塞がりとはこういう事を言うのだろう。
伊吹は平気なのだろうか…?奈々はふとそれが気になった。ただの友達である自分でさえ、必死に突破口を見つけようとあがいているのに…。

“僕たちの夢は、国に作られたものでしかない。…幼い頃から、兵隊に憧れるように教育されているのだからね。だから、僕たちは未来を選ぶ事すらも許されないんだよ。”

“…だからね、奈々ちゃんがいた時代のように、自分のやりたいと思った事を出来るのは、とても素晴らしい事だと思うよ。”

『あたし…何やってんだろ…。』

龍二が以前呟いていた言葉が頭の中にリフレインして、奈々はふとそんな言葉を漏らした。
選択肢などいくらでもあるのに、選岐路に立ち尽くしたままぼんやりと毎日を過ごす自分と、選びたい道があるのに、決められた道にしか進む事が許されない龍二と…。いや、おそらく龍二だけじゃなく、雪斗も光も、剣も伊吹も、この時代に生きる誰もがそうなのだろう。強制的な道しるべに逆らう事など許されないのだ。そう考えると、自分が浸かっていたゆとりのぬるさが身にしみて、今は寒ささえ感じる。奈々にとってこの時代を覆い尽くす夏空は、氷点下の青空だ。

『“しょうがない”で済ませられるぐらい大人だったら…この国に洗脳されてたら、こんな風に落ち込んだりしなくて済んだのかもね。』

奈々は皮肉っぽくそう呟いて、涙を睫毛の奥にしまい込んだ。ぐっと思いを飲み込んで、再びとぼとぼと病院に足を進め始めた。

“ずっと泣いてたって、仕方ないだろ?”

光の事で落ち込んで、ただただ泣き腫らしたあの時、雪斗がそう言ってくれた言葉が、今になってもう1度その意味を蘇らせたような気がした。そしてだんだんと、どこか懐かしい雪斗の表情に隼人の顔が重なって、いつかも言われた言葉が脳裏に浮かぶ。

“相手の立場になって、考えてみ?”

『…分かった…。そうしてみるよ。』

今なら素直に隼人の言葉も聞ける気がして、奈々は遠い現代に向かって呟くように、冷たい太陽を見上げた。“この時代に、負けたりなんかしない…。”奈々の負けず嫌いさは、時空の悪戯を持ってしても、変える事など出来ないようだった。


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『おぉ!さくら!やーっと来よった!』

病室を覗くと、今か今かと奈々の到着を待ちわびていたらしい光が、夏に似合うような笑顔を向けてそう叫んだ。奈々は飛行機を背中の後ろに隠しながら、不器用な笑顔を向けて光のベッドに歩み寄った。雪斗はベッドの横にある椅子に座って、少し心配そうな顔をしてこちらを振り向いている。

『なんや、外寒いんか?もう夏間近やのに。』

『寒くなんかないよ。…何で?』

『さくら、鼻赤いで?寒いみたいやん。鼻声やし。』

不思議そうにそう問いかける光の言葉に、雪斗はますます心配をあらわにして奈々を見た。隼人と同じ、眉間にしわを寄せた厳しい眼差しが突き刺さる。奈々は少し言葉に詰まりながら、不器用に笑って言った。

『龍兄の所に寄って来たんだけど、あそこの映画館って埃っぽいじゃん?あたし、埃アレルギーだから、くしゃみが止まらなくなっちゃうの。だからだよ。』

『そうかぁ。埃でくしゃみなんか出んねや?』

光はケラケラと笑いながら、裸足のまま床をぺたぺたと歩いて、近くに置いてあった椅子をもう1つ持ってきて、奈々の席を用意してくれた。光は何も気付いてはなさそうだが、そんな光の側でじっと奈々を見つめる、神経質そうな眼差しをした雪斗の事を誤魔化せたとは思っていない。きっと、自分の不器用な嘘に気が付いているはずだ。

『光ちゃん、これあげる。』

奈々はその空気を一掃しようと、おもむろに背中に隠していた飛行機を光の前に突き出してそう言った。一瞬キョトンとした光も、見事な出来栄えの飛行機を見て、パッと明るい笑顔を浮かべて大袈裟に喜んだ。

『うおぉぉ!戦闘機や!めっちゃすごいやん!さくら、これどないしたん!?』

『…作ったの。』

『作ったん!?ほんまに!?すごすぎやろ!?』

そう言ってはち切れんばかりに喜んで、飛行機を空で遊ばせる光を見ていると、何だか不思議と気持ちが和む気がした。画用紙と竹ひごで作った飛行機は、正直な所頑丈ではないし、水にも衝撃にも弱い。それでも、そんな事はおかまいなしに、まるで本物の自分専用戦闘機をもらったかのように喜ぶ光は、きっと奈々よりも純粋なのだと思う。

『…なんだよ。全部自分で作ったみたいな言い方するなよ。』

雪斗はそう言って、笑いながら口を尖らせている。冗談っぽくそういう雪斗ではあるが、やはりその瞳は警戒心にも似た、人の心を見抜こうとしている眼差しのままだ。奈々は、見抜かれまいと必死に笑顔で取り繕った。ここで泣いたりなんか出来ないからだ。
雪斗はそんな奈々の心境を察したのか、急に穏やかな顔で笑いながら、戦闘機で遊ぶ光に言った。

『奈々が不器用だから、骨組みはほとんどオレが作ったんだよ。』

『あっはっはっ!さくら、不器用なんか。誰かさんと同じや!』

『…言うと思った…。でも、色塗りはあたしが担当だもん。』

『…1ヶ所を除いてな。』

『えっ?どこや?』

光の表情は、変わりやすい夏の空模様のように目まぐるしくころころ変わる。爆発しそうなご機嫌さだったのが、急に不思議そうな顔をして、飛行機をくるくると回転させながら違和感を探し出そうとしている。言われてみれば、ただ1色だけが他の場所の塗り方と違う事に気付くだろうし、それが誰の仕業なのかも分かるが、何も言わないでいると案外気付かないものだ。

『日の丸。見れば誰がやったか、分かるだろ?』

『日の丸…?…あっ!分かった!剣やろ!?』

『見たら1発で分かるよね。それ。』

『みんなで作ってくれたんや。ありがとうな!』

けして仲が良いとは言えない3人。でも、その3人で作ったという事が分かった光は、先程とは少し違う色をした笑顔を浮かべて、米印に補強された窓から見える四角い空と重ね合わせるようにして戦闘機で遊んでいる。
カーテンなどの仕切りがないせいか、周りにいる患者やお見舞いの人々も、精巧に出来た戦闘機が気になったようで、感心するかのように目を向けている。

『…奈々が不器用だからオレが手伝っただけで、これを作るって考えたのも奈々だし、剣に日の丸描いて欲しいって言ったのも、奈々なんだよ。』

『…そうかぁ…。ありがとう。ほんまに嬉しいわ。』

こうして見ている限り、光はなぜ奈々が飛行機を作ろうとしたのかも分かっていないのだろうし、自分が置かれた状況がどういうものなのかも、もしかしたら分かっていないのかもしれない。
そう思うと、奈々は何だか怖くなってしまった。夢を壊してしまった事を、簡単には謝れないような気がして、ずっと黙りこんでいた。光が呟いた言葉を聞くまでは…。

『これで、俺も立派な海軍の飛行機乗りや。』

『…えっ…。』

『俺専用の飛行機もろただけで、もう満足やわ。』

『…光ちゃん…。』

『他におるかぁ?大事な友達に作ってもろた、自分だけの飛行機持っとる海軍さんなんて。俺しかおらんやろ?』

『…。』

光は全て分かっていたのだ…。自分が負った怪我が、夢を破壊するには十分だった事も、もう兵隊として日本のために戦う事なんて出来ない事も。
それが分かった瞬間、奈々は胸が締め付けられるような思いがして、顔を歪ませて俯いた。

『…ごめんね…光ちゃん…。』

こみ上げる涙が喉を塞いだからなのか、そんな安っぽい言葉しか出てこなかった。
龍二が言ったように、後々の事を考えれば光を救った事になるのかもしれないが、それは結果論でしかないのだと思う。今の時点で言える事はただ1つ…光が幼い頃から憧れ続けた夢を、自分の軽率な言動がぶち壊したという事実だけだ。
その罪は思った以上に重くて、奈々は顔を上げる事が出来ないまま肩を震わせていた。

『さくら、お前のせいちゃうて言うてるやろ?なんべんも言わすなアホ!』

夏の空は、時に唐突な雷雨になる事がある。何の前触れもなく突然落ちた雷にも似た衝撃が、辺りの空気を支配した。いつもの光からは想像も出来ないような怒声が聞こえて、奈々は驚きのあまり思わず顔を上げた。ベッドの上であぐらをかいた光の表情は、怒っているというよりは諭すような真剣な顔をしていた。賑やかだった病室も少しだけ静まり返って、視線が再びこちらに集中している。

『何でも人のせいにするような奴ちゃうぞ。俺は。』

『…だって…あたしの携帯探してくれたから逃げ遅れたんじゃん…。』

『アホか。あんな訳の分からん小っこいオモチャ、探すわけないやろ。』

そう言うと、光はふて腐れたようにぷいっと窓の方を向いてしまった。
奈々は少し動揺しつつ隣に座る雪斗を見ると、雪斗は目が合った瞬間に、「まったく。」と言いたげな笑顔を浮かべて、奈々の耳元に顔を寄せると

『…目の前で泣かれるの、苦手なんだよ。』

と小さな声で言って、また笑った。
いつもいつもふざけてばかりの光の周りには、確かに笑いが絶えない。そう考えると、雪斗が言う事もすんなりと納得出来て、光らしくさえ思える。
いつもはひょうひょうとしていて、絶対に見せないような光の一面に驚いたのもあって、さっきまで頬を伝っていた涙は瞬間的に瞳の奥に引っ込んでしまったようだった。

『…責めればいいのに…あたしの事。』

『…あ?』

『あたしのせいだって責めれば、気持ち的に少しは楽じゃん。』

『…。』

『1人で落ち込んで運命を呪うぐらいなら、あたしのせいにして思いっきり殴るなりした方が、スッとするでしょ?』

ほんの数秒前の涙を撤回するかのように、奈々は強気にそう言って光を見上げた。光はまだムッとしたように奈々を見つめている。

『誰か憎んで気持ちが楽んなるなんて、大嘘や。そんなわけあるか。』

『…。』

『仮に、誰かのせいにして責めてこの傷が治んねやったら…雪斗の事でも責めたるわ。』

『何でオレなんだよ!』

2人はそう言って、いつものように目を合わせて笑った。今の今まで怒っていたはずなのに、何事もなかったかのように笑う光は、つくずく変わりやすい夏の空模様に似ていると思った。
奈々はそんな2人を見ながら、少しだけ肩の荷が下りたような気分になって大きく深呼吸した。こんなに居心地がいいと思った人間関係は、一体いつぶりなのだろう?ふとそんな風に思った。自分が人付き合いが苦手だなんて思い込んでいた事が勘違いだったのかもしれないとさえ思う。時代を越えた友情は、時として不思議な力を生むものなのかもしれない。

『心配せんでえぇ。俺は大丈夫や。体はケガしても、海軍さんのお役に立つ事は出来んねん。』

光は後ろに手を付いてくつろぐようにして、そう言った。奈々が思っていたより、光がケロッとしているのに安心はしたが、軍隊関係の事は全く知らない奈々にとって、兵隊以外の道があるとは意外だった。

『…どうやって?』

『工場とか、造船所や。そこで働かせてもらえるように、親父が頼んでくれんねん。』

『…あ~あ。なるほどね。その手があったか。』

『おう。まぁ、ここで働けるかどうかは分からんけどな。』

『そうなの?もしここじゃなかったら、どこになるの?』

『なんぼ近くても、呉やろな。軍港がある場所になるし。』

『呉?それって遠いの?』

『アホ!呉は広島やで?遠いに決まってるやんか。』

『…広島…?』

奈々は一瞬、心臓が大きく波打つのを感じた。
広島は、ヒロシマ…。この狂った歴史の果てに広島がどうなるのかは、いくらこの時代を知らない奈々でも知っている。
奈々は目を泳がせながら、光に詰め寄るようにして言った。

『あのさ、広島じゃなくてもいいんじゃない?他にもほら、海軍の造船所ってあるんでしょ?』

『日本3大軍港言うたら、横須賀と呉と佐世保やから…残るは佐世保やな。』

『佐世保?じゃあ、そこにしなよ!それなら呉より近い?』

『さくらはほんまに何も知らんなぁ。佐世保は長崎や。広島より遠いわ。』

『…長崎…?』

運命とは、なんて残酷な事をするのだろう?奈々はそう思わざるを得なかった。目の前が真っ暗になる感覚というのは、きっとこういう事を言うのだと思う。
広島と長崎…。原子爆弾が投下された場所は、どちらも軍港がある場所だったのだ。もしかしたら、それが理由で原子爆弾が落とされたのかもしれない…。授業なんかまるで聞いていない奈々でも、そのぐらいの予想は出来た。
奈々は思わず、いつも持ち歩いている鞄を手に取り、中から折り目すらもない教科書を取り出そうとファスナーを開けた。この預言書なら、なぜ広島と長崎に原子爆弾が落とされたのかも、そしてどの場所に落ちたのかも詳しく書いてあるかもしれない。もし万が一、光が広島や長崎に行く事になっても、爆心地さえ分かれば避ける事が出来るかもしれないと思った。

『…あっ…。』

鞄の中の教科書を手に取った瞬間に、ふと冷静な考えが脳裏をよぎった。
今この場で教科書を出したとしたら、雪斗と光に見せる事になるのは避けられない。そうすると、細かく書いてあるこの先の日本の行く末を見て、2人に余計な不安を与えてしまうかもしれない。
それにもし光が騒いで、病室全体がパニックにでもなったら…収拾がつかなくなってしまうのではないか…。そう思った。
奈々が鞄に手を突っ込んだまま、茫然と考え事をしているのを不思議に思ったのだろうか?雪斗は奈々の顔を覗き込んで、その視線の先にある小さな本を手に取った。

『…何だこの本。キレイだな。』

急に鞄の中に伸びてきた手に驚いて、奈々は我に返って雪斗の方を見た。雪斗の手には、桜の絵柄が書いてある和風な手帳があって、今にも開こうかという所だ。奈々は慌てて手帳をひったくるように奪い返すと、勢いに任せて言った。

『ちょっ…!勝手に人の手帳見ないでよ!プ…』

“プライバシーの侵害”という言葉を言おうとして、奈々はぐっと言葉を飲み込んだ。相変わらず、外来語禁止の風潮には慣れない。代わりに言おうとした“マナー”という言葉さえ外来語だ。奈々はため息をつきながら、それ以上言及するのをやめて手帳を鞄にしまった。教科書は、後で1人になった時に見ればいい。

『…なぁ…この兄ちゃん、誰?』

光が突然そんな事を言ったのに驚いて、奈々はハッとした顔で光を見た。手には、1枚の写真が握られていて、奈々は一瞬青ざめてしまった。確か、手帳には何枚か思い入れのある写真が挟んであったのだ。それが、雪斗から手帳を奪い返した瞬間に1枚だけ落ちてしまったのだろう。一体何の写真が落ちたのだろうか…?“兄ちゃん”という事は、もしかしたら隼人が写ってるものかもしれない。奈々が何も言えずに固まっていると、光はぺラッと写真を奈々に向けて、不思議そうな顔をして首をかしげた。

『…あ…。』

目に飛び込んできたのは、セピア色の風景の中で1人の兵隊が軍刀を杖のように前に構えた写真だった。おそらく、どこかの写真館で撮られたものだろう。
神経質が滲んだ顔つきはどこかまだ幼さが残ってはいるが、着ている軍服は立派なもので、襟元にはボーダー柄にも見える襟章が付いている。真ん中にあるのは、1つの星飾りのようだ。

『少尉さんやんか!凄いなこの人!』

『何で分かんの?』

『この襟章見たら、分かるやん。』

光は大袈裟に驚いて、ますます写真を顔に近づけてじっと見つめている。
奈々にはそんな襟章の意味などは分からなかったが、こうして軍刀を持って立派な軍服を着れるのは、さぞかし上の位だったのだろうという事は何となく分かる気がした。

『…どっかで見たような気ぃすんねんけど…。誰かに似とるんかな…?』

食い入るように写真を隅々まで見ていた光は、雪斗にも見えるように写真を自分から放して、今度は遠目からじっと見つめている。奈々は何から説明していいのかも分からなくなって、どこか気まずそうな顔をしながらしばらく2人の様子を伺っていた。

『本当だ。誰かに似てるな。』

『な?誰やろ?』

『…芥川龍之介でしょ。』

ああでもない、こうでもないと悩む2人は、次第に奈々が知らないような近所のおじさんの名前だとか、有名な軍神の名前を言いだしたが、どれも何だか的外れすぎて、ついに奈々がしびれを切らしたようにそう呟くと、2人は随分気持ちが良さそうに納得した歓声を上げて喜んだ。

『そうや!よぉ似とるわ!』

『そっくりだな。芥川龍之介似の少尉さんか。』

『…いずれ、あたしも芥川龍之介似って言われるようになるのかね?』

『…えっ?』

『あたしのじいさんだもの。その人。』

『さくらのじぃちゃん!?』

『そう。工兵少尉、手塚 正勝。写真の裏にも書いてあるでしょ?』

奈々がそう言うと、光は写真を裏返して、随分と薄くなってしまった文字を必死に読み始めた。ついつい小さく声を出して読んでしまうのは、なんとも光らしい。

『…ほんまや…。“13年7月、ハルピンにて。 兄 工兵少尉  手塚 正勝”…。』

『…ハルピンにいたのか?』

『そう書いてあるから、そうなんじゃない?まぁ、ハルピンってどこなんだか分かんないけどさ。』

奈々は、どこか遠くの空を見上げるようにぼんやりと天井を見ながらそう呟いた。
きっと、今この時代の空の下には、2年前に亡くなった祖父がまだ生きているのだ。おそらく、奈々とそう年が変わらないくらいの兵隊として、遠い異国の地に。そう考えると、時の悪戯が改めて不思議なものだと感じた。

『じいさん、頭良くってさ。成績優秀だからって先生に勧められて、奨学金借りて通った高校トップで卒業して、満州鉄道ってとこで働いてたの。給料いいんだって。』

『めっちゃすごいやん。』

『そんで軍隊入ったんだけど、プライド…じゃなくて、自尊心が超高い人だったから。上下関係に耐えられなくて、幹部候補の試験受けて、自分が上に立ったの。』

『幹部候補!?』

『ほんまに!?』

『…えっ…何?』

『幹部候補言うたら、めっちゃ難関やねんで!?まあ、甲種合格して少尉さんになんねんから、そらぁ頭の良さは半端ないやろなあ。』

奈々は、難しい兵役についてはまるで覚える気にはなれない。正直、幹部候補とやらも、祖父が遺した自伝に書いてあった事を言ったまでだし、少尉という階級がどれほど偉いのかも知らない。それでも、祖父の頭の良さはすごいというのだけは認めていた。政治や経済の事も網羅した、完璧な頭脳派人間だ。

『…ちなみに、伊吹さんには、じいさんの事は言わないで。…今は、龍兄との事応援したいから。』

『おう。分かった。約束や。』

人の運命を知っているというのは、時に切なさを伴う事があるのだと知った。どんなに応援したい気持ちでも、励ましたい思いがあっても、脳裏に渦巻く変えられない運命が邪魔をして、素直に行動に移せなくなる。奈々は少しだけ、この時空の歪みがもたらした歯車の狂いを恨めしく思った。

『立派な人だったんだな…。奈々のおじいさん。』

『…じいさんは、ね。まぁ、小難しくて厄介だったけど。そういえば、じいさんの性格って、あの相澤 剣にそっくりなの!ありえないでしょ?』

『剣と似てんねやったら、さくらにとってはかなわんやろな。』

光はそう言って、大袈裟にのけぞってゲラゲラと笑った。それにつられたのか、雪斗もはにかむように笑い始めて、奈々はそんな2人を見て力を抜くように微笑んだ。
しばらくセピア色の写真を見ながら話をしている2人を見ていると、だんだんと今見ている情景までもがセピア色になってしまう気がして、奈々は少しだけ寂しさを感じた。いつか、こうして笑い合った事さえも過去になってしまうのだろうか?そんな切ない思いの答えは、間違いなくYESだ。奈々が今こうして生きているこの時代は、祖父が亡くなる2年前よりももっと過去なのだから。

『なあ、おじいさんって、どんな人なんだ?』

傍らでぼんやりとする奈々に気を使ったのか、雪斗は突然そんな風に奈々に話を振った。“剣に似ている”という発言をしたからなのか、光もどこか興味津々なようだ。
奈々は大きく息を吐いてベッドの脇に頬杖をつくと、遠くを見ながら静かに思いだし始めた。そんなに頻繁に会っていたわけではないが、圧倒的な存在感があった、あの祖父の事を…。


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思えば、祖父と剣は本当に良く似ていた。頑固で意地っ張り、融通が利かなくて一本気な所までもそっくりだ。名前の通り、正義感の強い、勝気な性格。一族の誰もがひるむほどの祖父のプライドの高さは、尋常じゃなかったのを奈々は覚えている。孫を甘やかす事もなければ、「おじいちゃん」と呼ぶ事さえも頑なに許さなかった。もっともそれは、老人扱いされたくない一心だったようなのだが。
祖父は、筋金入りの仕事人間。そのため、祖父が手掛けた仕事に関しては多大な評価はあったようだが、職場の上下関係や人間関係が原因で、啖呵を切ってやめてしまうなんて事もあったようだ。

そんな気難しい祖父に対して、誰もが波風を立てないようにしていた中で、唯一祖父に反抗的な態度を取ったのは奈々1人であった。納得いかない理不尽な事で怒る奈々と、子供相手でも頑固で絶対に折れない祖父と…。和解する事などは1度もなかった。孫を“子供”として見ていなかったと言えば、そうなのかもしれない。あの態度は、大人も子供も関係なく、“一個人”に対しての態度だったような気がする。

そんな祖父が病魔に倒れ、もう長くはないと分かったのは2年前の事だ。入院した病院の病室…極端な人間嫌いなため、祖父が希望した個室で、親族が集まった事があった。当然、奈々もその場に動向したのはいいが、厳格な家系の中で1人だけ浮いてしまうような、“今時の若者”の風貌をした奈々は、とんでもなく場違いな場面にいるような気がしてならなかった。
今よりも明るい髪の色、清楚とは程遠いような服装…。当時中学生だった奈々にとっては普通ではあったが、世間からみれば十分な異端児だ。
そんな風貌で病室に入ると、目に飛び込んできたのは、目はくぼみ、体に沢山のチューブを付けられ、以前の面影など全くなくなってしまったかのように、弱々しく痩せてしまった祖父の姿だった。

親族の誰もが、すぐさまかけ寄っていったのは言うまでもない。誰だって、あんな痩せこけた姿を見たら、もう長くはないとショックを受けるのは必然だ。
しかし、どんなに周りが心配する言葉をかけても、祖父は返事すらもしなかった。出来なかったのではない。“する気がなかった”のだ。
奈々は知っている。祖父は、手垢のついたようなお決まりのセリフが大嫌いだという事を。そして、自分におべっかを使う人間を嫌う事も知っている。もちろん、しょっちゅう揉めていた祖父本人から聞いたわけではない。祖父の人間性を見ていれば、おのずと分かる気がしたのだ。

奈々は腕を組んだまま、ベッドの周りを囲む親族をかき分けて、側に置いてあった椅子にため息混じりに腰をかけると、いつも通り厳しい眼差しを向ける祖父に言い放った。

『あんだけ大口叩いてたくせに、病気なんかに負けてんなし。』

『…。』

『…何よ、あたしに言い返す気力もないの?』

祖父に向けた、奈々の強気な眼差しは、間違いなく祖父譲りのものだ。祖父は、それを確信したのだろうか?弱々しく笑って、大きく息を吐きながら天井を仰ぐと、集まった親族に突然こう言い放ったのだ。

『…誰も、俺の血を継がなかった…。希望通りにはならなかったが…。』

その言葉に、親族はみんな耳を傾け、同時にあまりの発言に言葉を失った。それは、親族の中でも異端児だった奈々も同じだ。しかし、祖父は呆気にとられる親族を尻目に、ベッドの脇に置かれた椅子に腰かける奈々の方を向いて、言葉を続けた。

『…お前は間違いなく、俺の孫だな。』

その時に祖父が見せた笑顔は、奈々が見る最初で最後の笑顔だった。骨と皮だけになってしまった手で、奈々の手を握って嬉しそうに笑う祖父の笑顔を、奈々は今でも鮮明に覚えている。

『…お前は、俺に良く似てる…。』

『…迷惑な遺言ね。』

奈々は笑いながらそう憎まれ口を叩いたが、今にも折れてしまいそうな弱々しい祖父の手を強く握り返して微笑んだ。それは今思えば、“無音の和解”だったのかもしれない。

『お前はそのままでいい…。変わるなよ?』

『変わる気なんか、更々ないよ。』

『そうか…。』

祖父はそう言うと、満足そうに笑いながら目を閉じた。
奈々が祖父と話したのは、それが最後だった。祖母の話によれば、その数日後、息を引き取るその間際まで、祖父は奈々の名を呼びながら旅立ったのだと言う。
そして祖父亡き後、奈々が祖母から渡されたのは、祖父が書いた自伝であった。

『唯一自分の血を継いだあの子に、渡してくれ…。いつか、それが役立つ時がくる。』

そんな遺言を祖父から託された祖母は、今でも笑いながら言う。

『奈々ちゃんは、おじいちゃんにそっくりね。』

長年連れ添った祖母がそう言うのだから、おそらく間違いはないのだろう。
筋が通らない事が嫌いで勝気な性格と、人付き合いが極端に苦手で好き嫌いの激しい人柄…。それはそれは迷惑な遺伝であり、同時に有り難い遺産だと、奈々は思う。
どんなに揉め事が絶えなかった祖父でも、自分の信念を貫き通す生き方は、心の片隅でいつも尊敬していたからだ。そして、今でも見習いたいと、思っているからだ。


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窓から流れてくるほのかな潮風に乗って、白いカーテンがふわっと宙を撫でた。もう、夏もすぐ側まで近づいてきている。白昼夢から覚めたような、このぼんやりとした感覚は、おそらく春の残り香なんだろう。

『今会えるなら、会ってみたいね。…若い頃から頑固者だったのかなってさ。』

奈々がどこか切なそうに笑いながらそう言うと、

『さくらがそうやから、きっとそうなんちゃう?』

『奈々も将来は、おじいさんみたいになるよ。きっと。』

2人はそう言って、いたずらっぽい少年のような微笑みを浮かべた。
「マジで?やめてよ。」と零す言葉とは裏腹に、奈々が笑顔を浮かべたのは、どこか嬉しさもあったからなのかもしれない。どこかふわりとした笑顔を浮かべたまま、奈々は窓の外に広がる青空を見上げた。今この時代を生きているはずの、同じぐらいの年齢の祖父の所まで、この空は続いているのだろうか?

  ―――――――  じいさん…あたしが信じた道は、本当にあってるの? ―――――――

最期まで聞けなかったその思いが、この空を翔けて祖父の元に届いてくれたら…。奈々はそう思いながら、手元の写真に目を移した。


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世界がオレンジ色に染まる、夕暮れの帰り道は、いつもよりも足が重い気がした。まるで誰かに後ろ髪を引かれているかのように、なかなか前に進めないのは、自分の心なのか体なのかすらも曖昧だ。

『広島と長崎に、何かあるのかよ?』

『…えっ?』

『さっき、何か言おうとして隠しただろ?』

雪斗はそう言って立ち止まると、険しい目つきで奈々を見た。奈々は、心の奥の方にある芯が一瞬で冷たくなるような動悸を感じながら、迷いを振り切れなくて俯いた。
今はまだこの世に存在してもいない原子爆弾の存在を、今この場で言ってしまってもいいのだろうか?
あの原子爆弾がどれだけ残酷な兵器なのかは、ほんの少しだけ知っている。修学旅行で行った長崎の資料館で、実際に目にしたからだ。あの時、ポケットに手を突っ込みながらぶらぶらと適当に見て周り、被爆者の写真から目を背けたのを、昨日の事のように覚えている。

“うわ…。超痛そう。あたしダメなんだよね。こういう写真。”

街は跡形もなく壊滅し、人は人として死ぬ事すらも許されなかった現実。あの時、自分さえ目を背けた残酷な現実を話したら、誰だって混乱するに決まっている。まして、繊細で不安定な心を抱えた雪斗の事だ。尚更揺れてしまう事は避けられない。

『…話せよ。』

『…えっ…。』

『隠したって、無駄だろ?そのうち分かる事なんだから。』

『…でも…。』

『誰にも言わない。オレの中だけにしまっておくから。』

『…雪斗…。』

『1人で抱え込もうとするなよ。』

時代を越えて聞こえた気がした、隼人の声にも聞こえたその声に、恐る恐る顔を上げてみると、夕日を背に浴びる雪斗の姿があった。その表情は、影になっているからなのか、それとも他に理由があるからなのか、どこか暗いような気がする。
奈々はもう1度俯いて肩を落としながら大きく息を吐くと、囁くように小声で呟いた。

『…広島と長崎に…大型の爆弾が落ちる…。』

『…えっ?』

『その爆弾は、一瞬で街を破壊して、人間の体内にも影響を及ぼすような…今までにない爆弾だよ…。』

『…じゃあ…。』

『このままじゃ、光ちゃんが…。』

奈々は唇を噛みしめて、涙がうっすらと睫毛を濡らした。
資料館で目を背けた、およそ70年前の現実が、まさか自分の身近に忍び寄るなんて思わなかった。簡単に見て見ぬふりが出来た歴史が今、直視しなければならないリアルになりつつある。

“あたしに、関係ないじゃん。”

あの時、なんでそんな事が言えたんだろう?ほんの少し前の自分を呪いたくなる。

『…だから言っただろ?…オレたちは、絶対に逃げられないんだって…。』

雪斗はどこか諦めにも似た声でそう言った。
奈々も、それを確信した気がした。歴史を牛耳る魔物がいるのなら、きっと少し前の自分に対して罰を与えているのだと、そう思う。軽々しくしか考えられず、簡単に目を背ける自分に対しての、歴史のメッセージだ。この逃げられない状況こそが、「目を背けるな」という意味なのだ。

『…あたしさえ…黙って見てるしか出来ないもんね?』

『…。』

『この世界でただ1人、これからどうなって行くのかを知ってるのに…。その小娘さえ、手も足も出ないもんね。』

奈々がそう言って呆れたように笑ったのは、自分自身に軽蔑しての嘲笑だった。
自分の身を傷付けてでも夢を守り通したかった龍二と、この歴史に反抗するかのように明るく笑い飛ばす光と…。ああ、自分はあの時、逃げられない運命の中でもがきながら必死に生きる人たちを見て、自分だけ平然と“逃げた”のだ。白黒の写真に閉じ込められた世界にいたはずの友を、見殺しにしたのだ。例えどんな理由があったにしても、それが事実だ。
それが、自分で許せなかった。言い訳する気にもならないほどに。

『…凧みたいだと思わない?』

『…たこ?』

『そう。凧揚げの凧。…歴史っていう風に流されながら、時代っていう糸に操られて、ふわふわしながら空の上から見てるの。』

『…何を見てるの?』

『…断頭台かな。』

『…。』

『一見、自由そうなのにさ…。何1つ思い通りにならないまま、強制的に見せられてる。』

『…断頭台…か。』

『拷問に近い、高見の見物だよね。』

奈々はすがるような潤んだ瞳で、夕焼け空を仰いだ。でも、空を覆う赤燈色は、“助けてくれ”という奈々の悲痛な願いを、残酷に弾き飛ばしてしまう気がした。
もうすぐ、日が暮れる。炎のようなこの空を、漆黒の闇が覆い尽くす。地球が回る限り、それは止める事など出来ないのだろう。
そんな思いで空を見上げる奈々の横顔と、唇から零れ落ちる言葉に何かを感じた雪斗は、少し驚いたように奈々をじっと見つめた。思えば、奈々はたまに不思議な表現をする事がある。それはひどく抽象的で、どこか明確な独特の発想だ。

『…何か、あったんだろ?龍さんの所に行った時。』

『…。』

『泣いてた事を隠さなきゃいけないような、何かが。』

『…やっぱ無理かぁ。誤魔化すのは。』

潔く諦めたように笑ったのと同時に、瞳に張った水膜はポロリと零れ落ちて、ほんのりと夕日色に染まった奈々の頬を伝った。その涙は光を浴びたガーネットのように、目に沁みる色をしている。

『…奈々…。』

『ん?』

『…お前なら、出来ると思う。』

『…何を?』

『…龍さんの夢を、叶える事。』

『…はぁっ?』

あまりに唐突な雪斗の言葉に、奈々は自分の耳を疑った。人の夢を叶えるなんて大それた事を、ただの女子高生である自分に出来るはずがない。何の根拠もなく突拍子もない事を言う雪斗に、奈々は訝し気な顔を向けたが、雪斗の眼差しは鋭く突き刺さるように、強くてまっすぐだ。

『奈々が書いた小説を、龍さんが監督の活動写真にするって…。光から聞いた。「一緒に見に行こう。」って、誘われたよ。』

『…いや…そんなの、ただの理想だよ。』

『それが、龍さんにとっての“希望”なんだろ?奈々にとって、笑って済ませるような事だとしても。』

『…そう…だね…。』

『…オレ達の運命を変える事は出来なくても…結果なんか変えられなくても、それまでとそれからを変える事は出来るんじゃないの?』

『…それまでと…それから?』

『…奈々にしか出来ないと思う。オレは。』

そう言って、雪斗は驚いた顔を向ける奈々を見ると、1人足を進めて奈々を追い越して歩いて行った。そして、一旦足を止めて振り返ると、半信半疑でうろたえる困惑する奈々に言葉を投げかけた。

『信じたからな。奈々の事。』

『…えっ?』

『裏切るなよ。』

雪斗はそう言い放つと、足早にその場を後にした。夕日に溶けていくその姿は、どこか覚悟を決めて歴史の渦の中に飛び込んで行くかのような、そんな気がして、奈々は無意識に引き止めようと手を伸ばしかけた。
でも、きっと止められない。何もかもが、掴んでもするりと手のひらをすり抜けていく風のように、何の違和感もなく時代に溶け込んで行くのだろう。きっと…。
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