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身支度
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ディアンネの手によって丹念に洗われた髪は、これまた丁寧に香油を塗り込まれた。
香油というのは花の種から抽出した油と、香りづけのハーブをブレンドさせて作る高級美容品だ。
効果は髪が艶やかになること。
使い続けると、傷んでパサついた髪が美しく蘇る。
誇張ではない。
公爵家で何度か体験したけど、驚くほど艶々になる。するるん、と指の間を髪が零れ落ちるのだ。いつもなら、必ず1、2本の髪が指に引っ掛かり、ちくんと頭皮を引っ張るのにそれがない。
感慨ひとしおだ。
「次はお化粧を致します」
これまた高級な小瓶に入った化粧水を取り出したディアンネ。
それを両手で温めるようにして、私の顔から首元まで丹念に染み込ませていく。
人肌に温まった化粧水から香るのはバラの芳香だ。
甘く優美な香りにうっとりしてしまう。このバラというのは香りだけでなく、美肌効果があるので理にかなっている。
バラは高貴な観賞花のイメージだけど、薬草としても使えるのだ。とはいえ、ゴージャスなバラは主に美容品や香水に利用される。効能も美容に関してのものが多いので、普通の薬草店や花屋には売ってない。
入手するには、貴族の伝手が必要となる。
バラが咲くのは貴族の庭園や、貴族が経営するバラ農園と限られているのだ。
一方、野生のバラである野茨には派手さはないが、突出した効能がある。こちらは入手しやすいので、好んで使う薬師は多い。
どちらも良い香りだけど、さすが特権階級の象徴花というべきか。
分不相応だと恐縮しつつも、バラの芳香に包まれると自然と肩の力が抜ける。
目を閉じている間に、ふかふかのパフで白粉が叩かれ始めた。顔だけじゃなく、首回りも白粉が叩かれるので、貴族との面会に相応しくない日焼けなのだろう。
「イヴ様はまだお若いので興味はないでしょうが、日焼けには気を付けて下さい。せっかく白く綺麗な肌ですのに、年を経るとシミになってしまいます」
「シミ?日焼けでシミが増えるんですか?」
「はい。日に焼けると肌が劣化すると言われています。貴族の女性の肌が美しいのは、化粧用品の効果もありますが、幼少より肌を守っているからです。白肌ほど魅力的だと言われますので、日焼けにはとても気を使っているのです」
なるほど。
シミは加齢によるものかと思ったけど、日焼けもダメなんだ。貴族と平民の両方と接する機会がある侍女だからこその経験則なのかな。
言われてみれば、商人より農夫の方が顔や手のシミが目立つ。
「私もシミは嫌なので気を付けます」
「ふふふ。そうして下さいませ」
目元や頬にもブラシを刷かれ、最後に口紅を引いて化粧は終わった。
次は着替えだ。
用意されたペパーミントグリーンのワンピースは、デコルテと袖口に精緻にレースをあしらった貴族仕様になる。
正確には、お忍び風の貴族仕様かな。
それも平民の装いの解釈を明後日の方向に飛ばした、自己満足お忍び変身仕様だ。レースをあしらった白い日傘を差せば完璧かもしれない。
王都に行ったことがある冒険者たち曰く、「平民に紛れてねぇんだよ、あいつら。しかも後ろに厳つい護衛引き連れてっから」「平民を装ってる風だからな。そもそも平民は日傘は差さない」「隠れてぇのか目立ちてぇのか分からん」「平民を装いつつ、普通に不敬だっつって突っかかってくるから魔物より質が悪い」とのことだ。
そして、私はそんな服に着られている。
鏡がないから分からないけど、似合うはずがない。こういう服は、日焼け知らずの白皙の美少女が似合うのだ。
だというのに…。
「サイズが…ぴったりです」
「当然でございます」
ディアンネは誇らしげだけど、私としては恐怖心が先立つ。
「ですが、あの髪飾りをつけるには、やはり髪は編み込んだ方が良さそうですね」
あの髪飾り?
「失礼します」と、櫛を手に器用に編み込んでいく。
ここに来た時よりも髪が伸びたとは言え、数cmだ。ショートボブがボブへと変わったくらいなので、アレンジはききにくいと思う。
それでもディアンネの手は迷わず編み込む。
仕上げとばかりに取り出したのは、金色の宝石がついた髪留めだ。
モチーフは蝶で、シルバーの縁に茶褐色のガラスの羽。4枚の羽の付け根、胴体の部分に金色の宝石が嵌まっている。
窓明かりに、キラキラと輝く宝石に尻込みしそうになる。
「あの…その宝石は…」
「ゴールデンベリルです。地域によってはイエローベリルと呼ばれますが、総じて”太陽の贈り物”と呼ばれています。手頃な価格の宝石なのですが、色合いが美しいと思いませんか?」
うふふ、とディアンネは意味深に微笑み、「素敵な贈り物ですわ」と続け、編み込んだ髪に留めた。
「贈り物…」
ディアンネが持ってきたのだから考えるまでもない。
公爵家だ。
グレン団長も褒賞がどうのと言っていた。
「まさか!今日、公爵様に会うんですか!?」
「旦那様はお戻りになられていません。ここから帝都は遠いですから。普通の馬でひと月はかかります。公爵家の馬でも3週間はかかるので、もうしばらくは時間がかかるかと思います。旦那様より通達があれば、いの一番にジャレッド様が駆け付けますわ」
確かに。
ジャレッド団長は厩舎で見かけた切りだ。
というか、帝都が遠い。
ヴォレアナズ帝国の国土の広さが想像できるというものだ。
「それじゃあ…これは?」
意味が分からず、上品なワンピースを見下ろす。
「ハワード様からの心ばかりの贈り物になります」
ぎょっとディアンネに振り向けば、ディアンネは苦笑する。
「正確には、ワンピースと髪留めはヴィヴィアン様が選ばれたものです。それをハワード様より託されました。調薬に関してのお礼だそうです」
「ヴィヴィアン…様?」
「ハワード様の奥様でございます」
つまり次期公爵夫人だ。
知らずのうちに背筋が伸びた。
それから、封を切らずに机に置いたままの封筒を手にした。
恐る恐る封を開けば、1枚のカードが入っている。
カードの真ん中に一言。
”お待ちしております”
ハワード・クロムウェルのサイン入りだ。
なんとなく予想はしていたけど、改めて見ると指先が震える程度には緊張がこみ上げる。
ディアンネは微笑を崩さず、「さぁ、参りましょう」とドアを開いた。
たぶん、私の顔は刑場に連行される罪人と同じくらい青いと思う。促されるまま、不慣れなヒールつきの靴で歩く。
初心者向けのコーンヒールだけど、爪先立ちで歩くのは違和感がある。さらには私の心情が影響しているのか、牛歩に近い歩幅でしか前に進めない。
ディアンネの手を借り、恐る恐ると階段を下りている途中、マリアが頬を赤らめてピーターを呼ぶから居た堪れない。
「イヴ!すごく綺麗よ!髪だって、勿体ないと思ってたのよ。せっかくの綺麗な蜂蜜色の髪なのに、いっつも放ったらかしだったでしょ?」
「ああ、とても綺麗になった。ヒールのある靴も手伝って、ちゃんとレディーに見える。化粧してても健康そうな肌とか歩き方とかが村娘だけどな」
ピーターがエプロンで手を拭いながら、茶化すように笑う。
茶化されると腹立たしいような気もするけど、バン!と開いたドアに複雑な乙女心は霧散した。
恐怖がきた。
外光を背に、黒いシルエットを纏わせたジャレッド団長だ。
怒り心頭。
その一言に尽きる。
犬歯を剥いて、がるるる、と唸る姿は魔王のように恐ろしい。
ああ、久しぶりな恐怖…。
ディアンネも、ジャレッド団長を前にしてびくりと肩を跳ね上げた。
マリアとピーターはジャレッド団長に振り返り、直立不動になってじりじりと後退する。不機嫌を通り越して憤怒のジャレッド団長を前にすると、然しものマリアも顔色が悪くなる。
「ディアンネ!どういう了見だ!」
名指しされたディアンネは怖いだろうに、さすが公爵家の侍女だ。
階段を降りると、恭しく頭を下げた後、「ハワード様よりの招待になります」と告げる。
肩は微かに震えているし、俯けた顔は青を通り越して白い。
私にフォローできる技量はない。一緒に顔色をなくしながら、条件反射に「ごめんなさい」と頭を下げるしかしかできない。
ジャレッド団長は必死に怒りを呑み込んで、ダン!と床を蹴りつけて深呼吸する。
「やっぱり、団長には内緒だったんだね」
ジャレッド団長の後ろから、ひょっこりとキース副団長が顔を出した。
この地獄の空気を物ともしないのは、ここではキース副団長くらいだ。
「えっと…ディアンネさん?」
キース副団長が歩んで来ると、ディアンネは「はい」と頭を上げた。
「ハワード団長に何を言われたかは分からないけど、うちの団長に秘密にしてイヴちゃんを連れ出すのは悪手だよ。たぶん、団長に知れたら妨害するから、内密に連れて来いって言われたんだろうけど」
図星なのか、ディアンネが目を泳がせる。
「そもそも団長がねぇ~。イヴちゃんを隠そうとすればするほど、公爵家がざわつくのは分かってるだろうに、公爵家を刺激するような行動ばかりをするんだからさ」
「キースッ!」
「イヴちゃんも堂々としていれば良いよ。お偉い貴族様が無礼講で良いって呼ぶんだから、マナーが外れてても恥じることはないよ。だって、平民だろ?マナーを知らなくて当然だ。向うもそれを知って招待してるんだから。ぎゃーぎゃーうるさいなら、今回限りでって申し出れば良い。不敬が怖いなら、団長に言わせれば良い。イヴちゃんは、もう少し太々しくしてても良いくらいだよ」
からからと笑うキース副団長に、ジャレッド団長は顔を顰めた後、盛大なため息を落として怒りを霧散させた。
乱暴な足取りでこちらに来ると、腰を屈めて私の顔を覗き込む。
「金輪際、こんなことが起こらないようにしっかりと拒絶の意を示さなければ、また同じことが起こりかねない。兄上は……いや、両親も含めて図々しいからな」
眉尻を落とし、「だから俺を使え」と言う。
それもハードルは高いけど、私にはかくかくと頷くしかできない。
「団長。そんなことより言うことがあるんじゃないのか?」
「あ”?」
眉間に深い溝を作り、ジャレッド団長がキース副団長を睨みつける。
「じゃあ、俺が」
キース副団長が肩を竦め、「んん」とわざとらしく喉を鳴らした。
そして、上品ながらに煌めく微笑を浮かべる。
「イヴちゃん。いつもは可愛いけど、今日はとても綺麗だよ」
「……っ!」
頬に熱が帯びるのが分かる。
稀有な艶然としたキース副団長に、ディアンネすら僅かな動揺を走らせている。先まで震えていたマリアも、「ふぉお」とおかしな声を零した。
普段王子様な人が、意識して王子様役を完璧に熟すことの破壊力!
眩しい…っ!
「あ…ありがとうございます」
気恥ずかしさに視線が泳ぎ、ふとキース副団長のキラキラしい髪に止まる。
窓明かりを受けて輝いていた髪留めと同じだ。
「髪留めの宝石、キース副団長の髪色と同じですね」
なんとなく呟いた言葉がダメだったのか、キース副団長が「はへ!?」と目を丸め、ゴールデンベリルを凝視した後にジャレッド団長に振り返った。
がるるるる、と低い唸り声に、キース副団長は悲鳴を上げて逃げて行った。
香油というのは花の種から抽出した油と、香りづけのハーブをブレンドさせて作る高級美容品だ。
効果は髪が艶やかになること。
使い続けると、傷んでパサついた髪が美しく蘇る。
誇張ではない。
公爵家で何度か体験したけど、驚くほど艶々になる。するるん、と指の間を髪が零れ落ちるのだ。いつもなら、必ず1、2本の髪が指に引っ掛かり、ちくんと頭皮を引っ張るのにそれがない。
感慨ひとしおだ。
「次はお化粧を致します」
これまた高級な小瓶に入った化粧水を取り出したディアンネ。
それを両手で温めるようにして、私の顔から首元まで丹念に染み込ませていく。
人肌に温まった化粧水から香るのはバラの芳香だ。
甘く優美な香りにうっとりしてしまう。このバラというのは香りだけでなく、美肌効果があるので理にかなっている。
バラは高貴な観賞花のイメージだけど、薬草としても使えるのだ。とはいえ、ゴージャスなバラは主に美容品や香水に利用される。効能も美容に関してのものが多いので、普通の薬草店や花屋には売ってない。
入手するには、貴族の伝手が必要となる。
バラが咲くのは貴族の庭園や、貴族が経営するバラ農園と限られているのだ。
一方、野生のバラである野茨には派手さはないが、突出した効能がある。こちらは入手しやすいので、好んで使う薬師は多い。
どちらも良い香りだけど、さすが特権階級の象徴花というべきか。
分不相応だと恐縮しつつも、バラの芳香に包まれると自然と肩の力が抜ける。
目を閉じている間に、ふかふかのパフで白粉が叩かれ始めた。顔だけじゃなく、首回りも白粉が叩かれるので、貴族との面会に相応しくない日焼けなのだろう。
「イヴ様はまだお若いので興味はないでしょうが、日焼けには気を付けて下さい。せっかく白く綺麗な肌ですのに、年を経るとシミになってしまいます」
「シミ?日焼けでシミが増えるんですか?」
「はい。日に焼けると肌が劣化すると言われています。貴族の女性の肌が美しいのは、化粧用品の効果もありますが、幼少より肌を守っているからです。白肌ほど魅力的だと言われますので、日焼けにはとても気を使っているのです」
なるほど。
シミは加齢によるものかと思ったけど、日焼けもダメなんだ。貴族と平民の両方と接する機会がある侍女だからこその経験則なのかな。
言われてみれば、商人より農夫の方が顔や手のシミが目立つ。
「私もシミは嫌なので気を付けます」
「ふふふ。そうして下さいませ」
目元や頬にもブラシを刷かれ、最後に口紅を引いて化粧は終わった。
次は着替えだ。
用意されたペパーミントグリーンのワンピースは、デコルテと袖口に精緻にレースをあしらった貴族仕様になる。
正確には、お忍び風の貴族仕様かな。
それも平民の装いの解釈を明後日の方向に飛ばした、自己満足お忍び変身仕様だ。レースをあしらった白い日傘を差せば完璧かもしれない。
王都に行ったことがある冒険者たち曰く、「平民に紛れてねぇんだよ、あいつら。しかも後ろに厳つい護衛引き連れてっから」「平民を装ってる風だからな。そもそも平民は日傘は差さない」「隠れてぇのか目立ちてぇのか分からん」「平民を装いつつ、普通に不敬だっつって突っかかってくるから魔物より質が悪い」とのことだ。
そして、私はそんな服に着られている。
鏡がないから分からないけど、似合うはずがない。こういう服は、日焼け知らずの白皙の美少女が似合うのだ。
だというのに…。
「サイズが…ぴったりです」
「当然でございます」
ディアンネは誇らしげだけど、私としては恐怖心が先立つ。
「ですが、あの髪飾りをつけるには、やはり髪は編み込んだ方が良さそうですね」
あの髪飾り?
「失礼します」と、櫛を手に器用に編み込んでいく。
ここに来た時よりも髪が伸びたとは言え、数cmだ。ショートボブがボブへと変わったくらいなので、アレンジはききにくいと思う。
それでもディアンネの手は迷わず編み込む。
仕上げとばかりに取り出したのは、金色の宝石がついた髪留めだ。
モチーフは蝶で、シルバーの縁に茶褐色のガラスの羽。4枚の羽の付け根、胴体の部分に金色の宝石が嵌まっている。
窓明かりに、キラキラと輝く宝石に尻込みしそうになる。
「あの…その宝石は…」
「ゴールデンベリルです。地域によってはイエローベリルと呼ばれますが、総じて”太陽の贈り物”と呼ばれています。手頃な価格の宝石なのですが、色合いが美しいと思いませんか?」
うふふ、とディアンネは意味深に微笑み、「素敵な贈り物ですわ」と続け、編み込んだ髪に留めた。
「贈り物…」
ディアンネが持ってきたのだから考えるまでもない。
公爵家だ。
グレン団長も褒賞がどうのと言っていた。
「まさか!今日、公爵様に会うんですか!?」
「旦那様はお戻りになられていません。ここから帝都は遠いですから。普通の馬でひと月はかかります。公爵家の馬でも3週間はかかるので、もうしばらくは時間がかかるかと思います。旦那様より通達があれば、いの一番にジャレッド様が駆け付けますわ」
確かに。
ジャレッド団長は厩舎で見かけた切りだ。
というか、帝都が遠い。
ヴォレアナズ帝国の国土の広さが想像できるというものだ。
「それじゃあ…これは?」
意味が分からず、上品なワンピースを見下ろす。
「ハワード様からの心ばかりの贈り物になります」
ぎょっとディアンネに振り向けば、ディアンネは苦笑する。
「正確には、ワンピースと髪留めはヴィヴィアン様が選ばれたものです。それをハワード様より託されました。調薬に関してのお礼だそうです」
「ヴィヴィアン…様?」
「ハワード様の奥様でございます」
つまり次期公爵夫人だ。
知らずのうちに背筋が伸びた。
それから、封を切らずに机に置いたままの封筒を手にした。
恐る恐る封を開けば、1枚のカードが入っている。
カードの真ん中に一言。
”お待ちしております”
ハワード・クロムウェルのサイン入りだ。
なんとなく予想はしていたけど、改めて見ると指先が震える程度には緊張がこみ上げる。
ディアンネは微笑を崩さず、「さぁ、参りましょう」とドアを開いた。
たぶん、私の顔は刑場に連行される罪人と同じくらい青いと思う。促されるまま、不慣れなヒールつきの靴で歩く。
初心者向けのコーンヒールだけど、爪先立ちで歩くのは違和感がある。さらには私の心情が影響しているのか、牛歩に近い歩幅でしか前に進めない。
ディアンネの手を借り、恐る恐ると階段を下りている途中、マリアが頬を赤らめてピーターを呼ぶから居た堪れない。
「イヴ!すごく綺麗よ!髪だって、勿体ないと思ってたのよ。せっかくの綺麗な蜂蜜色の髪なのに、いっつも放ったらかしだったでしょ?」
「ああ、とても綺麗になった。ヒールのある靴も手伝って、ちゃんとレディーに見える。化粧してても健康そうな肌とか歩き方とかが村娘だけどな」
ピーターがエプロンで手を拭いながら、茶化すように笑う。
茶化されると腹立たしいような気もするけど、バン!と開いたドアに複雑な乙女心は霧散した。
恐怖がきた。
外光を背に、黒いシルエットを纏わせたジャレッド団長だ。
怒り心頭。
その一言に尽きる。
犬歯を剥いて、がるるる、と唸る姿は魔王のように恐ろしい。
ああ、久しぶりな恐怖…。
ディアンネも、ジャレッド団長を前にしてびくりと肩を跳ね上げた。
マリアとピーターはジャレッド団長に振り返り、直立不動になってじりじりと後退する。不機嫌を通り越して憤怒のジャレッド団長を前にすると、然しものマリアも顔色が悪くなる。
「ディアンネ!どういう了見だ!」
名指しされたディアンネは怖いだろうに、さすが公爵家の侍女だ。
階段を降りると、恭しく頭を下げた後、「ハワード様よりの招待になります」と告げる。
肩は微かに震えているし、俯けた顔は青を通り越して白い。
私にフォローできる技量はない。一緒に顔色をなくしながら、条件反射に「ごめんなさい」と頭を下げるしかしかできない。
ジャレッド団長は必死に怒りを呑み込んで、ダン!と床を蹴りつけて深呼吸する。
「やっぱり、団長には内緒だったんだね」
ジャレッド団長の後ろから、ひょっこりとキース副団長が顔を出した。
この地獄の空気を物ともしないのは、ここではキース副団長くらいだ。
「えっと…ディアンネさん?」
キース副団長が歩んで来ると、ディアンネは「はい」と頭を上げた。
「ハワード団長に何を言われたかは分からないけど、うちの団長に秘密にしてイヴちゃんを連れ出すのは悪手だよ。たぶん、団長に知れたら妨害するから、内密に連れて来いって言われたんだろうけど」
図星なのか、ディアンネが目を泳がせる。
「そもそも団長がねぇ~。イヴちゃんを隠そうとすればするほど、公爵家がざわつくのは分かってるだろうに、公爵家を刺激するような行動ばかりをするんだからさ」
「キースッ!」
「イヴちゃんも堂々としていれば良いよ。お偉い貴族様が無礼講で良いって呼ぶんだから、マナーが外れてても恥じることはないよ。だって、平民だろ?マナーを知らなくて当然だ。向うもそれを知って招待してるんだから。ぎゃーぎゃーうるさいなら、今回限りでって申し出れば良い。不敬が怖いなら、団長に言わせれば良い。イヴちゃんは、もう少し太々しくしてても良いくらいだよ」
からからと笑うキース副団長に、ジャレッド団長は顔を顰めた後、盛大なため息を落として怒りを霧散させた。
乱暴な足取りでこちらに来ると、腰を屈めて私の顔を覗き込む。
「金輪際、こんなことが起こらないようにしっかりと拒絶の意を示さなければ、また同じことが起こりかねない。兄上は……いや、両親も含めて図々しいからな」
眉尻を落とし、「だから俺を使え」と言う。
それもハードルは高いけど、私にはかくかくと頷くしかできない。
「団長。そんなことより言うことがあるんじゃないのか?」
「あ”?」
眉間に深い溝を作り、ジャレッド団長がキース副団長を睨みつける。
「じゃあ、俺が」
キース副団長が肩を竦め、「んん」とわざとらしく喉を鳴らした。
そして、上品ながらに煌めく微笑を浮かべる。
「イヴちゃん。いつもは可愛いけど、今日はとても綺麗だよ」
「……っ!」
頬に熱が帯びるのが分かる。
稀有な艶然としたキース副団長に、ディアンネすら僅かな動揺を走らせている。先まで震えていたマリアも、「ふぉお」とおかしな声を零した。
普段王子様な人が、意識して王子様役を完璧に熟すことの破壊力!
眩しい…っ!
「あ…ありがとうございます」
気恥ずかしさに視線が泳ぎ、ふとキース副団長のキラキラしい髪に止まる。
窓明かりを受けて輝いていた髪留めと同じだ。
「髪留めの宝石、キース副団長の髪色と同じですね」
なんとなく呟いた言葉がダメだったのか、キース副団長が「はへ!?」と目を丸め、ゴールデンベリルを凝視した後にジャレッド団長に振り返った。
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