73 / 89
図書室
しおりを挟む
何が公爵様の気に障ったのかは分からないけど、私一人で悩んでいても始まらない。自由に本を読んでいいと許可が出たのだ。お行儀よく座って待っているなんて勿体ない。
「あの…執事さん」
「どうぞジミーとお呼び下さい。姓のオルセンと呼べば、何人ものオルセンが振り返りますので。執事も同様でございます」
ふふ、と好々爺然りとした執事…改めジミーの笑みに、私はこくりと頷く。
「ではジミーさん。植物の本ってありますか?」
「はい。ご案内致します」と、歩き出したジミーの後に続く。
ジミーの説明によると、1階の書架の下段は子供向けの絵本。中段に帝国古語と言語学、共通言語辞典。梯子を使う上段には、公爵夫人と次期公爵夫人の趣味である詩集と小説が並んでいるらしい。
分類は主に恋愛小説なのだとか。
あの華美な夫人が?と思う一方で、なんだか親近感が湧く。
何しろ、小説というのは市井発祥の娯楽だからだ。
ありもしない空想を、簡単な単語を並べて文章にした薄っぺらい本が、小説の始まりだ。今では立派な作家職が確立しているけど、それでも作家の多くが平民ということもあり、キャトラル王国では下賤が好む本とされている。
下賤とはいうけど、読み書きできるだけでそこそこの家の出だ。それでも、向こうでは無爵のことを下賤と一蹴される。例え、富豪の商人であっても無爵であれば下賤だ。
なので、小説に少しでも王侯貴族が登場するものは禁書扱いとなる。
故に、小説の題材といえば、勇者が登場する冒険譚や、聖女が諸国漫遊する流離譚が主流だ。
滅多にないけど、稀に作家が貴族だと判明することがある。本人がカミングアウトしたり、身近な人が暴露したりだ。すると、不思議なことに貴族が執筆した小説は叙情詩だと歌劇に組み込まれ、大衆向けな小説の枠組みから外れ純文学と持て囃される。
ということで、向こうで小説といえば平民の娯楽であり、荒唐無稽な物語なのだ。
それが、ここでは夫人たちの趣味なのだというから嬉しくなる。
それも恋愛だ。
ぱっと目についた小説のタイトルが、【侯爵の愛した花売り少女】だから不敬も天元突破している。キャトラル王国なら禁書の上、作者は投獄だ。下手すると、購入した側も罰を受ける。
ヴォレアナズ帝国の懐の広さよ…。
2階へは金ピカの螺旋階段を上る。
2階は回廊だ。手すりの傍にはシンプルなソファとコーヒーテーブルが等間隔に設置され、見上げるばかりだったシャンデリアも近い。スライド式の梯子が取り付けられた書架の上段は、そのシャンデリアよりも上部にある。
本の壁に圧倒されながら注視していると、分類掲示というのだろうか。書架の所々に、小さなプレートが張られているのに気が付いた。
ぐるりと確認するだけで神学に哲学、芸術、医学…。それから国史。近隣諸国の歴史書もある。統一されてしまったヴォレアナズ帝国だけど、小国家群だった当時の歴史書や古語らしき本もある。
何を書いているのか分からないタイトルが多い。
それ以外にも見慣れない言語があちこちに見られる。
「ああいうのも全て帝国の古語ですか?」
少し離れた個所を指さすと、ジミーは緩く頭を振る。
「ゴゼット様は、この世界に幾つの国があるかご存じですか?」
今度は私が頭を振る番だ。
「戦争などで減ったり増えたりするので、わたくしも詳しくはありませんが、この超大陸は5つの州で区分けされています。ヴォレアナズ帝国やキャトラル王国は西マルデル州に当たります。共通言語と呼ばれているのは、この西マルデル州にのみ通ずる言語になります。そして、ゴゼット様が疑問に感じられていた書物の言語は、中央ミカ州の共通言語による神話集を集めたものです。中央ミカ州は世界の始まりの地であり、至高の神グラトゥルヴィア様がご降臨された地、神聖国家アーバンがございます。下階の共通言語辞典は、その5つの州で使われる言語辞典を集めておりますので、興味がございましたら辞典を手に異国の書物に挑戦してみて下さい」
超大陸…5つの州…。
「いえ…挑戦はしないです。でも、私が知っているのがキャトラル王国とヴォレアナズ帝国のほんの一部と思うと、世界ってすごく広いですね。その一部だって広く感じるのに…」
しみじみ呟き、中央ミカ州の神話集を見る。
「そうでございますね。西マルデル州だけでも大小16の国がございますから」
「16!」
「大小でございます。今は16の国で安定しておりますが、昔はもっと多くの国があったのですよ?何しろ、帝国も小国家群だったのですから」
確かに。
獣人のような一騎当千の武人を保有する国々が群雄割拠していた時代を思うと、今の平和な時代に生まれて良かったと思う。
「さて、ゴゼット様がお探しの書物はこちらになります」
ほのぼのと微笑むジミーに案内されて着いた一角は、他の本より一線を画す図鑑が並んでいた。
何が違うって厚さが違う。
高級そうなのは分かっていたことだけど、持ち上げるのも苦労しそうなほど分厚いとは思わなかった。あれは鈍器だ。
私が尻込みしていたのが分かったのか、ジミーがテーブルに運んでくれるという。
でも、あの厚さの図鑑を膝の上に置くのも辛そうだ。
「あの。あそこの窓のとこの机でも良いですか?」
「ええ。構いません」
お言葉に甘えて、じっくり図鑑を吟味する。
やっぱり森に関する図鑑が多い。森の名称がばらばらなので、近隣諸国から取り寄せているものもある。”帰らずの森”を冠する表題の図鑑は、キャトラル王国のものだ。
「貴重な…触ったらダメな本とかもありますか?いえ…全部が貴重なのは分かってるんですが」
「稀覯本などは、地下室にて管理されております」
ジミーは言って、1階を手で示す。
「てっきり下にも図書室が広がってるのかと思いました」
「ええ、ございますよ。主に戦略や戦術などの軍事学になりますが」
つまり私とは無縁の本だ。
「さらに奥へ行きますと施錠された扉がございます。その中に稀覯本などの書物を保管しているのです。貴重な年代物の書物ですので、遮光、耐火素材の部屋となります。主立った蔵書は、例えばクロムウェル領出身の植物学者マッシモ・コラクの原本です。写本であればこちらにもございます」
と、今度はマッシモ・コラクの本を手で示した。
他の図鑑と比べて薄いが、【薬草と毒草】というタイトルだけで全30巻はある。厚みがないとは言え、他と比べてなので、気軽に立ち読みできるようなものではない。
「あの、では【薬草と毒草】をお願いします」
「こちらですね。全巻お持ちしますか?」
「いえ2巻までお願いします」
ジャレッド団長たちが戻るまでとタイムリミットがあるので、本当は1冊で十分なのだろうけど、欲張って2冊だ。
ジミーが図鑑を抱えると1階へと戻る。
ライティングデスクの上に置かれた図鑑は、2冊で厚さが10cm近くある。
朱塗りの装丁に銀色の流麗な箔押し表題。
そっと表紙を捲ると、さらさらつるつるの質感だ。緊張と同時に感動が指先から広がる。
「マッシモ・コラクの書は、難しい単語や言い回しは使われておりませんが、問題なく読めそうですか?」
「えっと…」
ぺらり、ぺらり、と捲る。
「はい。大丈夫だと思います」
5ページほど見た限り、難しそうな単語は出てこない。学者特有の難解な文言もなく、精緻な植物画もあり、とても分かりやすい。
「読み書きと簡単な計算は祖父母に叩き込まれました。薬師を目指すなら必要だからと」
そうは言っても、平民は貴族のように家庭教師を雇ったり、学園で学んだりしない。
教会に通えるのであれば、生活に困らない程度の簡単な読み書きを習うことができる。難しい専門用語が羅列する契約書には太刀打ちできなくとも、恋文が書けるようになれば上々と言った感じだ。
私は教会ではなく、祖父母にみっちりしごかれた。
まぁ、それでスラスラ読めるよ!と胸を張れるほど自信はない。所詮は平民の知識量だ。難しい単語が出てくれば意味以前に読み方すら分からないと思う。
「もし分からない言葉が出てきたら、ジミーさんに訊いてもいいですか?」
「はい。お邪魔にならない場所に控えておりますので、分からないことがあれば気軽にお声掛け下さい」
ジミーは言って、鈴蘭の形をしたランプに明かりを灯すと、下がって行った。
私は図鑑に向き直る。
最初のページ、前書きでマッシモ・コラクが生い立ちに触れている。
小さな集落の農民の子として生まれ、”魔女の森”と共に育ち、自ずと植物に興味を抱いたのだという。
きっと好奇心旺盛な子供だったのだろう。
学のない少年時代は植物の観察とスケッチに費やされ、独学で文字を学んでからは研究に没頭。
その集大成が【薬草と毒草】となるらしい。
シンプルなタイトルながら、ページを進める度に感嘆の息が漏れる。
図画を見るだけでも楽しい。花や葉、根の細かな描写もある。
どこにどんな効能があり、毒があるのか。薬の利用法も記載さてれいる。乾燥させ煎じるのか、煎液を作るのか、お酒に漬けるのか。山芋を使い丸薬を作った失敗談も載っている。
これは初めて知ったけど、植物によっては、お風呂に入れて薬湯に適しているらしい。
効能は主に皮膚疾患、打撲や神経痛。
お風呂に浸かる習慣は貧富の差によって異なるので難しい。
お湯を出す魔道具は高額で、多くの家は薪だ。薪も安くはないので、町では大衆浴場が一般的。田舎では蒸し風呂か、盥に水を入れて体を拭くだけ。夏場なら川や池で水浴びして汚れを落とす。
我が家は浴槽はあったけど、水を汲む労力や薪代を考えて蒸し風呂だった。
ちなみに、第2騎士団は広い浴槽があり湯に浸かって疲れをとることを推奨されている。
当然、使用するのは魔道具だ。
初期投資が高額だけれど、そこさえ目を瞑れば手軽に湯浴みできる。
湯に浸かることのメリットは、この本にも書かれている。薬湯でなくても、単に湯に浸かるだけで心身の疲労が軽減されると。
「この人、薬師か…医師の資格があったのかな」
もしくは、それに準ずる知識だ。
騎士団に浴槽があるのも、マッシモ・コラクの教えに基づいているのかもしれない。
学者らしくない易しい文言に、マッシモ・コラクの出生が関係しているのかと思ったけど、読み進めるに違うことが分かる。
これは貴族仕様の豪華版だけど、原本は質素な紙で作られた安価な図鑑に違いない。
マッシモ・コラクは、誰でも読めるように心を砕いている。
一口メモの”煮て食べると美味い”という文言を見つけた時、これは貧しい人たちに向けた本なのだと察することができた。
たぶん、好奇心旺盛で努力家。優しい人だったのだろう。
ぺらり………ぺらり………。
ページを捲る音だけが聞こえる。
とても静かだ。
雑音が入らないくらい壁が厚いのだろう。
そこでふと、自分が公爵家の図書室にいることを思い出した。
勢いよく頭をあげれば、心なし庭を彩る花々の影が長くなっている。慌てて後ろに振り向いてジミーさんを探す。
ジミーさんは扉の傍らに、笑顔で待機していた。
「あ…あの」
時刻が分からなくて頭の中が混乱する。
ぱくぱくと口を開閉していると、ジミーさんが歩んで来てくれた。
「ゴゼット様が集中しておりましたので、声掛けを控えさせて頂きました。申し訳ございません」
「あ…いえ。あの…公爵様とジャレッド団長は?」
「旦那様は執務室へ戻られています。ジャレッド様は自室に戻られておりますが、ご案内しますか?」
「え?あの…話し合いはどうなったんですか?」
褒賞が欲しいわけじゃないけど、話し合いの途中だった気がする。
ジャレッド団長を連れて行ってそのままだ。
困惑のままにジミーさんを見ると、ジミーさんはのほほんと微笑んでいる。
「ジャレッド様との話し合いでお決めになったようです」
う~ん…ジャレッド団長だったら私の意を汲んでくれているかな?
身に余る褒賞は、きっと断ってくれているだろう。
あのアクセサリーだけでも手に余るのだ。別邸馬車付きは是が非でも突き返したい。
たぶん、大丈夫。
ジャレッド団長に期待を寄せながら、そっと図鑑を閉じた。
「あの…執事さん」
「どうぞジミーとお呼び下さい。姓のオルセンと呼べば、何人ものオルセンが振り返りますので。執事も同様でございます」
ふふ、と好々爺然りとした執事…改めジミーの笑みに、私はこくりと頷く。
「ではジミーさん。植物の本ってありますか?」
「はい。ご案内致します」と、歩き出したジミーの後に続く。
ジミーの説明によると、1階の書架の下段は子供向けの絵本。中段に帝国古語と言語学、共通言語辞典。梯子を使う上段には、公爵夫人と次期公爵夫人の趣味である詩集と小説が並んでいるらしい。
分類は主に恋愛小説なのだとか。
あの華美な夫人が?と思う一方で、なんだか親近感が湧く。
何しろ、小説というのは市井発祥の娯楽だからだ。
ありもしない空想を、簡単な単語を並べて文章にした薄っぺらい本が、小説の始まりだ。今では立派な作家職が確立しているけど、それでも作家の多くが平民ということもあり、キャトラル王国では下賤が好む本とされている。
下賤とはいうけど、読み書きできるだけでそこそこの家の出だ。それでも、向こうでは無爵のことを下賤と一蹴される。例え、富豪の商人であっても無爵であれば下賤だ。
なので、小説に少しでも王侯貴族が登場するものは禁書扱いとなる。
故に、小説の題材といえば、勇者が登場する冒険譚や、聖女が諸国漫遊する流離譚が主流だ。
滅多にないけど、稀に作家が貴族だと判明することがある。本人がカミングアウトしたり、身近な人が暴露したりだ。すると、不思議なことに貴族が執筆した小説は叙情詩だと歌劇に組み込まれ、大衆向けな小説の枠組みから外れ純文学と持て囃される。
ということで、向こうで小説といえば平民の娯楽であり、荒唐無稽な物語なのだ。
それが、ここでは夫人たちの趣味なのだというから嬉しくなる。
それも恋愛だ。
ぱっと目についた小説のタイトルが、【侯爵の愛した花売り少女】だから不敬も天元突破している。キャトラル王国なら禁書の上、作者は投獄だ。下手すると、購入した側も罰を受ける。
ヴォレアナズ帝国の懐の広さよ…。
2階へは金ピカの螺旋階段を上る。
2階は回廊だ。手すりの傍にはシンプルなソファとコーヒーテーブルが等間隔に設置され、見上げるばかりだったシャンデリアも近い。スライド式の梯子が取り付けられた書架の上段は、そのシャンデリアよりも上部にある。
本の壁に圧倒されながら注視していると、分類掲示というのだろうか。書架の所々に、小さなプレートが張られているのに気が付いた。
ぐるりと確認するだけで神学に哲学、芸術、医学…。それから国史。近隣諸国の歴史書もある。統一されてしまったヴォレアナズ帝国だけど、小国家群だった当時の歴史書や古語らしき本もある。
何を書いているのか分からないタイトルが多い。
それ以外にも見慣れない言語があちこちに見られる。
「ああいうのも全て帝国の古語ですか?」
少し離れた個所を指さすと、ジミーは緩く頭を振る。
「ゴゼット様は、この世界に幾つの国があるかご存じですか?」
今度は私が頭を振る番だ。
「戦争などで減ったり増えたりするので、わたくしも詳しくはありませんが、この超大陸は5つの州で区分けされています。ヴォレアナズ帝国やキャトラル王国は西マルデル州に当たります。共通言語と呼ばれているのは、この西マルデル州にのみ通ずる言語になります。そして、ゴゼット様が疑問に感じられていた書物の言語は、中央ミカ州の共通言語による神話集を集めたものです。中央ミカ州は世界の始まりの地であり、至高の神グラトゥルヴィア様がご降臨された地、神聖国家アーバンがございます。下階の共通言語辞典は、その5つの州で使われる言語辞典を集めておりますので、興味がございましたら辞典を手に異国の書物に挑戦してみて下さい」
超大陸…5つの州…。
「いえ…挑戦はしないです。でも、私が知っているのがキャトラル王国とヴォレアナズ帝国のほんの一部と思うと、世界ってすごく広いですね。その一部だって広く感じるのに…」
しみじみ呟き、中央ミカ州の神話集を見る。
「そうでございますね。西マルデル州だけでも大小16の国がございますから」
「16!」
「大小でございます。今は16の国で安定しておりますが、昔はもっと多くの国があったのですよ?何しろ、帝国も小国家群だったのですから」
確かに。
獣人のような一騎当千の武人を保有する国々が群雄割拠していた時代を思うと、今の平和な時代に生まれて良かったと思う。
「さて、ゴゼット様がお探しの書物はこちらになります」
ほのぼのと微笑むジミーに案内されて着いた一角は、他の本より一線を画す図鑑が並んでいた。
何が違うって厚さが違う。
高級そうなのは分かっていたことだけど、持ち上げるのも苦労しそうなほど分厚いとは思わなかった。あれは鈍器だ。
私が尻込みしていたのが分かったのか、ジミーがテーブルに運んでくれるという。
でも、あの厚さの図鑑を膝の上に置くのも辛そうだ。
「あの。あそこの窓のとこの机でも良いですか?」
「ええ。構いません」
お言葉に甘えて、じっくり図鑑を吟味する。
やっぱり森に関する図鑑が多い。森の名称がばらばらなので、近隣諸国から取り寄せているものもある。”帰らずの森”を冠する表題の図鑑は、キャトラル王国のものだ。
「貴重な…触ったらダメな本とかもありますか?いえ…全部が貴重なのは分かってるんですが」
「稀覯本などは、地下室にて管理されております」
ジミーは言って、1階を手で示す。
「てっきり下にも図書室が広がってるのかと思いました」
「ええ、ございますよ。主に戦略や戦術などの軍事学になりますが」
つまり私とは無縁の本だ。
「さらに奥へ行きますと施錠された扉がございます。その中に稀覯本などの書物を保管しているのです。貴重な年代物の書物ですので、遮光、耐火素材の部屋となります。主立った蔵書は、例えばクロムウェル領出身の植物学者マッシモ・コラクの原本です。写本であればこちらにもございます」
と、今度はマッシモ・コラクの本を手で示した。
他の図鑑と比べて薄いが、【薬草と毒草】というタイトルだけで全30巻はある。厚みがないとは言え、他と比べてなので、気軽に立ち読みできるようなものではない。
「あの、では【薬草と毒草】をお願いします」
「こちらですね。全巻お持ちしますか?」
「いえ2巻までお願いします」
ジャレッド団長たちが戻るまでとタイムリミットがあるので、本当は1冊で十分なのだろうけど、欲張って2冊だ。
ジミーが図鑑を抱えると1階へと戻る。
ライティングデスクの上に置かれた図鑑は、2冊で厚さが10cm近くある。
朱塗りの装丁に銀色の流麗な箔押し表題。
そっと表紙を捲ると、さらさらつるつるの質感だ。緊張と同時に感動が指先から広がる。
「マッシモ・コラクの書は、難しい単語や言い回しは使われておりませんが、問題なく読めそうですか?」
「えっと…」
ぺらり、ぺらり、と捲る。
「はい。大丈夫だと思います」
5ページほど見た限り、難しそうな単語は出てこない。学者特有の難解な文言もなく、精緻な植物画もあり、とても分かりやすい。
「読み書きと簡単な計算は祖父母に叩き込まれました。薬師を目指すなら必要だからと」
そうは言っても、平民は貴族のように家庭教師を雇ったり、学園で学んだりしない。
教会に通えるのであれば、生活に困らない程度の簡単な読み書きを習うことができる。難しい専門用語が羅列する契約書には太刀打ちできなくとも、恋文が書けるようになれば上々と言った感じだ。
私は教会ではなく、祖父母にみっちりしごかれた。
まぁ、それでスラスラ読めるよ!と胸を張れるほど自信はない。所詮は平民の知識量だ。難しい単語が出てくれば意味以前に読み方すら分からないと思う。
「もし分からない言葉が出てきたら、ジミーさんに訊いてもいいですか?」
「はい。お邪魔にならない場所に控えておりますので、分からないことがあれば気軽にお声掛け下さい」
ジミーは言って、鈴蘭の形をしたランプに明かりを灯すと、下がって行った。
私は図鑑に向き直る。
最初のページ、前書きでマッシモ・コラクが生い立ちに触れている。
小さな集落の農民の子として生まれ、”魔女の森”と共に育ち、自ずと植物に興味を抱いたのだという。
きっと好奇心旺盛な子供だったのだろう。
学のない少年時代は植物の観察とスケッチに費やされ、独学で文字を学んでからは研究に没頭。
その集大成が【薬草と毒草】となるらしい。
シンプルなタイトルながら、ページを進める度に感嘆の息が漏れる。
図画を見るだけでも楽しい。花や葉、根の細かな描写もある。
どこにどんな効能があり、毒があるのか。薬の利用法も記載さてれいる。乾燥させ煎じるのか、煎液を作るのか、お酒に漬けるのか。山芋を使い丸薬を作った失敗談も載っている。
これは初めて知ったけど、植物によっては、お風呂に入れて薬湯に適しているらしい。
効能は主に皮膚疾患、打撲や神経痛。
お風呂に浸かる習慣は貧富の差によって異なるので難しい。
お湯を出す魔道具は高額で、多くの家は薪だ。薪も安くはないので、町では大衆浴場が一般的。田舎では蒸し風呂か、盥に水を入れて体を拭くだけ。夏場なら川や池で水浴びして汚れを落とす。
我が家は浴槽はあったけど、水を汲む労力や薪代を考えて蒸し風呂だった。
ちなみに、第2騎士団は広い浴槽があり湯に浸かって疲れをとることを推奨されている。
当然、使用するのは魔道具だ。
初期投資が高額だけれど、そこさえ目を瞑れば手軽に湯浴みできる。
湯に浸かることのメリットは、この本にも書かれている。薬湯でなくても、単に湯に浸かるだけで心身の疲労が軽減されると。
「この人、薬師か…医師の資格があったのかな」
もしくは、それに準ずる知識だ。
騎士団に浴槽があるのも、マッシモ・コラクの教えに基づいているのかもしれない。
学者らしくない易しい文言に、マッシモ・コラクの出生が関係しているのかと思ったけど、読み進めるに違うことが分かる。
これは貴族仕様の豪華版だけど、原本は質素な紙で作られた安価な図鑑に違いない。
マッシモ・コラクは、誰でも読めるように心を砕いている。
一口メモの”煮て食べると美味い”という文言を見つけた時、これは貧しい人たちに向けた本なのだと察することができた。
たぶん、好奇心旺盛で努力家。優しい人だったのだろう。
ぺらり………ぺらり………。
ページを捲る音だけが聞こえる。
とても静かだ。
雑音が入らないくらい壁が厚いのだろう。
そこでふと、自分が公爵家の図書室にいることを思い出した。
勢いよく頭をあげれば、心なし庭を彩る花々の影が長くなっている。慌てて後ろに振り向いてジミーさんを探す。
ジミーさんは扉の傍らに、笑顔で待機していた。
「あ…あの」
時刻が分からなくて頭の中が混乱する。
ぱくぱくと口を開閉していると、ジミーさんが歩んで来てくれた。
「ゴゼット様が集中しておりましたので、声掛けを控えさせて頂きました。申し訳ございません」
「あ…いえ。あの…公爵様とジャレッド団長は?」
「旦那様は執務室へ戻られています。ジャレッド様は自室に戻られておりますが、ご案内しますか?」
「え?あの…話し合いはどうなったんですか?」
褒賞が欲しいわけじゃないけど、話し合いの途中だった気がする。
ジャレッド団長を連れて行ってそのままだ。
困惑のままにジミーさんを見ると、ジミーさんはのほほんと微笑んでいる。
「ジャレッド様との話し合いでお決めになったようです」
う~ん…ジャレッド団長だったら私の意を汲んでくれているかな?
身に余る褒賞は、きっと断ってくれているだろう。
あのアクセサリーだけでも手に余るのだ。別邸馬車付きは是が非でも突き返したい。
たぶん、大丈夫。
ジャレッド団長に期待を寄せながら、そっと図鑑を閉じた。
207
あなたにおすすめの小説
アラフォー幼女は異世界で大魔女を目指します
梅丸みかん
ファンタジー
第一章:長期休暇をとったアラフォー独身のミカは、登山へ行くと別の世界へ紛れ込んでしまう。その場所は、森の中にそびえる不思議な塔の一室だった。元の世界には戻れないし、手にしたゼリーを口にすれば、身体はなんと6歳の子どもに――。
ミカが封印の箱を開けると、そこから出てきたのは呪いによって人形にされた大魔女だった。その人形に「大魔女の素質がある」と告げられたミカは、どうせ元の世界に戻れないなら、大魔女を目指すことを決心する。
だが、人形師匠はとんでもなく自由すぎる。ミカは師匠に翻弄されまくるのだった。
第二章:巷で流れる大魔女の遺産の噂。その裏にある帝國の侵略の懸念。ミカは次第にその渦に巻き込まれていく。
第三章:異世界で唯一の友人ルカが消えた。その裏には保護部屋の存在が関わっていることが示唆され、ミカは潜入捜査に挑むことになるのだった。
「出来損ないの妖精姫」と侮辱され続けた私。〜「一生お護りします」と誓った専属護衛騎士は、後悔する〜
高瀬船
恋愛
「出来損ないの妖精姫と、どうして俺は……」そんな悲痛な声が、部屋の中から聞こえた。
「愚かな過去の自分を呪いたい」そう呟くのは、自分の専属護衛騎士で、最も信頼し、最も愛していた人。
かつては愛おしげに細められていた目は、今は私を蔑むように細められ、かつては甘やかな声で私の名前を呼んでいてくれた声は、今は侮辱を込めて私の事を「妖精姫」と呼ぶ。
でも、かつては信頼し合い、契約を結んだ人だから。
私は、自分の専属護衛騎士を最後まで信じたい。
だけど、四年に一度開催される祭典の日。
その日、私は専属護衛騎士のフォスターに完全に見限られてしまう。
18歳にもなって、成長しない子供のような見た目、衰えていく魔力と魔法の腕。
もう、うんざりだ、と言われてフォスターは私の義妹、エルローディアの専属護衛騎士になりたい、と口にした。
絶望の淵に立たされた私に、幼馴染の彼が救いの手を伸ばしてくれた。
「ウェンディ・ホプリエル嬢。俺と専属護衛騎士の契約を結んで欲しい」
かつては、私を信頼し、私を愛してくれていた前専属護衛騎士。
その彼、フォスターは幼馴染と契約を結び直した私が起こす数々の奇跡に、深く後悔をしたのだった。
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
ぼっちな幼女は異世界で愛し愛され幸せになりたい
珂里
ファンタジー
ある日、仲の良かった友達が突然いなくなってしまった。
本当に、急に、目の前から消えてしまった友達には、二度と会えなかった。
…………私も消えることができるかな。
私が消えても、きっと、誰も何とも思わない。
私は、邪魔な子だから。
私は、いらない子だから。
だからきっと、誰も悲しまない。
どこかに、私を必要としてくれる人がいないかな。
そんな人がいたら、絶対に側を離れないのに……。
異世界に迷い込んだ少女と、孤独な獣人の少年が徐々に心を通わせ成長していく物語。
☆「神隠し令嬢は騎士様と幸せになりたいんです」と同じ世界です。
彩菜が神隠しに遭う時に、公園で一緒に遊んでいた「ゆうちゃん」こと優香の、もう一つの神隠し物語です。
【本編完結】転生令嬢は自覚なしに無双する
ベル
ファンタジー
ふと目を開けると、私は7歳くらいの女の子の姿になっていた。
きらびやかな装飾が施された部屋に、ふかふかのベット。忠実な使用人に溺愛する両親と兄。
私は戸惑いながら鏡に映る顔に驚愕することになる。
この顔って、マルスティア伯爵令嬢の幼少期じゃない?
私さっきまで確か映画館にいたはずなんだけど、どうして見ていた映画の中の脇役になってしまっているの?!
映画化された漫画の物語の中に転生してしまった女の子が、実はとてつもない魔力を隠し持った裏ボスキャラであることを自覚しないまま、どんどん怪物を倒して無双していくお話。
設定はゆるいです
貴族令嬢、転生十秒で家出します。目指せ、おひとり様スローライフ
凜
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞にて奨励賞を頂きました。ありがとうございます!
貴族令嬢に転生したリルは、前世の記憶に混乱しつつも今世で恵まれていない環境なことに気が付き、突発で家出してしまう。
前世の社畜生活で疲れていたため、山奥で魔法の才能を生かしスローライフを目指すことにした。しかししょっぱなから魔物に襲われ、元王宮魔法士と出会ったり、はては皇子までやってきてと、なんだかスローライフとは違う毎日で……?
異世界転生してしまった。どうせ死ぬのに。
あんど もあ
ファンタジー
好きな人と結婚して初めてのクリスマスに事故で亡くなった私。異世界に転生したけど、どうせ死ぬなら幸せになんてなりたくない。そう思って生きてきたのだけど……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる