春来る

村川

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 冬は日暮れが早い。
 宵闇に沈んだ住宅街は、街灯や家々の明かりであたたかく照らされている。
「もうすっかり夜だな」
 隣を歩く佐川竜太の言葉に、天乃は頷いた。冷たい風が頬を撫でて、背筋がぶるっと震える。
「冬はすぐ暗くなるからね。あったかいもの食べたいな」
「おでんでも食ってく? 腹減ったしさ」
「いいね、行こうか」
 どうせ自宅に戻っても、一人寂しく出来合いものをつつくだけだ。それならば熱燗でおでんをつまむほうがずっと有意義だ。朝から夕方まで酷使した脳は、どちらかといえば甘味を欲している気もするが、この際それは忘れたことにした。
 佐川は棋士仲間だ。一学年上の二十九歳で、五段。成績は天乃と大差ないといいたいが、彼のほうが上だ。今日は研究会という将棋を指す集まりだった。富田政和八段の自宅で、畑山稔七段を加えた四人で、月に二、三回研究会を行っている。佐川とはそれ以外にもVSという一対一の練習将棋を指すこともあり、たびたび顔を合わせている相手だった。
 駅前の通りを入った処にあるおでん屋ののれんをくぐり、カウンター席の端を陣取った。お任せで一皿と、ビールを頼むと、すぐに水のグラスが供される。話題は自然と、先日の竜王戦七番勝負第二局のことになった。挑戦者が勝って一勝一敗とタイに戻し、残りを五番勝負にした一局は、中盤から終盤まで非常に難解で、変化の枝葉も多い面白い将棋だった。
 形勢の拮抗が崩れた地点を、自分なら、と話すと、いやいや、と佐川に否定される。確かに天乃はあくまで振り飛車党なので、居飛車の人々とは幾分感覚が違う部分があることは認めざるを得なかった。
 やっぱりあの最後の詰み手順はすごい、という見解が一致したところで、熱燗の徳利とおでんの皿が空になった。最後に出汁を回しかけた白いご飯を味噌汁と共にいただいて、胃袋が温かく落ち着く。
「美味しかった……やっぱりおでんいいな、こういう熱々を食べれるのが最高」
「わかるわかる、コンビニとかで買っても悪くないけど、これじゃないって思うよな。ここの大根と玉子が絶品過ぎる」
「おや、嬉しいね。サービスしちゃうよ」
 カウンターで忙しなく働いていた料理人が、はいどうぞ、と二人の前に皿を置く。よく出汁を吸った厚揚げと大根が湯気を立てていて、満腹のはずの胃に空きができたのがわかった。
「おいしそう。ありがとうございます」
「じゃあ遠慮なく。いただきます。っと、あ、熱燗追加で」
 厚揚げに箸を入れると、じゅわっと出汁があふれ出る。熱そう、と呟いた佐川が箸を置いた。
「……おでんが最高なのは確かだけど、そうじゃなくても今日、天乃なんか機嫌いいよな。なんかいいことあった?」
「そんなに嬉しそうに見える?」
「見える。いつになくテンション高い。順位戦勝ちだったもんな」
「そうかな……」
 確かに先週の順位戦で勝てたのは嬉しかった。ようやく二勝二敗といい成績ではなく、順位を考えれば上がれる可能性も低いが、安心できたのは本当だ。だがもし今、天乃が浮かれているというなら、それは別に理由がある。
「実は一昨日、街で声かけられてね。応援してますって言われちゃった」
「へえ……そりゃ良かった。そういうのって嬉しいよな」
 わかるわかると頷いて、佐川が供された日本酒をおちょこに注いだ。
 棋士という職業が一般に理解されるようになったのは、T九段やH九段の活躍のお陰だという。だが天乃や佐川が棋士になっても、まだまだ職業としての認知度が高かったとは言い難い。本業は何なのとか、何かアルバイトをしているのかとか、四段に上がってもまだ何度か訊ねられたものだった。それがここ数年で一変したと感じる。非常に注目度の高い新人が現われたお陰で、棋士という職業が認められるようになったのだ。
 インターネット中継で四六時中リアルタイムや録画の将棋中継が放送されるようになったことも大きい。それまでテレビ解説の仕事はごく限られたもので、見る人も決まっていた。それに対してネットの番組ではギャラの安い若手を起用してくれる。大盤解説会場までは来ないような人でも、ネットの中継ならば見て、興味を持ってくれるようになった。おかげで、注目度の低い天乃のような棋士でも、顔と名前を覚えてもらえるようになったのだ。
「九月に指導対局のイベントやったでしょ、あれに来てくれた人だった。初心者さんなんだけどね」
 宇崎三治と名乗った青年は、大人しくて優しそうな雰囲気の、親切な人だった。名前を間違えても怒らなかったし、道に迷ったなんて恥をさらしても笑わなかった。ありふれた地味なスーツに、すっきりした短髪で清潔感があり、はっきりした面立ちが印象的だった。アーモンドアイのくっきりした黒い瞳を思い出すと、いいな、と思ってしまう。割と好みのタイプだ。とはいえ、教室に誘ったのに下心はない。自分のことを知っていてくれたことが単純に嬉しかった。
 アマ高段者の年長者に、ああだこうだとしたり顔で指南されるのも、ある意味では仕事のうちだ。それはそれでいい社会勉強と思っている。指導棋士になった兄弟子の教室で、生徒に言祝がれるのは素直に嬉しい。師や先輩や友人たちから祝福と激励の言葉をかけられれば、頑張ろうと思う。だが何の繋がりもない人からかけられる言葉は、違った熱量を持っていた。胸が熱くなり、全身に力が漲るような、純度の高い歓びだ。
 自分でも締まりのない顔をしていると思う。それでも佐川は呆れた顔はしなかった。
「観る将のひと?」
「多分……? 指すのはあんまり興味ないかもって雰囲気だったかなあ、優しそうでさ。勝負事が好きじゃない人っているよね」
「いるいる。俺たちとは人種が違うよ。さて、そろそろ食べ頃かな」
 いただきます、ともう一度唱えて、佐川が厚揚げを口に運ぶ。日本酒で唇を湿らせた天乃も、彼に習って大根に箸を入れた。
 確かに違う人種かもしれないけれど、宇崎と話す時間は楽しかった。普段どうしても狭い世界で暮らしているので、外部の人と会うのはいい刺激にもなる。けれどそれを差し引いても、天乃はもう一度、あの柔らかな声で話す青年と話したいと思っていた。
 勘定を済ませて――将棋界の慣例では段位や序列が上の者が奢るのが通例だが、友人同士なのもあって割り勘にした――駅で佐川とは別れた。帰宅ラッシュの車両に揺られながら、毎日こんな生活をしている人はすごいと、つくづく考える。週五でラッシュの電車に乗って会社に通うなんて信じられない。学生だった頃にはよく耐えられたなと、過去の自分に感心さえしてしまった。けれどそれが、普通の人として生きることだったのだろう。
 最寄り駅で降りる頃には、頭の中には今日の研究会の盤面が躍っていた。テーマになっている局面はいくつかある。AIに分析させるのは確かではあるのだが、人と指して検討するのはそれとは異なる温度があった。
 現在の将棋界では、AIと呼ばれる将棋ソフトに局面を解析させたり、対戦したりするのが個人研究の主流になっている。無論その過程で自分自身で考えることも多いが、公式戦に向かう際は相手の棋風と自分の作戦を勘案してソフトで研究し、手順や変化を記憶して挑むのがスタンダードなやり方だろう。どれくらい深く研究できるかが、有利に戦えるかを決める。だがそれは序盤から中盤、進んでも終盤の入り口までだ。研究から逸れた所から、本当の実力が現われる。問われているのは発想力と読みの正確さ、速さ。
 深く研究でき、豊かな発想力を持ち、素早く手を読める者ほど、勝利に近い。そう、たとえば、瞬く間にトッププロへと駆け上がったあの若い棋士のように。あるいは合理性と現実主義で知られるあのタイトル常連者のように。
 彼我の差は傍目には一手違い程度なのだろうと知っている。それでもどうしても越えられない壁があると感じる。そしてその壁を意気揚々と乗り越えようとするには、己はいささか年を取り過ぎてしまったことも。
 つい先日二十九歳になった。棋士になって四年が過ぎて、まだ四段のまま足踏みしている。同じような成績の者は他にもいるからといって、それで構わないとはならない。優秀な若手に追い抜かれることに、慣れたくないし、慣れられもしない。それでもなお、ここからどうすれば上に行けるのかも、わからないままでいた。
 駅から徒歩約十分の自宅マンションは、今日も明かりが半分弱くらいしか付いていない。それなりに便利な立地のマンションは、一人暮らしの学生や社会人が入居者の大半を占めるらしい。天乃の部屋は七階の角部屋だ。1LDKの牙城に戻ると、外気よりはいくらか暖かな空気に迎えられる。ほっと息をつき、我知らず強張っていた肩の力を抜いた。
 コートを脱いだり飲み水を用意したりしながら部屋が暖まるのを待って、パソコンの電源を入れる。棋士にとってパソコンは商売道具だ。それなりの性能のものを奮発して買って、研究のための将棋ソフトを入れて、ようやく勉強環境が整った状態になる。
 今日の研究会の棋譜を打ち込んだ天乃は、まあそうだろうなと苦笑した。ソフトは振り飛車を嫌う。序盤で自陣の飛車を横にスライドさせるために一手使うのは損だと咎められているのだ。一般的な――要は研究に使われるようなソフトでは、飛車を振った瞬間に評価値が下がる。今の一手であなたは不利になりましたよと教えられるわけだ。それでもなお天乃が振り飛車党を貫くのは、一手の損得が全てではないと思っていることと、そして結局は振り飛車が好きだからだ。おそらく富田だって同じだろう。そして富田が上位グループで奮闘しているのだから、振り飛車もまだまだ捨てたものではないはずだった。
「アマチュアさんは振り飛車党多いし、勝つと喜んでくれるもんな……っと、うわ」
 研究会では検討しなかったが、ふと思いついた変化を読み込ませた天乃は、モニタを睨んで顔をしかめた。一気にマイナス三百点。こんな将棋を指していては勝てるものも勝てなくなる。順位戦に、残っている棋戦もまだあるが、本線への道は遠く険しい。頑張らなければ落ちていく一方だ。
 冷たい水をひとくち飲んで、マウスを握る。見てくれている人がいるのだから、いい将棋を指さなければ申し訳ない。
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