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相談したいことがあるんです。旧知の人間にそう連絡したのは、その夜のことだ。忙しいはずの相手は、すぐに時間を取ってくれた。
『電話でいいなら今聞く。会うなら明日の昼飯時なら空いてる』
「昼は俺が空いてないんで、今いいですか」
『おう。タイミング良かったな、さっき帰ってきたところだった』
電話の向こうで動いている気配がして、秋内は少し居心地悪く座り直した。彼の名前は<ruby>守谷義伸<rp>(</rp><rt>もりや よしのぶ</rt><rp>)</rp></ruby>といって、秋内の更正に手を貸してくれた人物だ。まだ二十五歳くらいと若く、本業の傍らでボランティアもしているという奇特な人物だった。
「これから夕飯ですか」
『飯は食ってきたから平気。気遣わせて悪いな』
守谷の声は低いが柔らかい。目を瞑ると、彼の所作が見える気がした。サイドテーブルにビールの缶を置き、ベッドにどさりと腰掛ける。そして片手で器用に煙草をくわえて火を付ける。煙草が疎まれる昨今だが守谷は愛煙家だった。会話の糸口として使うために、禁煙はしないのだと言っていた。
「こっちこそお疲れのところ時間裂かせてすいません」
『いいって。相談する相手に選んで貰って光栄だよ』
守谷は決して、急かすことをしない。貝のように口を噤んだ子供を、じっと待つ忍耐強さがある。待っていてくれる人物は貴重だ。彼が受け入れられる理由のひとつはそこにある。だが実際に焦れていないとは限らないことも、秋内は知っていた。
「いえ、俺らみたいなのの話をちゃんと聞いてくれる大人の人って、少ないから。それで本題なんですけど……遠くに引っ越したいって思ったら、どうするのが現実的ですかね」
『そりゃまた唐突な。今更どうして』
「何日か前と今日と、前の知り合いっていうか顔見知りっていうか、仲が悪かったやつらに絡まれてて。どうすれば手っ取り早く関わらずに済むかって言ったら、やっぱり距離じゃないかと思うんで」
一方的に話しても、守谷は咎めたり、強引に口を挟んだりはしない。きちんと検討する間を取って、静かに言葉を返してくれる。一呼吸の沈黙の後、彼はそうだなと相槌を打った。
『確かに悪い縁を断ち切るには、距離は有効だ。物理的な距離、時間的な距離は、心理的な距離よりもずっと現実的に世界を隔てる力がある。だから、引っ越すのは悪い手立てだとは言わない』
秋内ははいと頷いて、話の続きを待った。缶の口を開く音が、電波を通して小さく聞こえる。
『ただ、そしたら今ある他のものも全部置いてくことになる。学校も、家族も。友達も』
「そうですね……俺ひとりのために、家族皆で引っ越すなんてのは無理ですし」
姉の桜佳は短期大学二年生、妹の葵は中学一年生だが私立のお嬢様学校だ。両親の勤務先もある。離れるなら、秋内一人でということになるのは当然だ。
「一応、北陸に親戚がいるんで、できれば頼れると助かるとは思ってます。逃げるみたいでダサいですけどね」
『そっか、ちゃんと考えてるのはいいことだ。しかし、逃げるみたい、ねえ……というか、おまえは本心から、その決断に納得できんの?』
硬いもの同士がぶつかる音がする。缶を卓に置いた音だ。それがビールだと思うのは、守谷がよくビールを飲んでいたからだ。だがそれは、秋内たちがビールを飲んでいたせいかもしれない。一人でいる時は酎ハイや、もっと甘いカクテル飲料を選ぶ可能性もある。その程度にしか、秋内は守谷を知らない。
逃げる。口の中で繰り返すと、胃の底がどんよりと重くなった気がした。
「逃げるのって、駄目なことですかね」
『潰れるよりは全然いいし、悪いことでもない。だからおまえが平気なら、悪い選択じゃない。逆におまえが後悔したり、押し潰されちまうなら、意味がないよな』
「俺、潰れそうに見えますかね」
無性に煙草を吸いたくなり、手が周囲を彷徨う。だがあるのは水のグラスだけだ。煙草もライターも手放してしまった。あの十本以上残っていたマルボロは、誰かがちゃんと灰にしてくれたのだろうか。
ぬるい水で喉を潤すと、結露したグラスを掴んだ手がじっとりと濡れた。
『おまえの心ん中なんて分かるわけないだろ。おまえが納得できるんなら、それもひとつの選択だ。俺は応援するし、手も貸す。だからよく考えろ。今の状況に対応することも大事だけど、それが別の問題を引き起こすおそれはないのか。問題ってのは、物理的なもんとは限らないんだ』
「俺にはあんまり関係ないと思いますけど」
『どんな奴でも無関係じゃないのが心の問題なんだっつの。まあいいけどな、よく考えろってのは本当。今の学校、結構いいとこなんだろ、入学金なんかも安くないんじゃないか』
「あー、それは、確かに」
同類がいない学校に行きたくて、私立の進学校を選んだ。そこまで偏差値が高いわけではないものの、狙い通り、不良やいかにもな不良上がりは見かけない。良い環境だが、対価は安くなかった。両親は更正祝いと思えば安いものだと簡単に請け負ってくれたが、金銭的な負担は大きいはずだ。それを僅か半年で投げ打つのは、さすがに不誠実であるようには思える。
ゆるく唇を噛んだ秋内の様子を見ていたようなタイミングで、守谷が息を吐いた。
『そもそも、なんで引っ越そうとまで思い詰めたんだ? 絡まれる可能性くらいは考えただろ』
「俺ひとりなら別に平気でしたけど……学校の奴と一緒の時だったんで、ちょっと」
『ちょっと?』
「俺といるせいで目ぇつけられたらヤバい」
自分だけならばどうにでもあしらえる。それは特に気負いもなく、自然にそう思えていた。だから守谷が提示した疑問は当然だ。秋内自身も同じ思考だった。それが変わったのは、まるで汚れを知らないような人間と出会ってしまったからだった。
なるほどと守谷が相槌を打つ。声が柔らかさを帯びるのを感じて、秋内は居心地悪く座り直した。
『警察に相談したか?』
「しても動いてくれないですよ、俺、捕まるほうの常連でしたし」
『そうとも限らないだろ。相談した実績を作っとくのに越したことはないし。まあ、事情はわかった。とりあえずその友達にガードつけて、おまえは別行動にしとけば? それでしのげるなら一番だろ』
「まあそうですね……」
秋内自身が絡まれるのは仕方がない。身から出た錆だ。秋内は過去の自分がした愚かな行いの代償を支払っている。罪悪感や羞恥心でのたうち回りたくなる夜や、足を踏み外した者を見た時のいたたまれなさ。そして、守るべき者を自分のせいで危険にさらすのではないかという恐怖。
姉と妹、父と母。今まではそれが全てだった。目の届かない場所に帰る存在が、自分の懐の中に入ってくる可能性を考えたことがなかったのだ。だから過剰に怯えているのかもしれない。見えない場所で、自分のせいで、傷つけられてはいないかと。
「守谷さん、どんくらいで知り合いに絡まれなくなりました?」
ふと口を衝いて出た問いに、電話の向こうでむせる音がした。
『おいこら、絡まれたことあって当たり前みたいな言い方すんな』
「だって守谷さんだって元ヤンじゃないっすか」
『まあそうだけどよ……二十歳くらいかね。そんくらいになると、就職したりとかでほとんど落ち着くじゃん。ほら、絡んでくるのは現役の奴らだから』
「年下は?」
『年下にまで喧嘩売ったのか』
「ひとつやふたつ、見て分かります?」
『それもそうだな』
学校の制服を着ているならまだしも、粋がった不良なんて判で押したように無個性な身なりをしているものと相場ができている。年季の入り具合は見て分かっても、年齢の上下を見分ける術は体つきと面立ちくらいしかなく、発育の程度はまちまちだ。
『まあでも、今から五年も絡まれ続けるってことはねえだろ、長く見積もっても二、三年ってとこじゃね?』
「それでも高校卒業できちゃいますね」
『敵が多いのは自業自得だな。だから本当、まずいと思ったら警察頼れ。俺らは身辺警護までしてやれねえし』
「検討しときます」
真剣な声音の守谷に対し、秋内は距離を置いた言葉しか返すことができなかった。叩けばいくらでも埃が出てくる身の上としては、警察を頼るのはできる限り避けたかった。頼りにならないだけならまだしも、誤解から面倒事に発展してはたまらない。
秋内の気のない返答に、守谷が諦めたように息を吐く。彼はそれ以上の説得はせずに、話題を近況に切り替えた。他愛のない報告を交わして通話を終える。少しばかり熱を帯びてしまったスマートフォンを机に置き、寝台に上体を倒す。
遠地へ移り住むことは、確かに逃げだ。しかし有効な対症療法でもある。
「高校入る前に、引っ越しときゃよかった」
口の中で呟き、秋内は失笑した。
その時点でも、たとえば親類の家に厄介になることを検討してみなかったわけではない。ただ、そこまでする必要はないと切り捨てた選択肢だった。地元で友人が出来てからそんな風に考えたところで、今更にもほどがある。
それに、問題はもう一つある。
秋内は左手を顔の上に持ち上げ、軽く握り込んだ。
あの時、板見の手を掴んだ感触が消えない。男にしてはいささか繊細そうな、骨の細い感触だった。秋内よりいくらか冷たく、しっとりとして滑らかで、女のように触り心地の良い肌だった。およそ暴力とは縁の遠そうな手で、離してから、遠慮なく掴んで引いたことを後悔した。清らかで傷つきやすいものに、汚れて荒れた手で触れてしまったような罪悪感があった。しかし同時に、自分は確かに、離してしまったことを惜しいと感じた。
他者の血の温かさやぬめる不快感も、肉を殴打する鈍い感触も、蹴りつけた反動も、彼は知らないだろう。そんな人物の隣に、こんな自分が、なんでもない顔で居座っていていいのか。顔を見て、言葉を交わすことさえ、許されないことではないのか。友人のような顔をして、後ろ暗い過去と欲求を隠して立つことは、道義的に問題があるのではないか。
てのひらで目元を覆い、溜息を吐いた。
そうまで怯える理由は、板見に対して、失いたくないと思う程度に強い好意を抱いているからだ。遠ざけたいのは、守るためだけではない。身綺麗とは言い難い自分を知られたくない。今のまま一緒にいて隠しおおせるとは考えにくい。だからといって離れがたい。自分がいったいどうしたいのかすらも見定められないまま、秋内はかぶりを振ると身体を起こした。
板見に無事帰宅できたか確認して、それが済んだら風呂を済ませよう。
『電話でいいなら今聞く。会うなら明日の昼飯時なら空いてる』
「昼は俺が空いてないんで、今いいですか」
『おう。タイミング良かったな、さっき帰ってきたところだった』
電話の向こうで動いている気配がして、秋内は少し居心地悪く座り直した。彼の名前は<ruby>守谷義伸<rp>(</rp><rt>もりや よしのぶ</rt><rp>)</rp></ruby>といって、秋内の更正に手を貸してくれた人物だ。まだ二十五歳くらいと若く、本業の傍らでボランティアもしているという奇特な人物だった。
「これから夕飯ですか」
『飯は食ってきたから平気。気遣わせて悪いな』
守谷の声は低いが柔らかい。目を瞑ると、彼の所作が見える気がした。サイドテーブルにビールの缶を置き、ベッドにどさりと腰掛ける。そして片手で器用に煙草をくわえて火を付ける。煙草が疎まれる昨今だが守谷は愛煙家だった。会話の糸口として使うために、禁煙はしないのだと言っていた。
「こっちこそお疲れのところ時間裂かせてすいません」
『いいって。相談する相手に選んで貰って光栄だよ』
守谷は決して、急かすことをしない。貝のように口を噤んだ子供を、じっと待つ忍耐強さがある。待っていてくれる人物は貴重だ。彼が受け入れられる理由のひとつはそこにある。だが実際に焦れていないとは限らないことも、秋内は知っていた。
「いえ、俺らみたいなのの話をちゃんと聞いてくれる大人の人って、少ないから。それで本題なんですけど……遠くに引っ越したいって思ったら、どうするのが現実的ですかね」
『そりゃまた唐突な。今更どうして』
「何日か前と今日と、前の知り合いっていうか顔見知りっていうか、仲が悪かったやつらに絡まれてて。どうすれば手っ取り早く関わらずに済むかって言ったら、やっぱり距離じゃないかと思うんで」
一方的に話しても、守谷は咎めたり、強引に口を挟んだりはしない。きちんと検討する間を取って、静かに言葉を返してくれる。一呼吸の沈黙の後、彼はそうだなと相槌を打った。
『確かに悪い縁を断ち切るには、距離は有効だ。物理的な距離、時間的な距離は、心理的な距離よりもずっと現実的に世界を隔てる力がある。だから、引っ越すのは悪い手立てだとは言わない』
秋内ははいと頷いて、話の続きを待った。缶の口を開く音が、電波を通して小さく聞こえる。
『ただ、そしたら今ある他のものも全部置いてくことになる。学校も、家族も。友達も』
「そうですね……俺ひとりのために、家族皆で引っ越すなんてのは無理ですし」
姉の桜佳は短期大学二年生、妹の葵は中学一年生だが私立のお嬢様学校だ。両親の勤務先もある。離れるなら、秋内一人でということになるのは当然だ。
「一応、北陸に親戚がいるんで、できれば頼れると助かるとは思ってます。逃げるみたいでダサいですけどね」
『そっか、ちゃんと考えてるのはいいことだ。しかし、逃げるみたい、ねえ……というか、おまえは本心から、その決断に納得できんの?』
硬いもの同士がぶつかる音がする。缶を卓に置いた音だ。それがビールだと思うのは、守谷がよくビールを飲んでいたからだ。だがそれは、秋内たちがビールを飲んでいたせいかもしれない。一人でいる時は酎ハイや、もっと甘いカクテル飲料を選ぶ可能性もある。その程度にしか、秋内は守谷を知らない。
逃げる。口の中で繰り返すと、胃の底がどんよりと重くなった気がした。
「逃げるのって、駄目なことですかね」
『潰れるよりは全然いいし、悪いことでもない。だからおまえが平気なら、悪い選択じゃない。逆におまえが後悔したり、押し潰されちまうなら、意味がないよな』
「俺、潰れそうに見えますかね」
無性に煙草を吸いたくなり、手が周囲を彷徨う。だがあるのは水のグラスだけだ。煙草もライターも手放してしまった。あの十本以上残っていたマルボロは、誰かがちゃんと灰にしてくれたのだろうか。
ぬるい水で喉を潤すと、結露したグラスを掴んだ手がじっとりと濡れた。
『おまえの心ん中なんて分かるわけないだろ。おまえが納得できるんなら、それもひとつの選択だ。俺は応援するし、手も貸す。だからよく考えろ。今の状況に対応することも大事だけど、それが別の問題を引き起こすおそれはないのか。問題ってのは、物理的なもんとは限らないんだ』
「俺にはあんまり関係ないと思いますけど」
『どんな奴でも無関係じゃないのが心の問題なんだっつの。まあいいけどな、よく考えろってのは本当。今の学校、結構いいとこなんだろ、入学金なんかも安くないんじゃないか』
「あー、それは、確かに」
同類がいない学校に行きたくて、私立の進学校を選んだ。そこまで偏差値が高いわけではないものの、狙い通り、不良やいかにもな不良上がりは見かけない。良い環境だが、対価は安くなかった。両親は更正祝いと思えば安いものだと簡単に請け負ってくれたが、金銭的な負担は大きいはずだ。それを僅か半年で投げ打つのは、さすがに不誠実であるようには思える。
ゆるく唇を噛んだ秋内の様子を見ていたようなタイミングで、守谷が息を吐いた。
『そもそも、なんで引っ越そうとまで思い詰めたんだ? 絡まれる可能性くらいは考えただろ』
「俺ひとりなら別に平気でしたけど……学校の奴と一緒の時だったんで、ちょっと」
『ちょっと?』
「俺といるせいで目ぇつけられたらヤバい」
自分だけならばどうにでもあしらえる。それは特に気負いもなく、自然にそう思えていた。だから守谷が提示した疑問は当然だ。秋内自身も同じ思考だった。それが変わったのは、まるで汚れを知らないような人間と出会ってしまったからだった。
なるほどと守谷が相槌を打つ。声が柔らかさを帯びるのを感じて、秋内は居心地悪く座り直した。
『警察に相談したか?』
「しても動いてくれないですよ、俺、捕まるほうの常連でしたし」
『そうとも限らないだろ。相談した実績を作っとくのに越したことはないし。まあ、事情はわかった。とりあえずその友達にガードつけて、おまえは別行動にしとけば? それでしのげるなら一番だろ』
「まあそうですね……」
秋内自身が絡まれるのは仕方がない。身から出た錆だ。秋内は過去の自分がした愚かな行いの代償を支払っている。罪悪感や羞恥心でのたうち回りたくなる夜や、足を踏み外した者を見た時のいたたまれなさ。そして、守るべき者を自分のせいで危険にさらすのではないかという恐怖。
姉と妹、父と母。今まではそれが全てだった。目の届かない場所に帰る存在が、自分の懐の中に入ってくる可能性を考えたことがなかったのだ。だから過剰に怯えているのかもしれない。見えない場所で、自分のせいで、傷つけられてはいないかと。
「守谷さん、どんくらいで知り合いに絡まれなくなりました?」
ふと口を衝いて出た問いに、電話の向こうでむせる音がした。
『おいこら、絡まれたことあって当たり前みたいな言い方すんな』
「だって守谷さんだって元ヤンじゃないっすか」
『まあそうだけどよ……二十歳くらいかね。そんくらいになると、就職したりとかでほとんど落ち着くじゃん。ほら、絡んでくるのは現役の奴らだから』
「年下は?」
『年下にまで喧嘩売ったのか』
「ひとつやふたつ、見て分かります?」
『それもそうだな』
学校の制服を着ているならまだしも、粋がった不良なんて判で押したように無個性な身なりをしているものと相場ができている。年季の入り具合は見て分かっても、年齢の上下を見分ける術は体つきと面立ちくらいしかなく、発育の程度はまちまちだ。
『まあでも、今から五年も絡まれ続けるってことはねえだろ、長く見積もっても二、三年ってとこじゃね?』
「それでも高校卒業できちゃいますね」
『敵が多いのは自業自得だな。だから本当、まずいと思ったら警察頼れ。俺らは身辺警護までしてやれねえし』
「検討しときます」
真剣な声音の守谷に対し、秋内は距離を置いた言葉しか返すことができなかった。叩けばいくらでも埃が出てくる身の上としては、警察を頼るのはできる限り避けたかった。頼りにならないだけならまだしも、誤解から面倒事に発展してはたまらない。
秋内の気のない返答に、守谷が諦めたように息を吐く。彼はそれ以上の説得はせずに、話題を近況に切り替えた。他愛のない報告を交わして通話を終える。少しばかり熱を帯びてしまったスマートフォンを机に置き、寝台に上体を倒す。
遠地へ移り住むことは、確かに逃げだ。しかし有効な対症療法でもある。
「高校入る前に、引っ越しときゃよかった」
口の中で呟き、秋内は失笑した。
その時点でも、たとえば親類の家に厄介になることを検討してみなかったわけではない。ただ、そこまでする必要はないと切り捨てた選択肢だった。地元で友人が出来てからそんな風に考えたところで、今更にもほどがある。
それに、問題はもう一つある。
秋内は左手を顔の上に持ち上げ、軽く握り込んだ。
あの時、板見の手を掴んだ感触が消えない。男にしてはいささか繊細そうな、骨の細い感触だった。秋内よりいくらか冷たく、しっとりとして滑らかで、女のように触り心地の良い肌だった。およそ暴力とは縁の遠そうな手で、離してから、遠慮なく掴んで引いたことを後悔した。清らかで傷つきやすいものに、汚れて荒れた手で触れてしまったような罪悪感があった。しかし同時に、自分は確かに、離してしまったことを惜しいと感じた。
他者の血の温かさやぬめる不快感も、肉を殴打する鈍い感触も、蹴りつけた反動も、彼は知らないだろう。そんな人物の隣に、こんな自分が、なんでもない顔で居座っていていいのか。顔を見て、言葉を交わすことさえ、許されないことではないのか。友人のような顔をして、後ろ暗い過去と欲求を隠して立つことは、道義的に問題があるのではないか。
てのひらで目元を覆い、溜息を吐いた。
そうまで怯える理由は、板見に対して、失いたくないと思う程度に強い好意を抱いているからだ。遠ざけたいのは、守るためだけではない。身綺麗とは言い難い自分を知られたくない。今のまま一緒にいて隠しおおせるとは考えにくい。だからといって離れがたい。自分がいったいどうしたいのかすらも見定められないまま、秋内はかぶりを振ると身体を起こした。
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