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1巻

1-3

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 どうにかして王家に連絡を入れるべきではと周囲は何度も説得したが、アンシーは頑なにそれを拒んだ。自分を弄んだ国王に子どもまでも奪われたくないと思ったのかもしれない。
 ふくらむお腹を撫でながら「この子に罪はない、幸せにする」と笑う日さえあったという。
 だが、アンシーは出産と同時に命を落とした。
 生まれた子どもは見事なサファイアの宝石眼だった。
 宝石眼の子どもは、魔力持ちの母親からしか無事に生まれることはないと言われていた。子どもの持つ魔力に母体が耐えられないのだ。
 だが、そんなことをただの村娘であるアンシーや村人たちが知るはずもない。
 当然、周囲は困惑した。
 おそらくは王のらくいん。だがアンシーが死んだ今、証拠はなにもない。
 アンシーが息子に残したのは「アンデリック」という名前だけ。
 養う者のいない子どもは孤児院に送るべきだが、アンデリックは希少な宝石眼。
 宝石眼の孤児がいるとわかれば調べが入る。
 経緯を知る者は少ないが、きちんと調べられれば隠し通せる身の上ではない。
 哀れなアンシーが幸せにしたいと願ったこの子をどうするべきか、村人たちは悩みながらもこっそりとアンデリックを育てていた。
 そんな村人に手を差し伸べたのは、偶然村へ商売をしに来た商人であった。

「宝石眼の赤子がいると聞いたのですが、いったいどうしたことでしょう」

 もとは貴族だったという商人に、村人はわらにもすがる思いで相談を持ちかけた。
 問題を避けるため、アンデリックが王のらくいんであることは伏せ、貴族の御手付きになった村娘が命と引き換えに産んだ子どもということにしたのだ。

「では、この子は私の息子として引き取りましょう。なに、立派な商人にしてみせますよ!」

 人のよさそうな商人の言葉に、村人たちは安心してアンデリックを託すことにした。
 だが……

「こんな美しい宝石眼は見たことがない。魔力の濃度も高いはず……お前は金のなる木だ」

 養父となった商人の目的は、アンデリックの魔力だった。
 幼いアンデリックは、養父が自分の瞳を見て卑しく笑う姿を見るのがなによりも怖かった。
 衣食住に困ることはないが、愛されるわけではない日々。
 だが、五歳を過ぎてもアンデリックは魔力を発現させなかった。
 七歳になってもなんの兆候も見せないアンデリックに焦れた養父は、とうとう行動を起こした。

「ええい、このままではコイツを拾ってやった意味がない! 計画が台無しではないか!」

 危険な目に遭えば衝動で魔力が発現するという噂を信じて、幼いアンデリックを池に突き落とし、わざと溺れさせたのだ。
 命の危機に陥ったアンデリックは、養父のもくろみ通り魔力に目覚めた。
 湖をまるごと、その魔力で凍らせたのだ。
 命からがら凍った湖から這い出た彼に、養父は「よくやった!」と歓声を上げた。
 しかし、湖に突き落とされた動揺と悲しみから、アンデリックは自分の背中を撫でた養父の手まで凍らせてしまう。
 凍った自分の手に驚いた養父は、アンデリックを殴りつけ蹴り飛ばした。
 魔力に目覚めたばかりで制御などできないアンデリックは、その暴力に対し本能で反撃した。
 養父は見る間に、つま先から頭の先まで、きれいな氷の結晶となってしまったのだった。
 過失とはいえ、養父の命を奪ってしまった。
 それは幼いアンデリックにとって深い傷となる。
 その出来事は事故として処理され、魔力を発現させたばかりの幼いアンデリックが罪に問われることはなかった。
 調査の過程で、養父がアンデリックの魔力を不正に闇で売りさばこうとしていた証拠も発見された。以前から、国で管理すべき魔力を私利私欲のために裏取引する組織があるという噂があったのだ。しかし当の養父が死んでしまったこともあり、それ以上のことはなにもわからなかったという。
 アンデリックは泣くこともできなかった。
 行き場を失くした彼をこの先どうするべきか。宝石眼で魔力持ちの彼を放っておくことは当然できない。そうして身元が調べられたことで、ようやく彼の正体が王の血を引くこの国の王子であると明らかになった。
 当然、絶大な魔力を持ったアンデリックを王子として受け入れるべきだと貴族からは声が上がる。
 国王はアンシーという村娘にちょうあいを与えたことは覚えていたようで、アンデリックを自分の子と認め、王子という肩書きを与えた。
 だが、王妃だけはアンデリックを城に招くことを頑なに拒んだ。
 王妃の産んだ子どもは、アンデリックと同じ歳の王太子をはじめ誰一人として魔力を発現させなかったのだ。その状況でアンデリックが城に王子として迎えられれば、自分の子どもの立場が脅かされると恐れたのだろう。
 結果、アンデリックは王子とは名ばかりで、王宮の奥にあるさびれた離宮に閉じ込められ、人目をはばかるような日の当たらぬ生活を強要された。
 彼に与えられたのは、壮齢のメイド一人だけ。
 誰とも関わることなく、ただ読書をし、空を眺めるだけの生活。
 そんなアンデリックに近づいたのが、パブロだった。
 当時、一介の騎士だった彼は魔力持ちではないが、魔法を研究する家系の生まれであったことから、アンデリックの教育に関わることになった。
 彼は強い魔力を国の役に立てるべきだと、アンデリックに魔法の素晴らしさを説いた。
 だが、魔法で養父を殺した過去を持つアンデリックにとって、魔法は憎むべき力でしかない。
 母を死なせたのも自分の魔力のせいだと知ったこともあり、その思いはアンデリックの心を根強く縛っていた。
 それでも孤独であったアンデリックには人恋しさもあったのだろう、自分に唯一積極的に関わってくるパブロの言葉に従い、魔法を学び、魔力を差し出すことを覚えた。
 魔力を差し出しさえすれば、城の人々がアンデリックに冷たくあたることはない。
 元より持っていた強大な魔力と天才的な素養により、アンデリックが十歳になる頃には、国内で右に出る者がいないほどの魔法技術を持つようになっていた。
 そしてアンデリックは、魔法使いと呼ばれるまでに成長したのだ。
 その功績から出世し、将軍となったパブロに庇護される日々。
 アンデリックは、母と養父の命を奪ったしょくざいとして魔力を捧げるだけの静かな生活を望んだ。
 そんな彼の運命が大きく変わったのは、十二歳を迎えた年だった。
 突然、頭から角が生えはじめたのだ。
 最初は小さなこぶだったそれは、見る間に鋭くなり長さを増していく。そして角の成長と共に魔力が肥大し、すでに失われたと言われていた魔法さえも扱えるようになった。
 パブロは喜んだが、周囲は当然アンデリックの奇異な角を恐れた。
 特に王妃は、あの角はアンデリックを冷遇した自分への呪いだと錯乱した。
 王妃を宥めるため、アンデリックは辺境の屋敷へ隔離されることが決まった。
 それだけではなく、王子の肩書きを名乗ることを禁じられ、魔法使いアンデリックとして生きることを義務づけられたのだった。

「あなたはこんな扱いをされていい存在などではない。王子の魔力はこの国を変えるというのに」

 最後までアンデリックの隔離に反対していたパブロは、離宮を離れるアンデリックを見送る際にそう口にする。
 仄暗いその瞳は、かつてアンデリックの魔力を欲した養父と同じものだった。
 結局、パブロも自分の魔力だけが目的だったのだとアンデリックは悟り、心から世界に失望した。
 他人など自分を都合よく利用しようとするわずらわしい存在でしかないのだと。
 エステルのことも、魔法使いとの結婚に目がくらんだ愚かな娘で、自分を見た瞬間に恐怖と嫌悪で逃げていくとばかり思っていたのに。

「チッ」

 苛立ちを込め、机を拳で叩く。すると突然その部分に薄い氷の膜が張る。
 アンデリックが人と接するのを拒むもうひとつの原因。
 王子であるアンデリックが隔離されることになった、最大の理由だ。
 角が生えて以来、アンデリックは感情の高ぶりが酷くなると魔法の制御ができなくなり、触れたものを凍らせてしまうようになっていた。
 一度、子どもさえできれば良いと考えたパブロが、夜中にアンデリックの寝所に複数の女を差し向けてきたことがあった。
 媚薬を飲まされ昏倒していたアンデリックは服を脱がされかけたところで意識を取り戻し、激昂して女たちのドレスを凍りつかせ粉砕した。当然、女たちは悲鳴を上げて逃げ出した。
 異形の角という難関を乗り越えた婚約者候補もこれを知った途端、顔を青くして逃げ帰る。
 きっとあの可愛らしい娘も、このことを知れば自分に触れることを拒むだろう。
 誰だって氷漬けになどなりたくはないのだから。
 彼女の嫌悪と恐怖に満ちた目を想像すると、胸が痛んだ。
 エステルに恐怖の視線を向けられることを想像するだけで、なぜこんなに胸が苦しいのかわからず、アンデリックは薄く張った氷に映る自分を見つめていた。


   ***


「不器用なお方なのです。どうか許して差し上げてください」

 サロンに残されたエステルに優しく声をかけたのはベルタだ。冷え切った紅茶を淹れ直してくれた。

「あの、旦那様は」
「お部屋に戻られたのでしょう」
「……私のことがお嫌いのようでした」

 望まれていないとは思っていたが、あそこまで言い切られると取りつく島がない。
 子どもなど夢のまた夢であろう。

「嫌いな相手であればご主人様は口などききませんよ。あれは奥様を案じてのことです」
「私を、案じて……」

 いったいなにを案じられているというのだろうか。エステルは理解できずにうつむくばかりだ。

「わたくしは長くあの方のそばで仕事をさせていただいておりますが、根はお優しい方です。どうか、気を長くお持ちください」

 ベルタの言葉は優しい。
 エステルはその言葉に小さく頷くと、温かな紅茶を口に含んだ。
 その夜、アンデリックはエステルの前に姿を現さなかった。
 一人で夕食をとり、自室に戻ったエステルは、勇気を出して夫婦の寝室に続く扉を叩いたが、内側から鍵がかけられていてびくともしない。
 冷たいドアノブの感触に、エステルは泣きそうなほどの絶望に襲われたが、涙をこらえ静かにベッドに戻り、体をまるめて眠りについた。


 翌朝、ベルタが起こしに来るよりも先にベッドから起き出したエステルは、自ら身支度を整える。

「奥様、お世話が遅れて申し訳ありません」
「いいのよベルタ。あなたも一人で大変でしょう? 私も今日からはここの住人です。手伝えることがあったら、なんでも言ってね」

 実家でもエステルの世話はおざなりだった。自分で自分のことをするのは得意だと柔らかく微笑む。

「旦那様はご一緒ではないの?」
「ご主人様はまだお休みです」
「そう……」

 避けられているのだろう、とエステルは胸を痛める。
 しかし泣いて喚いたところで状況が良くなることはないということを嫌というほど学んできた彼女は、自分にできることを粛々とこなすまでだと朝食を口にした。
 朝食の後、一緒になって食器を片づけるエステルにベルタは戸惑っていたものの、その手際の良さにわずかに目を見張り、その後はエステルの要求に答え、仕事への助力を求めた。
 ベルタもエステルの立ち振る舞いからなにかを感じ取ったのだろう。余計な詮索をすることも、はしたないなどと咎めることもしなかった。
 食堂のテーブルクロスを片付けながら、エステルは不思議と満たされた気分を味わっていた。
 実家にいた頃は父母や姉の目があるせいで使用人たちと話すことなど許されなかったエステルは、自分に仕事があることや、飾らないベルタとの他愛のない会話が新鮮でとても楽しく感じられた。
 ベルタにしても、これまで主人に差し向けられてきた令嬢たちとはまったく違うエステルに親しみを覚えていた。心根の優しそうな言葉遣いや所作に優しく微笑み、彼女の望むまま共に働いた。
 それに、年老いたベルタ一人ではこの屋敷は広すぎるのだ。
 アンデリックは無頓着であるため、あまり屋敷のことに言及することはないが、使われないまま放置されたいくつもの部屋や、長くおもむきの変わっていないホールなどは古臭い雰囲気が否めない。
 屋敷にはアンデリックが魔力を通して使えるようにしてくれた古い大型の洗濯機があるが、干したり畳んだりするのは結局人間の手仕事であった。シーツなどを洗って干した後、ベルタはエステルに庭を案内した。
 前庭はあまり手入れが行き届いていなかったが、裏庭はベルタが手を入れているのだろう。昨日アンデリックとエステルが話をしたサロンからよく見える位置に、いくつもの畑が作られていた。

「凄いのね、ベルタ。まるで農園か薬草園よ」
「ご主人様はあまり外出をされたがらないので、なるべく自給自足を心がけているのですよ」

 畑には野菜のほかに、数々の薬草が植えられていた。これは切り傷、これは発熱に効くのですよ、と母が娘に説くように、ベルタはエステルに薬草の効能を教えた。
 野菜もいくつかの種類が植えられており、エステルはこれまで本でしか知らなかった知識を目の当たりにして目を輝かせた。

「あそこにはなにも植えないの?」

 裏庭のほとんどが畑として活用されているが、バラの低木に囲まれた一画は荒れたままだ。

「ええ。昔は花なども育てていたのですが、どうしても手が回らず、実用的なものばかりになってしまって」
「そう……も、もしよければ私が好きに使っても?」
「奥様が?」
「ええ、一度やってみたかったの」
「そうですか。では花の種などを取ってきましょうか。以前育てていた花から採取したものが残っていたはずです」

 ベルタは微笑むと、エステルに小さな畑と種を託した。
 ドレスが汚れてはいけないからとベルタからお仕着せを借り、調度品を季節のものに入れ替えたりカーテンを掛け替えて洗っては干したりといった仕事も手伝った。
 そんな、貴族の夫人や令嬢とは思えない日々が数日過ぎたが、アンデリックはエステルに会うことを避け続け、食事も部屋でとっている様子だった。
 エステルは見向きもされないことに胸を痛めたが、やるべきことがあり、酷い意地悪をされるわけでも疎ましい視線を向けられるわけでもない今の生活のほうが、親元で暮らしていた日々よりもずっと静かで好ましかった。
 しかし、ふとした瞬間、子どもを産まなければこの結婚に意味などないのに、というくらい気持ちがエステルを襲う。
 アンデリックの美しい瞳を思い出し、同時に涙を流して自分を呼んでいた弟の瞳を思い出す。

(私は罪人。この生活に幸せなど感じてはいけない)

 穏やかすぎる日々によりもたらされるあんねいの感情に比例するように、降り積もっていく罪悪感に、エステルは押し潰されそうだった。


「これは、君が育てたのか」
「え?」

 いつものように、朝の家事を済ませて花の芽に水をやっていたエステルに、突如としてかけられた声。驚き振り返れば、そこにはアンデリックが立っていた。
 数日ぶりに顔を合わせたアンデリックは相変わらず美しく、その角も日の光を浴びて淡く光っている。
 ぼんやりとアンデリックを見つめるエステルの目線を感じたのか、彼はわずかに居心地悪そうに咳ばらいをした。
 エステルは我に返り、急いで問われたことへの返事をする。

「は、はい。ベルタに花の種を貰ったので」
「種から育てているのか。気の長い話だ」
「ええ、そう、ですね」

 ようやく芽を出した二葉を見つめ、エステルは戸惑いながらも頷く。
 このまま順調に育ったとしても、花が咲くのはひと月先かふた月先か。
 しかしそんな日々すら愛しく思えていたエステルにしてみれば、アンデリックの言葉は自分を責めているように感じられる。

「あの、お気にさわりましたか? もし旦那様が不快なようであればやめます」

 ここまで手を入れてようやく芽が出たばかりだが、アンデリックの不興を買うのだけは避けたかった。
 エステルは悲しい顔をするのを悟られぬように、さっと顔を伏せる。両親や姉と対面するときからついた癖だ。

「……いや、好きにして構わない」
「え?」

 予想外の返答に、エステルは顔を上げる。
 すでにアンデリックはエステルに背を向けたところであったため、その表情をうかがうことはできなかった。
 しかし好きにしていいと告げた声はやはり優しいもので、エステルは呆然としつつも、その背中に「ありがとうございます」と声をかけたのだった。


「それはなにを育てている」
「これは、カモミーユです。良い香りがする白い花が咲きますが、薬としても使えるのだそうですよ」
「そうか」

 あの日以来、アンデリックは庭仕事をするエステルに話しかけてくるようになった。
 相変わらず食事は別で、顔を合わせることはほとんどないが、ベルタが他の用事でそばにいないときを狙ったようにアンデリックはふらりと現れ、エステルが育てている草花について質問してくるのだった。
 いつも短いやり取りしかしないし、無言のままの時間も多かったが、エステルは不思議と居心地の悪さや落ち着かなさを感じることはなかった。
 最近では、アンデリックはエステルが庭に出てくる前からサロンに居座り、窓越しにエステルの作業を見ながら読書をするようになった。
 言葉を交わす機会は少なくとも、一緒の時間を共有しているような雰囲気に、エステルはほんの少しながらもアンデリックとの距離が縮まっているような気がして安堵していた。
 これならば役目を果たせるかもしれない、と。


   ***


「俺はなにをしているんだ」

 庭で花に水をやっていたエステルに声をかけたはいいが、どうしたらいいかわからなくなって部屋に逃げ戻ったアンデリックは、手で顔を覆い大きくうなだれていた。
 最初に顔を合わせてからの数日は、意地になって部屋にこもり続けていたが、部屋の外から時折楽しげに話をするベルタとエステルの声が聞こえてくるのが気になってしょうがなかった。
 気にさわるわけではないのだ。ベルタとは違う足音や控えめな笑い声は、耳を心地良く撫でるようだった。
 窓から外を覗けば、放置されていた庭の一画で、エステルが一生懸命なにかに取り組んでいる姿が目に入った。
 ドレス姿ではなくベルタと同じお仕着せで、土に汚れるのもいとわず微笑みを浮かべている顔は幸せそうに見えた。
 アンデリックはその顔を見ているだけで、胸の奥を掻きむしりたくなるような衝動に駆られるのだった。
 今朝はいつもなら聞こえてくる二人の会話が聞こえないのが気になって、久しぶりに部屋の外に出た。ベルタは昼食の準備をしているのか、庭にいるのはエステル一人。
 小さな新芽に水をやる横顔はやはり微笑みを浮かべていた。その顔を自分に向けてほしくて思わず声をかけると、エステルは弾かれたように振り返り、目を瞬かせながらアンデリックを見つめた。
 その瞳には、やはり怯えや恐怖はない。ただ穏やかで優しい眼差しが、まっすぐアンデリックに向けられる。
 なにか用があったわけでも、かけたい言葉があったわけでもなく、ただ顔が見たくて呼んだだけだなどと口にできなかったアンデリックは、エステルに対し、ついぶっきらぼうな言葉を投げかけてしまった。
 その途端にエステルはうつむいてしまう。
 小さな肩が震えている気がして、アンデリックは息苦しくなった。咎めたわけでも、傷つけたかったわけでもないのに、自分の不器用さが嫌になる。

「なにが『好きにして構わない』だ」

 そもそも最初に、出ていくまでは好きに過ごしていいと告げていたはずだ。
 自分が花を育てる程度のことを嫌がる狭量な男と思われたのではないかとアンデリックは心を重たくしかけるが、エステルの「ありがとうございます」という柔らかい声を思い出し、胸の奥が疼くのを感じた。


 そして翌日もまた、アンデリックは花に水をやるエステルに声をかけていた。そしてその翌日も。
 エステルが出てくるのを待って部屋を出るのが気恥ずかしくなり、読書をするフリをしてサロンに居座ることも増えた。
 ガラス越しに見る、ちょこまかと庭で動くエステルの姿は、アンデリックがこれまで読んできたどんな本よりも彼の心を動かしていた。
 そんな日々がひと月ほど過ぎた頃だろうか。
 サロンの窓際の椅子に腰掛け、本を読む振りをしながらエステルの姿を目で追うアンデリックに、ベルタが呆れ交じりの視線を向けながら紅茶を差し出す。

「そんなに奥様が気になるのでしたら、もう少しお話をしてみればよいではないですか」
「俺は読書をしているだけだ。別にアレに用事があるわけではない」
「いい加減に引きこもるのはおやめになって、食事も一緒にとられてはどうですか。お部屋まで運ぶのも手間なのですよ」
「……ふん」

 ベルタの遠慮のない言葉に、アンデリックは拗ねたように鼻を鳴らす。
 城の離宮時代から唯一のメイドとしてアンデリックに仕えているベルタは、彼に角が生え周囲から怯えられるようになった時も、この屋敷に隔離されることになった時も、嫌な顔一つせずにアンデリックのそばにいてくれている貴重な存在だ。
 アンデリックは子どものように顔をしかめたが、視線はエステルに向けたままだ。

「よい奥様ですよ。庭仕事だけではなく、わたくしの手伝いまで。お屋敷中がずいぶん明るくなったことに気がついていらっしゃいますか」

 アンデリックは返事をしなかったが、ベルタの言葉はしっかり聞いていたし、その通りだと感じていた。エステルが来て以来、薄暗かった屋敷の雰囲気はずいぶん明るいものになった。ずっと前から同じだったカーテンが明るい色味のものに掛け替えられ、調度品も綺麗に掃除が行き届いている。
 人が一人増えるだけでもこうも違うのかと、アンデリックは驚きを隠せないでいた。

「それなのにこんなに長く放っておかれて。いずれ手放すおつもりでしょうが、一度きちんとお話をされるべきだと思いますよ」

 耳の痛い忠告にアンデリックは頭を抱えたくなった。

(そんなことは、俺が一番わかっている)

 半ば強要された結婚だ。エステルにとってもそうなのだろうということは嫌でもわかる。
 だからこそ、アンデリックはエステルとの距離を詰めるのが怖かった。
 今のところ自分の外見や魔法使いであることで嫌われたりはしていないだろう。血筋のことは知らされていない可能性が高い。
 しかしこの魔法の力を知られたら? それともなにもないがらんどうな自分の内面に呆れられたら? あの柔らかな瞳に怯えや嫌悪が混じることを考えるだけで、アンデリックは耐えられない思いがした。
 お互いに傷付かないうちに、ここから逃がしてやるのが一番いい。


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