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第2章 新しい風

いにしえの場所 ― 2 ―

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「アーロン様、いい加減辺境伯邸に戻られたほうが宜しいのではありませんか?」

 まだ朝の執務を始めたばかりなのに、ピピンが何度も繰り返されてきた同じ愚痴ぐちを始めた。俺も同様に、疲れた声で繰り返してきた返事を返す。

「俺は今近づかないほうがいい」

 するとピピンがまたも俺を責めるように繰り返す。

「かれこれ2週間ですよ。アエリア様が心配なさっていらっしゃるでしょう」
「いらぬ心配だ。アイツが俺を心配する理由がない」

 自分で言っていて自分で傷つく。

「アエリア様を傷付けたと感じたのでしたら一言素直に謝ればいいんですよ」
「うるさい。説教は聞かん」

 いつもの如く切り捨てた。
 ここでピピンがはーっと厭味ったらしいため息をつくところまでで1セットだ。

「タイラーからも再三、一度お帰り頂けるようにと伝言が来ています」

 タイラーは俺と入れ替わりにアエリアに付いている。俺が戻らないと自分が帰って来れないので必死なのだろう。
 だが今の俺にはアイツにどんな顔で会えばいいのかさえ分からない。

 辺境伯就任の挨拶周りで5日間。その後地方行政業務の引き継ぎで5日間。ここ数日はもう他にすることもなくなって、とうとうピピンの仕事にまで手を出している。手伝ってやっているのに文句を言われる筋合いはない。
 そうこうしているうちに今日の定期連絡がタイラーから入った。ここ数日、それさえもなるべく聞かないようにしていたのだが。
 連絡の紙を取り上げたピピンが青筋を立てて俺ににじり寄った。

「タイラーがアエリア様が倒れられたと伝えてきました。お食事をほとんど取られていないそうです。早急にアーロン様にお戻りいただけるようにと言ってきています」
「……どうせ俺を引きずり戻すための嘘だろ」

 目の前の書類から視線もあげずに答えた俺の肩を大きな手がガッシリと掴みあげた。驚いて見上げると、そこには珍しく本気の怒りと昔のままの哀れみをはっきりと顔に浮かべたピピンがいた。

「いい加減になさいアーロン! おまえだって分かってるだろう。今のおまえはいじけて責任から目を背けているだけだ。アエリア様には今おまえが必要だって言ってるんだ。一旦帰れ」

 ピピンが昔のままに俺を怒鳴りつける。俺はその意味が分かってバツが悪くてうつむいた。こいつに叱られたのなど何年ぶりだ?

「しばらくこちらは私が面倒見ます。ご心配なく。必要な時は連絡しますし辺境伯の業務書類はそちらにお送りしますからじっくりアエリア様を見てあげて下さい」

 すぐにまた大公弟としての態度に戻ったピピンにそう静かに言い渡されて、俺は返す言葉もなく辺境伯邸に飛んだ。


    ▽▲▽▲▽▲▽


「アーロン様、よくお戻りくださいました。アエリア様がお待ちです」

 執務室ではすでにタイラーが待っていた。俺の顔を見たタイラーがパッと顔を輝かせて俺に話しかける。
 そんなはずあるか。あんな許されない行為を強制した俺に、それでも会いたいと思うとしたらそれはよっぽどの馬鹿だ。
 それでも俺は重い身体と心を引きずるようにして、アエリアの寝室に向かった。

 開けっ放しになっていた扉から中を覗けば倒れたはずのアエリアは別に寝ている訳でもなく、自室の机で勉強をしているようだった。そういえばスチュワードがすでに二回ほど授業を行ったと言ってたな。他にも余計な報告やら進言もしていったが。
 本に集中しているアエリアを見て、どう声をかけたものかと扉によりかかる。
 よく見れば魔法陣の教本を読んでいるらしく、指がちょこちょこと動いてテーブルに記号を書き出している。ほんの少しだが、アエリアが陣形の一部を書きあげるたびに魔術が達成されて小さな魔力が渦を巻いて光っている。
 これが無意識の内に出るのはまずい。地下の工事を早く進めて俺の調合室の隣に練習場でも作らないといつ周りに影響を及ぼし出すか分かったもんじゃない。それにはコイツを一時この屋敷から離さなければならないのだが。

「アエリア。魔力が漏れてるぞ」

 つい、声をかけてしまった。俺の声にピクンと飛びあがってアエリアがこちらを振り向く。2週間ぶりに見るアエリアの顔は確かに少し頬がこけたように見える。

「師匠! やっと帰ってきたんですか? ずっと待ってたんですよ」

 ……コイツ、本当に学習能力がないのか?
 あれだけのことをされたのに目を輝かせて俺を見つめてくる。その眼差しが眩しくて俺は目を細めてしまう。

「スチュワードさんに教わって魔法陣に魔術を通すやり方を教えていただいたんですけど今度は勝手に流れるようになっちゃったんです」

 ふと見るとアエリアのシャツの首元に俺の付けてやった首輪が見えた。

「お前……首輪したままにしてたのか?」
「だって師匠がつけたまま外してくれなかったから取っていいのかも分からなくて」

 そう言いながらなぜか顔を赤くする。
 ……このまま取らせない理由、なんかないか?
 気づけばいつも通りアエリアと話している。あんなに顔を合わせるのが怖かったのが嘘のようだ。

「それを付けていても魔力調整が出来るように頑張ってみろ」

 物は言いようだ。アエリアは「矯正ギブスですね」と訳のわからないことを言っているが、やけに張り切っているようだ。これでしばらく、アエリアの首に俺の印が付いたままになる。
 そこでふと思い出す。コイツの背中に付けた印はもう消えてしまっただろうか?
 調べたいが今ここで服を脱がすわけにもいかない。まあ、それよりもまずは餌付けだ。

「タイラーからお前が倒れたと連絡が来た」
「え? タイラーさん、大げさなんです。私、ちょっと足をもつれさせただけなのに」
「そういうが頬がこけている。餌をやるからダイニングに降りてこい」

 俺がそういうとアエリアはパッと顔を輝かした。その笑顔が眩しい。
 俺のような裏のない笑顔に少したじろぎを覚えながら、アエリアを従えて部屋をあとにした。



「師匠、ここで師匠の膝の上は流石に恥ずかしいです」

 さっきの笑顔を思いっきり引きつらせながらアエリアがあとずさりしている。
 俺はダイニングの端の椅子を引いて腰掛け、膝の上にスペースを作ってアエリアを待つ。ゆずる気はない。

「ブリジットが言ってたぞ。お前の食が細いって。ここに座れ。命令だ」

 唇を尖らせながらも渋々といった体で俺の膝に乗るアエリアは、気のせいか口の端が上がっている気がする。どうも最近の俺は自分の願望で目が曇ってきているようだ。
 ブリジットも俺が餌付けすることを踏まえて小さなソーセージや一口サイズのパイ、スティックベジタブルなど手で簡単に与えやすいものを用意してくれている。
 時々グラスの水を与えながらバランス良く皿の上の食べものを与えていく。美味しそうにかぶり付くアエリアは食が細いなどとは到底思えない。
 俺に会えなくて食べられなかった……なんてことはないよな。
 また願望が湧きあがる。

「ケーキはどれがいい?」

 空になった皿と入れ替わりにエリーが運んで来たのは小さな一口サイズに切られたフルーツタルトとチーズケーキ、蜂蜜の乗った小ぶりのスコーン。
 これは俺も食うか。
 アエリアが迷って答えられない間にタルトを一つ摘みあげてかじる。甘煮されたフルーツの味がタルトに染みていてなかなか美味い。視線に気づいてちょっと見やれば俺が齧っているそれをアエリアがものすごく物欲しそうな目で見つめている。

「食うか?」

 うなずくアエリアの口に、俺の食いかけのタルトを詰め込む。これはあれだ、兵舎で飼っていた子犬に餌やってた時のまんまだ。
 アエリアはタルトが気にいったらしく、もっと寄こせと目が訴えている。
 コイツ……すっかり俺の餌付けに慣れちまったな。そうなるとちょっと意地悪をしたくなる。目の前に新しいタルトをチラつかせて……

「待て。まだ口の中が終わってないだろう」

 あ。目が泣いた。一生懸命呑み込もうと頑張る様子が愛らしい。

「先にこっちを飲め」

 目の前に水の入ったグラスを差し出すと、コクコクと喉を鳴らして飲み下す。そんなアエリアの全ての様子から目が離せない。マズい。こんな些細なことが、やけに心臓に悪い。次々とアエリアの口に放り込みながら俺も少し食べるうちにデザートは全てなくなった。
 餌やりの次は散歩か?
 ついそんなことを考えたのがいけなかったのかよかったのか。ポロリと言葉がでた。

「アエリア、どこか行きたい所はあるか?」

 アエリアがきょとんとした顔でこちらを見ている。その後ろ、壁際でタイラーが片眉を上げてニッコリと俺に笑いかけてくるのが目の端に見えた。
 これはもしかしてピピンが言っていた『肩を抱いて買いものに~』に近いのか?
 しばらく考えた末、アエリアはちょっとそわそわとしながら答えた。

「公衆浴場に行きたいです」
「公衆浴場?」
「はい。修道院のすぐ近くにあったんです」

 確かにこの辺りの平民の家には風呂がないので公衆浴場を使う習慣があるが、流石にそんな中でコイツの安全を確保するのは無理だ。
 そこで少し考える。そう言えばアレもそろそろ時期か。
 俺は自分の思い付きに頷いてアエリアに答える。

「修道院は次の機会だな。公衆浴場ではないがいい所に連れて行ってやろう。タイラー、屋敷の改修だが、今日から入れるか?」

 タイラーは俺たちのカップにお茶を注ぎながら答える。

「通常なら今日の今日では無理とお答えしますが、ちょうどよく春の改修時期に合っていますから城の修繕人員を少し回して終わらせましょう」

 俺は頷いて先を続ける。

「ならば今日から入れてくれ。俺は一旦城に戻ってアーノルドを連れてくる。お前も城に戻るなら連れて行くぞ。エリー、アエリアを身軽な服装に着替えさせて数日の滞在に必要になる身支度をさせておけ。ブリジットに携帯食を用意させろ。数日分あれば間に合う」

 俺の突然の行動にそれぞれ戸惑った顔をしていたが、そんなことは構わずにタイラーの腕を掴んでピピンの執務室へ飛んだ。


    ▽▲▽▲▽▲▽


「ピピン、アーノルドを数日借りるぞ」
「アーロン様、もうお戻りになったのですか!?」
「いや、またすぐ辺境伯邸に戻る。アエリアを古巣に連れて行くことにした。その間に屋敷の改修を終わらせろ」
「ふ、古巣ってまさか……!」
「心配するな。アエリアが風呂に入りたいと言うから連れて行くだけだ。改修中どこかに連れ出せと言ったのはお前だろう」

 俺の返答にピピンが疑い深そうに眉をひそめて俺を睨む。

「確かに申しましたが……あそこは別です。本当に帰ってくるんでしょうね?」
「当たり前だ。大体お前も分かっているだろう。そろそろ俺が一度行かない訳にはいかない時期だということを」
「それはそうなんでしょうが」

 俺の言葉にピピンの文句も勢いを落とす。そこに呼び出しを受けたアーノルドが顔を出した。

「アーノルド、お前は今日から4、5日休みだ」
「そんな簡単に言わないで下さい。アーロン総師団長と違って私は師団の直接的な指揮を取る必要があるのですよ?」

 アーノルドが呆れた声を上げる。

「カールスに任せろ。古巣に行くぞ」
「古巣にですか。それでは仕方ありませんね」

 古巣と聞いてアーノルドが納得の顔を見せすぐに恭順した。

「待てアーノルド、お前まさか」

 ピピンがピクリと眉をあげて鋭い視線をアーノルドに向ける。するとアーノルドはおどけた様子で肩を竦めて見せて、ピピンに答えた。

「ご心配なく。純血ではありませんよ。アーロン様に救われたのは何もピピン様だけではないということです」
「ピピン、お前も行くか?」
「ご冗談を」

 まだ不満そうなピピンに一応声をかけると心底嫌そうに顔を歪めて即答した。

「ならばあとは任せた」

 タイラーの手配で直ぐに修繕人員が集められ、アーノルドと共に辺境伯邸に戻ることにする。タイラーも結局指揮を取るためにスチュワード共々辺境邸に留まるそうだ。

「……アーロン様。アエリア様に呆れられないよう、お楽しみも程々になさいませ」

 ピピンのお小言を背中に聞き流しつつ、人員を連れ立って辺境伯邸に飛んだ。


    ▽▲▽▲▽▲▽


「どちらに行くんですか師匠?」

 俺に駆け寄ってきたアエリアは、シンプルな白いワンピースに薄手のジャケットを着ていつもの革靴を履いている。まあ、これでも動きやすいと言えば動きやすいか。
 アエリアには返事をせずに、エリーとブリジットが準備してくれた荷物をアーノルドに持たせてタイラーに改修中の注意だけ伝えて出発する。
 アエリアの驚く顔が楽しみな半面、あそこに行くのであればもう隠すことも出来ないであろうアレやコレやを思い浮かべてため息が出る。
 ここまで巻き込んだからにはコイツにも知る権利はある。アエリアがどう反応するかを思い浮かべると心が沈むが、もういい加減潮時だと心を決めて俺は転移魔法を発動した。
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