紅に咲く ー鳥籠の姫君と忠義の軍師ー

やまだ

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三章 ただ、君を信じて

第六話 震える手

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(……身体が、冷たい……)

手足は縛られたまま、口も塞がれて、動くことはできない。
時間の感覚も曖昧で、ただ、荷車の揺れとともに意識は浅くなったり、深く沈んだりしていた。

(……誠……)

どれほど願っても、返事は来ない。
どれほど耳を澄ませても、風の音と馬の足音しか聞こえなかった。

(……夢の中みたい……)

眠らされる前、最後に見たのは闇だった。
何も見えない、何も聞こえない、何も届かない――そんな深い闇。

(このまま……ひとりで……)

心が崩れそうになったその時。

ふ、と。
何かが変わった。

布の向こう、
ほんの一筋の光が、まぶたを照らした。

(……光?)

次の瞬間、布がゆっくりと剥がされていく気配がした。
そっと、優しく、まるで誰かの手が頬に触れるような、あたたかい仕草で。

まぶたの裏が、あかるい。
それだけで、涙が出そうになる。

(……もしかして)

目を開けるのが、怖い。

違ったらどうしよう。
もし、またあの賊だったら……

けれど、次の瞬間。
彼の声が響いた。

「――姫様!!」

その声は、確かに、誠の声だった。

まぶたが、自然に開いた。

差し込む光の中に、彼がいた。
目の前に、あの優しい瞳が、あの懐かしい顔が――

「……っ……っ……」

言葉にならない声が漏れた。

(本当に……来てくれた)

頬に、温かい手が触れる。

目の端に揺れるのは、誠の焦ったような瞳。

そして、そっと、
その指先が、流れた涙の跡をなぞるように拭った。
まるで、壊れものに触れるように。

優しくて、確かで、あたたかだった。

けれど、その手は、ほんのわずかに震えていた。

(誠……)

口元を塞ぐ猿轡に手をかける。
しかし。

「あ……申し訳ありません、手が……」

普段はあんなに冷静で、どんな時も乱れずにいる人が、今はその手がおぼつかない。

すぐに猿轡が外される。
久しぶりに吸い込んだ空気が冷たくて、肺が痛む。

「……姫様、大丈夫です。今、すぐに縄も……!!」

彼の声が、近い。
その響きが胸の奥に届いて、張りつめていた何かが、ぷつりと切れた。

「……っ……」

言葉にならない嗚咽が、自然とこぼれた。

気づけば、彼の腕の中にいた。

「……っ、あ……っ」

胸元に顔をうずめながら、かすかに声が漏れる。

「こわかった……っ……」

その一言に、誠の腕が、ほんのわずかに強くなった気がした。

彼は何も言わない。
ただ、静かに、確かに、彼女を抱いていた。

どこにも行かせないと言うように。

同時に、忘れていた感覚が、指先からゆっくりと蘇る。
氷のようになっていた身体が、少しずつ少しずつ、生き返っていく。

(わたし、もう大丈夫)

今、このぬくもりの中で、ようやく“帰ってこられた”と、そう思えた。



けれど、その静けさを破るように、

「陸誠様!!」

鋭い声が、林の奥から届いた。

誠は伽耶をそっと自分の胸元に抱き寄せ直し、まるで自然な動作で、涙を流す彼女の顔を兵から見えないように包み込んだ。

"王族は人前で涙を流してはならない"
伽耶の誇りを、守るように。

駆け寄ってきた兵が、息を切らしながら報告する。

「姫様の確保を確認しました!全軍に伝令を回しますか!」

誠は短く頷いた。

「伝えろ。伽耶姫様、ご無事。
……全軍、無理な突撃は控え、周囲の制圧に集中させろ。
ここを拠点とせず、直ちに帰還準備に移るよう指示を――」

その声音は、いつもの誠だった。

冷静で、明晰で、すべてを掌握している指揮官。

だが、その姿を見て、伽耶はふと、我に返った。

(……あ……)

胸元に寄せていた顔を上げると、視界に入ったのは、
滲むように染まった血の跡。

「……っ!」

彼の肩口。
馬を駆け、剣を振るい、誰よりも先に走っていた彼の身体には、いくつもの傷がついていた。

「誠……っ! 傷が……!」

思わず、手が彼の肩に伸びる。

誠は、ようやく彼女の顔を見た。
そして、わずかに笑みを浮かべる。

「わたしは大丈夫です。……こうみえて、頑丈ですから」

けれど、その声の裏には、ほんの僅かに滲む痛みがあった。

(うそ……)

伽耶の瞳が、揺れた。

(こんなに血が……こんなに傷だらけで……それなのに……)

今まで、ずっとわたしを抱きしめてくれていた。
こんな身体で、なにも言わず、ただ。

「あなた……っ、こんなに……」

震える手で、そっと彼の肩に触れる。
ほんの少し、指先に熱を感じた。
 
「……ありがとう、誠……」

その言葉に、誠は、わずかに笑みを浮かべた。

「では、戻りましょう。総雅様がお待ちです」

そう言って、誠は伽耶の腕をそっと取る。

けれど、

「……っ」

伽耶の足に力は入らなかった。

「……あれ……? 立てない……?」

ふらついた彼女の身体を、誠はすぐに支える。

「……姫様、失礼します」

次の瞬間、彼は、ためらいもなく、彼女の身体を、ふわりと抱き上げた。

突然の浮遊感に、伽耶は誠の肩にきゅっと手を添える。
誠は視線を泳がせた後、小さく口を開いた。

「……総雅様の前にこのままお運びしたら、また、お叱りを受けるかもしれませんね」

伽耶はきょとんと首を傾げ、けれど優しく微笑んだ。

「……もしそうなったら、またわたしが手伝いにいくわ」

ふたりは、目を合わせて、小さく、静かに、笑い合った。

そして、誠はそのまま荷車を離れ、光の中へと、伽耶を抱いて歩き出す。

山から差し込む朝の光が、ふたりの影を優しく照らしていた。
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