紅に咲く ー鳥籠の姫君と忠義の軍師ー

やまだ

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五章 わたしの目覚め

第九話 わたしは、姫だから

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「なぁ……あれ、絶対、酒だったよな?」

煌辰が身を寄せ、ひそやかに耳打ちする。
誠は無言のまま、小さく頷いた。

――たった一瞬。
伽耶が立ち上がった、その瞬間のことだ。

確かに見た。
ほんのわずかに、身体が揺らいだことを。
けれど彼女は、何事もなかったかのように笑って席へ戻っていった。
その頬に、ふわりと浮かんだ朱。
微かにゆるんだ足元。

そして――

『いや~、ここって地酒が有名らしいっすよ?
めっちゃ果実水みたいで飲みやすいんだけど――
めちゃくちゃ回るって、有名なんだって!』

昨夜、何気なく聞いた煌辰の言葉が脳裏に蘇る。

あれは、間違いなく――

(姫様は……おそらくあれが酒と気づいておられない……)

しかも、二杯も。

止められる者など、いるはずがなかった。
王が注ぎ、王が勧めた盃を。
それが、姫にとって“初めての酒”であったとしても。

「おい、顔こえーぞ。さっき伽耶姫ちゃん、大丈夫って言ってたじゃねーか」

煌辰が誠の肘をつつく。
おどけるように、手にしていた盃を掲げてみせた。

「見ろよ、酔ってたらあんなお行儀よく座ってらんねーって。
烈翔様や華蘭様みてーに、案外強いんじゃねーの? 伽耶姫ちゃんもさ」

言葉とは裏腹に、誠の心に渦巻く不安は消えない。
伽耶に視線を戻すと、そこにはいつもと変わらぬ笑顔。
崩れぬ姿勢。揺らがぬ態度。

けれど、それでも。

(どうしても、胸騒ぎがする……)

煌辰の笑い声が耳の奥で遠く響く。
だが、誠の瞳は、ただひたすらに、伽耶の姿を追い続けていた。

それが、今の自分にできる、唯一のことだった。







領主の手が打ち鳴らされると、賓客たちの間に柔らかな拍手が波のように広がった。

「名残惜しいことですが、本日はこれにて、ひとまず、宴の区切りといたしましょう!」

酒と料理の香りに満ちた室内は、十分すぎるほどに温まり、各々が杯を手放し始める。
景仁はゆるやかに頷き、手元の盃を卓に戻した。

「うむ。良い宴であった。料理も酒も、申し分なかった」

深く息を吐いたその声音には、満ち足りた響きがある。
伽耶はふと父の顔を見つめた。
――こんなに柔らかな表情を見せる父を、今までに何度見ただろう。

「伽耶」

名を呼ばれ、伽耶ははっと顔を上げる。

「もう夜も更けている。そろそろ戻りなさい。……陸誠に心配をかけすぎてはならん。ずっと、お前を見ていたぞ」

「え……」

伽耶が視線を移すと、誠は突然名を挙げられたにもかかわらず動じることなく、景仁の前へと進み出て、ひざまずいた。
煌辰もすかさずその後に続く。

「お前は本当に、良い家臣に恵まれたな。……陸誠、娘を送ってやれ」

「はっ」

短く、しかし凛とした声音が宴席に響いた。
景仁は満足そうに頷くと、ちら、と煌辰に目を向ける。

「蒼煌辰。お前は、わしと来い。もう少し飲もうではないか」

「こ、光栄でございます、陛下!」

やや上ずった返答とは裏腹に、煌辰の肩はびくりと震えていた。

伽耶はそっと立ち上がり、景仁、そして宴席の賓客たちへと礼を取る。
その動きは淑やかで、姫としての矜持を宿している。

「では。お先に、失礼いたします。お父様」

静かに、けれども気高く。
少女は凛とした足取りで、扉の向こうへと姿を消していった。







宴会場は本殿にあり、離れの伽耶の屋敷までは少し距離があった。
所々に篝火が揺れているが、あたりはもうすっかり夜の帳に包まれていた。

(……ふらふらする)

なんとか会場を出たものの、足元は思うように定まらず、伽耶は静かに息を吐いた。

(でも……まだ案内役がいる。姿勢は、崩せないわ)

もし誰かの目にふらつく姿を見られれば、どんな噂を立てられるかわからない。
今夜は特に、多くの目が伽耶に向けられていたはずだ。

その時だった。

「姫様。道が暗く、足元も危のうございます。……どうぞ、お掴まりください」

背後から聞こえた静かな声。
振り返ると、誠がいつの間にか並び、そっと腕を差し出していた。

「……ありがとう。暗くて困っていたの」

伽耶は小さく微笑む。
これなら、誰の目にもただの“護衛の介助”に映るだろう。

伽耶は静かにその腕に手を添えた、次の瞬間。

足元の石につまずきかけて、思わずぎゅっ、と誠の腕を掴んだ。

(……思ったより、力が入って――)

誠の口元は変わらぬままだが、どこか眉が僅かに動いた気がする。

伽耶は咄嗟に手を緩めようとするが、またひとつ足元がぐらついて、再び誠の腕に縋ってしまう。

(……ごめんなさい、でも……今は、ちょっとだけ)

伽耶は目を伏せ、誠の支えを借りながら静かに歩みを進めた。

(……大丈夫。歩いてみせる。わたしは姫だから)

そう心の中で繰り返しながら、伽耶は一歩ずつ、誠の支えを借りて進んだのだった。
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