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世界でただ一人の君に、たくさんの愛してるを

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俺の名前はラビ。恋人のアル、そして子猫のニャルと共に下町でつつがなく暮らしている、いたって平凡な男である。
と、俺の自己紹介はたったこれだけで終わるわけだけど、恋人のアルは違う。元奴隷という凄まじい経歴、そして10人中10人が振り返るほどの国宝級の超絶美形……という、俺とは違って結構だいぶ非凡な彼氏である。最初は俺が一目惚れをして付き合ってもらったわけだけど、今では彼も俺のことを好いてくれていて、毎日のように俺に愛を囁いてくれる。自分で言うのも恥ずかしいけど……正直、溺愛してもらっているなぁと思う。

「ラビ、夕食の用意ができたよ」
「ありがとう。運ぶの手伝うね!」

飼い猫のニャル(アルに似ているから『ニャル』だ)にご飯をあげていると、アルが俺に声をかけてきた。俺はすぐに返事をしてダイニングへと向かう。
アルはとっても器用で、俺と一緒に暮らし始めるまでは料理などしたことがなかったらしいのだが、今やすっかり料理上手だ。俺はアルが作ってくれるものは全部大好きだし、彼自身も料理をするのが楽しいみたいで、家での料理担当は専らアルになっている。もちろんアルが忙しい時は俺も料理をしたりするけど、絶対にアルの腕には敵わないなぁ……と常々思う。

「今日はラビの好きなミートパイだよ」
「え! すごい、焼いたの!?」
「うん。ラビの好物だから、頑張ったんだ」

アルが作ってくれたミートパイは、パイ生地がサクサクで本当に美味しかった。今まで食べた中で一番美味しい!って思ったくらい。こういう手の込んだ料理は、俺が自分で作ろうとしても火加減の調整が上手くいかなかったりで失敗してしまうことが多いから、アルが作ってくれてとても嬉しかった。
ニコニコ顔でパイを頬張る俺を、アルは微笑みながら眺めていた。見られていることに気付いて俺は少し恥ずかしくなる。好物を作ってもらえて大喜びするなんて、まるで子どもみたい……。でも、アルが嬉しいと俺も嬉しい。俺は照れ臭い気分のままはにかんだ。

「ラビが喜んでくれてよかった。たくさん食べてね」

アルはそう言うと、また俺に向けて笑顔を見せてくれた。その極上の笑顔を真正面からくらい、俺はつい頬が熱くなってしまう。
アルは俺なんかには勿体無いくらい素敵な恋人だ。いつも俺のことを思ってくれて、料理上手で力持ちで、仕事も勉強も頑張っている。そしてルックスは俺の好みドストライクときたものだから、もうだいぶ長い付き合いだというのに、俺はいまだにアルが微笑むだけでも心臓がドキドキしてしまう。

今の生活には満足している。もともとは俺の一人暮らしだったこの家も、今はアルとニャルが加わってとても賑やかになった。その分やるべきことも増えたけど、アルと分担してこなしているお陰でそれほど負担にはなっていない。何よりアルが毎日当たり前のように傍にいてくれる生活が幸せでたまらなくて、俺なんかがこんなに幸せでいいのかなって、そんな贅沢な悩み事ができるくらいに、アルと過ごす日々は俺にとってすべてが宝物のようだった。

しかし俺にはたったひとつだけ、彼に対して後ろめたいことがある。
アルにずっと秘密にしている———“あのこと”について。



✦✦✦



それから数日後。
俺はいつものように職場で仕事をしていた。

俺の職業はバーテンダーだ。
今働いている職場は、都会に出てきたばかりで職を探していた頃、それまで働いた経験もなく、右も左もわからなかった俺を雇ってくれたとても恩のある店だ。俺なんかに接客業なんて向いていないとは自分でも思うし、他の同僚のように軽快なトークなんかはいまだに上手ではないけれど……。それでも真面目に頑張っていたら、今ではそれなりに頼りにしてもらえるようになった。俺が人並みに仕事を覚えられるようになるまで根気強く教えてくれた店長や先輩には一生頭が上がらない。その恩を、日々の仕事に励むことで出来る限り返したいと思っている。

今日は早い時間からのシフトだったから、今はまだ開店から一時間程度しか経っていない。外もまだ夕方で明るく、店に面した通りにも人通りが多く見られるが、そのぶん店内には客の姿はまだなかった。うちの店が一番忙しい時間帯は夜の21時くらいだから、正直今は手持ち無沙汰だ。
今は店に出ているスタッフは俺一人で、あとはバックヤードで店長が事務作業をしているのみだった。とはいえあと二時間くらいしたらベテランの先輩が出勤してくる予定だから、現状は一人でも特に不安はない。俺はテーブルを拭いたりカウンターの棚を整頓したりしながら、店長が趣味で流している雰囲気のいいジャズを気分よく聴いていた。

カラン。

と、そのタイミングで店の扉のベルが鳴ってお客さんが入ってきた。開店したてのこの時間帯に来るのは常連さんが主なので、例に漏れず今日もきっとそうだと思い、俺は「いらっしゃいませ」と声をかける。
その客は俺の顔をちらりと一瞥すると、俺が案内するよりも先に俺の目の前のカウンター席に黙って腰掛けた。常連さんだと店の勝手を知っていて、来店するなり自分のお気に入りの席に座る人もいるから、特に驚かなかった。
しかし、オーダーを取ろうとその客の顔を見た瞬間、俺は驚いて全身が凍りついてしまった。

「よぉラビ、久しぶり」

その客は常連さんではなかった。いや、むしろ今日初めて来た人だ。
二十代後半から三十代前半くらいの男性で、身につけている服やアクセサリーからもそれなりに身分の高い人間であることが窺える。細身で背が高く、服装にも一切の着崩しが見られない、いわゆる典型的な貴族の紳士といった風貌だ。
彼は肩ほどまで伸ばした美しい金髪を首のあたりでゆるく束ねていた。そして何より、前髪の下から覗くその瞳の色は……俺と同じモスグリーンだった。

「……」
「どうした? 俺は出来た兄貴だからさ、可愛い弟がどうしてるか心配でわざわざ会いに来てやったというのに」

そう、この人は俺の兄だ。名前をロイという。
まさか兄にまた会うことになるとは思ってもいなかった。

実は———俺は今はこうして庶民として生活しているが、元々はとある地方領主の息子だった。もちろん、兄もそうだ。
だけど俺は色々あって、16歳の時に実家を勘当されて……それからは実家ないし家族との関わりは皆無だった。もちろん、この兄とも勘当以来ずっと会っていなかったし、そもそも俺の居所なんて知らないはずなのに。いや、むしろ知られたくなかったからこそ、地元を離れて都会まで出てきたというのに。

もともと、俺と兄の兄弟仲は決して良いとは言えなかった。
俺の実家はかなりの長男至上主義だった。貴族なんて皆そんなものかもしれないけど……俺が物心ついた頃から既に、長男である兄は両親からとても大切にされていたと思う。たくさんの習い事をして、何をしても褒められて、欲しい物は何でも与えられる。しかしそれとは裏腹に、次男である俺のことは放ったらかしだった。何をしても興味を持ってもらえなくて、きっと両親は俺なんて眼中になかったのかもしれない。それくらい、俺は両親に何かをしてもらった記憶も、褒めてもらった記憶も全くと言っていいほどなかった。
一応貴族の息子としてそれなりの教育は受けさせてもらえたし、金銭的に何不自由なく育ててもらった恩義は感じている。しかし常に俺と兄に対して明確な格差をつける両親を、心のどこかでは苦手に思っていたのかもしれない。
そして俺は昔から平凡な人間だったから、学校でどれだけ良い成績をとっても、すぐに兄がそれ以上の成績をとって「自慢の息子だ」と両親に褒められていた。兄はいつもそうだった。全てにおいて俺より秀でていたし、髪と目の色こそ同じだが、顔立ちはあまり似ておらず兄は俺と違ってとても美しい容姿をしている。だから周りの人はみんな俺よりも兄のほうを好いていたし、兄は兄で俺を見下すことに優越感を覚えるのか、あえて俺と同じ事をしてそれを周囲に比較させる……ということを楽しんでいるようなふしがあった。
ずっとそんな感じだったものだから、俺は正直兄のことがあまり好きではない。直接何かされたわけではないけれど、一緒にいて嫌な思いをしたことの方が多いし……出来ればこれ以上関わりたくないというのが本音だった。俺が実家を勘当されたことで兄はきっと大喜びしただろうし、実家はもともと兄が跡を継ぐ予定だったので俺がいなくなっても全く支障はない。だから、もう二度と会うことはないと思っていたのに。

「おい、この店は客にオーダーもとれないのか?」
「……ご注文は」
「水でいいよ。酒を飲みに来たわけじゃないから」

バーに来ておいて水を注文するなんて、明らかに俺が目的だと言っているようなものだ。本当だったら今すぐにでも逃げ出したいくらいだったが、残念ながら今は仕事中である。そして今は俺以外にスタッフが出ていないので、バックヤードに引っ込むことすらできなかった。俺は早く他の客が来店することを祈りつつ、嫌々ながらもミネラルウォーターを入れたグラスを兄に差し出した。
兄はそれを受け取りはしたが、グラスに口をつけることすらせずに懐から出した煙草にライターで火をつける。俺としては早く帰ってほしいという気持ちしかなかったが、そんな願いも虚しく、彼はそれなりに居座る心積りのようだった。

「ほら、バーテンなら気の利いたトークのひとつでもしたらどうだ」
「……申し訳ありません」
「相変わらずつまらない奴だな。どうだ、元気だったか?」
「まあ、それなりに……」

辛うじて受け答えはしているが、俺の内心は混沌を極めていた。
兄はなんで俺の居場所がわかったのだろうか。というか、そもそもこの街は実家からは列車で丸一日くらいはかかる距離だ。おそらく現在は家業を継いで領主となっているはずの兄がなぜこの街にいるのか、その理由がわからない。だからといって俺はもう実家を出たから関係ないし、今目の前にいる兄に追及する気にもならないけど。

「まだ男が好きなの?」
「っ……!」

ただでさえ何も話すことなどないと思っていたのに、唐突に兄から投げかけられたその一言で、俺は更に言葉に詰まってしまった。
俺はゲイだ。それこそ幼い頃からずっと、好きになるのは男の人ばかりだった。俺は意気地なしだから、好きになった人に告白するなんてことはアルを除いて一回もできなかったけど……兄は当然、俺が実家を勘当された理由も知っている。
俺が何も言えないでいると、ふいに兄の視線が俺の手元に向いた。その目が左手の薬指に嵌ったシルバーリングを見ているのだと気付いた時、俺は咄嗟に左手をサッと隠していた。
アルから貰った大切な指輪。なんとなく、この人には見られたくなかった。もう遅いけれど。

「なんだ、お前結婚したんだ?」
「いや、これは……」
「そうだよなぁ。あんな事があってまだ男好きとか、さすがにそこまでバカじゃないよな。いや、安心したよ。気持ち悪い趣味がなくなって良かったな」

『気持ち悪い』。
アルのおかげで最近では忘れかけていたその感覚が、心の奥底からぞわぞわと這い上がってきている気がした。
俺が一番怖かったもの。実家を勘当されるまで、数え切れないほどに浴びてきた言葉。
そうだ、俺は気持ち悪いんだ。ずっと男の人しか好きになれなくて、好きになった男の人に抱かれたいと思ってしまって……そんなの気持ち悪いに決まっている。嫌悪して当たり前だ。それなのに俺はアルが好きだからって、それだけの理由で言い寄って、一緒にいさせて……。

「なぁ、相手どんな子なの?」

兄がそんなことを聞いてくるが、俺は答えられない。いや、絶対に答えるものか。もし相手を知ったら、兄は間違いなくアルにも興味を示すだろう。そうなれば、アルまで巻き込んでしまうことになる。アルは俺と違ってゲイなんかじゃなくて、俺がアルを好きになったからそれに応えてくれただけだ。そんなアルに『気持ち悪い』だなんて言葉が向けられてはいけない。気持ち悪いのは俺だ。あんなに痛い目を見たのに、それでも懲りずに男の人アルを好きになってしまった俺が悪いんだ。

「……もう俺と貴方は兄弟じゃありません。だから詮索しないで。ここにも来ないでください」

俺はなんとか喉からそれだけ絞り出した。
兄に口答えするのは凄く勇気が要ったけど、俺たちはもう兄弟じゃないし、俺はもう貴族でもない。だからもうこの人と比べられなくていいし、見下されなくてもいい。何も関係ないんだ。
何より、アルには絶対に手出しされたくない。だから、怖くてもここはハッキリ言わないと。そう思った。

「あ、そう。せっかく来てやったのに冷たい奴だな。わかったよ、もう帰る。別に落ちぶれたお前の生活なんかに興味ないしな」

俺が言うことを聞かなかったのに腹を立てたのか、兄は不機嫌そうにそれだけ言うと吸いかけの煙草を消し、カウンターに乱雑に飲み代を置いて店を出て行ってしまった。

兄が出て行って再び静寂が戻った店内で、俺はひとり大きく息を吐いた。無意識にだが物凄く緊張していたみたいだ。
何度か深呼吸して落ち着きを取り戻そうとしたが、心の中ではいまだにたくさんの疑問が浮かんでいる。俺が家を出てもう何年も経っているのに、なんで今更? どうしてここがわかったんだ? そして何故わざわざ会いに来たのか?
まだだいぶ混乱はしているものの、今が仕事中なのだということを思い出し、仕事だけはちゃんとしなければと俺は我に返った。とりあえず兄が残していったグラスを片付けようとカウンターの外に出ようとしたら、バックヤードのほうから小さく俺を呼ぶ声が聞こえた。
ちらりとバックヤードのほうへ目をやると、中から店長が小さく手招きしているのが見えた。なんだろうと思いつつバックヤードへ入ると、店長は訝しげな顔をしながら俺に問いかけた。

「中から少し会話が聞こえたんだけど……今の人、ラビのお兄さん?」
「は、はい……」
「え、でも確か、勘当されたって言ってたよね?」
「そうです……。なんで今更会いに来たのか、俺にも全然わからなくて……」

店長には雇ってもらう際に大まかに事情を説明していたから、俺が実家を勘当されて田舎から単身都会に出てきた身だということは知っている。それだけに、店に突然やってきた俺の身内に対して違和感を覚えたのだろう。だけど俺にも兄が何を考えていたのかさっぱりわからないので、聞かれたことに対して明確に答えることができなかった。

「それは確かに変だな。なんだか危ない感じがするし、帰り送っていこうか?」
「いや、大丈夫……です。多分もう来ないと思いますし……」

兄は俺なんかには興味がない。子供の頃からそうだったし、先程の帰り際の言葉を思い出してもやっぱりそう思う。それに、俺のことで店に迷惑はかけられない。
でも、こうして心配してくれる人がいるだけでだいぶ気持ちが楽になった。俺は本当に恵まれていると思う。それこそ貴族の息子として裕福な生活を送っていた頃よりもずっと、そう感じているくらいで。

「何かあったらすぐに言うんだよ」

そう言ってくれた店長に感謝の言葉を述べてから、俺はバックヤードを出て仕事に戻った。何でもいいから手を動かして気を紛らわせないと、頭の中が不安でいっぱいになってしまいそうだった。
兄のことが気にならないわけではない。両親はどうしているのか、実家はどうなっているのか。気にはなるけど、今の俺は知る権利もないし、知ったところで何の意味もない。ただ関わらないでほしいと思うばかりだった。
勘当されてからもう何年も経っているから、家族に見放されて悲しいという気持ちもとっくの昔に吹っ切れている。むしろ、今のほうがずっと自分らしく生きることができていると思っているほどだ。

俺はただただ、今のこの平穏な生活が続くことだけを祈っている。
だが今になって現れた兄という存在に、この時点で不穏な気配を感じていたのは確かだった。



✦✦✦

- side アル -



今日はラビの元気がなかった。

朝はいつも通りだったように思うけど、仕事から帰って来たあたりからなんだか様子がおかしい。明らかに普段よりも口数が少ないし、何よりいつもだったら僕にニコニコと笑顔で話しかけてくれるのに、今日はそれもなかった。
夕食の時間もすごく静かで、僕は余計に心配になってしまった。仕事で嫌なことがあったのだろうか? 今までも仕事で失敗したりすると落ち込んで帰って来て、夕食を食べながら僕にこんなミスをしてしまった……と話してくれていた。でも今日はそれすらなく、どうにも普段のラビとは様子が違っていたのだ。

「ラビ、仕事で何かあった?」

見かねた僕が聞いてみると、ラビはびくりと肩を揺らしてから「何も……」とそれだけ答えて、また黙ってしまった。相変わらず嘘をつくのが下手だな。そんな彼を愛おしく思いながらも、僕はおどおどと目線を泳がせているラビに向かって言った。

「隠さなくてもいいよ。何かあったんでしょ?……僕に話せないこと?」
「……」

僕からの問いに、ラビは少しの間の後にこくりと頷いた。
ラビに話す意思がないのなら無理に聞き出すのはよくないだろう。いくら恋人同士と言えども、何でも洗いざらい話さなければいけないというわけではない。ラビが僕の過去のことを無闇に詮索してこないことから、僕はそう思うようになっていた。彼の中だけで消化したいことも、きっとあるのだろう。
僕は「そっか」とだけ言うと、居間のソファに腰掛け、ラビにも傍に来るようお願いしてみる。彼は嫌がるかと思いきや、予想に反して大人しくこちらに来てくれた。
そんな彼の身体を、僕はぎゅっと抱きしめる。突然抱きしめられてバランスを崩したラビがこちらに寄り掛かってきて、対面座位のような体勢で抱き合う形になり少しドキドキした。そんな僕に向かって、ラビがぽつりと言う。

「アル……俺のことが嫌になったら、我慢しなくていいからね」
「……何言ってるの?」

ラビの発した言葉に、僕は思わずそう返してしまった。
ラビのことが嫌になるだなんて絶対に有り得ない。こんなに可愛くて、心優しくて、僕のことを好きでいてくれるラビを嫌いになるわけがないだろう。ラビは僕の全てだ。もしラビが死んでしまったら僕も間違いなく後を追うだろうと自分で確信しているくらい、僕はラビがいなければ生きている意味すら見出せなくなる。逆にラビが僕のことを嫌になったとしてももう離してやれないくらい、僕はラビのことを愛しているのに。
僕はそんなことを思ったが、ラビは僕の肩に顔を埋めながら、小さな声で言った。

「アルが俺のせいで嫌な思いしたり、皆から嫌われたりするのは、絶対駄目だから……。もしそうなったら、アルは何も悪くないから、俺のこと庇わなくていいからね」
「……」

その一言でなんとなく察するものがあった。誰かに何か言われたのかもしれない。
もともとラビは、僕と付き合っていることを周囲に隠したがっているみたいだった。それはきっと彼が恥ずかしがりだからという理由もあるだろうが、彼と長く接しているうちに、何よりも周囲からの偏見の目を恐れているのではないかと僕は感じるようになっていた。僕は全然気にしないし、むしろ可愛い恋人をみんなに自慢したいくらいだけど、ラビは自分のせいで僕に悪い影響があってはならない……と、物凄く気を遣っているふしがある。もっともラビはすぐ顔に出ちゃうから、街の顔見知りの人達はもうほとんど全員、僕たちが付き合っていることを知っていたりするんだけど。
ラビは自分の過去について話したがらない。だから僕もラビがこれまでどういう風に生きてきたのか、いまだにほとんど知らなかったりする。以前に学校に通っていた経験があると言っていたのと、所作やマナーがやけに洗練されていることから、もしかしたら庶民の出ではないんじゃないかと薄々勘付いている程度だ。
だから僕には詳しいことはわからないけど、過去には偏見の目を向けられたり、嫌な思いをした経験もあったのかもしれない。それが彼の恋愛に対する奥手さとか、内向的な性格に繋がっているのではないかと思った。

「誰に何を言われたのかわからないけど……」

僕は彼を抱きしめる腕に力を込めて、その細い身体をぐっと引き寄せた。ラビは僕よりも小柄だから、こうすると彼の身体は簡単に僕の腕の中に収まってしまう。
ラビの触り心地のいい綺麗な金髪を撫でながら、僕は彼に言った。

「これだけは覚えておいて。僕は何があっても、ラビのこと世界で一番愛してるから」

周りにどう思われようと関係ない。僕はラビが好きだ。彼以外の人を好きになるなんて考えられない。
きっとラビはわかっていないのだろう。僕の心の中がどれだけラビでいっぱいなのかを。ラビは自分は平凡だ、自分には何の取り柄もないとよく言うけれど、本当は彼は僕なんかには勿体ないくらい美しくて魅力的な人なのだから。

「僕はこんなにラビのこと好きなのに。どうしたらもっと愛してるって伝えられるんだろう……?」
「……ちゃんとわかってるよ。変なこと言ってごめん……」
「僕のこと、信じてくれる?」

僕がラビの顔を見つめながらそう聞くと、彼は頬をほんのりと赤く染めながら「うん」と頷いてくれた。
ああ、可愛いな。こんなに可愛い人が僕の恋人だなんて、いまだに夢なんじゃないかと思う時がある。奴隷だった頃の僕に、未来の僕にはこんなに素敵な恋人ができて、こんなに幸せになれるんだよって教えてあげたい。昔の僕は、きっと信じないんだろうなぁ。
幼い頃から奴隷として生きてきて、そのまま死ぬだけだったはずの僕の人生を、ラビが変えてくれた。誰かを愛することも、愛されることも、全部ラビが僕に教えてくれたんだ。

「みゃーう」
「ほら、ニャルもラビが大好きだって」
「えっ……ふふ。アルもニャルも、ありがとう」

先程までクッションの上で寝ていたニャルがいつの間にか目を覚まして、構ってくれと言わんばかりにラビに擦り寄ってきた。そんなニャルを見たラビがようやく笑顔を見せてくれて、僕もほっと一安心する。やっぱりラビは笑っている顔が一番可愛い。
ラビのことが堪らなく愛おしくなって、思わずその唇にキスをした。ラビは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに目を閉じて僕からの口付けを受け入れてくれる。拙い舌遣いで僕の口付けに精一杯応えてくれる彼の健気な姿に情欲が刺激されて、僕はそのままラビをソファに押し倒してしまった。

「ま、待って……!」
「だめ?」
「違う、ダメじゃない……けど、ここじゃ……」

ニャルが見てるから……と恥ずかしそうに言うラビがあまりにも愛らしくて、彼の言葉を無視してこのままソファでことに及んでしまいたくなる。だがラビがこういった場所でするのを嫌がるタイプだとわかっていたので、僕は欲をぐっと堪えて彼の身体をまさぐっていた手を一旦止めた。
ラビが僕からのセックスの誘いを拒んだことは今まで一度もない。ただ少しだけ例外があって、それは体調が悪い時と、寝室以外の場所で襲おうとした時だ。もっとも、ラビの体調が悪い時は僕もなんとなくわかるから、そういう時は遠慮していたけど……ラビは恥ずかしがりだから、寝室以外の開放感があるような場所でするのはきっと抵抗があるのだろう。外でするなんてもってのほかだし、家の中でもニャルがいるのが気になるのか、セックスの時は必ずベッドの上で、というのが暗黙の了解になっていた。寝室にだけはニャルが入らないようにと出入りする際は必ずドアを閉めるようにしているし、そもそも寝る時はニャルは居間のケージに入れているから、情事の最中にニャルが入ってくるということはない。
だからなのか、それともニャルがうちに来る前からそうだったかもしれないが、ラビは僕を受け入れる際は寝室でしてほしいと常々言っていた。
本音を言うと、僕としてはラビともっと色んな場所でしてみたかったりもする。外でするのはラビが風邪をひいてしまうかもしれないし、他人に見られる危険があるから流石にしようとは思わないが、家の中であれば僕はそれほど気にならない。別にニャルに見せつけたいわけではないが、キッチンやシャワールーム、ソファの上なんかでもしラビとすることができたら、それはそれで可愛いラビの姿が見られるだろうな……と思う。もちろんラビが嫌がることを進んでしたいとは思わないし、そういう趣味があるわけでもないけれど。

「アル、お願い……。するなら、ベッドで……」

ラビが顔を赤くしながら涙目になってそう言うので、僕はまたラビの唇にちゅっとキスを落としてから、その身体を横抱きにして寝室へと運んだ。それから一度居間に戻って、ニャルを捕まえてケージに入れる。セックスする時には僕が必ずケージに入れてくるので、ニャルは「またかよ」と言わんばかりの表情でケージの中からこちらをじっと見つめてきた。そんなニャルにべっと舌を出して見せてから、僕は手を洗ってラビのいる寝室へと戻る。

「お待たせ、ラビ」

そう言ってからラビを抱きしめると、ラビはそれを拒むことはせず、同じように僕の背中に腕を回してくれた。
恋人同士がベッドの上で抱きしめ合っているシチュエーション、この後することなんてひとつしかない。彼の体温が服越しに伝わってきて、自然と下腹部に熱が集まる。ラビも興奮してくれているのか、はぁと熱い息を吐いてから僕の耳元で小さく囁いた。

「アル。アル……俺、すごくしあわせだ……」
「うん、僕もだよ。ラビ」
「ぁ、んんっ……♡」

首筋を甘噛みしながら服の裾から手を忍び込ませると、ラビの唇から甘い声が漏れた。ラビは僕と付き合うまでは性行為の経験がなかったらしいのだが、僕が時間をかけて少しずつ躾けていった甲斐あり、今やすっかり僕から与えられる快感にはとても素直に反応する身体になってしまった。最高だ。
ラビは一途で健気で、そして誰よりも優しい。優しすぎるあまり、時として自分を犠牲にしてしまうほどに。でも、僕はそんなラビだから好きになったんだ。
きゅう、と震える手で僕に縋りつくラビの身体をじっくりと味わいながら、僕はラビへの愛を深く感じていた。僕はこの人が、世界中の誰よりも好きなんだ。それは今までもこれからも、絶対に変わることがない気持ちだった。



✦✦✦



それから数日経ったある日のこと。
工房での仕事を終えて帰路を辿っていると、一人の男性に声をかけられた。

「こんにちは。君がアルくん?」

僕と同じか少し歳上くらいに見える、身なりのいい男性。見るからに育ちが良さそうだ。立ち止まって顔を見てみるが、やはりまったく覚えのない人物。絶対に知らない人なんだけど、その金髪とモスグリーンの瞳はどこかで見たことがあるような気もした。

「誰ですか?」
「……」

僕がそう聞くと、彼は僕の顔を改めて見ながら何故か唖然としている様子だった。向こうから声をかけてきたのに今度は無言とは、よくわからない人だ。知らない人と会話をするのは得意じゃないし、もともと金持ちの人間には苦手意識もあるので、正直に言えばこの場を立ち去りたい気持ちが大きかった。しかしそういうわけにもいかないので「あの……?」と一応聞き返してみると、彼は思いがけないことを言った。

「いや、失礼。僕はロイ。君の恋人の……ラビの兄だよ」
「えっ?」

彼の口からラビの名前が出た瞬間、僕はあからさまに反応してしまった。
僕とラビが恋人同士であることは既に周知の事実だとして、彼がいきなりラビの兄を自称したことにはさすがに驚いた。ラビに兄がいるだなんてまったく知らなかったし、ラビ本人からもそんな話は一度たりとも聞いたことがない。しかし目の前にいる男は確かにラビとまったく同じ髪と目の色をしていて、最初に見たときに感じた既視感はこれだったのだと合点がいった。

「ラビにお兄さんがいるなんて、聞いたことないけど……」
「そうなんだ? まぁ、会わなくなってだいぶ久しいからなぁ。……そうだ、これで信じてくれるかな?」

そう言って彼が見せてくれた身分証には、確かにラビと同じ姓が記載してあった。それを見てもなお僕はまだ半信半疑といった具合だったが、僕が何か言う前に彼は続けて口を開いた。

「ちょっとラビのことで話がしたいんだ。立ち話もなんだから、少し付き合ってくれないか?」

普通だったらこんな怪しい人物は無視をして、さっさと家に帰るところだ。しかし彼が『ラビのことで』と言ったので僕は少し揺らいでしまった。
最近のラビは何か思い悩んでいるような素振りがあったし、もしかしたらラビの兄だと言うこの男は何か知っているかもしれない。僕には話せないことでも、身内であれば事情を知っている可能性があると思った。それに……今まで一切知らなかったラビの出自のことがわかるのかもしれないと、僕の中のほんのわずかな好奇心が顔を出してしまって。

「……少しだけなら」

初対面の男に対して、僕はついそう答えてしまった。



✦✦✦



ラビの兄だと名乗った彼は、僕を近くの高級レストランに連れて行った。
僕は当たり前だが一度も入ったことがない店で、いかにも貴族御用達といった雰囲気。半端な時間帯であるせいなのか、店内には僕たち以外に客の姿は見られなかった。
慣れない場所に緊張しつつも、相手が選んだ店なので何を言うこともできない。自分の場違い感をひしひしと感じながらも、僕は大人しく彼について行った。

「好きなものを頼んでいいよ」

席についた彼はそう言ったが、僕は遠慮させてもらった。ここで食事を済ませてしまったら、この後家に帰ってからラビと一緒に夕食が食べられなくなってしまう。彼の口からラビの名前が出たからついて来てはみたが、僕にとってはラビとの食事よりも優先すべきことなどありはしない。
僕が断ると彼は少し不服そうな顔をしたが、すぐにまた微笑んで「では飲み物だけでも」と言ってフレーバーティーを勧めてきた。それすら断ってしまってはさすがに申し訳ない気もしたので、迷った末に一杯だけいただくことにした。

「アルくんは、ラビのことはどれくらい知ってるの?」

僕が出された紅茶を少しずつ飲んでいると、ふいに彼はそう話を切り出してきた。その質問に対して、僕は何と答えたものかと悩んでしまう。
よく考えてみると、出会ってから何年も経つというのに、僕はラビのことをあまり知らなかったりする。どういう生まれで、どんなふうに育ってきて、家族との関係はどうなっているのか。僕と出会うまで、なぜ都会でたった一人で暮らしていたのか。普段の言動や所作からかなり育ちがいいことが窺えるのに、なぜこんな庶民が住むような下町でバーテンダーをしているのか。
ラビが言いたくないことなのであれば、別に知る必要はないと思っていた。でも気にならないのかと問われれば、やっぱり気にはなるわけで。

「……全然知らない。家族の話も、一度も聞いたことない」
「ふうん。思ったより信用されてないんだね」

僕が正直に答えると、彼は少し棘のある言い方で返してきた。
僕がムッとして思わず「そんなことはない」と言い返すと、彼は肩を竦める仕草をしてから、ラビについて僕が知らない情報を次々と語り出した。
ラビも自分も、とある地方領主の息子だということ。幼い頃から比べられてきて、ラビはおそらく兄である自分に対してコンプレックスのようなものを抱いていること。今はラビは実家を勘当されていて、つい最近まで行方がわからなかったこと。

「父親からは、あいつとはもう関わるなって言われてたんだけど……どうしても心配で、こっそり探偵を雇って調べさせたんだ。その時に君のことも知った。君みたいな素敵な人、ラビには勿体ないくらいだよ」

彼はそう言って僕に微笑みかける。しかしその笑みはすぐに苦笑へと変わった。

「正直なところ、僕はラビに嫌われてるみたいなんだよね。だからアルくんに取り持ってもらえたら嬉しいんだけど……」
「ラビが嫌がってるなら、僕も無理です。ラビは優しいから、嫌ってるんだとしたらそれなりに理由があると思うし」

彼からの要望を僕はすぐに断った。どんな事情であれ、ラビの意思は僕の意思でもある。それにコンプレックスがどうこう言っていたけど、ラビは大した理由もなく人を嫌うような人間ではない。そんなラビに毛嫌いされているのだとしたら、きっとこの人にも他に何か原因があるんじゃないかと思う。初対面の人に対して失礼かもしれないが、これまでの彼の言動を見る限り、僕はそんな気がしてやまなかった。
彼は僕に対しても終始にこやかに話していて、物腰も柔らかく人の良い雰囲気をしている。庶民が貴族に対して抱くような、プライドが高く無駄に威張り散らしている成金、といった印象は全くない。それでも僕は、なんとなくこの男を信用できないでいた。
彼は僕が奴隷時代に見てきた貴族にそっくりだ。人当たりがよく穏やかで、とにかく外面が良いタイプ。ラビのことを想っているようで、その実彼の言動の端々にはラビを馬鹿にするようなニュアンスが含まれているのも気に入らなかった。
僕の勘でしかないけど、多分この男には裏がある。彼の言っていることがどこまで真実なのかはわからないが、彼の口から出る言葉はあまりに都合の良いことばかりで、余計にきな臭さが増していた。仮に本当に兄弟だとしても、ラビとは似ても似つかない。

「……随分と知ったような口を聞くんだな。ラビのこと何も知らないくせに」

僕が警戒を解いていないことが伝わったのか、彼の口調が先程までと少し変わった気がした。やはり、化けの皮が剥がれ始めた。奴隷時代にいい思い出なんかひとつもないけど、人を見る目だけは変に鍛えられてしまったな、と実感せざるを得ない。

「ラビのこと凄く信用してるみたいだけどさ、いいこと教えてやるよ。あいつが実家を勘当された理由、知ってるか?」

イライラした様子を隠すことすらしなくなった彼は、唐突にそんなことを聞いてきた。
理由などもちろん知らないので、僕は黙って首を横に振る。そんな僕を見て彼は勝ち誇ったように口元を歪めた。

「あいつ、学校に通ってた頃さ、男に手出したんだよ。それが皆にバレて勘当されたんだ」

嘘だ、とすぐに僕は確信した。
ラビは昔から恋愛対象が男性で、僕と付き合う前も色んな男の人を好きになった経験がある……って、ずっと前にぽろっと溢していた記憶がある。僕以外の男に好意を寄せるラビを想像しただけで嫉妬でどうにかなってしまいそうだが、今はラビは僕だけを好きでいてくれているし、想いを告げて恋人になったのは僕が初めてだと言っていた。だから、それで充分だと思っている。
それなのに、男に手を出しただって? 絶対に嘘だ。ラビがそんなことをするわけがない。僕と両想いになる前だって、彼は最後の最後まで僕に何一つ伝えようとはしなかったのに。
僕がまるっきり信じていないことがわかったのか、目の前にいる男は面白くなさそうにフンと鼻を鳴らした。

「ちなみに、ラビは知らないけど……そのことを皆に告げ口したのは俺だよ。みんな俺の言うことすぐに信じちゃって、父親なんか真偽を確かめもせずに勘当しちゃうんだから。ほんと馬鹿だよねぇ」
「……なんで、そんなこと」

僕には肉親と呼べる人がいないのでちゃんとはわからないが、実の兄弟を貶めるようなことをするのは普通なのだろうか? 家族って、兄弟ってそういうものなのだろうか?
どうして実の弟にそんなことをするのだろう。あのラビが家族に対して何か悪い事をしたとは思えないのに、この人はラビの何が気に入らないのか。少なくとも僕は、近しい人間に度の過ぎた嫌がらせなどしたくないと思うのだが、貴族とはこれほどまでに感覚が違うものなのか?
僕が何故と問うと、彼は不気味な笑みを口元に携えながら答えた。

「なんでって? 俺は昔からね、ラビから奪うのが大好きなんだ。皆の関心も、信頼も、好意も、そして家族も。全部俺が奪ってきたんだよ。俺に横取りされた時のラビは、本当にいい表情するからさぁ……」

彼の美しい顔が醜く歪んだ。
……いや、彼の顔だけではなかった。目に映るものが全部、水に溶かした絵の具のようにぐにゃりと歪んでいる。視界が揺れたことで平衡感覚を保っていられなくなり、くらりと強い眩暈に襲われた。

「勘当されて不幸のどん底に堕ちたかと思いきや、結構楽しそうにやってるじゃないか。しかもちゃっかり恋人まで捕まえてさぁ。……なぁ、わかるだろ? 俺は奪いたいんだよ。あいつが幸せになれる要素は全部奪って、またあの可哀想な泣き顔が見たいんだ」

彼の言葉がうまく頭に入ってこない。ラビのことを侮辱している、最低なことを言われているのはわかるから、何か言い返してやりたいのに。
ティースプーンを持つ自分の手がカタカタと震えている。先程まで体調不良の兆候なんてまったくなかったというのに、今のこの状態は明らかにおかしかった。まさか紅茶に何か入れたのか? ここはレストランのはずなのに、なんでそんなものが……。
身体に力が入らなくなって、ついにガチャンと音を立ててティースプーンを取り落としてしまった。食器がぶつかって大きな音が鳴るが、それでもだんだんと遠くなっていく意識は戻ってこない。視界はもうあり得ないほどぐにゃぐにゃになっていて、目の前にいる男の姿すらも認識できなくなっていた。
ぐらり、と身体が横に傾ぐ。なす術もないまま、僕はその場に倒れ込んで気を失ってしまった。

「やれやれ、やっと寝たか……。即効性の強い睡眠薬なのに、なかなか効かないから何か手違いがあったかと思ったよ。こいつ化け物か?」

意識が飛ぶ直前に、頭の片隅でそんな声が聞こえた気がした。
化け物とは結構な言い様だ。僕は奴隷時代に薬の類をさんざん使われてきたので、耐性がついてしまっているのか特に睡眠薬や媚薬の類は効きが悪いだけだ。なんて言い返してやりたかったが、もちろん無理だった。指一本動かすことができない。
その直後にはもう完全に意識が飛んでしまったので、彼は僕を眠らせて何をするつもりなのだろう、ということまではさすがに気が回らなかった。

この男は僕だけでなく、ラビについての情報を多く持っている。このままラビに危害が加えられることがないかと、僕は薄れていく意識の中でただそれだけを心配していた。



✦✦✦



今日は普段よりもアルの帰りが遅い。
俺が仕事から帰ると家の中は真っ暗で、中をどれだけ探してもニャルしか見つからなかった。いつもだったらとっくに帰っているはずの時間なのに……ということは、アルはまだ仕事をしているのだろうか。
以前にも帰りが遅くなったことはあったけど、その時は事前に「遅くなる」と伝えてくれていた。しかし今日はそんなこともなく、今朝一緒に朝食を食べた時には何も言っていなかった。それどころか、今日の夕食は何がいい?って俺のリクエストまで聞いてくれていた。ということは、アルは今日も俺より先に帰って夕食の支度をするつもりだったはずだ。

とはいえ、何らかの事情で急遽残業している可能性もなくはない。とりあえず待ってみようと思い、俺は夕食の準備をしてニャルにもご飯をあげた。それでもまだ帰って来ないので、シャワーを浴びて明日の朝に出すゴミもまとめて……。そんなことをしながらアルの帰りを待っていたが、時計の針が23時を指す頃になっても一向にアルが帰宅する気配はなかった。

どうしよう。もしかしたら事故とか、何らかの事件に巻き込まれているかもしれない。でも以前には日付が変わる頃に帰ってきたこともあったし、俺が心配しすぎなだけかもしれない。
警察に届けるべきか、もう少し待ってみるべきか……いや、やっぱり警察に行こう。何かあってからでは遅いし、もし無事だったらそれはそれで良いじゃないか。
そう思いたって椅子から立ち上がったのと同時に、玄関のチャイムが鳴った。

一瞬アルが帰ってきたのかと思ったが、アルだったら帰宅した時にわざわざチャイムなど鳴らさない。ここはアルの家でもあるからチャイムを鳴らす必要などないし、そもそもアルは合鍵を持っているはずだし。
そして、交友関係が狭い俺に来客が来ることなど滅多にない。それに加えて今はこの時間だ。こんな夜も更けようとしている時間にうちを訪ねてくるなんて、一体誰だろう……?
怪しいと思わなかったわけではない。でも、もしかしたらアルかも。鍵を無くしてしまって家に入れないだけかもしれない。どうかそうであってほしいという感情が、俺に玄関の扉を開けさせた。

「よぉ、ラビ」
「……!?」

そこにいたのはアルではなかった。
先日俺の職場で会ったきり一切の音沙汰がなかった、実の兄である。もう関わりたくないと思っていた人。すぐに扉を閉めてもよかったくらいだが、俺はあまりの出来事にその場に固まってしまい、それをすることができなかった。

「お前がもう店には来るなって言うからさ、わざわざ家まで来てやったんだよ。有り難く思えよ?」
「……何の用、ですか」

何故俺の家を知っているんだ。俺は何一つ教えていない。俺の職場を知っていたこともそうだし、そもそも俺が実家を勘当されたあと、地元を去ってどこに消えたかなど兄はまったく知らないはずなのに。
俺が困惑した表情をしていたからだろう。兄はあっさりと「探偵を雇ったんだよ」と白状した。それを聞いた俺は自分の居所が兄に筒抜けだったことには納得したものの、兄がここまでして俺を探すなんて絶対何か企んでいる、と嫌な予感しかしなかった。探偵への依頼料だって安くはないはずだ。それなのに何故今になって、絶縁したはずの俺に探りを入れる必要があるのだろうか。

「そう言うなって。挨拶に来ただけだよ。都合があってしばらくこっちに滞在してたんだけどさ、それももう済んだから、明日の朝イチで実家に帰ることになったんだよ」

その知らせを聞いて、俺は意外に思ったものの内心少しだけ安心していた。兄に俺の居場所が知られていたとしても、地元からここまでは相当な距離がある。明日帰ってしまえば、領主として多忙であるはずの兄はそう簡単に訪ねてくることはできなくなるだろう。俺のことはもう放っておいてほしい、というのが本音だったので、俺にとって兄がこの街を去るというのはっきり言って朗報だった。
しかし、兄が次に発した言葉に俺は耳を疑うことになった。

「あ、それでなんだけど。アルも俺と一緒に行くことになったから」
「え!?」

兄の口から突然アルの名前が出て、俺は驚きのあまり思わず聞き返してしまう。
いや、探偵に俺の身辺調査をさせたのなら、俺とアルの関係も知っていて当然だろう。でも、それで何故アルが兄と一緒に行くことになるんだ? 意味がわからない。今日はまだアルが帰ってきていないのは事実だが、だからといって兄の言葉を信じる気にはなれなかった。
そんな俺に向かって兄は言う。

「アルにお前の昔の話したらさ、隠し事されてたのがかなりショックだったらしくて、もうお前のこと信用できないってさ。家にも帰りたくないって言うから、じゃあ俺のとこで働かない?ってスカウトしたの」

昔の話。隠し事。
兄の言ったことには覚えがあった。確かに俺は、今までアルに自分の過去の話を一切してこなかった。アルに知られたら都合が悪いことがあるわけではないが、あまり思い出したくない話だったし……。いつかは言わないといけないと思いつつ、今日まで何一つ話してこなかったのは事実だった。アルもそんな俺に思うところがあったとは思うけど、それでも何も聞かずにいてくれたので、俺はずっとアルに甘えてきてしまったと自負はしている。だとしても、こんな急に兄のところに行くだなんて納得できるわけがない。

「う、嘘だ……。だったら何でアルが自分で言いに来ないんだ」
「さぁ? お前の顔見るのが嫌だったんじゃない?……とにかく、もうこれは決定事項だから。俺はちゃんと伝えたからな。それじゃあ」

兄はそれだけ言うと、玄関の扉をバタンと閉めて勝手に去って行ってしまった。
俺はというと、閉じた扉の前に呆然と立ちながら、兄が俺に言ったことを必死に脳内で整理しようとしていた。

兄がなぜアルのことを知っているのか、どうやってアルに接触したのかは想像がつく。探偵に調べさせたと言っていたから、それによってアルの情報を事前に知っていたのであれば近付くのは容易だろう。ああ、こんなことになるならアルに気を付けるように言っておけばよかった。激しい後悔の念に襲われるが、何を思ったところで今更遅い。
しかし兄が言ったことは本当なのだろうか? アルが俺に愛想を尽かして、兄のところに行くだなんて。アルはそんなことをしないと思うし、するとしても一緒に暮らしている俺に何も言わずに突然出て行ってしまうわけがない。信じたくない、兄が出鱈目を言っただけだと思いたいけど、事実アルはまだ家に帰ってきていないわけで。

「みゃーん」
「っ! ニャル……」

何分だったか、何十分だったか。ぐるぐると考えを巡らせながらしばらく玄関先で棒立ちしてしまっていたが、いつの間にかニャルが心配そうに俺の足元に擦り寄ってきていて、それにより俺ははっと我に返った。俺は慌てて玄関を施錠すると、ニャルを抱き上げてとりあえず部屋の中へと戻る。

「ニャル、どうしよう……。アルが帰ってこないかもしれない……」

思わずニャルに向かってそんな言葉を溢してしまい、俺はすぐにぶんぶんと首を横に振った。そんなことはない。兄が言ったことはきっと嘘だ。あの人は昔から虚言癖があるから、帰り際に俺に嫌がらせをしたくてあんな事を言っただけだろう。
とにかく、アルが帰ってくるのを待ってみよう。今までだって帰りが遅くなることはあった。今日アルの帰りが遅いのはたまたまで、兄とは関係ないんだ。そうに違いない。

「みゃう」
「うん……大丈夫だよ。もうすぐ帰ってくるよね」

ニャルの毛並みをそっと撫でると、ニャルは俺を慰めるようにこちらを見てひと声鳴いた。そんな姿にほんの少し心があたたかくなって、俺はニャルに微笑みかけながら、自分自身にも言い聞かせるようにそう呟いた。
ニャルがいてくれて良かった。もし一人だったら、不安で押し潰されてしまっていたかもしれない。
きっと大丈夫だ、と心の中で何度も唱えながら、俺は夜が更けるまでアルの帰りを待ち続けた。



✦✦✦



結局、朝になってもアルが帰ることはなかった。

こうなるとさすがに悠長なことは言っていられなくなった。俺は心配で一睡もできなくて、少しぼうっとする頭を抱えながらすぐにアルの職場である工房を訪ねてみた。朝早くに突然やって来た俺を工房の主人は最初は不審がっていたが、アルの同居人であることと、アルが昨日仕事に行ったきり家に帰っていないことを伝えると、すぐに事態の深刻さを把握したようだった。
工房の主人の話では、昨日アルは普通に出勤してきて、いつも通りの時間に帰って行ったらしい。ということは、帰り道で何らかの事件に巻き込まれた可能性が高いということになる。俺はアルが歩いたであろう家までの道筋をしらみつぶしに辿りながら、少しでも手掛かりがないかと泣きそうになりながら彼を探していた。
もちろん警察にも届けたけど、大人が一日家に帰ってこないというだけでは大手を振って捜索するのは難しいと言われた。これが子供だったら誘拐としてすぐに捜査するんだろうけど、成人した大人がいなくなった場合は自分の意思で家出をした可能性があるから、ということらしい。非常に歯痒い思いだったが、警察の言うことも納得はできるので仕方がない。一応捜索届け自体は受理してもらえたし、警察のほうでも近隣住民に聞き込みをしてみるとは言ってくれた。


そうこうしているうちに、あっという間にアルがいなくなってから四日が経過していた。
今日もアルは見つからなかった。警察からも特に連絡はない。俺は心配でたまらなくて、夜はこうしてただただ無事でいてほしいと願うばかりになっていた。
アル、どこに行っちゃったんだろう? どうして俺に何も言わず出て行ってしまったんだ? 俺との生活に飽きてしまったんだろうか。それとも、本当に兄が言った通り、隠し事をしていた俺に嫌気がさしてしまったんだろうか……?

「まさか本当に……?」

兄はきっと俺達の関係を掻き乱したくてあんなことを言っただけで、ここで気持ちを揺るがせてしまえば彼の思うつぼだ。わかってはいるけど、何日も行方がわからないアルをずっと探し続けていたため、俺は少々精神が疲弊してきていた。
そういえば、前にもいなくなったアルを探して街中を歩き回ったことがあったなあ、と今になってなんとなく思い出す。
あの時、俺はまだアルに片想いをしていて……絶対に叶わないと思っていたから、アルに想いを告げることができないでいた。それでもアルと一緒にいたくて、でもそれは俺の勝手なエゴでしかなくて、アルはそんな俺の姿を見て自ら俺の元を去っていってしまったんだ。
あの時は……なんとか見つけることができた。でも見つけたのは本当に偶然で、あの再会がなかったら俺はもう一生アルと会うことはなかったかもしれない。告白することもなく、当然恋人にもならなかったし、アルは俺のことなど何とも思わないまま全てが終わっていただろう。
もしかしたら、今度こそ……。そんな不安が胸をよぎる。

「みゃーう」
「ニャル……」

日付が変わりかねない時間になっても眠ることができず、リビングのソファから動くことができずにいた俺に、同じく眠れなかったのかニャルが人恋しそうに近寄ってきた。俺はニャルを膝の上に乗せると、安心させるように背中の毛を撫でる。ニャルの体温はあたたかく、ふわふわの毛の感触も心地よくて、俺はソファに座ったままついうとうとしてしまった。

微睡みの中で、ほんの少しだけ夢を見た。
どこからか、もう何日も聞いていない大好きな人の声が聞こえる。

『ラビのことが世界で一番好きだよ。ラビしか見えないし、ラビ以外愛せない。君が許してくれるなら、これから一生、ずっとそばにいさせてほしい』

今でも一言一句思い出せる。俺がアルに想いを告げた時に、アルが返してくれた返事だ。
あの時は本当に嬉しかった。人生で一番嬉しい瞬間だったと思う。生きてきて初めて、好きになった人に告白して、それを受け入れてもらえた。もう死んでもいいって思うくらい幸せだった。

『ラビ、ありがとう。大好きだよ』
『ずっと一緒にいるよ。今までも、これからも』

寂しさに支配されていた頭の中で、そんな言葉が次々と響く。全部全部、アルが俺に言ってくれた言葉だ。思い出すだけで心があたたかくなって、同時に彼が恋しくなる。アルに会いたい。俺から気持ちが離れてしまったのだとしても、最後に一度だけでいい、ちゃんと話したい———

『これだけは覚えておいて。僕は何があっても、ラビのこと世界で一番愛してるから』

「——ッ!」

俺ははっと息を呑んで目を覚ました。
すぐに辺りを見回す。アルのいない家。リビングのソファの上。俺の膝の上にはニャルがいて、突然目を覚ました俺に驚いたような顔をしている。壁に掛けてある時計を見ると、俺はほんの数分、居眠りをしてしまっていたようだった。
……夢、か。それはそうだ。アルは今ここにいないのに、声が聞こえるわけがない。冷静にそれを理解しつつも、俺は夢の中で最後に聞いたアルの言葉を繰り返し思い出していた。
あれはつい最近、それこそアルが行方不明になるほんの数日前に、アルが俺に言ってくれた言葉だ。兄と再会して不安定になっていた俺に、アルは何も聞かずにただそれだけを言ってくれた。あんなに嬉しかったのに、何故忘れていたんだろう。

「そうだ。俺、アルのこと……」

信じるって、決めたじゃないか。
何があっても俺を好きでいてくれるって、アルが言ってくれた。今まで何度も何度も、俺が不安になるたびに、アルは溢れんばかりの愛情を俺にくれた。
うじうじしていた自分が馬鹿みたいに思えた。アルが俺に愛想を尽かしてしまったんじゃないか、とか。兄の言う通り、俺よりも兄と一緒にいたくなったんじゃなか、とか。なんでそんなことが思えたんだろう。アルのことを疑ってばかりで、俺は何も変わっていなかった。アルはずっとずっと、俺を好きでいてくれていたのに。

「みゃう、みゃあ」
「ニャル……うん、そうだよな。アルのこと、信じないと」

ニャルがクローゼットの扉をカリカリと爪で掻いている。まるでニャルも俺の背中を押してくれているような、そして今すぐに行動しろと言っているような、そんな気がした。
怖いけど。本当は心細くてたまらないけど、少しでも可能性があるのなら、俺はアルのために何でもしよう。俺はアルを信じる。そしてアルもきっと、俺のことを信じてくれていると思う。だから今は、俺が動かないと。そう決めた俺はさっそく立ち上がった。

そんな俺に警察から連絡が入ったのは、翌日の早朝のことだった。



✦✦✦

- side アル -



僕は奴隷だ。
とある地方の貧民街で、娼婦の母親の元に生まれた。父親のことは何も知らない。母親からも愛情らしい愛情をもらったことはなく、6歳になった頃にあっさりと奴隷商に売り飛ばされた。
それからはずっと奴隷として生きてきた。知らない間に誰かもわからない貴族に買われ、満足な食事も寝床も与えられないまま毎日働いた。僕は早く死にたかった。でも自ら命を絶つ勇気もなくて、ただただ無意味に生き永らえてきた。

「ん、……」

意識がだんだんと浮上してきて、そっと目を開く。
僕はどこかの屋敷のベッドの上に寝ていた。

見慣れた景色だった。奴隷を陵辱するのが好きな悪趣味な貴族は、時折こうして僕を部屋に招いては性的暴行を働くことがあった。きっとその間に気を失って、眠ってしまっていたのだろう。部屋の中を見回すと僕の他には誰もいなかったが、きっとすぐに主人が戻ってくるはずだ。
僕はまだ幾分かぼんやりとした頭で、目醒める前に見ていた夢に思いを馳せる。

———長い、長い夢を見ていた。
仕えていた貴族の屋敷から命からがら逃げ出して、ラビという優しくて素敵な青年に助けてもらって、恋人同士になる夢。ラビは奴隷上がりで何もわからなかった僕を自分の家に住まわせてくれて、あたたかい食事を出してくれて、怪我の手当もしてくれた。そんな優しい彼にだんだんと惹かれていって、想いが通じ合った後は、二人でささやかながらも幸せな日々を送った。
僕の願望が見せた儚い夢だ。奴隷生活から抜け出して、普通の生活をして、誰かを好きになって、もしかしたら相手も僕を好きになってくれて、その人といつまでも幸せに暮らす。僕みたいな奴隷がそんな幸せを掴むなんて無理に決まっているのに、あさましくもまだ心の中ではそんなことを望んでしまっていたようだ。

夢の中に出てきたラビという青年。
まるで天使のような人だった。優しくて可愛くて、表情がくるくると変わって、不器用だけどいつも一生懸命で、そしてとても恥ずかしがり屋な彼。僕の理想を具現化したらああいう人になるんだろうか。あんなに素敵な人と恋人同士になれるだなんて、奇跡のようだった。目が覚めても愛おしさが溢れて止まらず、ここにはいない彼に恋い焦がれてしまう。

「ラビ……」

ラビ。僕の好きな人。
叶うことなら、彼にもう一度会いたい……。

ガチャ!

その瞬間、大きな音を立てて部屋の扉が開いた。目が覚めてもなおふわふわと夢見心地だった僕は、その音で一気に現実に引き戻される。僕は緩慢な動作でベッドから身体を起こした。
頭がズキズキと痛む。一体僕はどのくらいの時間寝ていたのだろう? 身体の怠さからして相当な時間、眠っていたような感覚があった。眠る前は何をしていたのか、部屋に入ってきたのは誰なのか。思考がうまく働かず、記憶が混濁していた。

「起きたか。追加の睡眠薬はちゃんと効いたみたいだな」

状況が把握できていない僕をよそに、部屋に入ってきた男はひと言そう言った。
貴族らしい整った服装をした、美しい容姿の男。肩ほどまで伸ばした金髪に、モスグリーンの瞳。顔立ちや雰囲気は似ても似つかないのだが、その髪と目の色が、夢で見た彼とどこか重なる気がして……。

「ッ!……ラビは!?」

夢じゃ……ない!!
そうだ、ラビだ。夢なんかじゃない。彼と出会ったことも、恋人として一緒に過ごしたことも……全て現実だ。僕は今までのことをはっきりと思い出した。
この目の前の人物は確か、ラビの兄と名乗っていた男だ。仕事の帰りに突然声をかけられて、ラビのことで話があると言われて、店に入って、それから———
……睡眠薬を盛られたところまでは辛うじて覚えているが、それ以降の記憶がなかった。たぶん眠っている間にここに連れて来られたのだろう。
というか、ここはどこだ。確かに調度品などの雰囲気は僕が昔いた貴族の屋敷に似ていたが、おそらく知らない場所だ。ということは、この男の自宅なのだろうか。

「ラビには何もしてないよ。きっと今も家にいるんじゃないか?」

ラビの安否が心配だったが、そんな僕を見透かしたように男がそう言ったので、ひとまず安心した。ラビが僕と同じような目に遭うことだけは絶対にあってはならない。
今すぐに帰りたい。しかし窓の外に見えるのはまったく見覚えのない田舎の田園風景といった景色で、これだけでも相当遠くまで連れて来られたのだろうということがわかる。仮に今ここでこの男を力づくで突破したとして、家まで帰る道などわからないし、お金も持っていないので列車にすら乗れないだろう。

「家に……ラビのところに帰して」
「そう言うなよ。少々手荒な真似はさせてもらったが……俺は君をスカウトしようと思って連れて来たんだよ」
「は……?」

彼の口から思いもよらぬ言葉が飛び出してきて、僕は意味がわからなかった。そんな僕をよそに、彼は僕のいるベッドに乗り上げて僕を組み敷くような体勢になる。彼の体重を受けて、ギシ、とベッドのスプリングが音を立てた。反射的に後退りするが、ろくな逃げ場がない。

「なぁ、俺にしないか? 俺とラビは兄弟だ。同じ兄弟なら、俺のほうが容姿も美しいし、金も権力もあって、君に楽をさせてやれる。君が俺の専属奴隷になってくれたら、それなりの待遇を約束するよ」

何を言っているんだ、こいつは。
僕はもう奴隷じゃない。それにラビは僕に命令したりとか、何かを強制することなんて一度たりともなかった。アルはもう自由なんだよ、好きに生きていいんだよと何度も言ってくれた。
僕はラビと一緒にいたい。お金や権力なんてなくたっていい。そんなもの僕は望んでいない。下町の片隅で、ラビと二人で暮らす日々こそが僕にとってこの上ない幸せなのだから。

「嫌だ」

僕がそれだけ返すと、彼の顔から先程までの笑顔が消え去った。それから舌打ちをしたかと思うと、僕に向かって忌々しげに吐き捨てる。

「チッ……奴隷風情が。その見た目ならどうせ“そういうこと”にも使われていたんだろう? 今さら潔白ぶりやがって、ムカつくんだよ」
「……」

何も言い返せなかった。
僕の身体が汚れているのは事実だ。奴隷時代には男女問わず、上も下もやらされた。嫌で堪らなかったけど、命令に反けば酷い折檻を受けるのはわかっていたから、怖くて逆らうことなどできなかった。そうしていたらだんだん感覚が麻痺していって、言う事を聞いて身体さえ差し出していれば、殴られることもないし食べ物も貰えるから、それでいいか……と思うようになっていた。
苦い思い出だった。本当はこんな身体でラビに触れるべきではない。いくら自由の身になったとしても、これだけは覆すことができないのだ。

「まあいい、時間はたっぷりあるからな。お前が頷くまでここにいてもらう。せいぜいよく考えろ」

言うだけ言って少し冷静になったのか、彼は最後にそう言うと忙しなく部屋を出て行った。ガチャリ、と鍵が締まる音がする。本当に僕をこの部屋から出さないつもりらしい。
彼が何の仕事をしているのかは知らないが、おそらくそれなりに多忙なんだろう。それなのにわざわざ僕を拉致したり、意味不明な取引を持ち掛けてきたり、よくわからない人だ。
いや、僕が思うに、彼はどちらかというと僕よりもラビに固執しているように感じる。僕にこんなことをするのも、僕がラビの恋人だからだろう。
しかし疑問も残っていた。ラビはもう家を勘当されたと聞いたので、兄弟といってもほぼ絶縁状態だと思われるが、彼はなぜそこまでしてラビに嫌がらせをするのだろう。
彼の言っていた通り、単純に「ラビの嫌がる顔が見たいから」という、ただそれだけなんだろうか?



✦✦✦



あれから……おそらく、三日くらいが経った。
文字通り監禁されている状態であるのと、部屋には時計がなかったので正確なところはわからない。はめ殺しの窓から見える景色と、そこから入ってくる太陽の光でなんとなく三日くらいだろうと判断しただけに過ぎなかった。
部屋の中だけで生活に必要なものは揃っていたし、日中は使用人らしき人が何度か食事を持ってきてくれた。食事にまた何か混ぜられているかもしれないと警戒しつつ食べたが、今のところ身体に不調はない。

「そろそろ気が変わったか?」

三日経ってようやく、彼は再び僕の前に現れた。
そして部屋に入ってくるなりそう聞かれたが、生憎気が変わることなんてあり得ない。長期間監禁していれば僕が精神的苦痛を感じていつか音を上げるだろうという魂胆なのかもしれないが、残念ながら奴隷時代はずっとこういう生活だったので(むしろ今は待遇がいいくらいだ)、正直ほとんど堪えていない。閉じ込められるのには慣れているのだ。
僕が何も答えずにいると、彼は不機嫌そうに眉を寄せた。そして溜め息をひとつ吐くと、余裕のある表情を無理矢理作るかのように口角を上げた。

「そんなことだろうと思ったけどな。最初から何を言っても信じやしない。本当、面白くねぇな」

もっとも、全部が嘘ではない。
そう言った彼の言葉は真実だったのだろうか、もうどれが嘘でどれが本当なのかわからない。

「なんでそんなにラビを嫌うの?」

猜疑心に苛まれながらも、僕は心の内の疑問を彼にぶつけてみた。
元奴隷である僕に対して当たりが強いのはまだ理解できる。貴族は大体皆そうだからだ。でも、実の弟であるラビに対してここまでしつこく付きまとい、僕を攫ってまで嫌がらせをする理由がわからなかった。

「別に嫌ってるわけじゃない。だが、あいつは俺の下で不幸になっていなければいけない。そういう生まれだからだ」

彼はそんなことを言いながら、部屋の中の椅子に腰掛けて優雅に足を組む。そして窓の外を眺めながら語り始めた。

「去年、領主だった父親が引退してな。俺が跡を継いだ。つまり、ここはもう俺の領地だ。誰もが俺に従い、税を納めて、俺を尊敬し敬う。父親でさえ、もう俺に口出しすることはできない」
「……?」
「察しの悪い奴だな。……ラビを勘当したのは父親の一存だった。だが、今はもう俺がここの主人だ。お前が俺の専属になってくれるなら、ラビをここに呼び戻してやってもいいぞ?」

ラビといつまでも離れ離れは嫌だろう?と彼は僕に言った。その一言に僕はぐっと息を詰める。
確かに監禁生活自体はいくらでも耐えられるけど、ラビと会えないことにはかなり堪えている。本当だったら今すぐにでもラビのところに帰りたいのに。ラビに会いたい。彼の顔が見たい。彼の声が聞きたい。
……でも。それでも、この男に従うのだけは無理だ。例えどれだけ魅力的な条件を提示されようとも、僕の望みはラビとあの家で暮らすこと、それだけだった。

「……」

僕は無言で首を横に振る。そんな僕の答えに対して、彼は意外にも平静なまま「そうか」とだけ言うと、唐突に質問を変えてきた。

「じゃあさ……ラビはいくらならお前を売ってくれると思う?」
「え?」
「俺がお前を買ってやると言ってるんだ。望むだけの額をいくらでも出すと言ったら、あいつは何て答えるだろうな」

僕は今度こそ言葉に詰まってしまった。
この男はラビに金を積んで、僕を捨てさせようとしているんだ。
僕とラビは、決して裕福な暮らしができているわけではない。食べていくのには困らないけど、それでも生活水準は庶民の域を出ない範囲だ。
僕も仕事をしてはいるけど……工房の見習いとしての給料は僕にとっては充分な額であっても、それこそこの男のような貴族からしたらほんのはした金でしかないだろう。きっと僕が一生働いてやっと稼げるくらいの金を、彼はいとも簡単に差し出すことができるのだと思う。
共に暮らす日々の中で、ラビに全く苦労をさせていないのかと言われると、あまり自信がなかった。もし僕を売ったお金で、生活が今よりもずっと楽になるとしたら……。かつて金欲しさに僕を奴隷商に売り飛ばした母親を思い出して、僕は思わず身震いした。
お金は大事だ。どんなに綺麗事を並べようとも金がなければ生きてはいけないし、時として金は人を変えてしまうことすらある。
ラビは……もしラビが、僕を受け渡すことで大金を得ることになったら。受け渡すといっても実の兄のところで、それなりの待遇が約束されていることを知った上で、それでも僕を売りはしないと言ってくれるだろうか。はたして僕はラビにとって、それだけの価値がある人間なのだろうか?

「っ……」

僕が固まったまま何も言えないでいると、ふいに部屋の扉がコンコン、とノックされた。彼が椅子から立ち上がって「入りなさい」と返すと、扉がガチャリと開いて使用人とおぼしき女性が入室してきた。そして主人である男にうやうやしく声を掛ける。

「ロイ様、お客様がお見えになっております」
「客人……? そんな話は聞いていないが、一体誰だ?」
「それが……」

使用人の言葉を待たずして、扉が再びバン!と開かれた。

「大丈夫です。あとは俺が直接話をします」

そう言って部屋に入ってきたのは……なんと、ラビだった。
しかしその服装は、普段の彼とは打って変わって別人のようだった。
仕立ての良さそうなアイスグレーのジャケットに、オーダーメイドであろう品のいいデザインのベスト。髪型も僕が知る限りではセットしている姿など見たことがなかったが、今はワックスで軽く撫でつけてあり印象がまったく違っている。普段の素朴で朗らかな彼からは想像もつかないほど、今のラビは美しく清廉な雰囲気を醸し出していた。

「ラビじゃないか。そんなにかしこまってどうしたんだ? ていうか、二度とこの家の敷居を跨ぐなって言われたんじゃなかったっけ?」

ラビの姿を確認した途端、ラビの兄である男はあからさまに機嫌がよくなった。使用人を下がらせると、すぐに素に戻ってラビに言いたい放題している。そんな彼に対して僕は怒りの感情を覚えたが、当のラビは兄からの嫌味に眉ひとつ動かすことなく、至って冷静だった。

「今日はこの家の人間としてここに来たわけではありません。彼を迎えに来ただけです」

彼、と言いながらラビは僕の方を示す。僕はついそんな彼の顔を見つめ返してしまったが、目が合う前にラビはスッと僕から視線を逸らしてしまった。
僕の姿を見てもまったくもって動じないラビを挑発するかのように、僕の横にいる男が口を開く。

「この前も伝えたけどさ、本人はここにいたいと言ってるぞ。金も魅力もない、隠し事ばかりするお前には愛想が尽きたと」
「ラビッ……!僕は!」

こちらが大人しくしていれば、勝手なことを。
当たり前だが、そんなことを言った覚えは一度たりともない。反射的に否定しようとした僕だったが、その前に兄のほうに口を挟まれた。

「丁度いい。ラビ、こいつを俺に売ってほしいんだ。特別にお前の言い値で買ってやるよ。いくらがいい?」

そう言いながら、彼は僕の肩を抱き寄せる。あまりの気色悪さにぞわっと鳥肌が立って、次の瞬間には彼のことを思いきり突き飛ばしていた。
咄嗟の行動だったので、力の加減ができなかった。僕に突き飛ばされた彼は派手な音を立てて床に叩きつけられ、僕はというとその反動で足元がふらついたが、転ぶ前にラビに身体を支えられた。そしてラビは床に転がる兄に向かって一言。

「寝言は寝て言え、クソ兄貴」

ラビから発されたとは思えないその言葉に、僕は驚いて彼の顔を見た。
———怒っている。あの温厚で優しいラビが、今まで僕に対しては一度も怒りの感情など見せたことがなかったラビが、物凄く怒っている。相変わらず表情は変わらず、口調も静かなものだったが、彼の目を見るとその怒りがどれほどのものなのかが充分に窺えた。
ラビが僕のために、こんなにも怒ってくれている。僕を金で買うと言われて、僕という人間を侮辱されたから、怒っているんだ。
そう理解すると同時に、僕はつい先程までの自分の考えを恥じた。実の母親と同じように、ラビもお金のために僕を手放すのではないかと、一瞬でもそう思ってしまった自分が情けなかった。ラビは僕のことを愛してくれていた。それこそお金に代えられないくらい、大切に思ってくれていたんだ。
そんなことを思っている僕の隣で、ラビはあくまで淡々とした口調で兄に向かって話しかける。

「……アルの拉致及び監禁について、証拠は揃っています。貴方がアルと共にレストランに入っていく姿を近隣住民が目撃していますし、そのレストランの従業員からは、アルの食事に睡眠薬を混ぜるよう貴方に指示され、金を握らされたと証言もとれました。口止めが甘かったですね」
「ぐっ……!」
「ちなみに、警察はまだ前半の情報しか知りません。今ならばまだ穏便に済ますことも考えますが、それも貴方次第です。……若き領主が誘拐罪で逮捕されたとなれば、一大ニュースになるでしょうね」

いくら金を積もうと、人の口に戸は立てられない。そうなれば、出所したとしてももう外を歩けないだろう。
ラビに完膚なきまでに叩きのめされ、先程まではあれだけ饒舌だった兄もさすがに反論に窮しているようだった。そんな兄を見ながら、ラビはとどめのように言い放つ。

「そうなりたくなければ……今後一切俺たちに関わらないでください。弱味を握っているのはこちらだという事、くれぐれもお忘れなきよう」

ラビが話している間、僕はただただラビから放たれるオーラに圧倒されていた。そのモスグリーンの瞳には濁りなどなく、まるでどこまでも澄んだ純水のように真っ直ぐで、美しい。僕は彼から瞬きひとつの時間すら目を離すことができなかった。彼の兄も同じだっただろう。

「アル、行こう」

最後にラビはそれだけ言って、兄には目もくれずに僕の腕を引いて歩き出した。僕はそんなラビに慌ててついて行く。

「ラビ!待ってくれ!」

起き上がってラビを呼び止めた兄の声に、ラビはぴたりと足を止めた。
そしてそのまま、振り返らずに言う。

「俺はもうこの家の人間ではないけれど……貴方とは、もしかしたらいつか分かり合える日が来るかもしれないと、ほんの少しだけ思っていました。でも、貴方がアルにしたことは絶対に許せない。アルを侮辱したことも、一生忘れない」
「ッ、ラビ……」
「こう呼ぶのもこれで最後にします。……さようなら、兄上」

それ以降ラビは、僕を連れて帰りの列車に乗り込むまで、一言も喋ることはなかった。



✦✦✦



ラビは僕を連れて駅まで歩いていくと、そのまま寝台列車に乗り込んだ。
切符は既に買っていたらしい。ラビに連れられるままに客室に入ると、そこは寝台列車にしては広めの、高そうな個室だった。
おそらく一等、もしかしたら特等客室かもしれない。列車の中とは思えないほど二人で入っても充分な広さがあり、更に他の座席とは壁で完全に仕切られていて、窓際にはベッドも備え付けてある。僕は生まれて初めて乗った寝台列車に内心で感嘆しつつも、あれ以降何も言わないラビを心配していた。

ラビは無言のまま個室の扉に鍵をかけると、座席に腰掛けた。僕もその隣に座り、彼になんと声をかけたら良いかと考えを巡らせる。

「ラビ、……っ!」

僕が名前を呼ぶと、ラビは僕の身体をぎゅっと強く抱きしめた。僕が驚いてラビを見ると、彼は更に腕に力を込めながらぼろぼろと涙を零していた。

「アル……アル……っ! 無事でよかった……!」

そう言って子供のように泣きじゃくるラビは、僕がよく知っているいつもの彼の姿だった。僕は「ごめんね」と謝りながらラビの背中に腕を回し、その背中を優しく撫でる。ラビはせっかくセットした髪がぐしゃぐしゃに乱れるのも構わずに、僕の胸に顔を埋めてただ泣いていた。
本当に、たくさん心配をかけてしまった。もう二度と離れない、ずっと一緒にいると誓っていたのに、その約束も果たせずにラビをこんなに泣かせて。

「本当によかった……! アルにもし何かあったらって、俺……」
「ラビ……ごめん。ごめんね……」

ラビはぐすぐすと鼻を啜りながら、目が真っ赤になってしまってもなお泣き続けた。そんなラビを見ていたら僕も今更ながら安心してしまって、謝りながら少し涙ぐんでしまった。
ラビが助けに来てくれて、嬉しかった。兄を相手に毅然とした態度を貫いたラビは本当にかっこよくて、今までもこれ以上ないくらい大好きだったのに、もっとラビのことが好きになってしまった。
僕はきっとこれからも、こうして何度も何度も君に恋をするんだろう。そう思った。

「アル……」

ラビはひとしきり泣いた後、それでもまだ両の目から涙を零しながら、少しずつ胸の内を話してくれた。

「なんでだろ……。アルが無事で嬉しいのに、帰ってきてくれて良かったって思ってるのに……すごく苦しい……」

ラビはそう言って胸のところをぎゅっと押さえる。今の彼の気持ちを思うと、僕はどんな言葉をかけるべきかと戸惑ってしまった。
僕には家族と呼べる存在がいない。唯一の肉親である母親ですら、今となっては生きているのかどうかすらわからないし、もはや顔すら曖昧にしか思い出せない。だから家族である兄と決別したラビの気持ちを、本当の意味では理解することはできないのだろう。
あんなにはっきりと人を拒絶するラビは初めてだった。いくら絶縁しているといっても、心優しいラビが実の兄に対してあんなことを言って平気なわけがない。あの場には僕もいたから取り乱さないようにと気を張っていただけで、本当はすごくつらかったのだと思う。

「ほんとは、ちゃんと話し合いたいって思ってたんだ……。でも、でも俺……駄目だったよ。アルのこと侮辱されて、アルを物みたいに扱われて、どうしても許せなかった……!」
「ラビ……」

僕はラビの細い身体をぎゅっと抱きしめた。
僕のためにあれほどまでに怒ってくれた。でも僕のせいで兄に対してあんなことを言わせてしまって、申し訳ない気持ちも少なからずあった。そのことを謝罪すると、ラビは僕に抱きしめられたまま黙って首を横に振った。それから、アルは悪くない、と小さな声で呟いて、ラビはまたその瞳からぽろりと涙を溢れさせた。


しばらくして少しだけ落ち着いたラビは、ぽつりぽつりと僕に過去のことを話してくれた。
結論、僕がラビの兄から聞いていた話は、ある程度は真実であったことがわかった。貴族の生まれであること、数年前に実家を勘当されていたことや、兄に対してはもともと苦手意識があったこと。

「ずっと言えなくてごめん……。アルは貴族にあまり良い印象ないだろうから、俺が貴族出身だって知ったら、嫌われるかもって思ったんだ……」

ラビのその言葉で、彼は僕のことを想うがゆえに自分の身の上を黙っていたのだと知った。
確かに僕は貴族に対してあまり良い印象を持っていない。かつて奴隷だった頃、自分の主人であった貴族たちに散々いたぶられてきたからだ。
もし最初からラビが貴族だと知っていたら……僕はどう感じたのだろう。今となってはわからない、が。

「僕は君が何者でも構わない。何があったって、ずっとずっと大好きだよ」

僕がそう言い切ると、ラビは安堵したように微笑んでくれた。まだその笑みはどこか痛々しさを感じたけれど、またひとつラビの不安を消すことができて僕もほっとした。
ラビは僕が今まで見てきた貴族とは違う。変に威張ったりしないし、権力を振りかざしたりもしないし、いつも謙虚で、とても美しい心の持ち主だ。なぜこんなにも優しいラビの実兄がああなのかは謎だが、これが育てられ方の違いなんだろうか。そう思うと、幼い頃からラビに見向きもせず仕舞いには勘当したという彼の両親に対しても、あまり良い感情は抱けなかった。

「兄からは、なんでか昔から嫌われてて……。嫌がらせみたいなこともされたし、なんで俺をそんなに嫌うのかはわからないけど……」
「うーん……それなんだけどさ」

多分だけど、ラビの兄はラビのことが嫌いなわけではないんじゃないかと思う。僕が本人に聞いたときも「嫌ってるわけじゃない」って言っていたし。
これは僕の直感だけど、彼はおそらく……ラビのことが好きなんじゃないかな。あの様子では、もしかしたら本人も無自覚かもしれないが。
ラビの勘当は、彼の意思ではないようだった。しかし予想外に父親がラビを勘当してしまったため、内心ではずっと連れ戻したいと思っていたのかもしれない。僕を拉致したのも、ラビを実家におびき寄せるため、もしくはラビとの交渉材料にするためだったんじゃないだろうか。あと、これはちょっと自惚れかもしれないけど、僕がラビの大切な人だったからつい嫉妬して、取り上げたかった……とか?
彼が今になってラビに関わりだしたのも、そういうことだったんだと思う。昨年に父親の跡を継いだと言っていたから、自分に口出しする人間がいなくなったタイミングで探偵を雇って、ラビを探させたんだろう。本当はずっと心配だったのかもしれない。とはいえ、ブラコンという言葉じゃ済まされないほどに愛情の方向性はかなり歪んでいるというか、度が過ぎているとは思うけど……。
それに……別れ際、ラビに拒絶された時のあの表情。あの時はラビが何故そこまで兄を毛嫌いしているのか事情をよく知らなかったから、ほんの少しだけど彼が可哀想に見えてしまった。ラビから話を聞いた今となっては、あまりに酷すぎて同情の余地はなくなったけども。

「……って僕は思ったんだけど」
「ええ? 絶対あり得ないよ。兄からは嫌なことしかされた覚えないし、いつも俺を見下して優越感に浸ってるような人だったのに」

ラビはにわかには信じがたい、という顔をしていた。
そして、仮にそうだったとしても、アルに酷い事をした兄を到底許すことはできない、とも。
無理もない。今思い出しても、あの時のラビは相当に怒っていた。でも本心では、ラビもできることなら兄と和解したいと思っていたはずなのに……。ラビの複雑な気持ちを理解できるからこそ、下手にフォローするのも憚られてしまい、僕は曖昧に頷くだけに留まった。この兄弟の間にあるわだかまりが解けるには、まだ時間が必要なのだと思う。

「あと……さ。俺が家を勘当された理由、聞いた?」

そんなことを考えていた僕をよそに、ラビは話題を別のものに変えた。
そういえば、まだそれについても真偽を確かめていなかった。彼の兄が言ったことは嘘だと確信しているし、大人しくて誠実なラビが家を勘当されるほどの事をしでかすとはとても思えない。でも勘当されていること自体は事実なようで、何があったのだろうかと気になってはいた。

「えっと、その……男の人に手を出したって」

信じてないよ、と付け足しつつ、僕は聞いたことをそのままラビに言った。
それを聞いたラビは「そう」とだけ答えると、僕に本当の理由を語ってくれた。

「俺、学校に行ってた頃……男の人を好きになっちゃったんだ」
「……!」

思わず息を呑んでしまった僕を見てから、ラビは悲しげに目を伏せて話し続ける。

「その人、学校の先輩でね。すごく綺麗で、頭も良くて、誰に対しても分け隔てなく優しくて……俺みたいな落ちこぼれにも目をかけてくれるような、素敵な人だった。それで勘違いしちゃった……ってわけじゃないけど、気が付いたら好きになってて。でも、告白する気なんか全然なかったんだ。俺、すごい意気地なしだろ? 陰からこっそり見つめるだけで精一杯で」

そこまで言うとラビは一度言葉を切り、困ったように笑った。

「だけど、なんか俺ってわかりやすいみたいでさ。その人が好きだってこと、皆にバレちゃったんだ。それからは想像つくと思うけど……両親にも知られて勘当されて、学校にも居づらくなって、自主退学して……。地元にいたくなくて、一人で今住んでる街まで出てきたんだ」

ラビから語られたあまりに壮絶な過去を、僕は目を見開きながら聞いていた。
学校に行っていたことがある、ということだけは以前から聞いていたけど、まさかそんな経緯で学校を去っていただなんて。当時のラビはまだ10代の子供だったはず。それなのに、同性を好きになったというだけで皆から指をさされて、家族にも見捨てられて……。ラビはただ好きな人のことをこっそりと想っていただけだったのに、そんなことになってどれほどつらかっただろう。

「その、好きだった先輩のことは、今も……?」

僕がそう尋ねると、ラビは首を横に振った。

「もう何とも思ってない。皆にバレた時に、本人から直接『気持ち悪い』って言われたしね。俺のせいで嫌な思いをさせて申し訳なかったと思ってるけど、もう謝る機会もないからな……」

悲しそうにそう言ったラビの表情は、とても見ていられなかった。僕は黙ったままラビの手に自分のそれを重ねる。
ラビは悪くない。気持ち悪くなんかない。同性を好きになるということは世間一般では異質で、ラビの兄や先輩の言うことが普通なのかもしれないけど……でも、僕はそんなラビにずっと救われてきたんだ。性別なんて関係ない、ラビだから惹かれたんだ。僕はラビの手をぎゅっと握った。
つらい思い出を話してくれたラビを、なんとか元気づけたかった。彼の言った通り、僕に出自を知られたくなかったというのも勿論あるだろうけど、やっぱりラビにとってはどれも思い出したくない過去だったと思うから。

「えっと……いきなり追い出されて、生活は大丈夫だったの?」
「うん。俺を勘当したのは父親だったけど……多分、親としての情みたいなものもあったんだと思うよ。結構な額の手切れ金を持たされたから、落ち着くまではそれで生活してた。仕事が見つかって以降は、ずっと手を付けてなかったんだけどね」

実はここへの交通費もその貯金から出したんだと、ラビは苦笑しつつ言った。
僕なんかのためにここまでしてくれるラビは、本当に愛情深い人だと思った。やっぱりラビは、僕には勿体ないくらい素敵な人だ。こんな奴隷上がりの僕に、ラビという人は不相応であることはわかっている。でも、彼を他の誰にも渡す気にはなれない。
僕は握っていたラビの左手に目をやる。彼の薬指には僕がプレゼントしたシルバーリングが嵌っていて、あんなことがあってもラビは僕を変わらず好きでいてくれたのだと実感した。もちろん、僕の指にもお揃いのリングがある。

「ラビ、本当にありがとう。あの、あのね……今こんなこと言うのはおかしいかもしれないけど。ラビが僕のこと信じてくれて、すごく嬉しかった」
「うん……信じたよ。アルはいつも俺のこと信じてくれてたから。だから、俺……」

ラビはそう言いながらまた目に涙を溜めていた。僕はそんなラビをそっと抱き寄せて、その金糸のように美しい髪を優しく撫でる。懐かしい感触。たった数日離れ離れになっただけなのに、まるで何年かぶりに再会したかのような、不思議な感覚だった。



✦✦✦



「そういえばラビ、そんな服も持ってたんだね」

たいへん今更ながら、僕はラビの服装について触れる。
今のラビの格好は、いつもの彼とは見違えるかのようにまったく印象が変わっていた。上品で美しい、上流階級の子息といった雰囲気。シンプルだけど洗練された質のいい衣装は、変にゴテゴテ着飾るよりも余程ラビに似合っていると思った。
僕がまじまじと彼を見つめていると、ラビは少し恥ずかしそうにしながらも答えてくれる。

「家を出るときに、一着だけ持って来たんだ……。着るのは久しぶりだったけど、サイズが変わってなくてよかったよ。こういう格好はなんだか息が詰まるから、昔から好きじゃないんだけどね」

10代の頃の服が今も変わらず着られるなんて、もしかして身長も伸びていないし体型もそれほど変わっていないということか。僕は10代(と思われる頃)には身長がびっくりするくらい伸びて、毎晩のように成長痛に苦しんだ記憶があるので、長いこと服のサイズが変わらないのは羨ましい限りである。ていうか、可愛い……。

「その格好も似合ってる。ラビは何を着ても可愛いね」

僕が言うと、ラビは今度こそ顔を赤くして僕から目を逸らしてしまった。ぼそぼそと小さな声で「もう着替えたい……」と呟いている彼は本当に愛らしくて、思わずまた抱きしめたくなってしまった。


それからしばらくすると、ラビは緊張が解けたのかベッドですやすやと寝息を立て始めた。僕はそんなラビにそっと毛布をかけてやる。
僕自身はというと、疲労の溜まった身体を自覚しつつもなんとなく眠れないでいた。
とうに列車は出発している。ラビとあれこれ話し込んでいるうちに、窓から見える景色にはすっかり夜の帳が下りていた。
既にほとんどの乗客が寝静まった寝台列車。僕は窓際の座席に腰掛けながら、窓の外でだんだんと変化していくのどかな風景に目を奪われていた。
僕とラビが住む街までは、まだだいぶ遠いだろう。ラビが言うには、これから十時間以上もの間列車に揺られることになるそうだ。
窓から見える空は雲ひとつなく澄んでいて、星がとても綺麗だ。
思えば、僕はこれまでの人生で旅行というものをしたことがなかった。というか旅行をする余裕がある人間なんて一部の富裕層くらいだろうけど……。もちろんラビとも旅行などしたことがなく、今こうして非日常的な空間の中で彼と二人きりで過ごしている時間は、なんだかいつもと同じようでどこか違った感覚を覚える。でも決して悪くはない。

客室にはラビの寝息と、列車の走行音だけが響いていた。
そんな静かな空間が、とても心地よく感じる。
僕も座席に座ったまま少し微睡みかけていると、ベッドの上の毛布がもぞ、と動いて、先程まで眠っていたはずのラビが身じろいだ。

「おはよ、ラビ。でもまだ夜だよ。今日は疲れただろうから、ゆっくり休んで」

僕はラビにそう声をかけて、乱れてしまった毛布を身体にかけ直す。そんな僕の顔をラビがじっと見つめてきたので、僕は微笑みながら彼の唇に「おやすみ」とキスを落とした。
しかしラビはそのまま眠ることはなく、唐突に僕の腕を掴んでベッドへと引き寄せた。ラビの上に乗り上げる体勢となり、僕はこんな場所だというのにドキドキしてしまう。

「ラビ、どうしたの? 寒い……?」
「………」

ラビは潤んだ瞳で僕の目をまっすぐ見ていた。
それから僕の身体に腕を回して、自分のほうへと抱き寄せる。……これは、ラビが僕を誘うときによくする行動だった。

「アル……したい」
「え、でも、ここは……」

ここは自宅ではない。寝台列車の客室だ。
ラビからの誘い自体はもちろん嬉しい。しかし自宅のベッド以外の場所ですることにあれほど抵抗のあったラビが、なぜこんな場所で僕を誘ったのかわからなかった。もしかしたらまだ寝惚けていて、ここがどこなのか認識できていないのかもしれない。僕はそう思い、それとなくここが家ではないことを伝えてみるが、ラビはそれを聞いてもなお、僕に熱のこもった視線を送るのをやめることはなかった。

「……嫌?」
「ううん、嫌じゃない」
「じゃあ、抱いてほしい。今すぐ俺のこと、壊れるくらい抱いて。……お願い」

囁くほどの声で懇願するラビの唇に、僕はやや乱暴に口付けた。それからラビが身に纏っていたシャツのボタンをひとつずつ外し、その白い素肌にひたと触れる。久しぶりに触るラビの身体の感触に、最初は遠慮がちだった僕もだんだんと興奮してきた。
期待と不安がないまぜになった表情をしていたラビに、僕はにこりと微笑みかける。

「壊さないよ。ラビは僕が一生かけて大事にするんだから」

僕の顔を見つめていたラビがこくりと唾を飲む。彼の細い喉が上下するのを見て、僕は思わずそこに噛み付いた。



✦✦✦



「ン♡ んっ、ぁ、あぅっ……♡」

僕が腰を動かすたびに、ラビが声を抑えつつ控えめに喘ぐ。そんな声にまた欲望が刺激されて、僕は快楽に身を任せながらだんだんと律動を速めていった。
他の乗客は皆寝静まっているのか、周囲からは一切の物音が聞こえない。聞こえるのは列車の走行音と、それにかき消される情事の音、そしてラビの喘ぎ声だけだった。

深夜とはいえ、いつ車掌が見回りに来るかもわからない状況。もし誰かに見つかってしまったら……そう思うと、快感に溺れながらも妙な緊張感があった。それでも一度高まった情欲は治まることがなく、僕はラビが気持ちよくなるように意識しながら動きつつ、きゅうきゅう♡と健気に絡みついてくるナカの感触を堪能する。久しぶりの行為だからか、僕もラビもいつもより感じているようだった。
普段であれば必ず着けている避妊具も今は持ち合わせていないので、行為は当然ナマである。薄い膜に隔たれることなく直接感じるラビの胎内の温かさに、僕は早くも達しそうになっていた。

「アル……っ♡ アル……んぅ♡ そこ、ぁ、あんっ♡ だ、だめ……♡♡」
「んっ、ごめ……もう、イキそう……っ♡」

気持ちいい。気持ちよすぎて腰がとろけてしまいそうだ。
思えば、ラビとのセックスはいつも気持ちがよかった。奴隷時代から数え切れないほど性行為をしてきて、時には特殊なプレイなんかもさせられてきた。しかし過去に経験したどの行為よりも、ラビと抱き合いながらするスタンダードなセックスが一番気持ちいい。きっとそれは僕がラビを好きで、ラビも僕のことを好きでいてくれているからで……。想いが通じ合っている者同士でのセックスはこんなにも気持ちがよくて幸せなことなのだと、ラビが僕に教えてくれたんだ。

「ぁ♡ アッ……♡ ン、~~~~~……ッッ!♡♡」
「く、んぅ……ッ♡♡」

ラビが絶頂を迎えたのとほぼ同時に、僕もラビの中に思いきり精をぶちまける。
中に出すのは久しぶりだ。こんなことをしてはいけないのに、ラビの身体に負担がかかるかもしれないのに、気持ちよすぎて腰を止めることができなかった。

「はぁ……ッ♡ ダメ、きもちい……♡♡」
「ぁ、また……♡♡ ン、あぁッ♡ ひぅ、♡」

一度射精しても僕の性器はほとんど萎えることがなく、再び硬くなってラビのナカを埋め尽くした。すかさずラビの媚肉が愛撫するかのように締め付けてきて、僕は耐えられずにまた律動を開始した。結腸の弁に亀頭がキスをするかのようにごちゅごちゅと当たっている。腰を前後させるたびに前立腺にもペニスが擦れまくって、その感覚がたまらなく気持ちいい。えもいえぬ快感を覚えているのは僕だけではないようで、ラビも僕の身体に必死に縋りつきながら、押し殺した嬌声を上げ続けていた。

「ごめん。ごめん、ラビ……ッ!」

ダメなのに。大事にするって言ったのに、僕がこんなんじゃラビが可哀想だ。すぐにやめなきゃいけない。はやくラビの中から出て行って、外で出さなきゃ……。頭ではそう思っていても、雄としての本能がそれを阻んでいた。
僕は情けなく謝りながらもラビを犯し続ける。そんな僕に向かってラビはふにゃりと微笑むと、僕を引き寄せて唇にキスをした。

「ン、んむ……っ♡ んう、はぁ♡」

ラビからしてくれる、優しくて甘いキス。瞬く間に脳が多幸感で満たされた。
こうしてラビのほうからキスをしてくれるのは滅多にないことだ。そしてふいに、彼に初めてキスをされた時のことを思い出して、なぜだか泣きそうになった。
本当は、こんな汚れきった身体でラビに触れるべきではないのだと思う。でもラビは……そんな僕のことを『綺麗だ』と言ってくれた。僕の過去を受け入れて、その上で僕の全部を愛してくれたから。だから僕も、ラビの全てを受け入れたい。つらいことも悲しいことも決して無かったことにはできないけど、僕はラビを心から愛している。どれだけ時が経とうとも、それだけは絶対に変わらない。
キスで少しだけ理性が戻った僕は、動きを減速させ、ねっとりとナカを掻き回すようなストロークに変化させる。これはこれでラビにとっては堪らないようで、彼はビクビクと身体を震わせながら爪先をピンと限界まで伸ばした。絶頂。

「ぁ、アル……ッ♡」
「なぁに? ラビ」

生理的な涙でぐしゃぐしゃになった顔で僕を求めてくるラビの姿は、とてつもなく扇情的だった。僕は挿入はそのままにラビの身体を抱きしめると、舌ったらずで可愛い彼の呼びかけに甘い声で応える。

「おれ……もう一生、アルのこと離さないから……!」

僕の身体をぎゅうと抱きしめ返して、頬を紅潮させたラビが泣きながらそう言った。
今まで僕のことを殆ど束縛したりしなかったラビが垣間見せた、独占欲。こんな感覚は初めてだった。好き。可愛い。ラビにもっと欲張ってほしい。僕の全部を彼に捧げたい。
一生懸命気持ちを伝えてくれるラビが狂おしいほどに愛しくて、身体がさらに熱くなった。僕は己の肉棒でラビの最奥をばちゅばちゅと突きながら、彼の全身を余すところなく愛でる。

「アル、だいすき……っ♡ ずっとあいしてる……♡♡」
「僕も愛してるよ。ラビ、ありがとう……」

深く深くキスをすると同時に、僕は再びラビの中に精を吐き出した。



✦✦✦



あれから。
住み慣れた街へ帰った後の俺たちは大変だった。

アルが行方不明になって色んな人に心配をかけてしまったから、まずはその人たちに一人一人謝罪をして回った。アルが働いている工房の主人や、俺が実家に行っている間ニャルを預かってくれていたバーの店長や、近所の人達。もちろん警察の人にも。
アルの拉致監禁について、穏便に済ますというのは俺は脅しのつもりで言っただけだったので、そのまま警察に届けても良かったんだけど……アルは俺の兄に対して何か思うところがあるのか、「大事にしないでほしい」と俺にお願いしてきた。俺はアルにあれだけのことをしておいてお咎めなしというのは少し腑に落ちなかったが、アル本人の強い希望により、兄に関しては一旦放置する運びとなった。
兄について「もうだいぶ堪えてると思うし」とアルは言っていたが、本当にそうなのか疑わしいところである。俺に絶縁宣言されたくらいであの人が落ち込んだりするんだろうか? 甚だ疑問ではあったが、アルがそれでいいと言うのならそうしようと、二人で話し合った末に決めた。
なので周りには「身内でトラブルがあったが、当事者間で解決した」と伝えた。まあ、嘘ではない……いちおう。


そんなわけで、帰宅後しばらくは少しバタバタしていたけど、今は俺もアルも相変わらず元気にやっている。
アルはやっぱり料理上手だし、勉強熱心だし、優しくてかっこいい。あの一件で俺が貴族だと知ってもアルは変わらずに俺を愛してくれていて、すごく心が広いなぁと思う。そんなアルと一緒に暮らすことができて、俺は本当に幸せだ。
俺はというと、特殊な生まれだろうとやっぱり平凡な人間であることには変わりがなくて、日々の暮らしぶりも同じように平凡だ。でもアルが一緒にいてくれるだけで俺にとっては毎日が特別だった。あと、バーテンダーの仕事も毎日頑張っている。良いことばかりではないけど、俺はこの仕事が好きだ。

「今日の夕食は何がいい?」

今朝も変わらずにそう聞いてくれたアルに、俺はアルの好物であるハンバーグをリクエストした。きっとアルのことだから、中にチーズを入れてくれるんだろうな。まだこれから仕事に行くというのに、今から帰るのがすごく楽しみだ。
今日は特別な日だから、デザートにアルの大好きなケーキを買っていこう。ニャルには大好物のささみをあげようかな。そんな浮足立った気持ちで仕事に向かった。

アルと出会ってからの俺には、奇跡みたいなことが沢山起こっている。
好きな人に初めて想いを伝えられた。アルが俺の気持ちに応えてくれた。ずっと一緒にいてくれた。どんな人に言い寄られても、変わらず俺を好きでいてくれた。これが俺にとってどれほどの奇跡であるのか、アルはきっと知らないのだろう。俺自身ですら、雨の中行き倒れていたアルを見つけた時は、まさか彼とこんなに幸せな生活を送ることになるなんて考えもしなかったなぁ、としみじみ思ったりするくらいだ。
アルとの生活は、時として大変なことも勿論ある。貴族だった頃の裕福な生活とはまったく違う、いつも二人で手探りする日々。それでも俺にとっては、ここが一番自分らしくいられる場所で。
何より、どんな時もアルがそばにいてくれる。それだけで俺は何にも代え難いほどの幸福を感じることができるんだ。

アル、ありがとう。
ありがとうも、大好きも、愛してるも、まだまだ伝え足りない。だから俺はこれからもずっと、この命が終わる時が来るまで、アルに伝え続けるのだと思う。

仕事を終えて、帰りにちょっといいお店のケーキを買ってから帰路を急ぐ。
家に着くと、窓から明かりが漏れていて、中からはハンバーグの良い匂いが漂ってきていた。
アル、喜んでくれるかな。アルの反応を想像して、ついそわそわとしてしまう。
俺は買ってきたケーキを持って……それともうひとつ、アルに内緒で選んだプレゼントの包みがポケットの中に入っていることを確認する。俺はドキドキとはやる胸を抑えながら、アルが待つ家の玄関のドアを開けた。
そして、出迎えてくれた愛しい彼に向かって笑顔で言う。

「アル、誕生日おめでとう!」



end.
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