俺たちは、壊れた世界の余白を埋めている。

惟光

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#第31話 アンダーコントロール

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#第31話 アンダーコントロール


カジノの入り口は、昨夜と同じように華やいでいた。
音楽が滲む。
グラスが触れ合う硬質な響き。
色を帯びた喧騒が、空気を満たす。

──けれど今夜は違う。
同じ景色なのに、喧騒は遠い。
足音だけが、やけに鮮明だ。

「照明、昨日より明るいな。テンション上がるわ。」

ルカが軽く鼻で笑い、ジャケットの袖をひと振り。
靴音のリズムまで弾むようで、妙に饒舌だ。

「このカーペット、昨日と柄違わない?」
「変わらない。」
「だよな。まぁどうでもいいけど。」
「落ち着け。」
「……あのシャンデリア、低いな。」

天井を仰ぐルカの声は、花の名前でも口にするみたいだった。
ナオは歩みを崩さず、袖口に指をかけた。
形を整えるふりで、ルカの手首を押さえる。
熱い。
末端まで血が巡っているのが、はっきり分かった。

「……体温、上がってる。」
「あー、俺、……血がうるせぇくらい回ってる。」

ルカが笑う。瞳孔がわずかに開き、焦点が遠く揺れている。
後ろから見ていた臣は、眉をひそめた。
後ろ姿の肩の揺れも、視線の高さも、まるでこの場所を“遊び場”と勘違いしているみたいだ。

(……こいつら、狂ってんな。)

ふと、鏡に映る自分の口角が、わずかに上がっていることに気づく。

「笑ってんのか、俺。……まぁ、悪くねぇ。」

ルカが鏡越しにニヤリとした。

「いいじゃん、臣くん。似合ってるよ、その顔。……オソロ。」

臣は短く息を吐き、ほんの一瞬だけ視線をルカから逸らした。
指先で義手の接合部を探る。
カチリ。
微かな音が、耳の奥にまで響く。
それは癖にしては静かすぎて、しかし確かに──戦いの合図だった。

「……あぁ、そうだったな。」

臣の声は低く、もう揺れてはいなかった。
その響きに、ルカの口元がさらに吊り上がる。
もう、誰にも止められない。
血の匂いが、足音に混じっていた。



──そのときだった。

フロアの向こう、人の波が一瞬切れた。
そこに、薄いワンピースの裾をぎこちなく握る影が立っていた。
昨夜、臣が引き戻したあの女だ。

賑やかな音と光の中、そこだけ色が薄い。
安い香水が、熱気に溶けて漂う。
昨日も嗅いだはずなのに、胸の奥をざらつかせるのは、あの時の記憶のせいか――いや、今は考えるな、と喉の奥で押し潰す。

女は肩は小さくすくませ、目だけが迷いなくこちらを捉えている。

「――あのっ!……昨日は……助けてくれて、ありがとうございました。」

掻き消されそうな声。
それでも、確かに届いた。
女はくすぐったそうに笑い、それから苦しげに息を吸う。

臣は彼女を見ると、呆れたように息をついた。
その奥で、胸のどこかがきな臭く揺れた。

「……バカだな、もう来んなって言ったろ。」
「それが……カジノの人から、“未精算がある”って呼ばれて。
でも、この後精算すれば大丈夫って……」

言いながら、腕をそっと持ち上げる。
昨日は引き剝がしたはずなのに、白いタグが、肌に食い込んでいた。
留め具が、皮膚を噛む。

(……なんで、それが……)

視界の端がかすみ、白だけが鮮やかに浮く。
二度と付けさせないと決めた。
それなのに今、その白がまた彼女の腕にある。

「でも……会えて良かったです。
あなたにどうしても……お礼だけは、言いたくて。」

そう言って笑った顔が、別の記憶を引きずり出す。
“なかったこと”にするために笑った、あの日の誰かと重なる。
義手の指が、音もなく握り込まれた。

「……だめだ、行っちゃ……」

吐き出すような声を遮るように、黒服の影が差し込んだ。
肩口を掴む手は、見た目よりもはるかに強い。

「お客様、こちらへ。」

彼女は一度振り返ると、ただ、小さく笑ったまま、
群衆の中に飲み込まれていく。
その背中が見えなくなるまで、臣は目を離せなかった。

音楽も、グラスの音も、色のついた喧騒も――全部、遠のいていた。

(……気に入らねぇ)

奥歯が軋む。
段取りも役割もまだ頭に並んでいる。
それでも胸の真ん中で、何かがひび割れたまま、音もなく広がっていた。


――とん、と。
不意に肩に置かれた手が、熱を吸い取るみたいに落ち着かせた。

「――やめとけ、臣くん。」

振り返れば、ルカがいつもの笑みを貼ったまま、目だけで制している。
その色はもう、遊びではなく、命令だった。

「今は、な。……行くぜ、ハニー。プランBだ。」
「Bなんて聞いてねぇけどな。」

ナオが低く吐く。
視線はすでに、フロアの動線をなぞっていた。

「今、作った。」

ルカはあっさり言い捨て、耳元の喧騒を切り落とすみたいに声を通す。

「本当は臣くんが中で荒らす予定だったけど……今日は俺らがやる。お前はステイ。」

臣の眉間に皺が寄る。

「そんなの、俺――」
「はっ、ガキじゃねぇんだから。」

ルカは息を吐くように笑った。

「……でも暇なら、“かぼちゃの馬車”でも探しといてくれる?」

一拍置いて、臣は鼻で笑う。

「……つまり、出口と足、ってことか。」
「正解。」
「裏方ばっかでつまんねぇな……。分かったよ。」

了承の声に、ルカは唇だけで笑みを形作る。
ゆっくりとテーブル席の方へ歩を向けるその背中は、もう完全に獲物を狩る動きだった。

「じゃ――やるか。」

ナオが無言で後に続く。
ルカは軽く手首を回し、視線の先にいるディーラーを正面から射抜く。

「今日は俺……ポーカーな気分。」

緑のフェルトが、鈍い光を返した。
ゲームは――テキサスホールデム。



――最初の数ハンドは、勝ったり負けたりを繰り返す。
ルカはわざと、読みの浅い素人のような反応を見せた。

「うわぁ、やられた……」と小さく肩を落とし、
時には無意味にチップを大きく賭けてみせる。
けれど、そのまなざしだけは常に動いていた。
カードじゃなく、人間を読んでいる。

三回目のディール。
ルカは手札をちらと見て、ふと首をかしげた。

ディーラーがカードを配る瞬間、ルカは笑みを消した。
手元じゃない、肩の動きを見ている。
……予想通り、左から切る癖。
にやり、と口角を上げ直す。

「なぁ、ハニー。……これって、ジョーカーって来ねぇのかな?」

空気が、半拍だけ止まる。
ディーラーの指が一瞬だけ止まり、客のひとりが喉を鳴らす。
笑い声が出かけて、飲み込まれた。

ディーラーは苦笑いを浮かべると、カードを配る手を止めないまま答えた。

「……ジョーカーは、このゲームには入りませんが?」

ルカは目を細め、唇だけで笑う。
指先でチップを弾きながら、ゆっくりと言った。

「――へぇ。ま、どの札が“ジョーカー”かは……開いてからの、お楽しみだな。」

意味を測りかねて、ナオが横目でルカを盗み見る。

(……今の、どういう意味だ?)

ディーラーは一瞬だけ、視線を細めた。
――ルールを知らないフリなのか、本当に知らないのか。
判断を狂わされる、その曖昧さが嫌に残った。

ルカの指は、チップを滑らせながらも一定のリズムを刻んでいた。
テーブルに広がるのは、ルール通りの札ばかり。
ただひとり、ルカだけが――規格外の札を握っていた。



――やがて、ルカはわざと音を立ててチップを積み、強気に場へ放った。
――で、今は風が通るだけだ。

ルカは小さく息を吐き、頭をかくと、肩を落とした。

「……やられたなぁ。」

だがその視線は、卓の奥に、針のように刺さっていた。
(――餌は、こんなもんでいいだろ)

「……お客様、お連れ様の前で、このままでは引けないでしょう。
最後に、“特別ゲーム”はいかがですか?」

カードを切る手を止めず、ディーラーが水を向けてくる。

「……お客様に、白タグでご案内できます。」

胸ポケットから覗く小さな白タグに、隣の客がわずかに目を細める。
――金じゃない“何か”を賭ける時の札だ、と、この場の人間なら誰でも知っている。

「へぇ……そんなの、あるんだ?よく分かんねぇけど、まだワンチャンあるってこと?」

ルカは首を傾げ、興味深げに覗き込む。
声は無垢な素人の響き。
だが片手はゆっくりと口元を覆い――その裏で、目尻だけが鋭く吊り上がった。

――かかった。

掌の陰で、頬筋がわずかに走った。
視線だけが刃物になる。

ナオは、ほんの一瞬だけ息を止めた。
表情は崩さない。
だがまなざしが一度、ルカを射抜き――その奥で、何かを噛み殺す。

卓の上に、白いタグが落ちた瞬間、場の温度がひとつ跳ね上がる。
――誰も知らない。ここから何が賭けられるのかを。

ルカは、ゆっくりと口元から手を離した。
顔には――懲りもせず夢を追い、何度でも火に飛び込む愚かな博打打ちの笑み。
だが、その奥の瞳は笑わない。
底知れぬ闇と、獲物を逃さぬ鋭さを潜ませていた。

「……面白そうだな。乗った。」

その言葉に、今度はディーラーの口角が、わずかに吊り上がる。
(――乗った、ね。)
目がそう言い、わずかに札の力が増す。

ルカはわざと一拍置き、場の視線を自分ひとりに集める。
そして、低く囁くように口を開いた。

「Il mio asso nella manica.」

空気が一拍、宙に浮く。
意味を理解できず、顔を見合わせる客たち。

ルカは唇の端をゆるく上げたまま、淡々と告げた。

「勝負は俺。
でもベットすんのは俺じゃねぇ……俺のハニーだ。」

小さく息を呑む音が、あちこちで重なる。
ナオの眉が、わずかに動いた。
驚きも、諦めも、そして底に燻る得体の知れぬ熱も――全てを押し殺し、ただ静かにルカを射抜く。

――白タグがコトリと跳ね、静かな音が落ちた。
合図だ。
歯車が、回る。


☆おまけ:ルカのイタリア語翻訳☆
Il mio asso nella manica.
「俺の切り札」
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