俺たちは、壊れた世界の余白を埋めている。

惟光

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#第32話 Tell Me, Honey.

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#第32話 Tell Me, Honey.



喧騒が一段、熱を帯びた。
白タグが卓上に落ちた瞬間、客も黒服も一斉にそっちを見やる。
──「ベットすんのは、俺のハニーだ」。
軽口みたいに吐かれたその一言が、場を丸ごと掴んだ。

(……よし、今だ。)

椅子を引く音も殺して、臣はテーブルから離れる。
ヘリオスは既に、内部を探っている。
ならば、このカジノの裏を知る奴が必ずいる。
そいつを捕まえるには、注目が前面に集まった今しかない。

事前に、ナオから聞いていた裏口。
そこから薄暗い従業員用の廊下に入ると、すぐに空気が変わった。
扉の隙間から、ルカの笑い声とチップの音が漏れた。
まだ、あの男は場を握っている。

香水と煙草の混じった匂いが、湿った壁にこびりついていた。
段ボールを抱えたスタッフ数人が、狭い通路をすれ違っていく。

(……いた。)

荷物の影から顔を覗かせた男が、一瞬で固まった。
短く刈った髪、ヘリオスの連中の目つき。
臣が歩を進めると、男は小声で吐き捨てるように言った。

「……黒崎さん!?なんで……オヤジから“待機”って言われてたでしょ!」
「ああ、そうだったな。だから来たんだ。」

男は息を呑み、声を潜めた。

「こっちだって大変なんです。もうここ、いつ飛ぶか分かんないんすよ……このままじゃ、証拠ごと消される。早くオヤジに伝えなきゃって、それで――」
「知ってる。」

臣は鼻で笑い、距離を詰める。

「だからお前に頼みがある。裏口と足を用意しとけ。今夜、女を一人出す。」
「はあ!?マジで?そんなことしたら、俺……オヤジに殺されますって!」
「……もうここが、分水嶺なんだよ。」

義手の指が肩に乗る。
軽く押しただけで、男の呼吸が詰まる。

「腹、括れ。」

男は唇を噛み、視線を逸らした。
通路の奥から、また搬入スタッフの足音が近づいてくる。
わずかな逡巡のあと、吐き捨てるように言った。

「……ッ、分かりましたよ。裏の搬入口、二十二時半が一番手薄です。」
「助かる。」

臣は短く返し、背を向けた。
足音を殺して廊下を抜ける。
フロアに戻る頃には、歓声とざわめきがさらに膨らんでいた。
――獲物はもう、檻に入った。



---

「……随分勝手だな、ダーリン。」

困ったように、でも諦めたように、ナオが呟いた。
ルカは笑みを崩さない。
白タグの存在が、観客にも黒服にも、はっきりと見える位置に置かれている。

ナオは一歩、ルカに寄ると、その顎を指ですくい上げる。
観客から見れば甘ったるい挑発、けれど声色には針が仕込まれていた。

「……俺を、売るのかよ。……噛み付くぞ。」

ルカは片手でナオの腰を引き寄せ、にやりと笑う。
その笑顔は、周囲に向けられた見せ札だ。
ルカはナオの顎先を軽く持ち上げ、指の背で喉のラインをゆっくりなぞった。

「おまえは、俺の“勝ち札”……だからな。」

そして、顔をわずかに近づける。
観客にはただの甘い囁きにしか見えない距離で、低くイタリア語を落とした。

「Anche se perdo, me lo riprendo.」

低く響く音が、耳の奥に絡みつく。
吐息が触れた一瞬、ナオの目がわずかに揺れる。
すぐに視線を外し、わざとらしく艶やかに肩をすくめた。

「……ここで捨てたら、呪って出てやる。」
「俺が負けると思ってんのかよ、ハニー。」

ルカは声を張り、卓の周囲にいた客まで引き込むように、ディーラーを睨む。

「なぁ、自慢のハニーを賭けるんだ……」

一拍置き、口の端を吊り上げる。

「……値は張るぜ?」

ナオは口元だけ笑い、低く吐き捨てる。

「……負けたら承知しねぇぞ、ダーリン。」
「望むところだ。倍にして、お前も取り戻してやるよ。」

ふたりの笑みが交わる中、黒服の一人が、無言でナオの腕を取った。
わざと見せつけるような角度で、新品のタグを手首に押し当てる。
パチン、と小さな音。
白タグが、ライトを受けて艶めかしく光った。
まるで“所有物”の印を晒すように。

白タグが、はっきりと光を反射した。
冷たい金属がナオの手首に食い込み、かすかな音を立てて締まる。

「……気分、悪いな。」

ナオが腕を引き戻そうとした瞬間、ルカの指がその手首を捕まえる。
脈打つ場所をわざと親指で押さえ、ゆっくりと脈動を測るようになぞった。
ナオの呼吸が一瞬、浅くなる。

「あー、そうだな。」

ルカは低く笑い、体を寄せる。
肩が触れ、腰がわずかに擦れる距離。

「――ハニーに首輪付けていいの、俺だけなのに、な。」

囁きと同時に、耳朶の後ろに熱い息が触れる。
息を呑む気配と、赤い口紅の女がワインを傾ける手を止める仕草が、同時に場を固めた。
そのまま指先が首筋をかすめ、ゆっくりと追い詰める。
外から見れば恋人同士のふざけ合い。
けれど、ナオの内側では、冷たい輪とルカの体温が交互に押し寄せ、逃げ道をすべて塞ぐ。

視線を逸らせば、首筋にかかった顎がそれを止める。
正面を向けば、すぐそこにルカの瞳――熱と笑みと、拒否を許さない圧。
ナオは短く笑って返す。
しかし、押さえられた手首の脈は、ルカにすべて読まれていた。

ルカはそのまま一拍置き、わざと鼻で笑った。

「……ま、悪ぃな、ハニー。」

軽く肩をすくめ、笑みを崩さず、その手前に積み上げられたチップの山を指先で弾く。
カジノが認めた“取引成立”の証だ。

……その時、フロアの端でざわめきが起きた。
別のテーブルから、若い男が二人の黒服に両腕を抱えられて引きずられてくる。
手首には同じ白タグ。
必死に足を踏ん張るが、靴音を引きずる音しか響かない。
見物客のひとりが、ワインを飲み下す喉の音を立てた。

「やめろっ……離せっ!」

声はすぐに奥の扉の向こうに吸い込まれた。
残ったのは、観客たちの短い沈黙と、すぐに戻ってくる賑わい。
ここでは、それすら日常のひとつなのだ。

ルカはチップをひとつ摘み、指先でゆっくり転がす。
視線だけで、ナオの体温を一度さらったあと――
口元には甘やかに滲む笑み。
けれど、その奥の瞳は笑っていない。

「へぇ……怖いねぇ。……でも俺、負けねぇよ?」

吐息混じりの響きに、近くに立つ若い女が思わず背筋を伸ばす。
卓を囲む視線のいくつかが、二人に吸い寄せられた。

ルカはにやりと口角を上げ、チップを卓上に落とす。
カチリと鳴ったその音は、挑発の合図だった。



――ディーラーが、無駄のない手つきでカードを滑らせる。
黒と赤の模様が光を反射し、空気をわずかに揺らした。
ルカの前に伏せられた二枚が、音もなく止まる。

視線だけで中身を確かめ、すぐに卓全体を見渡す。
指先が軽くチップに触れ――額は小さく、様子見のベット。

「……コールだ。」

声は軽い。
だが、その奥ではすでに全員の呼吸と癖を拾っていた。
対面の男が鼻先をかすかに掻く。
その隣の女はカードを覗くたび、肩がほんの少し沈む。
ルカは小さく舌打ちするような笑みを作る。

場が回り、ディーラーが三枚のカードを中央に並べる――フロップ。
ハート、クラブ、もう一枚の赤が並び、テーブルに色が差す。
ルカはチップをひとすくいし、指の間でゆっくり転がした。

「……ここから、面白くなりそうだ。」

吐息だけでそう言い、強気に前へ滑らせる。

「レイズ。」

卓上でチップが硬質な音を立て、冷たい波紋のように場全体へ広がった。
笑い声が一瞬、飲み込まれる。観客の喉が、ごくりと鳴った。
対面の男が一瞬だけ視線を落とす。
ルカはその隙に、ほんの一瞬だけナオを見やる。

「Andiamo a vincere, tesoro.」

観客には勝利を誓う熱い視線。
……だが、ナオには分かる。“お前の番だ”という冷たい合図だと。
ナオは、脚を組み替えると、あえて艶やかに片眉を上げて応えた。
観客席の前列で、赤い口紅の女がグラスを持ち上げる手を止める。
場の熱が、じわりと一段上がった。

その静けさは、嵐の一手を待っているようだった。


☆おまけ:ルカのイタリア語翻訳☆
Anche se perdo, me lo riprendo.
「勝っても負けても関係ない。お前は最終的に、俺のもんだ。」

Andiamo a vincere, tesoro.
「行こう、勝ちに──ハニー。」
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