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16.さよなら

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 1パーセントすらなかった望みは呆気なくゼロになる。耐えたかったのに堪えきれなかった涙は見られたくなかった。
 俯いたまま席を立つ藍音をナツは引き止めないし、何の言葉もない。
 
 感情のまま立ち上がったせいで椅子の音が大きく響いた。最後に顔を見ておくべきかとも思ったけど、結局視線は上げられず、藍音は足早に店をあとにした。
 
 失恋なんか何度も経験している。それに今回は始めから勝算なんかこれっぽっちもなかった。だけど胸がしくしく痛むのはどうにもできない。
 
(ただ顔が良いだけだし、気まぐれだし、そもそも悪魔だし!)
 
 はじめから好意を隠さなかった藍音の気持ちをナツは気付いていたはずだ。困ると言うのならあの夜放っておいてくれればよかったのに。藍音がどうなろうと彼には関係ない。意外に世話焼きなナツの中途半端な優しさはいっそ腹が立つ。
 
「だから私みたいなのが寄ってくるんじゃん……。面倒なこと引き寄せるのは自業自得だよ」
 
 次こそは優しくて、一途で、大切にしてれる人を探そう。不誠実な男なんかもう懲り懲りだ。
 人通りのない路地裏に辿り着き、雑に涙を拭う藍音は転移魔法を作動するため理力を発動させる。活気のある表通りとは違い、ここは殺風景で暗く、澱みも酷い。天界の清浄な空気に慣れた藍音には少し息苦しい。
 
 地上と行き来する魔法も今後は私用で使うことはないだろう。一夜限りの恋なんて、もうそんな不向きなことは二度としない。
 ナツのことだって過去の恋人と同じように思い出になっていくだけ。
 なのに彼のアイネと呼ぶ声を忘れたくないなんて、そんな馬鹿なことを願ってしまうのだ。



 
***



 
 あれからまた三か月。いつまでもスッキリしない心を紛らわせるため、藍音はとにかく仕事に励んだ。
 北に困っている人がいればさり気なく手を差し伸べ、東に不憫な恋人たちを見つければ得意の縁結びで仲を取り持つ。
 
 おかげで天使としては充実した日々を過ごしている。
 私生活は以前よりずっと酒量が増えたけど、それはいつものことだった。ミルカから何度か連絡はあったものの、なんとなく地上へはまだ行く気になれない。
 
 しかしここのところ仕事に精を出し過ぎたせいか、今日は暇で朝から何もやることがない。
 手元のグラスを傾けるたび透明の液体がゆらゆら揺れる。ふわりと甘いアルコールが香る天界の酒は、つまりアイネのにとっての地酒である。

 このままずっと一人でクッソ長い天使人生を満喫するのも良いかもしれない。なんて半ばヤケクソに酒を煽る藍音の耳に届いたノックの音が、思考を現実に戻した。
 
「はいはーい、どうぞー」
 
 どうせ部下の誰かだろう。今更格好付ける必要もない。藍音の風変わりはみんな知っている。とりあえず体内のアルコールだけは浄化魔法でサッと取り除いたけど。
 
 しかし予想はさっぱり外れていた。ソファにもたれたままの姿で待つ藍音は、現れた顔にぱちくりと瞳を瞬かせた。
 
「蒼真! えー、珍しいね。どうしたの?」
「ん、久しぶり。荒れてるって聞いたから」
 
 言いながら蒼真はテーブルの上にあるグラスをちらりと一瞥する。青みの強い黒髪に、月を思わせる冷たい色素の瞳。高校生として地上で生きる彼は藍音の幼馴染であり、ミルカの恋人である。
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