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第四話 愚物

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 ――ああ、なんてことだろう。

 目の前の景色がガラガラと音を立てて崩れていくかのような感覚。
 先ほどまで確固たるものだと信じていたものが偽りだったと知ってしまった俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。

 俺はやっと愛せるようになったんだ。
 ベレニスという哀れな少女。最初こそ拒絶しはしたが、彼女は本当に可愛らしくて、俺の冷え切っていた心は温められた。
 そのはず、だったのに。

 それが全部嘘だったとしたら俺はこれから何を思って生きていけばいいのだろう?


◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 俺は極度の女嫌いだった。
 社交界にいる女が皆俺の顔と金を目当てに擦り寄ってくる愚物ばかりだったこと。そのうち女に触れられることすら嫌悪するようになってしまった。

「女とははしたなく穢れた生き物だ。死んでも結婚などしてやるものか」

 一度はそう言ったものの、やはり周囲からの圧力というものはある。
 父から奪うようにして侯爵家当主を継いだ俺は、この歳になって婚約者すらいないことを責められるようになった。
 仕方がない。表向きだけでも誰かを娶ろう。
 そう考えて俺が打診したのは、アゼラン伯爵家令嬢ベレニス。先方はすぐに快い返事をくれ、まもなく彼女は俺の元へやって来た。

 彼女へ放った第一声は自分でも酷かったと思う。

「これは偽装結婚だ。故に、君を愛することはない。だからそのつもりでいろ」
「……はい、わかりました」

 しかしベレニスは泣き喚くことも不満を口にすることもなく、すんなりと受け入れてくれた。
 俺に媚び、やたら体を押し付けてきた他の令嬢たちとはまるで違うその反応に戸惑ったのをよく覚えている。

 それから始まった偽装結婚の日々。
 屋敷を歩いていると、至る所で彼女と出会う。彼女は掃除婦の格好をして屋敷の床を磨いていたり、時には庭いじりをしていたりと、奇怪な行動を繰り返していた。

「どうして君はそんなことばかりするんだ?」
「何か……ご迷惑だったでしょうか」
「そんなことはない。これは純粋なる疑問だ」
「生家ではこんなことばかりしておりましたので……」
「掃除や土いじりを?」
「……はい。す、すみません」

 悪くもないのに謝るベレニス。この時になって俺は、初めて違和感を抱いたのだったと思う。
 しかしこの時はまだそこまで問い詰めることはせず、「好きにするといい」と言ってその場から立ち去った。

 それからもベレニスのおかしな行動は続く。
 最初は迷惑だったはずなのに、それがいつしか当たり前だと思い始めている俺自身に驚いた。
 ベレニスとて、所詮は女なのだ。どうして絆されかけている? これは偽装結婚だ。愛さないと誓ったはずだろうに。

 だが胸に芽生えた想いは日に日に強くなっていく。
 ベレニスのあどけない笑顔、「ミック様」と優しく呼んでくれる声。それらが愛しいと思うようになるまでにいかほどの時間がかかったろうか。
 気づけば俺はすっかり彼女の虜になっていた。


 そんな俺の心に気づかないベレニスは、普段通りに過ごしている。
 本当にこのままでいいのか。俺は自分に問いかけた。偽装結婚として彼女と過ごし、ただの同居人として時を共にすることが耐えられるのだろうか? 最近は常に彼女を視線で追ってしまっているし、彼女に誘われて土いじりを手伝うことさえあるのだ。うっかりふとした瞬間に可憐な唇を奪ってしまわないとどうして言えるだろう?

 そこで力を借りたのは俺の右腕である執事、ラエルだった。
 ラエルは先代侯爵に仕えていた使用人の息子であり、幼い頃からこの屋敷で共に暮らしてきた幼馴染のような存在でもある。
 そんな彼に相談したところ、「侯爵様にもいよいよ恋煩いが」と散々茶化された後、真正面からベレニスにアプローチするように助言された。

 そこで俺が考えたのは、ベレニスとデートに行くこと。
 もちろんデートなどと言って彼女を連れ出すわけではない。何か適当な理由をつけ、そのついでだと言って二人きりになるのだ。我ながらいい計画だと思った。
 ベレニスをデートに誘い、出かけたところまでは良かった。だがそこで問題が発生する。俺が目を離した一瞬の間に何者かがベレニスを誘拐したのである。

 ラエスに協力してもらいながら、俺は必死になって彼女を探した。
 そしてわかったのは、リンチェスト侯爵家と敵対する某公爵家が企んだことであるということ。政治的な意味の他に、ベレニスにこっそり片想いを寄せていた公爵令息の思惑もあったことが後でわかったのだが、それはさておき。
 公爵家に彼女がいる。それがわかった途端、無謀であることは承知の上で俺は公爵邸に乗り込んだ。
 誰かのためにこんなに真剣になれたのは初めてだった。そこで色々あり、何度か窮地に陥りそうになりながらも――最後はベレニスを取り戻した。

 怖かったと言って泣きじゃくる彼女を慰め、どさくさに紛れて愛を伝えた俺。
 するとベレニスは頬を赤らめ、「嬉しいです」と笑ってくれた。それが嬉しくて俺は彼女とファーストキッスを交わした。

 ――そんな、ロマンス小説のようなハッピーエンド。
 女嫌いを克服した俺はこれから彼女と一緒に幸せな人生を歩んでいく……そう思っていた。

 そのために障害となるかも知れないものは排除しておかなければならない。
 ベレニスがポツリポツリと話してくれた虐げられていた辛い過去の話。それを聞いた俺はアゼラン伯爵家の者たちを断罪し、ベレニスの辛い過去を払拭することを決めた。

 それが間違いだったのだろうか?
 それとももっと前、そもそもベレニスを信じてしまったところから俺は道を違えていたのだろうか。

 アゼラン伯爵家の愚物どもを断罪するはずのその場で、逆に過去を日の目に晒されたのはベレニスで。
 義妹に罪をなすりつけようとするベレニス。ありもしない罪で義母を、義妹を、父を糾弾するベレニス。
 こんなの、俺は知らない。彼女に瓜二つの人物なだけだ。そう思いたい。思いたいのに。

 俺はわかってしまった。本当の愚物が誰だったのかを。
 ベレニスは、ただ、俺を利用しようとしただけで、愛してなどいなかった。
 一番愚かだったのはベレニスでもなければアゼラン伯爵家の者たちでもない。騙された俺だった。今まで周囲を見下し、心の中で愚物だと嘲笑ってきた俺自身だった。

 信じていたものが、幸せが、崩れていく音がする。

 ああ、嘘だ、嘘だ。
 ベレニスが見せてくれた笑顔は、かけられた言葉は、俺と過ごした日々が全て偽りだったのか。
 俺がどれだけ冷たくしようと優しく微笑んでくれたベレニスは。連れ去られても一心に俺の助けを待ってくれていたベレニスはただの演技で、本当の彼女はこの馬鹿げた映像に映し出された通りなのか。

 ふと視線を上げると、花嫁ドレスに顔を埋めて泣きじゃくるベレニスが見えた。彼女を目にして俺が思うこと、それは。

 ――守らなければ。

 騙されていたとわかったはずだ。全てが偽りだったとわかったはずだった。
 なのにどうして俺がそんな風に思ったのか、その答えはたった一つ。

 たとえ彼女が俺を本当に愛していなかったのだとしても、この胸にある気持ちだけは真実だから、それを嘘にしたくなかったのだ。

「ベレニス」

「……ミック、様」

「俺は君のことが好きだ」

 ――沈黙が落ちる。
 先ほどまでベレニスに真実とやらを見せつけていた辺境伯令息も。彼と抱き合うベレニスの義妹も彼女の両親も、全員が全員俺を呆れ顔で見ていた。
 ああわかってる。わかってるとも、俺が愚かなことくらい。俺は有能なんかじゃなかった。女一人の嘘も見抜けない男なのだ。周りの愚物と大して変わりない、いいやそれ以上の愚物だろう。
 しかしこんな愚物だからこそ言いたい。

「君が今でもあの辺境伯令息に想いが残っていても、俺は構わない。嘘まで吐いたことは許せないし、後できちんとアゼラン伯爵家に正式に慰謝料を払わなければならないが……それでもいい。
 君が本当に俺を好いていないのなら、今からでも好きにさせてみせる。だからベレニス、これからも俺と」

「……本気なの、あの侯爵閣下は」
「どうやら本気らしい。そういうことは後でやればいいのにな」
「本当ね」

 ローニャ嬢と辺境伯令息レンブラントが何やらゴニョゴニョ言っているのを聞かなかったことにし、俺は真っ直ぐにベレニスを見つめた。
 ベレニスは潤んだ瞳で俺を見上げる。そして震える声で言った。

「そんなの、嘘。都合のいいことばかり、言わないでください。どうせ皆がワタシを捨てるのに。ミック様も今、確かにワタシに失望したでしょう? ワタシはただ、奪われたものを取り返したかっただけなんです。復讐したかったんです。だからミック様を利用した。利用した、だけだったのに……っ」

「失望した。都合のいいことを言っているのもわかってる。でも俺は君が好きだよ。だから見捨てたりしない」

「ローニャが憎かった。レンブラントが恋しかった。でも、それよりも今は、ミック様が好きなんです」

 啜りなくベレニスを、床に両膝をついて姿勢を低くした俺はそっと抱きしめる。
 温かい。彼女の美しい薄紅色の瞳からこぼれ出す涙はなんて温かいんだろう。きっとこの涙だけは本物なんだと、俺には思えた。

「済まなかった。これからは過去のことなんてどうでもいいと思えるくらい、君を幸せにしてやるからな」

「ミック様……」

 涙で濡れるベレニスの頬に俺がキスを落とすと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
 どれほどそうしていただろう。やっと彼女から身を離した俺は立ち上がり、じっとこちらを注視していた結婚式の参加者たちに告げた。

「結婚式は続行だ」

 パチパチ、と申し分程度に聞こえてくる拍手。
 とても白けた雰囲気の結婚式となるだろうが、構わない。信頼はこれからゆっくり取り戻していけばいいのだから。



 この日、俺――ミック・リンチェストは、世界一可愛い嘘吐き悪女、ベレニス・アゼランと式を挙げ、真に結ばれたのだった。
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