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千年前に愛した女性
しおりを挟む桜に寄りかかるように倒れる橘の体は、重い。そして温かいものが桜の腕や着物を濡らしていく。
濡れた手を見れば、真っ赤だった。
当然だ。彼は首から背中にかけて、桜の代わりに斬られたのだ。
「たち……橘……?」
真っ白な頭で橘の名前を呼ぶと彼が呻いた。生きていることに安堵して、思わず涙がぼろぼろと溢れる。それでも血は、どんどん溢れて止まらない。それが最悪の事態を想像させて、震えが走る。
首の止血は、どこを圧迫すれば良い?背中の傷は?何もわからない自分を呪いながら、自身の着物で傷口を押さえようとする桜の腕を、そっと冷たい手が触れた。蝋梅だった。
「大丈夫です」
蝋梅が、一番傷の深そうな首元に手を当てた。
金色の光がぱあっと輝いて、橘の首の傷を照らしていく。少しずつ傷は塞がってるが、それに比例して蝋梅の額に汗が滲み、蝋梅が辛そうな顔をする。治癒には大変な集中力と体力がいる。重篤であればあるほど、一度に治すことは難しいのだと以前蝋梅が言っていたことを思い出す。
一番傷の深い首は、塞がった。それから背中の傷に手を当てる。
唇を噛み締めながら必死で治癒をかける蝋梅の顔色が、どんどん悪くなる。このままでは蝋梅の体がもたないーーそう思った時、帝が駆け寄って、蝋梅の背を支えた。
「もう大丈夫だ。橘にはすぐ医師がくる。休め」
一瞬悔やむような表情を見せる彼に、蝋梅が頷いた。桜に向かって「ひとまずは、大丈夫です」と微笑んで、桜は喉を詰まらせながら何度も何度も礼を言った。
その時、桜の耳に掠れた低い、橘の声が届いた。
「さ、くら……大丈夫か……怪我は……」
治癒のお陰で、意識が戻ったのだろう。かすり傷ひとつない桜を、代わりに大怪我をした橘が心配している。こみあげてくる物を必死で飲み下して、掠れた声で答えた。
「だ、大丈夫……橘が守ってくれたから……」
「そうか、良かった……」
良いことなんてあるわけなかった。桜の命より橘のほうがずっと大事だった。
桜のせいでまた、橘は危険な目に遭ってしまった。蝋梅がいなければ、彼は死んでいたかもしれない。そう思って震える手を見透かしたのか、橘が「お前は何も悪くない」と言った。
「今度は、守れた」
安堵したような、笑みを含んだ声だった。
「お前が幸せに生きててくれることだけが、俺の望みだ」
彼の体からまた完全に力が抜けて、桜は思わず悲鳴を上げた。同時に医師がやってきて、橘の様子を見る。
混乱を極める会場に、帝は観客全員に速やかに出ていくよう命じた。
四姫と近衛武士、それから治療をしている医師数人と武官。
それ以外に残ったのは、東一条家、西園寺家、北小路家の当主と他一部の高官だけだ。西園寺家の当主ーー橘の父は真っ青な厳しい顔で、橘のことを見つめている。治療の邪魔にならないように駆け寄りこそはしないものの、心配でたまらないことがその瞳から窺えた。
「南武忠政」
帝が静かに名を呼ぶと、地面に押さえつけられたままの忠政は疲れ切った表情で目を閉じた。
「……お前の行動だけが、予想外だったが。お前の仕える姫君が、望んだことだな」
忠政は激しく否定したが、狼狽えるその姿が雄弁に肯定していた。
その場の全員の視線が白萩に集まった。白萩がちらりと忠政を見たが、その眼差しには何の感情も宿っていない。
そんな彼女に何かを押し殺すかのような低い声で、帝が告げた。
「白萩。奇しくも今日は花の儀だ。この日に捕らえられた者には恩赦が下される故、命だけは保証しよう」
「ようやく、気付いてくださいましたか」
歌うような柔らかな声だった。驚いて彼女を見ると、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
それが不気味で、肌が粟立つ。彼女の表情や声音には、罪悪感や恐怖が一切感じられない。
「あなたと、わたくしの仇を取ろうと致しました。邪魔が入ってしまいましたが」
まっすぐ帝を見つめる目は、どろりと濁っているように見えた。
帝の顔が、珍しく引き攣った。
「……何を、言っている?」
「わたくしが誰なのかは、もうご存知なのでしょう?たくさんの手がかりを、差し上げました。龍花の犯人がわたくしなのだと、あなたは最初からわかっていた筈でしょう?」
もう覚えていないふりはおよしあそばせ、と花がほころぶような笑顔で笑う。
「千年前、あなたが深く深く愛して、憎んだ女がわたくしです。今は黒龍と呼ばれているようですが」
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