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2巻
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1
――篠原愛は、素敵な人と出会った。
彼の名前は奥宮楓。レストランやバーを経営する青年実業家で、海里グループという、飲食業界でも有名な会社の代表取締役だ。
それだけでなく、人気店の空間プロデュースを手掛けるようなすごい人。
しかも、フランス人と日本人のハーフである彼は、顔立ちが綺麗で整っており、中でも目の色が美しかった。緑にも見える茶色の瞳の中心を金色っぽく見える光彩が縁取っている。
まるで花が咲いているような、美しい瞳だった。
身長も高く、明るい色合いの柔らかそうな髪をしていて、絵本から抜け出した王子様みたいな容姿をしている。
神様は彼に、二物も三物も与えたのではないかと思うほどだ。
そんな彼と愛が初めて出会ったのは、兄の結婚式の二次会の時。愛はよく覚えていなかったが、彼は愛のことを覚えていた。
その理由が、一目見て愛のことが気になっていたからだと聞き、戸惑った。
当時、失恋したばかりだったのに、なぜか彼に誘われるままデートをした。いろいろな話をするうちに、彼の誠実な生き方や考え方に触れ、愛も少しずつ楓に惹かれていった。
そして愛は、彼と付き合うことになったのだ。
ちょっと前まで好きな人がいたのに、それを上回りすぎるほど、楓のことが好きになってしまった。こんなことがあるんだと、自分の心に驚いてしまった。
何をしていても、楓のことばかり考えてしまう。
それでようやく、自分は本気の恋をしているのだと気が付いた。
異性と付き合うのは初めてで、彼に全てを見せることに抵抗があったけれど、彼の優しさや気遣いを感じて、愛は彼に抱かれた。
楓は最後まで優しくて、恥ずかしかったけれど、これほど幸せだと感じたことはなかった。
この人のことが誰より好きだと、これが本当の恋だと、心の底から実感する。
ずっとこの幸せが続けばいいのに……
恋人になったばかりだというのに、愛はそう願わずにはいられなかった。
☆ ☆ ☆
目を覚ますと、緑茶色の目と視線が合った。
瞬きをしながら、緑茶色の目をじっと見て、愛は自分の状況を思い出す。
新しい年が明けたその日、愛は楓に誘われて、見るからに高級そうな料亭の個室を訪れた。そこで食事をし、そのまま宿泊施設を兼ねた離れの部屋に泊まったのだ。
元日で着物を着ていた愛は、一人で着られないから、と拒んだけれど。
着付けてあげると言う彼の言葉と、愛を欲しがる甘い言葉。それに何より、彼を好きな気持ちがあって、愛は楓を受け入れたのだった。
「……っ! 寝顔、不細工なのに」
咄嗟に布団をかぶるが、笑った彼にその布団を剥ぎ取られた。
「可愛かったよ、愛。君、うつ伏せで寝るんだね。この前もそうだった」
大きな手で愛の頬を撫で、顔を上げさせる。彼の長くて綺麗な指が、愛の前髪をそっと掻き分けた。
「絶対可愛くないし。もうっ、楓さん、じっと見ないで!」
寝顔のどこが可愛いのかと、楓から顔を背けるが、再度彼の方に戻された。
「楓、だよ。愛」
呼び方を正されて、ああそうか、と思い出す。
『愛には、そう呼ばれたい』
自分の名前が好きだと、愛に名前を呼んでもらいたいと言った楓。
これまで男の人の名前を呼び捨てにしたことなんかないけれど。
「楓」
「はい」
楓は、嬉しそうに笑みを向ける。彼は朝から王子様だった。寝乱れた柔らかそうな茶色の髪の毛が、布団の上に散っている。
愛の真っ直ぐな髪と違って、猫っ毛のようだ。
綺麗で爽やかな笑顔は、見る者を魅了し、目が離せなくなる。
こんな人が、愛の恋人だと思うと、ドキドキした。
「お風呂入る?」
「そ、そうですね」
昨日は入浴もせずに楓に抱かれた。そういえば、一度目もシャワーを浴びなかった。
愛としては、せめてシャワーを浴びてから愛し合いたい、と思うけれど。
「……こういうことする前に……シャワーとかしたい」
愛が小さな声で言うと、そうだね、と言って楓に首筋を撫でられた。
「でも、シャワーの後の清潔な香りもいいけど、愛自身の肌の香りの方がいいけどな」
大きな温かい手で首筋を撫で、楓がそこに鼻先をすり寄せる。
「……っ……私、の?」
鼻先をすり寄せられた肌が粟立ち、愛は息を詰めた。
「君の、肌の香り。香水と混ざって甘い香りがする。どこの香水をつけてるの?」
「香水なんて、つけてないですよ! ……あ、えっと、パウダー? 軽く、胸元にいい匂いのする粉をポンポンッて、するだけ」
いい匂いのする粉は、外国製。アメリカに旅行に行った、兄の妻のお土産だ。甘いけれど、甘いだけではない香りがとても気に入っていた。
全部使いきったら、今度は自分で取り寄せようと思っている。
「そう。じゃあ、ほとんど君の香りなんだね」
そう言って楓は、再度首筋に顔を埋めた後、鎖骨にも鼻先を近づけた。
「ぁ……っ」
「甘い声……その声、好きだな」
クスッと笑って、鎖骨にキスをした彼が、顔を離して愛を見た。
「お風呂入ろうか。檜風呂だよ」
そう言って布団から起き上がった楓の、均整の取れたしっかりした身体。
細身ではあるが、やはり外国の血が入っていると思わせる体躯で、肩のあたりや背中には自然な筋肉が綺麗にのっている。
本当にどこもかしこも王子様だな、と感心して彼を見ていると、旅館の寝巻に袖を通した楓に、身体を引き起こされた。
「起きて、行こう?」
にこりと微笑んだ顔が眩しい。
けれど、彼の言葉に内心で首を傾げる。まさか、一緒にお風呂に入るなんて思わない愛は、聞き返した。
「へ? あの、私も?」
「そうだよ」
「いや! 私は後で!」
男の人と一緒にお風呂に入るなんてあり得ない。そんな恥ずかしいこと、みんなはしているんだろうか?
「恥ずかしがると、こっちも恥ずかしくなる。大丈夫、おいで、愛」
「いや、でも」
なおも躊躇う愛の耳に唇を寄せ、楓が囁いた。
「君の裸は、全部知ってるよ」
朝からそんなことを色気たっぷりに言われた愛は、クラッとする。
確かに見られているだろうけれど。
「愛、お尻の骨の頂点に、黒子あるの知ってた?」
布団を引き寄せて、身体を隠していると、ここに、と臀部に楓の手が触れる。
「君に見えない場所も僕は知ってるのに、恥ずかしいの?」
そのまま愛の腰を撫でてくる手に、ん、と声が出る。
甘い声が恥ずかしい。
「行こうよ、愛」
そう言って、裸の肩に寝巻をかけてくる。
ゆっくり瞬きをして愛を見る仕草。
これがわざとではなかったら、この人は天然のタラシだ。
「……身体、だるいです」
寝巻に袖を通しながら言うと、楓がいきなり愛の身体を抱き上げた。
「きゃっ……!」
「これならいい?」
こうして彼に抱きかかえられたことは何度かあるけれど、愛としては自分の体重が気になってしまうわけで。
「重いでしょ?」
「うーん、そうでもない」
細身ながら楓の腕には綺麗な筋肉がついているので、抱えるのは大丈夫なのかもしれない。けれど、このまま裸になって一緒にお風呂は、やっぱり恥ずかしい。
そんなことを考えているうちにお風呂場に着いてしまい、目の前に露天の檜風呂が見える。
愛を下ろした楓は、躊躇いもなく寝間着の腰紐を解いた。寝間着の下の裸体を惜しげもなく晒して、タオルを手に取る。
「先に行ってる」
楓の全ては、愛も見知っている。けれども、こうして間近で見ると、やっぱりドキドキするし、自然と目がある部分にいってしまう。
軽く頭を振って彼から視線を逸らし、寝間着の腰紐を解いた。
そしてタオルで身体を隠して、湯船に向かう。
かけ湯もそこそこにさっさと湯船に入る。けれど、身体はタオルで隠したままだ。本当は湯船にタオルはつけてはいけないのだが、目の前の楓が気になってタオルを外せなかった。
「日本で育って、フランスに行った時、シャワーだけは慣れなかったな」
楓を見ると、彼は湯で顔を洗っていた。
「こうやって、しっかり湯に浸かることができなかったから、日本に戻った時ホッとした」
黙って聞いていると、楓に愛、と呼ばれる。
「おとなしいね、どうしたの?」
どうしたの、ってわかるでしょ? と内心で呟き、顔を少し横に向ける。
「いや、別に……」
男の人と一緒にお風呂に入るなんて、考えたこともなかったし。
なのに、付き合うことになって一ヶ月くらいで、キスをしてエッチをして、お風呂まで一緒に入っている。
恋愛経験皆無の愛にとっては、びっくりするくらいのステップアップだ。
キスもエッチも知らなかった自分が、楓に導かれるまま一足飛びで大人になってしまっている。
恋とはこういうものなのだろうか、といつも思う。
世の恋人たちも、みんなこんな風に、一気に大人の関係になっていくのか。
楓も愛と付き合う前に、恋人とお風呂に入ったりしていたのだろうか。
まったく躊躇いがないし、前の恋人とも同じようにしていたのかもしれない。
そう考えたら、なんとなくモヤモヤして、楓の過去の恋人に嫉妬してしまう。
無意識にムッとした顔になっていると、頬に大きな手が触れた。顔を上げると、楓がこちらに近づいて来るのが見えて、瞬きをする。
「緊張してる?」
肩を抱きしめてくる彼の手は、湯に入ったせいか温かい。
「……初めて、だからですね。楓さ……楓は、慣れているでしょうけど」
横を向いたまま、つい含みを持たせた言い方をしてしまう。すると、愛の鎖骨に指で触れながら、楓が少しだけ笑う。
「愛の初めては、全部僕なんだね。とてもラッキーな男だ、僕は」
そうして愛の身体をさらに自分の方へ引き寄せる。あっという間に、愛は湯の中で楓の膝の上に乗せられていた。
「こ、このエッチな体勢、やだ」
「何もしないから、このままでいて、愛」
ね? と王子様スマイルで言われて、愛は楓の肩に顎を乗せ、力を抜く。
「この後、初詣に行こうか? 初詣なんて久しぶりだ。ここ数年、ずっと忙しくてね。去年の夏くらいから、ようやく少し楽になった。思えば、愛に初めて会った頃くらいかな?」
優しく背を撫でられて、水音が響く。
「今年は大丈夫なの?」
預けていた身体を少し引いて、楓を見る。
「大丈夫だよ。ある程度忙しいのはしょうがないけど、色ボケかな? 君のことを考えたりすると、結構手を抜いちゃうんだ。でも周りからは、それくらいでいいって言われた。今までが頑張り過ぎだって」
愛の髪の毛に触れていた楓が、そういえば、と、こちらをじっと見てくる。
「髪の毛、切ったんだね? どうして?」
「楓、気付くのが遅くないですか?」
本当は、昨日会った時、一番に言われると思っていた。些細な変化でも、気付いてほしいのに、と思っていた。
「気付いてたんだけど、言うタイミングがなくて……。愛に会えたことの方が、嬉しかったから。着物姿が可愛いと思って」
そう言って照れくさそうに笑う楓が可愛くて、なんだかズルい。
「それに、昨日は、久しぶりに会うから緊張してて。……愛を誘うのに、すごくパワーを使った気がする。帰るって言われたらどうしようって、ずっと思ってた」
「そんな」
けれど、昨日はちょっと驚いた。
こんな高級な場所に来たのは初めてだし、しかもそのまま泊まるなんて思わなかったし。着物を脱がされて、意識が飛ぶまで楓に抱かれて。
「好きな人を抱くって、幸せだ」
にこりと笑う王子様。誰だってこんな顔を見たらクラッとする。唇を寄せてくるので、それに応えるように目を閉じる。
深いキスが、当たり前になってきた。楓の舌に応えるのに、慣れてきている自分がいる。
「ん……っ」
「愛、好きだ」
彼の言葉が、心にも身体にも響く。
愛は、それに応えるように楓の首に腕を巻き付け、抱きしめた。
再会してから、それほど経っていないのに。こんな風に恋に落ちるものなのか、と愛は内心首を傾げる。
楓の言葉にも、笑顔にも、そして身体にも感じてしまっている。
そうなるのは、きっと相手が楓だからだろう。
こんな人、もう現れないと思った。
だからこそ、愛の恋愛指数はどんどん高まっていく。
これほど好きになれる人と出会えたのは、愛にとって幸運だった。
本気の恋をしている。だからこそ感じるのは、離れたくないという気持ち。そして、少しも揺るがず、はっきりと思うことがある。
それは――この人しかいない、ということだった。
☆ ☆ ☆
風呂から上がって、襦袢を着付けてもらう時、目の前の楓がふっと笑った。
「どうして笑うの?」
彼は膝立ちになり、襦袢の左右を持ちながら、愛のショーツに軽く触れた。
「いや、今日はレース系の下着だなって思って。ハワイで脱がせたパンツは、キャラクターだったから」
確かに、彼と初めてエッチをした時、愛が着けていたのはキャラクターものの上下セットだった。色気も何もない下着だったのは、まさか仕事で同行した旅先で楓とそういうことをするとは思わなかったからだ。下着に気を遣ってなかったのは、しょうがない。
クスッと笑った彼は、襦袢を愛に合わせながら見上げてくる。
「も、やだ! 今更、言うこと?」
顔を赤くする愛に、楓は首を振って可笑しそうに笑った。
「いや、可愛いなと思って。下着も可愛かったしね。……なんか、若い子を抱いたって、実感が湧いたよ」
話す間も、楓は襦袢の丈を合わせて腰紐を結び、愛の胸元を綺麗に整えた。
「ああいう下着は、締め付けがなくて楽そうだな、と思った」
朝起きて、きちんと綺麗に畳んで置いてあるキャラクターものの下着を見て、恥ずかしくて堪らなかった。
「子供っぽくてすみませんでした!」
「どうして怒るの? 可愛かったのに」
彼は着物を着付ける手を止めず、慣れた様子で紐を結んでいく。
「だって、恥ずかしかったし。キャラクターものなんて、子供みたいでしょ?」
楓はそう? と言って、ハンガーにかけていた着物を愛に着せる。
「どんなデザインでも、好きな子の下着を脱がせる時は、緊張と興奮でドキドキするよ、僕は」
後ろから着物を着せかけながら言われた言葉に、愛の方がドキドキしてしまう。愛を裸にする時、彼はそんなことを思っていたのか。
今はどうだろう。着物を着せながら、何を思っているのだろう。
襟の部分に伸ばされる手や、袖を直される時に触れる指先に、愛はドキドキしている。男の人に着付けてもらっているからなのか、それとも楓だからか。
一枚一枚、重ねられているのに、なぜか脱がされているような錯覚を覚える。
「紐の結び方、苦しくない?」
ひざまずいた彼に見上げられながら問われる。おかしな妄想を振り切るために、愛は彼から目を逸らして小さく頷いた。
「大丈夫」
男の人なのに、着物をスムーズに着付けていく楓は、いったいどこでそれを身に付けたのだろう。
「自分でも、着物を着たりするの?」
「いや」
「じゃあ、どうして女の人の着物の着付けができるの?」
楓は、愛の襟元に指先を触れさせたまま、やや間をおいて問いに答えた。
「……母に、着せてあげたことが何度もあるからだよ」
そうして、にこりと笑う。
「あまり上手くないけどね」
楓はそう言うけれど、上手だと思う。愛の後ろから帯を回し、締め上げる強さもちょうど良くて、苦しくない。もともと半幅帯だから結構楽なのだが。
「できたよ」
ポンと軽く帯を叩かれて、後ろにいる楓を見ると、満足そうに笑みを浮かべていた。
「久し振りだけど、上手くできたかも。綺麗だよ、愛」
本当に臆面もなくそういうことを言ってくる楓に、顔が火照る。
綺麗だなんて、男の人は面と向かって言ったりしないだろう。
「本当に綺麗だ。もう一度、脱がせたくなるくらい……」
そう言って少し声を出して笑って、愛の着物の合わせ目を指先でなぞった。その指先が、合わせ目の中にほんの少しだけ入ってくる。
胸に触れるとかではなく、ただそっと合わせ目に指が入っただけなのに、愛は心臓が跳ね上がった気がした。
一足飛びに、大人の雰囲気が漂う。
愛は今、楓に意味深な誘惑をされている。
ついこの前まで、恋愛なんて本当の意味で知らなかった。だから、異性に触れられることが不快ではなく、喜びになるなんて思いもしなかった。
ただ着物の合わせ目に触れるだけのことが、こんなにエロティックになるなんて思わない。
「初詣……行く、んでしょ?」
言葉に詰まりながら言うと、彼は愛の首筋にスッと触れた。
「そうだね」
「夜は用事があるって……」
二人でお風呂に入っていた時、彼は夜に約束があると言っていた。だから、初詣に行った後は、帰るものだと思っていた。
別れるのがなんだか寂しい気もするが、用事があるのなら仕方がない。
「うん。でも、夜までまだ時間があるから、近くに初詣に行って、あとはどう過ごそう?」
どう過ごそう、と聞かれても返答に困る。
ずっと一緒にいると、離れがたくなりそうだ。
「私は、家に帰る……」
「それはなんだか寂しいな」
本当に寂しそうに楓は眉を下げて言った。
楓も同じ気持ちでいることを嬉しく思う反面、時間はもう、朝の十時になろうとしている。
夜の約束が何時からなのかわからないけど、初詣に行った後は帰った方がよさそうだ。楓に約束がなかったなら、正月休みなので、明日まで一緒にいられたかもしれないけれど。
そんなことを考えている自分に、愛は内心で首を振る。自分は、初めての真剣な恋に、随分と色ボケしているのかもしれない。
愛がいろいろと考えを巡らせていると、楓が思いついたように、あ、と言った。
「初詣の後は初売りに行こうか。君に服を買って、そのまま僕の家に行こう……」
「私の服? それはちょっと遠慮を……」
楓にとっては軽いプレゼントのつもりかもしれないが、そんなにしてもらっていいのかという遠慮が先に立ち、首を振って断ろうとした。
しかし、全てを言えなかったのは、彼が愛を後ろから抱きしめ、着物の合わせ目をなぞり、スッと手を入れてきたからだった。
彼の手が愛の乳房に直に触れ、軽く揉み上げる。
「服を買ったら、着物を着なくてもいい……これを脱がせても、困らないよね?」
「そ、そんなこと……」
昨夜、あれだけ熱く愛し合ったのに、楓はまだ愛が欲しいという。
それに、服を買う理由が、エッチなことをするためなんて。
「昨日、二回も、したのに?」
愛は彼の腕からそっと抜け出ると、彼を見上げる。
「なんだか今日は、君と離れたくないんだ。約束の時間まで、一緒にいてほしい」
彼は切実にそう願っているような顔をした。なんでそんな顔をするんだろうと思った。
「セックスが目的みたいに思われても仕方ないけど、抱きしめていると、君をより近くに感じられて……僕の大切な人だと、実感できるんだ」
いつもの笑顔を向けてくる彼に、ドキドキする。楓は本当に、愛を抱きたいと思っているようだった。
彼に大切な人だと言われるのは、愛も嬉しい。
でも、行為をまだ恥ずかしいと思うのは、どうしようもない事実で。
「……もうしたくない?」
その声だけでなんだかダメになりそうだった。彼の声はいつも甘く響き、なんでも言うことを聞いてしまいそうになる。
愛を大切にしてくれるとわかっているから、余計にそうなってしまうのかもしれない。
「……だって、夜に約束があるなら、初詣に行った後、少し休んでからの方がいいんじゃないの。お酒とか、飲むんでしょう? だったら別に、今日じゃなくても……」
「離れがたいんだ。君の体温を感じたい」
楓は本当に愛がくらくらするような言葉ばかり言う。けれど、このまま彼と過ごしても、約束があるならずっと愛の傍にいてくれるわけじゃない。
「でも……」
「じゃあ、ここで脱ぐ? もう一泊しようか。夜、用事が終わったら戻ってくるから」
とてもいいところではあるけれど、こんな場所にもう一泊なんて、とんでもないことだ。
さすがに贅沢すぎる。
――篠原愛は、素敵な人と出会った。
彼の名前は奥宮楓。レストランやバーを経営する青年実業家で、海里グループという、飲食業界でも有名な会社の代表取締役だ。
それだけでなく、人気店の空間プロデュースを手掛けるようなすごい人。
しかも、フランス人と日本人のハーフである彼は、顔立ちが綺麗で整っており、中でも目の色が美しかった。緑にも見える茶色の瞳の中心を金色っぽく見える光彩が縁取っている。
まるで花が咲いているような、美しい瞳だった。
身長も高く、明るい色合いの柔らかそうな髪をしていて、絵本から抜け出した王子様みたいな容姿をしている。
神様は彼に、二物も三物も与えたのではないかと思うほどだ。
そんな彼と愛が初めて出会ったのは、兄の結婚式の二次会の時。愛はよく覚えていなかったが、彼は愛のことを覚えていた。
その理由が、一目見て愛のことが気になっていたからだと聞き、戸惑った。
当時、失恋したばかりだったのに、なぜか彼に誘われるままデートをした。いろいろな話をするうちに、彼の誠実な生き方や考え方に触れ、愛も少しずつ楓に惹かれていった。
そして愛は、彼と付き合うことになったのだ。
ちょっと前まで好きな人がいたのに、それを上回りすぎるほど、楓のことが好きになってしまった。こんなことがあるんだと、自分の心に驚いてしまった。
何をしていても、楓のことばかり考えてしまう。
それでようやく、自分は本気の恋をしているのだと気が付いた。
異性と付き合うのは初めてで、彼に全てを見せることに抵抗があったけれど、彼の優しさや気遣いを感じて、愛は彼に抱かれた。
楓は最後まで優しくて、恥ずかしかったけれど、これほど幸せだと感じたことはなかった。
この人のことが誰より好きだと、これが本当の恋だと、心の底から実感する。
ずっとこの幸せが続けばいいのに……
恋人になったばかりだというのに、愛はそう願わずにはいられなかった。
☆ ☆ ☆
目を覚ますと、緑茶色の目と視線が合った。
瞬きをしながら、緑茶色の目をじっと見て、愛は自分の状況を思い出す。
新しい年が明けたその日、愛は楓に誘われて、見るからに高級そうな料亭の個室を訪れた。そこで食事をし、そのまま宿泊施設を兼ねた離れの部屋に泊まったのだ。
元日で着物を着ていた愛は、一人で着られないから、と拒んだけれど。
着付けてあげると言う彼の言葉と、愛を欲しがる甘い言葉。それに何より、彼を好きな気持ちがあって、愛は楓を受け入れたのだった。
「……っ! 寝顔、不細工なのに」
咄嗟に布団をかぶるが、笑った彼にその布団を剥ぎ取られた。
「可愛かったよ、愛。君、うつ伏せで寝るんだね。この前もそうだった」
大きな手で愛の頬を撫で、顔を上げさせる。彼の長くて綺麗な指が、愛の前髪をそっと掻き分けた。
「絶対可愛くないし。もうっ、楓さん、じっと見ないで!」
寝顔のどこが可愛いのかと、楓から顔を背けるが、再度彼の方に戻された。
「楓、だよ。愛」
呼び方を正されて、ああそうか、と思い出す。
『愛には、そう呼ばれたい』
自分の名前が好きだと、愛に名前を呼んでもらいたいと言った楓。
これまで男の人の名前を呼び捨てにしたことなんかないけれど。
「楓」
「はい」
楓は、嬉しそうに笑みを向ける。彼は朝から王子様だった。寝乱れた柔らかそうな茶色の髪の毛が、布団の上に散っている。
愛の真っ直ぐな髪と違って、猫っ毛のようだ。
綺麗で爽やかな笑顔は、見る者を魅了し、目が離せなくなる。
こんな人が、愛の恋人だと思うと、ドキドキした。
「お風呂入る?」
「そ、そうですね」
昨日は入浴もせずに楓に抱かれた。そういえば、一度目もシャワーを浴びなかった。
愛としては、せめてシャワーを浴びてから愛し合いたい、と思うけれど。
「……こういうことする前に……シャワーとかしたい」
愛が小さな声で言うと、そうだね、と言って楓に首筋を撫でられた。
「でも、シャワーの後の清潔な香りもいいけど、愛自身の肌の香りの方がいいけどな」
大きな温かい手で首筋を撫で、楓がそこに鼻先をすり寄せる。
「……っ……私、の?」
鼻先をすり寄せられた肌が粟立ち、愛は息を詰めた。
「君の、肌の香り。香水と混ざって甘い香りがする。どこの香水をつけてるの?」
「香水なんて、つけてないですよ! ……あ、えっと、パウダー? 軽く、胸元にいい匂いのする粉をポンポンッて、するだけ」
いい匂いのする粉は、外国製。アメリカに旅行に行った、兄の妻のお土産だ。甘いけれど、甘いだけではない香りがとても気に入っていた。
全部使いきったら、今度は自分で取り寄せようと思っている。
「そう。じゃあ、ほとんど君の香りなんだね」
そう言って楓は、再度首筋に顔を埋めた後、鎖骨にも鼻先を近づけた。
「ぁ……っ」
「甘い声……その声、好きだな」
クスッと笑って、鎖骨にキスをした彼が、顔を離して愛を見た。
「お風呂入ろうか。檜風呂だよ」
そう言って布団から起き上がった楓の、均整の取れたしっかりした身体。
細身ではあるが、やはり外国の血が入っていると思わせる体躯で、肩のあたりや背中には自然な筋肉が綺麗にのっている。
本当にどこもかしこも王子様だな、と感心して彼を見ていると、旅館の寝巻に袖を通した楓に、身体を引き起こされた。
「起きて、行こう?」
にこりと微笑んだ顔が眩しい。
けれど、彼の言葉に内心で首を傾げる。まさか、一緒にお風呂に入るなんて思わない愛は、聞き返した。
「へ? あの、私も?」
「そうだよ」
「いや! 私は後で!」
男の人と一緒にお風呂に入るなんてあり得ない。そんな恥ずかしいこと、みんなはしているんだろうか?
「恥ずかしがると、こっちも恥ずかしくなる。大丈夫、おいで、愛」
「いや、でも」
なおも躊躇う愛の耳に唇を寄せ、楓が囁いた。
「君の裸は、全部知ってるよ」
朝からそんなことを色気たっぷりに言われた愛は、クラッとする。
確かに見られているだろうけれど。
「愛、お尻の骨の頂点に、黒子あるの知ってた?」
布団を引き寄せて、身体を隠していると、ここに、と臀部に楓の手が触れる。
「君に見えない場所も僕は知ってるのに、恥ずかしいの?」
そのまま愛の腰を撫でてくる手に、ん、と声が出る。
甘い声が恥ずかしい。
「行こうよ、愛」
そう言って、裸の肩に寝巻をかけてくる。
ゆっくり瞬きをして愛を見る仕草。
これがわざとではなかったら、この人は天然のタラシだ。
「……身体、だるいです」
寝巻に袖を通しながら言うと、楓がいきなり愛の身体を抱き上げた。
「きゃっ……!」
「これならいい?」
こうして彼に抱きかかえられたことは何度かあるけれど、愛としては自分の体重が気になってしまうわけで。
「重いでしょ?」
「うーん、そうでもない」
細身ながら楓の腕には綺麗な筋肉がついているので、抱えるのは大丈夫なのかもしれない。けれど、このまま裸になって一緒にお風呂は、やっぱり恥ずかしい。
そんなことを考えているうちにお風呂場に着いてしまい、目の前に露天の檜風呂が見える。
愛を下ろした楓は、躊躇いもなく寝間着の腰紐を解いた。寝間着の下の裸体を惜しげもなく晒して、タオルを手に取る。
「先に行ってる」
楓の全ては、愛も見知っている。けれども、こうして間近で見ると、やっぱりドキドキするし、自然と目がある部分にいってしまう。
軽く頭を振って彼から視線を逸らし、寝間着の腰紐を解いた。
そしてタオルで身体を隠して、湯船に向かう。
かけ湯もそこそこにさっさと湯船に入る。けれど、身体はタオルで隠したままだ。本当は湯船にタオルはつけてはいけないのだが、目の前の楓が気になってタオルを外せなかった。
「日本で育って、フランスに行った時、シャワーだけは慣れなかったな」
楓を見ると、彼は湯で顔を洗っていた。
「こうやって、しっかり湯に浸かることができなかったから、日本に戻った時ホッとした」
黙って聞いていると、楓に愛、と呼ばれる。
「おとなしいね、どうしたの?」
どうしたの、ってわかるでしょ? と内心で呟き、顔を少し横に向ける。
「いや、別に……」
男の人と一緒にお風呂に入るなんて、考えたこともなかったし。
なのに、付き合うことになって一ヶ月くらいで、キスをしてエッチをして、お風呂まで一緒に入っている。
恋愛経験皆無の愛にとっては、びっくりするくらいのステップアップだ。
キスもエッチも知らなかった自分が、楓に導かれるまま一足飛びで大人になってしまっている。
恋とはこういうものなのだろうか、といつも思う。
世の恋人たちも、みんなこんな風に、一気に大人の関係になっていくのか。
楓も愛と付き合う前に、恋人とお風呂に入ったりしていたのだろうか。
まったく躊躇いがないし、前の恋人とも同じようにしていたのかもしれない。
そう考えたら、なんとなくモヤモヤして、楓の過去の恋人に嫉妬してしまう。
無意識にムッとした顔になっていると、頬に大きな手が触れた。顔を上げると、楓がこちらに近づいて来るのが見えて、瞬きをする。
「緊張してる?」
肩を抱きしめてくる彼の手は、湯に入ったせいか温かい。
「……初めて、だからですね。楓さ……楓は、慣れているでしょうけど」
横を向いたまま、つい含みを持たせた言い方をしてしまう。すると、愛の鎖骨に指で触れながら、楓が少しだけ笑う。
「愛の初めては、全部僕なんだね。とてもラッキーな男だ、僕は」
そうして愛の身体をさらに自分の方へ引き寄せる。あっという間に、愛は湯の中で楓の膝の上に乗せられていた。
「こ、このエッチな体勢、やだ」
「何もしないから、このままでいて、愛」
ね? と王子様スマイルで言われて、愛は楓の肩に顎を乗せ、力を抜く。
「この後、初詣に行こうか? 初詣なんて久しぶりだ。ここ数年、ずっと忙しくてね。去年の夏くらいから、ようやく少し楽になった。思えば、愛に初めて会った頃くらいかな?」
優しく背を撫でられて、水音が響く。
「今年は大丈夫なの?」
預けていた身体を少し引いて、楓を見る。
「大丈夫だよ。ある程度忙しいのはしょうがないけど、色ボケかな? 君のことを考えたりすると、結構手を抜いちゃうんだ。でも周りからは、それくらいでいいって言われた。今までが頑張り過ぎだって」
愛の髪の毛に触れていた楓が、そういえば、と、こちらをじっと見てくる。
「髪の毛、切ったんだね? どうして?」
「楓、気付くのが遅くないですか?」
本当は、昨日会った時、一番に言われると思っていた。些細な変化でも、気付いてほしいのに、と思っていた。
「気付いてたんだけど、言うタイミングがなくて……。愛に会えたことの方が、嬉しかったから。着物姿が可愛いと思って」
そう言って照れくさそうに笑う楓が可愛くて、なんだかズルい。
「それに、昨日は、久しぶりに会うから緊張してて。……愛を誘うのに、すごくパワーを使った気がする。帰るって言われたらどうしようって、ずっと思ってた」
「そんな」
けれど、昨日はちょっと驚いた。
こんな高級な場所に来たのは初めてだし、しかもそのまま泊まるなんて思わなかったし。着物を脱がされて、意識が飛ぶまで楓に抱かれて。
「好きな人を抱くって、幸せだ」
にこりと笑う王子様。誰だってこんな顔を見たらクラッとする。唇を寄せてくるので、それに応えるように目を閉じる。
深いキスが、当たり前になってきた。楓の舌に応えるのに、慣れてきている自分がいる。
「ん……っ」
「愛、好きだ」
彼の言葉が、心にも身体にも響く。
愛は、それに応えるように楓の首に腕を巻き付け、抱きしめた。
再会してから、それほど経っていないのに。こんな風に恋に落ちるものなのか、と愛は内心首を傾げる。
楓の言葉にも、笑顔にも、そして身体にも感じてしまっている。
そうなるのは、きっと相手が楓だからだろう。
こんな人、もう現れないと思った。
だからこそ、愛の恋愛指数はどんどん高まっていく。
これほど好きになれる人と出会えたのは、愛にとって幸運だった。
本気の恋をしている。だからこそ感じるのは、離れたくないという気持ち。そして、少しも揺るがず、はっきりと思うことがある。
それは――この人しかいない、ということだった。
☆ ☆ ☆
風呂から上がって、襦袢を着付けてもらう時、目の前の楓がふっと笑った。
「どうして笑うの?」
彼は膝立ちになり、襦袢の左右を持ちながら、愛のショーツに軽く触れた。
「いや、今日はレース系の下着だなって思って。ハワイで脱がせたパンツは、キャラクターだったから」
確かに、彼と初めてエッチをした時、愛が着けていたのはキャラクターものの上下セットだった。色気も何もない下着だったのは、まさか仕事で同行した旅先で楓とそういうことをするとは思わなかったからだ。下着に気を遣ってなかったのは、しょうがない。
クスッと笑った彼は、襦袢を愛に合わせながら見上げてくる。
「も、やだ! 今更、言うこと?」
顔を赤くする愛に、楓は首を振って可笑しそうに笑った。
「いや、可愛いなと思って。下着も可愛かったしね。……なんか、若い子を抱いたって、実感が湧いたよ」
話す間も、楓は襦袢の丈を合わせて腰紐を結び、愛の胸元を綺麗に整えた。
「ああいう下着は、締め付けがなくて楽そうだな、と思った」
朝起きて、きちんと綺麗に畳んで置いてあるキャラクターものの下着を見て、恥ずかしくて堪らなかった。
「子供っぽくてすみませんでした!」
「どうして怒るの? 可愛かったのに」
彼は着物を着付ける手を止めず、慣れた様子で紐を結んでいく。
「だって、恥ずかしかったし。キャラクターものなんて、子供みたいでしょ?」
楓はそう? と言って、ハンガーにかけていた着物を愛に着せる。
「どんなデザインでも、好きな子の下着を脱がせる時は、緊張と興奮でドキドキするよ、僕は」
後ろから着物を着せかけながら言われた言葉に、愛の方がドキドキしてしまう。愛を裸にする時、彼はそんなことを思っていたのか。
今はどうだろう。着物を着せながら、何を思っているのだろう。
襟の部分に伸ばされる手や、袖を直される時に触れる指先に、愛はドキドキしている。男の人に着付けてもらっているからなのか、それとも楓だからか。
一枚一枚、重ねられているのに、なぜか脱がされているような錯覚を覚える。
「紐の結び方、苦しくない?」
ひざまずいた彼に見上げられながら問われる。おかしな妄想を振り切るために、愛は彼から目を逸らして小さく頷いた。
「大丈夫」
男の人なのに、着物をスムーズに着付けていく楓は、いったいどこでそれを身に付けたのだろう。
「自分でも、着物を着たりするの?」
「いや」
「じゃあ、どうして女の人の着物の着付けができるの?」
楓は、愛の襟元に指先を触れさせたまま、やや間をおいて問いに答えた。
「……母に、着せてあげたことが何度もあるからだよ」
そうして、にこりと笑う。
「あまり上手くないけどね」
楓はそう言うけれど、上手だと思う。愛の後ろから帯を回し、締め上げる強さもちょうど良くて、苦しくない。もともと半幅帯だから結構楽なのだが。
「できたよ」
ポンと軽く帯を叩かれて、後ろにいる楓を見ると、満足そうに笑みを浮かべていた。
「久し振りだけど、上手くできたかも。綺麗だよ、愛」
本当に臆面もなくそういうことを言ってくる楓に、顔が火照る。
綺麗だなんて、男の人は面と向かって言ったりしないだろう。
「本当に綺麗だ。もう一度、脱がせたくなるくらい……」
そう言って少し声を出して笑って、愛の着物の合わせ目を指先でなぞった。その指先が、合わせ目の中にほんの少しだけ入ってくる。
胸に触れるとかではなく、ただそっと合わせ目に指が入っただけなのに、愛は心臓が跳ね上がった気がした。
一足飛びに、大人の雰囲気が漂う。
愛は今、楓に意味深な誘惑をされている。
ついこの前まで、恋愛なんて本当の意味で知らなかった。だから、異性に触れられることが不快ではなく、喜びになるなんて思いもしなかった。
ただ着物の合わせ目に触れるだけのことが、こんなにエロティックになるなんて思わない。
「初詣……行く、んでしょ?」
言葉に詰まりながら言うと、彼は愛の首筋にスッと触れた。
「そうだね」
「夜は用事があるって……」
二人でお風呂に入っていた時、彼は夜に約束があると言っていた。だから、初詣に行った後は、帰るものだと思っていた。
別れるのがなんだか寂しい気もするが、用事があるのなら仕方がない。
「うん。でも、夜までまだ時間があるから、近くに初詣に行って、あとはどう過ごそう?」
どう過ごそう、と聞かれても返答に困る。
ずっと一緒にいると、離れがたくなりそうだ。
「私は、家に帰る……」
「それはなんだか寂しいな」
本当に寂しそうに楓は眉を下げて言った。
楓も同じ気持ちでいることを嬉しく思う反面、時間はもう、朝の十時になろうとしている。
夜の約束が何時からなのかわからないけど、初詣に行った後は帰った方がよさそうだ。楓に約束がなかったなら、正月休みなので、明日まで一緒にいられたかもしれないけれど。
そんなことを考えている自分に、愛は内心で首を振る。自分は、初めての真剣な恋に、随分と色ボケしているのかもしれない。
愛がいろいろと考えを巡らせていると、楓が思いついたように、あ、と言った。
「初詣の後は初売りに行こうか。君に服を買って、そのまま僕の家に行こう……」
「私の服? それはちょっと遠慮を……」
楓にとっては軽いプレゼントのつもりかもしれないが、そんなにしてもらっていいのかという遠慮が先に立ち、首を振って断ろうとした。
しかし、全てを言えなかったのは、彼が愛を後ろから抱きしめ、着物の合わせ目をなぞり、スッと手を入れてきたからだった。
彼の手が愛の乳房に直に触れ、軽く揉み上げる。
「服を買ったら、着物を着なくてもいい……これを脱がせても、困らないよね?」
「そ、そんなこと……」
昨夜、あれだけ熱く愛し合ったのに、楓はまだ愛が欲しいという。
それに、服を買う理由が、エッチなことをするためなんて。
「昨日、二回も、したのに?」
愛は彼の腕からそっと抜け出ると、彼を見上げる。
「なんだか今日は、君と離れたくないんだ。約束の時間まで、一緒にいてほしい」
彼は切実にそう願っているような顔をした。なんでそんな顔をするんだろうと思った。
「セックスが目的みたいに思われても仕方ないけど、抱きしめていると、君をより近くに感じられて……僕の大切な人だと、実感できるんだ」
いつもの笑顔を向けてくる彼に、ドキドキする。楓は本当に、愛を抱きたいと思っているようだった。
彼に大切な人だと言われるのは、愛も嬉しい。
でも、行為をまだ恥ずかしいと思うのは、どうしようもない事実で。
「……もうしたくない?」
その声だけでなんだかダメになりそうだった。彼の声はいつも甘く響き、なんでも言うことを聞いてしまいそうになる。
愛を大切にしてくれるとわかっているから、余計にそうなってしまうのかもしれない。
「……だって、夜に約束があるなら、初詣に行った後、少し休んでからの方がいいんじゃないの。お酒とか、飲むんでしょう? だったら別に、今日じゃなくても……」
「離れがたいんだ。君の体温を感じたい」
楓は本当に愛がくらくらするような言葉ばかり言う。けれど、このまま彼と過ごしても、約束があるならずっと愛の傍にいてくれるわけじゃない。
「でも……」
「じゃあ、ここで脱ぐ? もう一泊しようか。夜、用事が終わったら戻ってくるから」
とてもいいところではあるけれど、こんな場所にもう一泊なんて、とんでもないことだ。
さすがに贅沢すぎる。
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