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29 「和加」
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ペケの視線の先には、耳の穴を小指でほじくる和明の姿があった。
「軽い体しとんなあ。に、魚食え、魚」
一瞬『肉』と言いかけて訂正した和明の言葉に、
「煮魚?」
とペケが聞き返した。
「魚や!」
「喋られへんのやったら芸人なんぞやめてしまえ!」
「芸人はお前じゃ、お喋り朝鮮人が!」
「俺は日本生まれの日本育ちじゃ、この部落民が!」
一色が立ちあがったペケの肘を掴んで、左足をぴょこんと跳ね上げてから、前に押し出して言った。
「漫才しとらんで早よ行けや、もう」
「ああー、不完全燃焼!」
再びペケが走り出した。ペケのダッシュに合わせて、今度は和明が先に右腕を引く。ドンピシャのタイミングで放った和明の右ストレートを、ペケは飛び箱を飛び越えるようにしてかわすと同時に、両手でその右ストレートを掴んで和明の体に張り付いた。両足を和明の太腿に乗せて、右腕を引っこ抜かんばかりの力で掴んでいる。
和明は右腕を引き戻す事が出来ずに、左手でペケのジャンパーを掴んだ。
「自分、根っこでも生えてんの!?」
自分よりも背の高い人間にしがみつかれて尚倒れない和明の体幹に、思わずペケはそう愚痴を零した。
「底引き網漁知ってるかあ?」
和明が笑ってそう言った。
「お前の体なんぞごっそり獲物咥えた網に比べたら風船みたいなもんじゃ。ほな、死んでくれ」
言いながら和明が高々とペケの体を持ち上げた。
「同じ手喰らうわけないやろ」
蒼ざめた顔でそう言うと、ペケは掴んでいた和明の腕を引き寄せ、右手を伸ばして人さし指を和明の左目に突き刺した。
「おほー、痛いー」
挑発するペケの声など聞こえないかのように、和明は怯むことなく両腕に力を込めた。
「見えへんようなっても知らんぞ!」
「口閉じてろ、舌噛んで死ぬぞ」
そのまま和明はペケを投げ飛ばすべく体を捻った。抉られた和明の左目から鮮血が飛び散る。和明はそのまま幅広の階段状になっている絨毯敷の通路に、持ち上げたペケを背中から叩きつけた。
「あかん」
と頭の後ろに手を回して受け身の姿勢を取ろうとしたペケだが、背中を段差に打ち付けられて海老反りになった。
和明はジタバタとあえぐペケの尻目掛けて、蹴りを放つ。くぐもった声を上げて転がるペケを冷ややかに見下ろし、和明は手近な酒瓶を探して手に取った。テーブルの端で酒瓶を割ると、膝をついて左手でペケの衣服を掴んだ。
「こっちこい」
「触んなボケ!」
無作為に放ったペケの蹴りが和明の左胸に当たり、よろめいた。その隙を突いて立ち上がったペケは、同じく酒瓶を引っ掴んで、割った。
「いッ」
背中の痛みに身を捩りながら、ペケは酒瓶を突き出して構えた。先程のまでの浮ついた余裕は消えさり、怒りに満ちた目で和明を睨んでいる。和明は溜息を付いて立ち上がると、ひと呼吸置いて、ノーモーションで酒瓶を投げ付けた。
「おい!」
ペケが間一髪酒瓶をかわすと、傾いた彼の鎖骨に体重の乗った和明の前蹴りが飛んだ。ペケの手を離れた割れた酒瓶が、ホステス達の一団へ飛び込み「ギャー」と悲鳴が上がる。飛んで来た酒瓶の軌道を冷静に目で追いながら、一色が呟いた。
「話になりませんな。まだ五年早かったか」
仰向けにひっくり返ったペケのジャンパーを、和明は今度こそがっしりと掴んだ。首から上だけを持ち上げて睨むペケを見据え、和明は何かを言おうとした。しかし右手で後頭部をボリボリ掻いた後、無言でペケを殴り始めた。
まずは腹、上から叩き下ろす和明の拳がペケの鳩尾に減り込む。そしてペケの体を手前に引き寄せ、顔面を何発も殴る。
途中和明が右目を上げて一色を見やると、笑顔で拍手していた。腹が立ち、またペケを殴る。
「約束は、守るんやろうな」
と、再度一色を睨み付けて和明は言った。一色は拍手するのをやめ、
「何の話です?」
と答えた。
和明が円加を見やった。円加は俯いて、和明達の喧嘩を見てはいなかった。
一色が視線を追い、やがて円加に辿り着く。
「…ああ。その事」
「どうなんじゃ」
「あんさんも大概やな。うちが面倒見てる若いのいてこましといて、まだ金銭たかりますか」
一色の言い草に、和明は答える代わりにペケの顔を殴った。
「そいつまだ十五歳ですよ」
振り上げた和明の拳が止まる。
「どう落とし前付けてくれはりますの」
一色の冷たい声に、和明は拳を下ろした。
「…男前が、台無しやんけ」
ペケが息も絶え絶えにそう言った。まだ意識があったのか。和明は驚きながらも、掴んでいたペケの胸倉から手を離した。
「落とし前なぁ」
和明は立ち上がってそう言うと、その場で腕組みをして「うーん」と考える素振りを見せた。人を食ったような和明本来の行動に、場の主導権を握った気でいた一色の眉がピクリと反応した。
やがて和明は腕を解くと、顔を上げて、
「どうでもええやんけ。見ろやこの目。お前らも無傷で帰ろうなんて思うなよ。死ぬまでやろうや」
と言い放った。
和明の言葉を聞いたペケはがくりと後頭部を落とし、気絶した。
固唾を飲んで見守っていた四ツ谷組の構成員たちは、酔いの覚めた白い顔で一色を見やる。
「はあ」
沈黙の後、一色は脱力したような声を出し、下を向いた。やがて、
「がっかりやな」
と言った。
「あんさんが死んだ所でワテは何も思いません。ただ、一人でここへ乗り込んできたあんさんの男気には、ちょっとしたシンパシーを感じちょりました。バリマツの兄貴は、よう今のあんさんみたいに無茶な喧嘩を楽しむお人で、最後には必ず美味い飯食いにいこかー言うて、ワテらに笑いかけてくれはりました。その兄貴を殺した志摩太一郎いう輩は、ワテが絶対に殺します。絶対に殺します。絶対に、殺します。ただ、命というものは、一個しかないという事も、ワテは今回の事件で学んだわけです。あんさんは、どないだ? なんの為に、ここまで来ましたんや? 死ぬためでっか? …無傷で帰さん?…死ぬまでやろうや? …笑わせんなよこのクソガキが! とことんやったる言うんはこっちの台詞じゃ!生きて帰れる思うなよボケナスこんクソお前コラ!今ッ…!」
兄貴!四ツ谷組の構成員が、一色の体を掴んで揺さぶった。
我に返った一色の耳にも、すぐ側まで来ているパトカーのサイレンが聞こえたようだった。
「クソ、なんでじゃ!大之木!」
突然一色に名を呼ばれた『イギリス』の支配人は、猿ぐつわを嵌められ後ろ手に縛られたままホステスの集団からピョコリと立ち上がった。
「お前、は、ずっとここにおったな?」
一色の問い掛けに大之木は何度も頷く。
三島か、と和明は思いを巡らせた。足元で失神しているペケは当分意識が戻らないだろう。…終わったか、和明が溜息をそっと逃がした時、
「善明!」
一色が叫んだ。驚いて和明が見やると、一色がニヤリと気持ちの悪い笑みを張り付けた顔で、和明を睨んでいた。やおら右手を持ち上げると、人さし指を和明に向けた。そしてそのままツンツンと和明を指さすと、一色は何も言わずにフロアの奥へと消えた。
「…何か言えや!」
和明にとって赤江の隣街とは、飲み屋街の事である。仕事を終えて、飲み食いする夜の街。それ以外の目的で赤江の外をうろつく事はなかったし、仕事で朝が早い和明はそもそもあまり出歩く事をしない。隣町と気安く呼べど、和明にとっては勝手知ったる庭という印象ではなかった。
泣きながら乞う円加たっての希望とあって、気乗りせぬまま彼女の部屋を訪れた時も、和明には赤江の隣町がまるで知らない世界に思えた。飲み屋が軒を連ねる界隈以外を、歩いた記憶すらなかった。
円加は職場の近くに借りた狭いアパートで、一人暮らしをしていると言う。弟妹たちはどないした、和明はそう言いかけて口を噤んだ。
到着したのは、お世辞にも綺麗とは言い難い築年数の経過した木造アパートである。軋む階段を登り、かび臭い二階の廊下を通って突き当りのその部屋に和明が入ったのは、実はこの時が初めてであった。
裸電球に照らされた六畳一間の畳敷き。円加が仕事で着る衣装は全て店の所有物の為、この部屋にはない。部屋にあるのはちゃぶ台と座布団が二枚、小さな冷蔵庫、そして十九歳の娘が使うには小さすぎる箪笥が一棹あるのみだった。
「狭いでしょ。でも拘ったんですよ、この部屋。お風呂付なんです、ほら」
「へえ、それはええな」
「トイレは共同やのに、馬鹿みたいでしょ」
「なんでや、拘りは大事やで。センスあるがな」
和明はキャバレー『イギリス』でしか見た事のない円加の、煌びやかな印象の内側を見た気がして、円加の言葉に返事をする以外、自分からは何も言えなくなってしまった。
貧困に対して思う事などあろうはずがない。ただこれまで円加は、貧乏振りを感じさせない明るさに包まれた人柄を決して崩そうとはしなかった。出会ってからこの一年、お互いの休日にデートを重ねる間も、それは同じだった。あくまでもキャバレーのホステス、明るいホステス、その姿勢を円加は貫いて来たのだ。
和明に今あるのは、戸惑いだった。そこには、彼の生き様ともいうべき信念が関わっていた。
人は男女の区別なく、すべからく格好を付けて生きるのが良いと思っているのが、和明という人間なのである。
金があろうとなかろうと、仕事があろうとなかろうと、喧嘩が強かろうと弱かろうと、それはどちらでも良い。駄目なのは、他人に無様をさらす事だと考える。金がなくとも気にしない、仕事がなくてもいじけない、喧嘩が弱かろうと屈しない。矮小な己の正体が何者であれ、格好付ける事を忘れたら、こんなクソみたいな現実を生きぬく事は出来ない。
そういった話を、和明はよく銀一達と交わしていたという。だからこそ、和明は格好良い円加が好きだったのだ。
疲れ果て、剥き出しの自分を見せながら力なく微笑む彼女を直視する事に、ためらうのも無理はなかった。本来円加は、そんな自分を他人に見られたくないのではないか。自分と照らし合わせた時、和明は自然とそう考えたからだ。
「お酒、飲みませんか?」
と、円加が言った。
「気使わんでええよ、疲れたやろ」
「それは、和明さんの方こそ」
「…なんぞ話、あるのか?」
「それは…。左目、ほんまに大丈夫なんですか?」
「ああ。目の端っこに爪入れられただけや。眼球イカれてないから、じきに治る」
「そうですか、良かったです」
円加は申し訳程度に備え付けられた小さな炊事場の前に立ち、和明に背を向けながら、
「和明さん」
名を呼んだ。これまで和明が聞いた事の無いほど、か細く震えた声だった。
「和明さんは、…何で怒りはらへんの?」
そう円加が言い終わらぬうちに、
「なあ」
と和明が声を発した。わずかに怒気を含んだように聞こえる和明の声に、円加は目を閉じて黙った。
「風呂入って来いや」
と、和明は言った。
「…え?」
「匂いがよう。きついわ」
「え」
「風呂付の部屋なら丁度ええよ。ペケに舐められた頬っぺたがよ、臭うてかなわんのよ。はよ風呂行って洗うて来い」
もし出会ったその日に惚れ男からこれを言われたら、溜まらず号泣したかもしれない。しかし円加なりに見て来た和明を相手に、言葉の裏に隠された真意を見抜けない程彼女は馬鹿ではなかった。ただ円加はその言葉を和明の人としての優しさと受け取るか、愛情と受け取るかで悩んだ。だがそのどちらにせよ、答えは一つしかなかった。
「はい」
そう頷いて風呂場へ向かう円加の背中に、和明がさらに声を掛けた。
「ゆっくり。ゆっくり行っといでな。…疲れたやろうから」
円加は堰を切ったように流れ出る涙を拭いながら、何度も頷いた。
和明のそれは、優しさであり愛情であると言えた。ただし、円加が思い描いた方向性とは違っていた。
風呂から出た円加は、狭い部屋から和明の姿か消えている事にすぐに気が付いた。和明が着ていた上着も、履いていた靴もなくなっている。円加はバスタオル一枚を体に巻いただけの状態で戻って来ると、そのままちゃぶ台の側にへたり込んだ。ちゃぶ台の上には、この部屋には無かったはずのザラ半紙(ワラ半紙)が置かれていた。
手に取ると、ほのかに魚の匂いがした。
紙には、和明の書いた汚い文字で、こうあった。
『もどります。カゼひかんようにしてください』
円加は書置きを握りしめて泣いた。
「なんで敬語やの。…和明さん、お願いやから、怒ってよ」
円加はちゃぶ台に突っ伏して泣いた。
円加は自分を惨めだと思った。
貧乏に負けたのではない。惚れた男と生きる未来よりも目先のお金を選んだ、自分の人間性に負けたのだ。
和明はそれを責めず、最後まで格好付けたまま、円加の前から立ち去った。
今も耳に残る、「ゆっくりな」と言った和明の声が思い出された。
改めて思うまでもなく、円加は和明を愛していた。愛していながら、それでもお金を選んだ。許されない事は承知の上だ。ただその代わり、せめてきちんと怒られたかった。腹を立て、悪しざまに罵って欲しかった。そうすれば和明を忘れられたかもしれないし、忘れなくてはいけないのだと、自分に言い聞かせる事が出来た。
だが、円加は思い当たったのだ。ふと顔を上げ、泣くのをやめた。
「違う…」
円加は頭を振って一人ごちると、書置きを握り締めたまま立ち上がった。
和明は、円加が自分を追って来るなどとは考えもしなかった。
もしそんな可能性を思い描いていれば、もう一本早い電車に乗っていたはずなのだ。
駅のホームで煙草を吸いながら、東京行きの最終電車を待つ間、和明が考えていたのはペケの事だった。
十五歳の少年を、下手をすれば後遺症が残る程の力で痛めつけてしまった。あの後ペケはどうなっただろうか。恐らくは逮捕されたはずで、その後はどこかの少年刑務所に収容されてしまうのだろう。思い起こせばケンジとユウジは最後まで、一度も現行犯逮捕された事がないと、自慢気に話していたっけな…。
「和明さん!」
若い女の叫び声に、和明だけでなく、ホームにいた全員が振り返った。
ベージュのスカート、白いブラウス、茶色の着古したジャケット。見た事がない程地味な格好をした円加が、肩で息をしながら立っていた。髪はまだ濡れていた。
「…そう来たかァ」
驚きを隠せぬ顔で、和明は呟いた。
「来ました!」
と円加は答えた。
「私!すみませんでした!優しくしてくれた和明さんを裏切った事、私、一生忘れません!」
思わず迫力のある円加の言いように、一瞬和明は黙った。しかしはたと思い付き、片眉を下げて、
「…それは、お前が言うセリフか?」
と言って、微笑った。
「そやけど!一生を掛けてお返しします!私!思い上がってました!すみませんでした!」
「なんやなんや、話がでかいな。一生とか、思い上がりとか、よう分からんよ」
「私、許してもらおうやなんて思ってません。そやけど、やっぱり和明さんの側におりたいから、いつかもう一度信じてもらえる日が来るまで、一生をかけてお返しします」
「困ったな…」
「お返ししたいんです!」
和明は本当に困惑した顔を浮かべながら、後頭部を手で掻いた。
尚も、円加は言う。
「私、顔中舐められはしましたけど、あのペケいう男にも、一色いうヤクザにも、何もされてません!伴侶やなんて大ウソです! 和明さんだけです!」
彼女の必死さは伝わった。しかし円加の言葉を受けて、和明は思わず声を上げて笑ってしまった。
「ウソと違います!」
「そんな事どうでもええんじゃ。下らん事言うなボケ」
「え?」
「二度と言うな、そんなどうでもええ話」
「え、ええ…」
「あのなあッ。例えお前がペケに何をされとろうが、一色に何をされとろうが、例えあの場におった四ツ谷組全員に輪姦されとったとしても、そんな事でお前の価値は何一つ変わらんのんじゃ!円加!お前は物と違うんぞ!新品とか古とかそんな事に一体なんの意味がある!二度と言うな!分かったか!」
それは他人が聞けば、震えあがる程強烈な怒声であった。
最終電車を待つ駅のホームにはまだ、まばらながらも行き交う利用客たちの姿があった。それらが和明の声から逃げるように、勢いよく散らばって行く。
しかし円加はその場に立ち尽くしながらも、和明の放つ愛情の深さに全身を震わせていた。無言で何度も頷き、滴る涙を拭って、円加は微笑んだ。
「私。初めて、男の人を好きになりました」
「おお、そうかいな」
円加は豪快に鼻をすすり上げ、
「和明さんですわ」
と、お道化た調子でそう言った。
「あはは、おう」
「もうほんまに、好きなんですわ」
「べっぴんさんがえらい顔で泣いとるなぁ。ありがとうな」
「出会ってもう一年経ちますけど、今日やっと、本当の私をお見せできました。こんな私で、もうほんま、すみません」
「あははは!なんでや、謝るなよ」
「なんでそない、和明さんは優しいのやろ?」
「優しいないよ、頭がおかしいだけじゃ」
唇を真一文字に結んで、円加はぶんぶんと頭を横に振った。
「私は全部を和明さんに押し付けようとしてました。あなたを裏切ったのは私の方やのに、あなたに捨てられて終わる事まで勝手に決めつけてました。そんなんおかしいですよね。和明さんはまだ何も仰っていないのに、私が決めてええ事やないですよね。だからもう、私から身を引こうとするのはやめました。例え小便ちびる程怒られたって、この気持ちはもう変えようがありません。これからもどうか、和明さんの側においたって下さい」
両手を揃えて前に回し、円加は深く頭を下げた。
「キャバレー『イギリス』の格好ええマリーは、一体どこへ行ったんじゃ」
笑いながらそう冗談を言う和明の言葉に答えられぬ程、円加は泣き崩れていた。顔を上げて涙を拭う円加の手の甲が、離れて立つ和明の目にもぶるぶると震えて映った。これはいよいよ、どうしたものかと和明が困り果てた所へ、最終電車到着のアナウンスが響いた。
円加は驚き、一瞬何事か分からずホーム内に視線を走らせると、やがて事態を把握し、悲しそうな顔を俯かせた。
「なんや勘違いしとるみたいから、それだけ言うといたるわ」
人々の移動やアナウンスでにわかに騒然とし始めたホームの音に負けないように、和明は語気を強めてそう言った。
「俺はそもそも、別に裏切られたからいうて怒ってなんかないよ。そんなもん当たり前の話やんけ。出会って一年やそこらの男より、血の繋がった家族の為に必死で金を掴みに行った円加が正しいんやから」
「和明さん」
「貧乏を知ってる。苦労を知ってる。そういう人間の方が、俺は信用でける。本当に大切なものが何か、ちゃんと分かってるからや。お前は間違ってないよ。せやから安心せえ、なんかあったらまた俺に言うて来い」
和明がそう言った途端、突然円加はくるりと背中を向けてしまった。哀れな程に、感極まった円加の背中が震えていた。しかし円加は両手を口元に添えると、腹の底からこう叫んだのだ。
「みなさーん!私の恋人なー!世界一優しいんですわー!」
「やめえ、お前!阿保か!」
「もう大好きなんですわー!」
電車が滑り込んで来る。その轟音に円加の声がかき消され、和明は思わずほっとして額の汗を拭った。
「はよ帰って来てくださいね」
振り返ってそう言った円加の声が小さく、和明はすぐ側に歩み寄って頷いた。
「美味い魚、腹いっぱい食わせたるわな」
「それは、いつ?」
「銀ちゃんがなあ、ああ見えて、喧嘩はバチクソ強いくせして、おつむが弱いもんでなあ。俺らで支えたらなあかんし、まあ、もうちょっと待っといてくれ。じきや」
「ほなそれまで、首やのうて体洗うて待ってます」
「あはは!すまん事言うたな、お前は全然臭い事なんかあれへんよ」
「…え、意味伝わってません?」
「何が?」
発車のベルが轟き、和明は慌てて電車に飛び乗った。
「ほな!」
「行ってらっしゃい、お気を付けて!」
「風邪ひかんようにな。なんかあったら、またすぐ電話してこい」
「はい。友穂姉さんによろしゅう」
「おお、言うとく」
「和明さん。愛してます」
「…え、なんて?」
「私の全てをあなたに差し上げます」
「もうちょい大きい声で!」
「…頑張って!」
「おう!」
「軽い体しとんなあ。に、魚食え、魚」
一瞬『肉』と言いかけて訂正した和明の言葉に、
「煮魚?」
とペケが聞き返した。
「魚や!」
「喋られへんのやったら芸人なんぞやめてしまえ!」
「芸人はお前じゃ、お喋り朝鮮人が!」
「俺は日本生まれの日本育ちじゃ、この部落民が!」
一色が立ちあがったペケの肘を掴んで、左足をぴょこんと跳ね上げてから、前に押し出して言った。
「漫才しとらんで早よ行けや、もう」
「ああー、不完全燃焼!」
再びペケが走り出した。ペケのダッシュに合わせて、今度は和明が先に右腕を引く。ドンピシャのタイミングで放った和明の右ストレートを、ペケは飛び箱を飛び越えるようにしてかわすと同時に、両手でその右ストレートを掴んで和明の体に張り付いた。両足を和明の太腿に乗せて、右腕を引っこ抜かんばかりの力で掴んでいる。
和明は右腕を引き戻す事が出来ずに、左手でペケのジャンパーを掴んだ。
「自分、根っこでも生えてんの!?」
自分よりも背の高い人間にしがみつかれて尚倒れない和明の体幹に、思わずペケはそう愚痴を零した。
「底引き網漁知ってるかあ?」
和明が笑ってそう言った。
「お前の体なんぞごっそり獲物咥えた網に比べたら風船みたいなもんじゃ。ほな、死んでくれ」
言いながら和明が高々とペケの体を持ち上げた。
「同じ手喰らうわけないやろ」
蒼ざめた顔でそう言うと、ペケは掴んでいた和明の腕を引き寄せ、右手を伸ばして人さし指を和明の左目に突き刺した。
「おほー、痛いー」
挑発するペケの声など聞こえないかのように、和明は怯むことなく両腕に力を込めた。
「見えへんようなっても知らんぞ!」
「口閉じてろ、舌噛んで死ぬぞ」
そのまま和明はペケを投げ飛ばすべく体を捻った。抉られた和明の左目から鮮血が飛び散る。和明はそのまま幅広の階段状になっている絨毯敷の通路に、持ち上げたペケを背中から叩きつけた。
「あかん」
と頭の後ろに手を回して受け身の姿勢を取ろうとしたペケだが、背中を段差に打ち付けられて海老反りになった。
和明はジタバタとあえぐペケの尻目掛けて、蹴りを放つ。くぐもった声を上げて転がるペケを冷ややかに見下ろし、和明は手近な酒瓶を探して手に取った。テーブルの端で酒瓶を割ると、膝をついて左手でペケの衣服を掴んだ。
「こっちこい」
「触んなボケ!」
無作為に放ったペケの蹴りが和明の左胸に当たり、よろめいた。その隙を突いて立ち上がったペケは、同じく酒瓶を引っ掴んで、割った。
「いッ」
背中の痛みに身を捩りながら、ペケは酒瓶を突き出して構えた。先程のまでの浮ついた余裕は消えさり、怒りに満ちた目で和明を睨んでいる。和明は溜息を付いて立ち上がると、ひと呼吸置いて、ノーモーションで酒瓶を投げ付けた。
「おい!」
ペケが間一髪酒瓶をかわすと、傾いた彼の鎖骨に体重の乗った和明の前蹴りが飛んだ。ペケの手を離れた割れた酒瓶が、ホステス達の一団へ飛び込み「ギャー」と悲鳴が上がる。飛んで来た酒瓶の軌道を冷静に目で追いながら、一色が呟いた。
「話になりませんな。まだ五年早かったか」
仰向けにひっくり返ったペケのジャンパーを、和明は今度こそがっしりと掴んだ。首から上だけを持ち上げて睨むペケを見据え、和明は何かを言おうとした。しかし右手で後頭部をボリボリ掻いた後、無言でペケを殴り始めた。
まずは腹、上から叩き下ろす和明の拳がペケの鳩尾に減り込む。そしてペケの体を手前に引き寄せ、顔面を何発も殴る。
途中和明が右目を上げて一色を見やると、笑顔で拍手していた。腹が立ち、またペケを殴る。
「約束は、守るんやろうな」
と、再度一色を睨み付けて和明は言った。一色は拍手するのをやめ、
「何の話です?」
と答えた。
和明が円加を見やった。円加は俯いて、和明達の喧嘩を見てはいなかった。
一色が視線を追い、やがて円加に辿り着く。
「…ああ。その事」
「どうなんじゃ」
「あんさんも大概やな。うちが面倒見てる若いのいてこましといて、まだ金銭たかりますか」
一色の言い草に、和明は答える代わりにペケの顔を殴った。
「そいつまだ十五歳ですよ」
振り上げた和明の拳が止まる。
「どう落とし前付けてくれはりますの」
一色の冷たい声に、和明は拳を下ろした。
「…男前が、台無しやんけ」
ペケが息も絶え絶えにそう言った。まだ意識があったのか。和明は驚きながらも、掴んでいたペケの胸倉から手を離した。
「落とし前なぁ」
和明は立ち上がってそう言うと、その場で腕組みをして「うーん」と考える素振りを見せた。人を食ったような和明本来の行動に、場の主導権を握った気でいた一色の眉がピクリと反応した。
やがて和明は腕を解くと、顔を上げて、
「どうでもええやんけ。見ろやこの目。お前らも無傷で帰ろうなんて思うなよ。死ぬまでやろうや」
と言い放った。
和明の言葉を聞いたペケはがくりと後頭部を落とし、気絶した。
固唾を飲んで見守っていた四ツ谷組の構成員たちは、酔いの覚めた白い顔で一色を見やる。
「はあ」
沈黙の後、一色は脱力したような声を出し、下を向いた。やがて、
「がっかりやな」
と言った。
「あんさんが死んだ所でワテは何も思いません。ただ、一人でここへ乗り込んできたあんさんの男気には、ちょっとしたシンパシーを感じちょりました。バリマツの兄貴は、よう今のあんさんみたいに無茶な喧嘩を楽しむお人で、最後には必ず美味い飯食いにいこかー言うて、ワテらに笑いかけてくれはりました。その兄貴を殺した志摩太一郎いう輩は、ワテが絶対に殺します。絶対に殺します。絶対に、殺します。ただ、命というものは、一個しかないという事も、ワテは今回の事件で学んだわけです。あんさんは、どないだ? なんの為に、ここまで来ましたんや? 死ぬためでっか? …無傷で帰さん?…死ぬまでやろうや? …笑わせんなよこのクソガキが! とことんやったる言うんはこっちの台詞じゃ!生きて帰れる思うなよボケナスこんクソお前コラ!今ッ…!」
兄貴!四ツ谷組の構成員が、一色の体を掴んで揺さぶった。
我に返った一色の耳にも、すぐ側まで来ているパトカーのサイレンが聞こえたようだった。
「クソ、なんでじゃ!大之木!」
突然一色に名を呼ばれた『イギリス』の支配人は、猿ぐつわを嵌められ後ろ手に縛られたままホステスの集団からピョコリと立ち上がった。
「お前、は、ずっとここにおったな?」
一色の問い掛けに大之木は何度も頷く。
三島か、と和明は思いを巡らせた。足元で失神しているペケは当分意識が戻らないだろう。…終わったか、和明が溜息をそっと逃がした時、
「善明!」
一色が叫んだ。驚いて和明が見やると、一色がニヤリと気持ちの悪い笑みを張り付けた顔で、和明を睨んでいた。やおら右手を持ち上げると、人さし指を和明に向けた。そしてそのままツンツンと和明を指さすと、一色は何も言わずにフロアの奥へと消えた。
「…何か言えや!」
和明にとって赤江の隣街とは、飲み屋街の事である。仕事を終えて、飲み食いする夜の街。それ以外の目的で赤江の外をうろつく事はなかったし、仕事で朝が早い和明はそもそもあまり出歩く事をしない。隣町と気安く呼べど、和明にとっては勝手知ったる庭という印象ではなかった。
泣きながら乞う円加たっての希望とあって、気乗りせぬまま彼女の部屋を訪れた時も、和明には赤江の隣町がまるで知らない世界に思えた。飲み屋が軒を連ねる界隈以外を、歩いた記憶すらなかった。
円加は職場の近くに借りた狭いアパートで、一人暮らしをしていると言う。弟妹たちはどないした、和明はそう言いかけて口を噤んだ。
到着したのは、お世辞にも綺麗とは言い難い築年数の経過した木造アパートである。軋む階段を登り、かび臭い二階の廊下を通って突き当りのその部屋に和明が入ったのは、実はこの時が初めてであった。
裸電球に照らされた六畳一間の畳敷き。円加が仕事で着る衣装は全て店の所有物の為、この部屋にはない。部屋にあるのはちゃぶ台と座布団が二枚、小さな冷蔵庫、そして十九歳の娘が使うには小さすぎる箪笥が一棹あるのみだった。
「狭いでしょ。でも拘ったんですよ、この部屋。お風呂付なんです、ほら」
「へえ、それはええな」
「トイレは共同やのに、馬鹿みたいでしょ」
「なんでや、拘りは大事やで。センスあるがな」
和明はキャバレー『イギリス』でしか見た事のない円加の、煌びやかな印象の内側を見た気がして、円加の言葉に返事をする以外、自分からは何も言えなくなってしまった。
貧困に対して思う事などあろうはずがない。ただこれまで円加は、貧乏振りを感じさせない明るさに包まれた人柄を決して崩そうとはしなかった。出会ってからこの一年、お互いの休日にデートを重ねる間も、それは同じだった。あくまでもキャバレーのホステス、明るいホステス、その姿勢を円加は貫いて来たのだ。
和明に今あるのは、戸惑いだった。そこには、彼の生き様ともいうべき信念が関わっていた。
人は男女の区別なく、すべからく格好を付けて生きるのが良いと思っているのが、和明という人間なのである。
金があろうとなかろうと、仕事があろうとなかろうと、喧嘩が強かろうと弱かろうと、それはどちらでも良い。駄目なのは、他人に無様をさらす事だと考える。金がなくとも気にしない、仕事がなくてもいじけない、喧嘩が弱かろうと屈しない。矮小な己の正体が何者であれ、格好付ける事を忘れたら、こんなクソみたいな現実を生きぬく事は出来ない。
そういった話を、和明はよく銀一達と交わしていたという。だからこそ、和明は格好良い円加が好きだったのだ。
疲れ果て、剥き出しの自分を見せながら力なく微笑む彼女を直視する事に、ためらうのも無理はなかった。本来円加は、そんな自分を他人に見られたくないのではないか。自分と照らし合わせた時、和明は自然とそう考えたからだ。
「お酒、飲みませんか?」
と、円加が言った。
「気使わんでええよ、疲れたやろ」
「それは、和明さんの方こそ」
「…なんぞ話、あるのか?」
「それは…。左目、ほんまに大丈夫なんですか?」
「ああ。目の端っこに爪入れられただけや。眼球イカれてないから、じきに治る」
「そうですか、良かったです」
円加は申し訳程度に備え付けられた小さな炊事場の前に立ち、和明に背を向けながら、
「和明さん」
名を呼んだ。これまで和明が聞いた事の無いほど、か細く震えた声だった。
「和明さんは、…何で怒りはらへんの?」
そう円加が言い終わらぬうちに、
「なあ」
と和明が声を発した。わずかに怒気を含んだように聞こえる和明の声に、円加は目を閉じて黙った。
「風呂入って来いや」
と、和明は言った。
「…え?」
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「え」
「風呂付の部屋なら丁度ええよ。ペケに舐められた頬っぺたがよ、臭うてかなわんのよ。はよ風呂行って洗うて来い」
もし出会ったその日に惚れ男からこれを言われたら、溜まらず号泣したかもしれない。しかし円加なりに見て来た和明を相手に、言葉の裏に隠された真意を見抜けない程彼女は馬鹿ではなかった。ただ円加はその言葉を和明の人としての優しさと受け取るか、愛情と受け取るかで悩んだ。だがそのどちらにせよ、答えは一つしかなかった。
「はい」
そう頷いて風呂場へ向かう円加の背中に、和明がさらに声を掛けた。
「ゆっくり。ゆっくり行っといでな。…疲れたやろうから」
円加は堰を切ったように流れ出る涙を拭いながら、何度も頷いた。
和明のそれは、優しさであり愛情であると言えた。ただし、円加が思い描いた方向性とは違っていた。
風呂から出た円加は、狭い部屋から和明の姿か消えている事にすぐに気が付いた。和明が着ていた上着も、履いていた靴もなくなっている。円加はバスタオル一枚を体に巻いただけの状態で戻って来ると、そのままちゃぶ台の側にへたり込んだ。ちゃぶ台の上には、この部屋には無かったはずのザラ半紙(ワラ半紙)が置かれていた。
手に取ると、ほのかに魚の匂いがした。
紙には、和明の書いた汚い文字で、こうあった。
『もどります。カゼひかんようにしてください』
円加は書置きを握りしめて泣いた。
「なんで敬語やの。…和明さん、お願いやから、怒ってよ」
円加はちゃぶ台に突っ伏して泣いた。
円加は自分を惨めだと思った。
貧乏に負けたのではない。惚れた男と生きる未来よりも目先のお金を選んだ、自分の人間性に負けたのだ。
和明はそれを責めず、最後まで格好付けたまま、円加の前から立ち去った。
今も耳に残る、「ゆっくりな」と言った和明の声が思い出された。
改めて思うまでもなく、円加は和明を愛していた。愛していながら、それでもお金を選んだ。許されない事は承知の上だ。ただその代わり、せめてきちんと怒られたかった。腹を立て、悪しざまに罵って欲しかった。そうすれば和明を忘れられたかもしれないし、忘れなくてはいけないのだと、自分に言い聞かせる事が出来た。
だが、円加は思い当たったのだ。ふと顔を上げ、泣くのをやめた。
「違う…」
円加は頭を振って一人ごちると、書置きを握り締めたまま立ち上がった。
和明は、円加が自分を追って来るなどとは考えもしなかった。
もしそんな可能性を思い描いていれば、もう一本早い電車に乗っていたはずなのだ。
駅のホームで煙草を吸いながら、東京行きの最終電車を待つ間、和明が考えていたのはペケの事だった。
十五歳の少年を、下手をすれば後遺症が残る程の力で痛めつけてしまった。あの後ペケはどうなっただろうか。恐らくは逮捕されたはずで、その後はどこかの少年刑務所に収容されてしまうのだろう。思い起こせばケンジとユウジは最後まで、一度も現行犯逮捕された事がないと、自慢気に話していたっけな…。
「和明さん!」
若い女の叫び声に、和明だけでなく、ホームにいた全員が振り返った。
ベージュのスカート、白いブラウス、茶色の着古したジャケット。見た事がない程地味な格好をした円加が、肩で息をしながら立っていた。髪はまだ濡れていた。
「…そう来たかァ」
驚きを隠せぬ顔で、和明は呟いた。
「来ました!」
と円加は答えた。
「私!すみませんでした!優しくしてくれた和明さんを裏切った事、私、一生忘れません!」
思わず迫力のある円加の言いように、一瞬和明は黙った。しかしはたと思い付き、片眉を下げて、
「…それは、お前が言うセリフか?」
と言って、微笑った。
「そやけど!一生を掛けてお返しします!私!思い上がってました!すみませんでした!」
「なんやなんや、話がでかいな。一生とか、思い上がりとか、よう分からんよ」
「私、許してもらおうやなんて思ってません。そやけど、やっぱり和明さんの側におりたいから、いつかもう一度信じてもらえる日が来るまで、一生をかけてお返しします」
「困ったな…」
「お返ししたいんです!」
和明は本当に困惑した顔を浮かべながら、後頭部を手で掻いた。
尚も、円加は言う。
「私、顔中舐められはしましたけど、あのペケいう男にも、一色いうヤクザにも、何もされてません!伴侶やなんて大ウソです! 和明さんだけです!」
彼女の必死さは伝わった。しかし円加の言葉を受けて、和明は思わず声を上げて笑ってしまった。
「ウソと違います!」
「そんな事どうでもええんじゃ。下らん事言うなボケ」
「え?」
「二度と言うな、そんなどうでもええ話」
「え、ええ…」
「あのなあッ。例えお前がペケに何をされとろうが、一色に何をされとろうが、例えあの場におった四ツ谷組全員に輪姦されとったとしても、そんな事でお前の価値は何一つ変わらんのんじゃ!円加!お前は物と違うんぞ!新品とか古とかそんな事に一体なんの意味がある!二度と言うな!分かったか!」
それは他人が聞けば、震えあがる程強烈な怒声であった。
最終電車を待つ駅のホームにはまだ、まばらながらも行き交う利用客たちの姿があった。それらが和明の声から逃げるように、勢いよく散らばって行く。
しかし円加はその場に立ち尽くしながらも、和明の放つ愛情の深さに全身を震わせていた。無言で何度も頷き、滴る涙を拭って、円加は微笑んだ。
「私。初めて、男の人を好きになりました」
「おお、そうかいな」
円加は豪快に鼻をすすり上げ、
「和明さんですわ」
と、お道化た調子でそう言った。
「あはは、おう」
「もうほんまに、好きなんですわ」
「べっぴんさんがえらい顔で泣いとるなぁ。ありがとうな」
「出会ってもう一年経ちますけど、今日やっと、本当の私をお見せできました。こんな私で、もうほんま、すみません」
「あははは!なんでや、謝るなよ」
「なんでそない、和明さんは優しいのやろ?」
「優しいないよ、頭がおかしいだけじゃ」
唇を真一文字に結んで、円加はぶんぶんと頭を横に振った。
「私は全部を和明さんに押し付けようとしてました。あなたを裏切ったのは私の方やのに、あなたに捨てられて終わる事まで勝手に決めつけてました。そんなんおかしいですよね。和明さんはまだ何も仰っていないのに、私が決めてええ事やないですよね。だからもう、私から身を引こうとするのはやめました。例え小便ちびる程怒られたって、この気持ちはもう変えようがありません。これからもどうか、和明さんの側においたって下さい」
両手を揃えて前に回し、円加は深く頭を下げた。
「キャバレー『イギリス』の格好ええマリーは、一体どこへ行ったんじゃ」
笑いながらそう冗談を言う和明の言葉に答えられぬ程、円加は泣き崩れていた。顔を上げて涙を拭う円加の手の甲が、離れて立つ和明の目にもぶるぶると震えて映った。これはいよいよ、どうしたものかと和明が困り果てた所へ、最終電車到着のアナウンスが響いた。
円加は驚き、一瞬何事か分からずホーム内に視線を走らせると、やがて事態を把握し、悲しそうな顔を俯かせた。
「なんや勘違いしとるみたいから、それだけ言うといたるわ」
人々の移動やアナウンスでにわかに騒然とし始めたホームの音に負けないように、和明は語気を強めてそう言った。
「俺はそもそも、別に裏切られたからいうて怒ってなんかないよ。そんなもん当たり前の話やんけ。出会って一年やそこらの男より、血の繋がった家族の為に必死で金を掴みに行った円加が正しいんやから」
「和明さん」
「貧乏を知ってる。苦労を知ってる。そういう人間の方が、俺は信用でける。本当に大切なものが何か、ちゃんと分かってるからや。お前は間違ってないよ。せやから安心せえ、なんかあったらまた俺に言うて来い」
和明がそう言った途端、突然円加はくるりと背中を向けてしまった。哀れな程に、感極まった円加の背中が震えていた。しかし円加は両手を口元に添えると、腹の底からこう叫んだのだ。
「みなさーん!私の恋人なー!世界一優しいんですわー!」
「やめえ、お前!阿保か!」
「もう大好きなんですわー!」
電車が滑り込んで来る。その轟音に円加の声がかき消され、和明は思わずほっとして額の汗を拭った。
「はよ帰って来てくださいね」
振り返ってそう言った円加の声が小さく、和明はすぐ側に歩み寄って頷いた。
「美味い魚、腹いっぱい食わせたるわな」
「それは、いつ?」
「銀ちゃんがなあ、ああ見えて、喧嘩はバチクソ強いくせして、おつむが弱いもんでなあ。俺らで支えたらなあかんし、まあ、もうちょっと待っといてくれ。じきや」
「ほなそれまで、首やのうて体洗うて待ってます」
「あはは!すまん事言うたな、お前は全然臭い事なんかあれへんよ」
「…え、意味伝わってません?」
「何が?」
発車のベルが轟き、和明は慌てて電車に飛び乗った。
「ほな!」
「行ってらっしゃい、お気を付けて!」
「風邪ひかんようにな。なんかあったら、またすぐ電話してこい」
「はい。友穂姉さんによろしゅう」
「おお、言うとく」
「和明さん。愛してます」
「…え、なんて?」
「私の全てをあなたに差し上げます」
「もうちょい大きい声で!」
「…頑張って!」
「おう!」
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