あの時くれた名前~諏訪あやかし記: 神の柱と狐の器

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第2章 諏訪に棲むお稲荷様

遠い昔の回想~白楼の視点

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 夜の風ってのはなんでこうも昔を思い起こさせるのかね。

 ずいぶん昔の話だ。

 まだ俺が「名」なんて持っていなかったころの話。俺は生まれつき、生き物に「名」を与えることで魂を肉体から解放し、余った肉体を貪り食うあやかしだった。当然、自分が「名」なんて持つことを考えたことは一度たりともなかった。なんたって相手の魂を抜くわけだから、俺には呪いの音くらいにしか思えなかったわけで。

 ある日のことだった。小さな人間の女の子が俺の住んでいた山に迷い込んでいた。

 雨だった。嵐も来そうだった。水に濡れて体温は急激に下がっていて、呼吸もかすかだった。あんまり子供を食うのは気分がよくないんだけど、ここまで苦しがっているなら楽にしてやった方がいいかな。そう思って俺はこの子のための新たな名前を頭の中で考えているところだった。

「まだ――死にたくない」

 突然のことで驚いた。もうそんな言葉を発することはできないほど衰弱していると思ったのに。

 とにかく、彼女の希望は生きること。俺も食わなきゃ生きていけないし、大人であればそうは言ってもさっさと名前を呼んでいたのだと思う。けれどやっぱり子供にそんなことをするとあと腐れが残る。

 俺はほんの気まぐれから――手を差し伸べた。

「おいで」

 彼女は手をつなぐにも衰弱してできないくらいで、必死に俺の尻尾にくっついた。俺は仕方なく彼女を背負うと、彼女はすやすやとその背中で寝てしまった。

 あれは参った。俺は妖狐だぜ?家族ごっこ何て柄じゃない。体の中がむずがゆくなるような感覚を覚えたものだった。で、彼女を人里に届けてこの話は終わり、めでたしめでたしとなるはずだった。

 でも、そうならなかった――この子は俺の山に、何度も何度もやってくるようになったから。花やら食べ物やらを持って。

「狐さん、今日も元気?」

 なんて、笑いながらふらっと。俺は別に、礼なんて求めちゃいなかったのにさ。でも――それが、なんか、心地よかった。

 聞けば、体が強くないこの娘は、自暴自棄になってこの山へ来たとのことだ。しかし、ここでの寒さ、飢えを感じるにつれて、むしろ強く生きたいと願うようになったとのこと。その時に俺がたまたま通りかかったというわけだった。

 妙な縁だった。彼女は、あの由緒ある諏訪大社の娘、つまりあやかしたちを退治する存在で、俺たちの敵になるはずだった。でも、彼女はそんな素振りは全く見せない。

 時が経つのは早かった。俺にとってはほんの一瞬に感じられたあの間、彼女はもう大人の女になった。美しく教養も身につけた彼女は、ある日、言ったんだ。

「ねえ、狐さん。あなたにも名前があった方がいいよ。あなたは飄々としてどんなことにも動じない。だから『白い楼閣』という意味で『白楼』。どう?」

 獲物を捕る手段でしかない「名」。そんなもの俺は持たなかったし、持とうとする気すらなかった。それなのに、その「名」を呼ばれたとき、妙にしっくりきた。俺は初めて、名を「与える」側から、「もらう」側になったんだ。

 悪くない気分だった。それでも、俺は相変わらず魂を抜いた命の体を食って生きていたのだけれど、不思議なことが起こり始めたんだ。彼女と話して、笑って、向けられた花の匂いを嗅いでいると――どうにも、心の奥が柔らかくなるような感覚になるんだ。獲物を喰らって腹に流し込むような直接的なものじゃなくて、もっと、こう、じんわりと染み込んでくるもの。そう思った瞬間、ふと、自分が何を食らって生きているのか、ほんの一瞬だけ、考えてしまう。そんな夜が、少しずつ増えてきた。

 そして考える。そもそもあの娘と一緒にいることが俺にとって正しいことなのか、とも。もともと俺は自由に生きるあやかしだ。同じ場所にとどまって穏やかな日々をかみしめるような性格じゃない。この山に来たのだって元々はただの気まぐれだ。今の生活は、なんだかふわふわと浮いた自分のものではないもののように感じられた。確かに俺は名をもらったが、俺には、それを支える土台がなかったのかもしれない。不安定な大地に積み上げられた白い砂上の楼閣――自分の名のようなものだった。

 俺はこの山を去った。あの娘は俺のことをよくわかっているからきっとわかってくれるだろう。ただ、一つだけ後悔することがある。あの娘の名前を聞いてなかったこと。

 

**

  

 まあこうなることはわかっていたさ。

 人間となれあって名をもらい、一つの場所に居つくなんて、俺の柄じゃないのさ。

 あれから少しの時がたった。やっぱり俺の感覚では一瞬なのだけれど、きっと人間にとっては少し長い時間なのだろう。

「相変わらずずいぶんと人間に甘い顔をしているのね、あんた。いや今は――白楼か」

 突然殺意を持った声が聞こえた。その声の方角に目を移すと、森の奥、満月も届かぬ闇の中で、音もなく近づいてくる気配。

 姿を現したのは三匹。一匹は、熊のような巨体に一つ目を備えた獣。一匹は、影のように形を定めず、ぬらりと流れる瘴気の塊。そして最後は、俺と同じ妖狐だが、蛇のような瞳と細長い尾を持つ――お前か。もちろんいつかはこうなることはわかってたけれど。

「決めたよ白楼。お前を食うことに。今までずっと悩んできたが、もう迷いはない。私とお前は一体化するのさ」

 顔見知りである彼女――この蛇目の妖狐が俺を食う理由は、ちょっと特別なものだった。とにかくまあ、彼らは俺を殺すために準備万全なのはよくわかる。

「この諏訪の山で名を馳せていたあの白楼を殺れるたあ、気分が上がるぜ」

 お供である熊のような巨体もやる気満々で腕をなめる。

 次の瞬間、彼らはもう動いた。警告すらしない。もはや彼らの目的は俺を殺すことでしかないのだから、合理的なこと以外の行動はしなかった。爪が唸り、瘴気が湧き、獣の咆哮が闇を裂いた。俺も爪を伸ばし、宙を駆ける。

 でも、戦いは好きじゃない。殺し合いなんてもっとだ。妖力を削られながら、必死に相手を切り裂く。それでも、かつての俺なら、蛇目の妖狐のお供である雑魚二匹なんて瞬殺だったんだけどな――でも俺は、あの人間の娘と一緒にいるようになってから、生き物を食うことをためらうようになってしまった。要は、腹ペコで力が入らない状態になっていたわけだ。そんな中での三対一は分が悪い。

 ついには蛇目の妖狐に爪が足の甲を貫き、俺は動きを封じられる。巨体の獣が、笑うように牙をむいた。

「よし、これで俺も山の王となる一角だな」

 ああ、そうか。俺もここまでか。まあ悪いのはすべて俺。自業自得ってわけか。あの契りを交わしてから、俺の運命は決まっていたのだから。でもまあ、こういう最期も悪くないか。だって元は最愛の――

 そんなことを考えているときだった。

「下がれ、悪しきあやかしが」

 低い人間の男の声が、闇の中から聞こえた。気が付くと、無数のたいまつが、今言葉を発したであろう男の後ろに控えている。

「不届き者ども、神に対する冒涜は許さない」

  彼の命令で、部下と思しき人間たちが、御符や御幣を掲げて構えを取った。つむじ風が唸り、あやかしを祓う霊力が破裂するように一帯に満ちる。

 あやかしたちは闇の中でたじろぎ、特に蛇目の妖狐は一層目を鋭くしてうなった。

「ちっ――神職どもが。しかもたちが悪いことにこいつらは諏訪大社のやつらだ。この数では分が悪すぎる。仮に殺れたとしても、こっちも深手を負ってただじゃすまない。仕方ない。退散するよ」

 奴らは霧のように影を少し残して消えた。ほっとすると言うより、突然の出来事に俺が呆然としていると、神職の筆頭に立つ目の前の若い男が俺を見下ろして話しかける。

「諏訪の地には今まで感じたこともないほど強く、恐ろしい妖気をまとうあやかしが二体いる。しかし、そのうち一体、雄の妖狐は善良なる存在であるゆえ、その者が危機に瀕したときは、必ず助けなさい――母の言いつけに従い、このたび参上いたしました」

 母。

 その言葉を聞いてすぐ、俺は理解した。彼女だ。あの子――俺に名前をくれたあの娘が母となり、命を次へつないだのだ。

「ついてきてください」

 

*

 

 彼が俺を連れてきたのは、小さな神社だった。簡素なつくりではあるがよくできていて、白狐の石像が鎮座している。俺はそれを凝視せざるを得なかった。

 するとどういうわけか、その男性は急に頭を下げたかと思えば、さらにおかしいことに跪いて恭しく言った。

「今日からあなた様はここ、『白狐稲荷神社』の『お稲荷様』です」

「――は?」

「母は言いました。かつて善良な白狐に命を救われたと。他者に名を与えて魂を引き抜く、一見すると恐怖を与えるほどの存在ではあるが、実際には友愛に満ち溢れたあやかしであると。逆に、名を持たないあなた様に母が与えた名前――それは白楼様、でよろしいでしょうか」

 俺は、混乱する頭を制御できずにいたせいで彼の質問には答えられず、しどろもどろになりながらなんとか言葉を紡いだ。

「君は――要するに――俺のためにこんなものを作ったってのか?」

「はい、白楼様。あなた様は今この瞬間から、この社の神となられたのです。民による日々の祈祷でこの社は霊域を作り、あなた様に害をなそうとする他のあやかしたちを拒む空間となるでしょう。同時に、それはあなた様が生きる糧ともなります。すなわち、人々の信仰の力が、あなたの腹を満たすのです。どうかごゆるりとお過ごしください」

 ――ああ。

 気まぐれで手を差し伸べただけだったんだ。それなのに。まさか気ままに生きていただけの狐である俺が、祀られて神になるなんて。

 俺は、居心地の悪さに身をよじった。そんなものになりたかったわけじゃない。風のように生きてきた俺が、人々に拝まれる存在になるなんて、どう考えても性に合わない。

 けれど。

「なあ、お前の母は――元気にしてるのか?」

 たまらず尋ねた。この山を離れてから、一度も知ろうとしなかった、あの娘の行く末。

 男は、わずかに目を伏せて答えた。

「――母は、私を生んですぐに亡くなりました。あなたの話も、父から聞いたものです」

 静寂が社を包んだ。鋭い痛みのようなものが俺の体を刺す。

 あの娘は――俺に名前をくれて、一人だけこの世を去ったのか。俺を神にしたあげく、俺に名前だけを残して。

 木々が風に揺れるざわつきだけが耳に残る。社に灯された明かりが強く白狐の石像を照らす。

「一つだけ聞いていいかな」

 俺は彼を見据えて尋ねた。

「君の母の名前は?」

 

**

 

 白楼によれば、お銀も元々は名無しの狐だったらしい。でも、いつしか彼の妹分になった縁で、白楼が彼女に名前を付けてあげたとのこと。あやかしだから魂を抜かれることもないし、人間の使い魔となるなら名前があった方が便利だろうということで。
「まあとにかくこうして、俺は生き物から魂を抜く必要はなくなったのさ。この社がみんなの信仰心を吸い上げる器みたいなもんになってくれて、俺の腹は満たされる。俺をつけ狙うあやかしもこの社の霊域には入ってこれない。めでたしめでたしってことさ」

 祭りの音がゆっくりと消えていく。もう終わりの時間のようだった。それとともに街中の明かりも消えていき、ついに光は月明かりだけになった。

「でも。一つだけわからない」

 私がそういうと、「へ?」とでも言いたそうに白楼はきょとんとした顔をした。

「白狐稲荷神社には、このあたりに伝わる昔話があるはずよ。たしか、悪さばかりする白狐をゴンさんっていう若者が退治しようとしたけど、その狐が妊娠していたから情けをかけて逃がしてあげた。それで、その狐が改心して神になり、白狐稲荷に祀られるようになったって」

 私は白楼を見つめた。その話は、さっきまで彼が語っていた過去とは明らかに矛盾している。

 すると白楼は、ぴくりと口元を引きつらせ、顔をムズムズさせはじめたかと思うと、次の瞬間、堪えきれなくなったかったように、爆発した。

「あひゃーーっひゃっひゃっひゃ!!」

 白楼は手を叩きながら転げまわると、涙を流して爆笑していた。

「いやぁーまんまと君も騙されたんだね!作戦大成功!!」

 ぽかんと宙を見るように白楼を見る私を差し置いて彼は続けた。

「俺はもともとね、自由奔放な狐だったんだよ。なのに、聖人君子みたいな扱いを受けて、でっかい鈴を鳴らされた挙句に両手を合わせて拝まれるなんて、どこか馬鹿馬鹿しく思えたのさ。そこで一計を案じたってわけ」

 白楼はひょいと体を浮かすと私の隣にちょこんと座った。

「人間に化けて、噂好きの人間たちに言いふらしたんだ。悪い白狐が懲りて改心したのを白狐稲荷神社で祀っているんだってさ。もうあれから人間の時間ではずいぶん経ってると思うけど、うまく噂が回ってくれたみたいだね」

 彼が行ったこのおふざけによって、噂を長い時の中でいつしか信じ込んでしまった諏訪大社の神職たちまで、白楼を定期的に退治しようとしてくるらしいのだ。元々諏訪大社の神職によってこの神社は建てられたのにもかかわらず。そうして彼らを軽くいなせば運動不足にもならないし、彼は聖人君子にもならない。

「一石二鳥だと思わない?」

 正直なところ私はあきれて物が言えなかったのだけれど、次第にその感情も消えていく。今の彼は人の信仰心でもはや生き物を食らわなくても生きられるようになった妖狐。でもその反面、元来の自由を愛するあやかしであった時代の性格は変わっていないのだった。

 月明かりは私たちを強く照らし、それは祭りの明かりと負けないほどの輝きを放っていた。
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