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第6章 白楼の回想
最愛の相手~白楼の視点1
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毎晩、景色は変わった。
雨の日は森にしっとりとした香りが残り、風が吹けば木々は揺れて囁き声を上げる。夜には月がはっきり見える日もあれば、雲で覆われて見えない日もある。
ただ、そんな中でも変わらないこと。それは、彼女が必ず来ることだった。蛇の目をした、あの狐。
俺たちに多くの言葉は必要なかった。お互いの存在を感知している、それだけで十分だったから。背中にふっと触れる感触。耳元で聞こえる、かすかな寝息。そのひとつひとつが俺を満たしていた。
幾千、いや、万を超える夜を、彼女と過ごした。森の中、誰も知らぬ場所で風に葉が揺れる音の下、俺たちはただお互いに触れ合い、抱き合い、そして寝た。時には雨に濡れ、時には月明かりに溺れ――その日その日の天気が俺たちの存在を映しているかのようだった。
「空ってのは気まぐれなもんだよな」
そんな俺の呟きに、彼女は微笑む。夜が明け、朝焼けの光が満ちていく中、珍しく空に虹がかかった。そんなとき、彼女がふと俺に尋ねてくる。
「いつまでこうしていられるかな?」
俺は一瞬だけ答えに迷ったけど、笑いながら言った。
「虹が消えるまで、かな」
「今日にはあの虹は消えるよ。もう終わりなのか?」
そう言うとあいつはふざけて肩に甘噛みしてきた。俺は大げさに痛がると、そのまま俺たちは抱き合った。
当然、それはささやかな冗談だった。だって俺たちの関係がこれから変わることなんてないはずだったから。あの夜だって、彼女の鼻先は俺の首に触れ、夜という時間の中に俺たちは溶けていった。過去だって未来だってなかった。だって俺たちのその時間は、永遠だったはずだったから。
間違いなく、あれは愛だった。お互いに微塵にも疑っていなかった。だから俺は何の疑いもなしにあの契りを交わしたのだった。太古の時代よりあやかし達が結んできたもの――魂を賭ける契約だった。
織葉が語ってくれた西洋の話にも似たようなものがあった。きっとこの世界のどこにいても、あやかしたちは同じように契りを交わすのだろう。ファウストとかいう学者と契約を結んだという、あの西洋の「悪魔」。そいつはこの世であらゆる快楽と知をファウストに与える代わりに、死後はその魂を地獄に叩き落とし、奴隷として縛ることが目的だったわけだ。
でも俺たちの契りは、そんな複雑なもんじゃない。ただ一つ、単純な願いのもとに始まった。
「お互いを決して離さない」
人間の婚姻と似通うところもあるのかもしれない。だが、あやかしの契りは、もっと存在の根源に食い込み、逃れようのない縛りだった。
一度交わされたその契りは、裏切りを許さない。他の誰かと交われば、契りは破綻する。あるいは、片方だけが死に、もう一方を一人にしても破綻する――その瞬間、契りは壊れ、二人の魂は奈落の底へと堕ちてゆく。要するに「二つの魂が二つのまま、永遠に一緒である」ための術。どちらかが勝手に終わらせる自由はなくなるのだった。
契りの後は、骨のひび間を縫うように、見えない細い糸が張りめぐらされる感覚を覚える。そんなふうに、目に見えぬ手綱で俺たちは結ばれた。
俺は自由を愛した。風と共に生きてきた。それでも、この先、どこへ向かおうと、こいつとだけは共にいたいと思った。だから俺は迷わず彼女と契ったんだ。蛇の目をした、この美しくも恐ろしい雌と。
でも――全く想像していなかったことが起きた。気まぐれな空が、変わっていったんだ。俺は、寿命の短い人間たちが呼ぶ「時間」というものを甘く見ていた。
決して彼女への愛がなくなったわけではなかったんだ。ただどうしたわけか、死にそうになっていたところを気まぐれで助けた人間のあの娘が、心のほんのわずかな隙間から俺の中に入り込んできたんだ。俺に名を与えた、あの人間の娘。それが、すべての始まりだった。
「あんたはなぜ、あの人間とばかりいるのだ」
彼女の声が静寂の夜を裂くように響く。怒りが彼女の目を支配し、暗闇の中にはっきりと浮かぶ。風が、輝く銀髪を散らすように揺らした。
「そんなんじゃないよ。ただちょっと――興味があるだけさ」
言ってすぐ、くだらない言い訳だと自覚した。もちろんすべてが嘘ではなかったけれど、同時にすべてが本当でもなかった。
「興味?」
彼女の声が震える。
「私たちあやかしと人間は水と油だ。決して交わることなどない。敵で、憎むべき存在で、決して信頼してはいけない相手。なのにあんたは、そんな奴と」
言葉を詰まらせ、唇をかむ彼女は、苦しいくらいの本音を腹の底からひねり出す。
「そのせいで――私はあんたまで憎くなってきた」
俺はそれ以上何も言えなかった。
むしろ彼女の方が正しいのだ。ほとんどのあやかしは人間を嫌っている。実のところ、あの娘に会うまでは俺もそこまで好きではなかった。だからこそ、彼女の怒りは正当なのだ。すべては俺が悪いのだ。
月が、雲の間から顔を見せた。雲から差し込む一筋の光が彼女の横顔を照らす。銀髪と相まって、その時の彼女は凍てついた銀が光を放つかのようだった。
*
その日、日差しが柔らかく注いでいた。雲はゆっくりと流れ、森の緑はこれから来る夏を約束するかのように蒼々と茂る。空を見上げると、虹が鮮やかにかかっており、晴れた空に彩りを添えていた。
あの娘は、もはやいつものこととでも言うように、俺の寝ころんでいた岩の前にちょこんと座った。今日は風呂敷を手に、うきうきと足を弾ませながら。
彼女は風呂敷をほどいた。すると森の空気に、香ばしい野沢菜の香りが広がる。彼女の開けた風呂敷の上には、ほかほかのおやきがあった。
「白楼、食べるでしょ?」
いつも通り「狐さん」でもよかった。だが、その新たな呼び名が、彼女の笑顔と相まって、胸をむずがゆくさせる。まったく、人間というのは妙な生き物だ。そんなものなくたって生きていけるのに、いちいちそんなものをつけたがる。俺はざわめく胸の気持ちを紛らわそうと、娘が差し出したおやきを手にし、口に運んだ。
「――うまいな」
「でしょ!母さんから作り方教わって、やってみたのよ。『これならきっと、人でもあやかしでも好きな味よ』って言われてね」
「お前の母親、なかなか面白いこと言うな」
そう返しながら、俺は気づいていた。こんな小さなやり取りですら、俺にとっては心地いいものになっていることを。蛇目のあいつとのような、直接的で、熱く、溶けるようなものとは違う。もっと、柔らかくて、優しくて、心の隙間からじんわりとしみこんでいく癒し、そういうもの。おやきを頬張る度、心地よい塩加減の野沢菜とふっくらとした柔らかい生地が口の中に広がる。
「知ってた、白楼?あなた、食べてるときは人間みたいよ」
「そうなのか?少なくとも人間なんかよりずっと長生きしてるんだけどな」
俺がそう言うと彼女は笑う。その微笑で十分だった。しばらくの静寂が訪れたが、それが逆に心地よかった。思えば、蛇目のあいつとも言葉はそれほど必要としなかった。同じように沈黙がある関係なのに、この娘とのものは、どこか違う。蛇目のあいつとは、単に話さなくてもわかるという関係。でもこの娘との間に流れる静寂は、どこか、その沈黙がゆったりとした快楽だと言える、そんなものだった。
「ねえ、白楼――」
ぽつりと彼女は言った。
「いつもあなたは何を見ているの?」
俺はすぐには答えなかった。代わりに、彼女の横顔を眺めた。おやきを包んでいた笹をもてあそびながら微笑む彼女の横顔を。その輪郭に、昔の面影が次々と重なっていく。子供のころのあの泣き顔、初めて尾にしがみついていた必死な顔、そして安心して眠ってしまった寝顔。
「お前だよ」
そう言うと、彼女は笑顔のまま俺の目を見た。そしてふっと目を細めると、俺の隣に少しだけ身体を寄せてきた。
「――私も、あなただけを見ている」
その瞬間、すべての音が止まった。この山全体が呼吸を忘れたかのように。
俺は彼女に触れなかった。彼女の方も俺に触れなかった。けれどそれで十分だった。
恋だったのだろうか。それとも、俺よりもはるかに年下、いやむしろ、俺からしたらほんの一瞬程度しか生きていない彼女への、憧れのような気持ちだったのだろうか。
その日、風が再び動き出したとき、彼女はそっと言った。
「また、来てもいい?」
俺は、何も言わず、尾をふわりと揺らしてみせた。それが、俺なりの返事だった。
彼女はまた、ふっと笑った。あの時は、いつもの、何気ないものだと感じていた。けれど今、もっと鮮やかで強いものとして俺の中に残っている。
気づくと、輝く空に立っていた虹が消えていた。
*
伴侶だった、蛇目のあいつに愛想を尽かされるのは、当然だったんだと思う。
久しぶりに会った狐の顔は、怒りでも、悲しみでも、笑顔でもなかった。ただ、虚ろに俺を見つめる、感情の色を失くした眼差し。
「もう、あんたのところには来ない」
それだけを言い残し、彼女は背を向けた。
「俺を食わないのか?」
契りを結んだあやかし同士には、一つだけ救いともいうべき方法があった。それは、片方がもう片方を骨の髄まで食い尽くすこと。そうすれば契りは破綻せず、愛の下に一体化した者たちとして永遠に生き延びることができる。相手の存在を否定するのではなく、己の中に抱え込むという選択。愛と憎しみが入り混じる、唯一の延命策だった。
実のところ、まだ俺は蛇目のこいつを愛していた。だが、実際どうかなんて問題じゃない。彼女がどう考えるか、だ。俺の心がもう蛇目のこいつには向いていない、もし彼女がそう考えたなら。そしてそれ以上に、俺に裏切られたと彼女が感じていてもなお、こいつが俺のことを愛していたとしたなら。きっと彼女は、この選択肢しかなかったのだろう。いつか俺の気持ちが戻るその日に賭け、俺を食わないという選択をすることに。
「もし、お前の気持ちが私に戻らなくても、私の中のお前を憎む感情が消えれば、それでいい。そうすれば――もしかしたら――互いの思いがきれいに消え去って、契りそのものが消え去るかもしれないから。だから今は――あんたを食わない」
彼女はそう言い残し、去った。
そんなことが起こるはずがない。あの契りがほどけることなど、古来より一度も聞いたことがない。だから、わかっていた。いずれ、彼女は戻ってくる。俺を、喰うために。
鎮静の月だった。三日月ともいえないほどの小さな月だったが、雲一つなくはっきりと見え、あたりを照らす。いずれこの月は満月となり、より一層明るくまぶしいくらいに輝くのだ。
*
それからすぐ後、俺は人間の娘のもとからも去った。彼女は思っただろう。俺はもともと自由を愛する妖狐だったから、いなくなったのだと。
違う。俺は、はっきりと気づいてしまったのだ。俺はあの娘のことを愛していたのだと。そして、同時に、まだあの狐のことも愛していたのだと。
どちらか一方を選ぶなんてできない。だって、これは俺だけの問題ではないから。もしそんなことをすれば、どちらかに対する裏切りになる。ならせめて、一番いい方法――それは二人とも選ばないことだった。そうすれば、すべての元凶である俺だけが報いを受け、苦しむことになるのだから。
だから俺は去った。蛇目の妖狐であるあいつに見捨てられた後、人間のあの娘のもとから。彼女が俺の名を呼んだ時、俺は振り向かなかった。
「白楼」
やわらかな声だった。触れれば、きっと温かい手だったはずだった。それでも俺は、尾に触れようと伸びたその手に目もくれず、そのまま背を向けて歩き出した。
すべては、俺が悪いのだ。あの娘と交わることもできた。たとえその代償に魂が奈落へ堕ちようとも、それは怖くなかった。でもできない。やはり俺は、蛇目のあいつも同時に、愛していたから。だからあの人間の娘のもとからも、去った。
それは――蛇目のあいつに食われるなんかより、人間のあの娘と交わって魂が奈落の底に堕ちていくより――ずっときつかった。でもそれでいいのだ。俺が一番つらい目にあう選択、それが俺にとっての報いだったから。俺の心が揺れてしまったこと、それによってあの二人を傷つけてしまったこと。それが俺の罪。それに対する罰なのだから。
季節は廻った。夜は同じ匂いのはずなのに、どこか全く別のものに感じられた。眠りは浅く、夢は短い。気づけば俺は、隣にいたはずの誰かを探すことをやめ、俺に触れてくれる気配を探る癖をやめた。
はっと気づいた。あの人間の娘と一緒に食べたおやきを包んでいた笹の葉。単なる葉っぱであるはずなのに、ずっと捨てられずに布にくるんで袖の下に入れていた。うっかりとでも言うべきか、なくなっている。
あきらめて俺はいつものように、ぼんやり空を見上げた。そう言えば、最近虹を全く見ていない。当然、見上げた空にも虹はなかった。
蛇目の彼女も、名をくれた娘も、もうここにはいない。
俺は自由な狐に戻った――いや、これは自由なのか?むしろこれは、孤独という名の終わらない刑なのではないか。
空は相変わらず気まぐれで、その時々によって表情を変える。俺は空っぽの心のまま、当てもなく歩き続けた。雨が降っても青空が広がっても、強い風が吹いても寒空の下で雪が舞い落ちても。
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