だめじゃない -孵化-

すずかけあおい

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だめじゃない -孵化-①

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 自分を否定することは当然ダメージがあるし、疲れる。

「俺はだめだ」

 また呟いてしまった。二十五になっても有人ありとはまだ解放されていない。時間が経つにつれて鎖がきつく締まっていくようにも感じる。
 重苦しい気持ちを吐き出すようにため息をつきながら黙々とパソコンにデータを入力する。ただひとつ間違えるたびに自分を否定してしまう。そんな自分が嫌なのに止まらない。有人にはなにもない。この世の人は皆有人を否定しているに違いない。
 「有人」という名前も虚しくなる要因だ。なにもない自分が「有る人」と書いて有人だなんて、まったく似合わない。

「……会いたいな」

 中学の頃の眩しい笑顔を思い出す。いつもそばにいてくれた、あいつだけが有人を認めてくれた。





 休みの土曜日、ベッドから出られない。たまにこうなる。仕方がないと昼すぎになっても寝間着のまま横になる。吐き気がするほどの自己否定感情が頭の中をぐるぐるとまわる。昨日データの入力をするグラフを間違えてやり直したのも原因のひとつだ。なぜ間違えたのかと自分を責める。

「会いたい」

 あいつに会いたい。こういう状態になるといつも以上に思い出し、中学一年から三年まで仲良くしていた男子の影を追う。あいつ――直行なおゆきは優しくて、太陽のような笑顔が眩しい人気者だった。ひとりでいる有人を気遣ってくれて、どんなに生徒達に囲まれても有人を選んで一緒にいてくれ。他の人に声をかけられても有人を優先してくれて、いつでも導いてくれた。

 ――有人はだめじゃない。

 あの言葉が聞きたい。
 隣の部屋から物音がする。空室だったけれど新しく人が入ったのだろうか。なんとなく怖くて布団をかぶって身体をまるめた。

 インターホンの音に瞼をあげる。あのまま寝てしまったようだ。起きあがって玄関に行き、モニターを確認するのを忘れたのでドアの前で「どちらさまですか」と聞いた。

「隣に越してきた者です。ご挨拶に伺いました」
「は、はい。少々お待ちください」

 今どき丁寧な人だ。このマンションはひとり暮らしの人ばかりで、近所づき合いがほとんどない。引っ越しの挨拶などする人もいない。気がついたら新しい人が入っていて気がつくといなくなっているので、どう対応したらいいのかと緊張しながらゆっくりドアを開けると、有人が求めていた人物がなぜかそこに立っていた。

「有人……?」

 少し低くなった声に違和感があるが、おとなになった彼はあの太陽の笑顔を見せた。それはまったく変わっていない。中学生の頃に戻ったような不思議な感覚を抱いた。

「久しぶりだな!」
「……直行?」
「そう。阿部あべ直行」

 会いたいと思ったが、まさか本当に会えるなんて思わなかった。なんと声を発していいかわからず動きさえ止まってしまう。信じられないが、どう見ても直行だ。こんなことがあるのだろうか。

「寝てたのか?」
「あ……」

 こんな時間なのに自分は寝間着だと今さら気がつく。恥ずかしくて頬が熱くなり、少し俯いた。

「起こしてごめんな」
「あ、待って……!」

 帰ろうとする直行をつい呼び止めてしまう。次に続く言葉も考えていなかったので、自身の行動にさえ戸惑ってしまう。

「えっと……あの、よかったらあがってかない?」

 嬉しさで気分が急浮上するのがわかった。だが有人と違い直行は逡巡するように視線を彷徨わせる。

「ごめん……。嫌なら――」
「そうじゃなくて」

 言葉を遮られ、わずかに頬を赤く染めた直行が有人から視線を外す。

「……有人とふたりきりが緊張するだけ」
「緊張って、どうして?」

 直行と有人が一緒にいてそんなことを言われたのは初めてだ。もしかしたら離れている間に心に距離ができてしまったのだろうか。

「どうしてって……」

 口を噤む直行に、悪いことをしている気分になった。せっかく再会できたけれど、有人が求めすぎていただけで直行にとってはたいしたことではないのかもしれない。浮上した気持ちが一気に落下する。

「ごめん。無理にとは言わないから、気にしないで」

 とても残念だけれど有人が引くと、直行は一度小さく頭を振ってから「有人の迷惑じゃなければ」と言ってくれた。
 あがってもらったが自分が寝間着のままということが気になった。

「すぐ着替えてくる。座ってて」
「ああ」

 衣装ラックからシャツとジーンズをとって急いで着替える。こんなことなら朝から起きていればよかった。やっぱり有人はなにをしてもだめだ。

「お待たせ」
「いや。大丈夫」

 リビングに戻ると直行はどこかほっとしたような表情を見せた。見苦しかったかもしれない。

「なに飲む?」
「じゃあコーヒーがあったら」
「わかった」

 コーヒーを淹れてマグカップを両手に持つ。ひとつを直行の前に置くと、「ありがと」と言われくすぐったくなってしまった。久しぶりに聞いた声が耳に不思議な響き方をする。

「本当に久しぶりだな。まさか有人が隣に住んでるなんて思わなかった」
「俺もびっくりした」
「有人もすっかりおとなだな」
「直行こそ」

 昔から恰好よくて目立つ外見をしていたが、磨きがかかったというか、さらに輝きが増しているように感じる。友人としての贔屓目ではなく、誰が見ても恰好いいのだ、この人は。それに比べて有人は地味だ。特に秀でたものもなく、存在感もない。黙っていると、いないと思われるほどだったのは今でも変わらない。

「あ」
「え、……っ」

 直行が不意に有人の頭に手を伸ばした。視界に影がかかるその感じに、びくりと身体が強張る。

「ごめん。寝ぐせがついてたから」

 慌てて手を引っ込める直行に、有人こそ慌ててしまう。

「俺こそごめん」

 母親に叩かれていたときの感覚が身体に残っていて、顔の前に手を出されると反射的に身体が強張ってしまう。
 有人の母親は癇癪もちで、有人を叩きながらヒステリックに「あんたはだめだ」と叫ぶことばかりだった。父親はそんな母に愛想を尽かしてほとんど帰宅しなかった。会社の近くにアパートを借りてそこに住んでいたらしい。それも母親の癇癪の原因でもあったのではないかと有人は思っている。有人が高校を卒業すると同時に離婚した。有人はそれに合わせてひとり暮らしを始めたが、そのこともおおいに揉めた。というより母親に詰られた。あんたはだめなんだから、あんたはだめなんだから――小さい頃から繰り返された言葉は呪いのように有人に絡みつき、自分でも「俺はだめだ」と言うようになっていた。覚え込まされたその言葉は生きてしみつき、有人は息をするように自分を否定する。

「有人はどう? 元気にしてたか?」
「うん。なんとか」

 直行と最後に会った中学の卒業式以来、特別なにかあったりはしなかった。病気や怪我もなかった。大きな変化は両親の離婚くらいだ。

「答えたくなかったらいいんだけど、有人は彼女いる?」
「いるわけないよ」

 有人の答えに直行はなぜかほっとしたような顔をした。そうか、とか、でも、とかもごもご言っているので首を傾げてしまう。

「こんなだめな俺とつき合ってくれる人なんていないって」

 迷惑をかけるだけで、つき合ってくれる人がいたとしてもすぐにふられるだろう。本当に有人にはなにもないのだ。
 直行は手を伸ばして有人の手を両手で包む。

「あ……」

 昔と同じだ。

「有人はだめじゃない」


 心が温かくなる言葉に目頭が熱くなる。ずっとこの言葉に励まされてきた。中学のときも、直行が引っ越してしまった後も、おとなになってからだって、この言葉が有人を支えてくれた。

「有人はだめじゃない」

 言い聞かせるように穏やかに、直行はもう一度有人に魔法をかけてくれた。心が軽くなるのがわかる。こんな有人を唯一認めてくれる人。
 直行がはっとしたように手を離すので、なんだか寂しくなって「もう少し握って」と手を伸ばしてしまう。

「だめ。有人がだめなんじゃなくて、これに関しては俺がだめ」

 昔はもう少し握ってと言ったらそのようにしてくれたのに、と残念に思うがおとなしく引いた。直行の頬が少し赤くなっている。

「暑い?」

 今日は夏のような陽気だから、冷房をつけたほうがいいかもしれない。リモコンを手にとると、「違う」と言われてしまった。

「そうじゃない」

 それならどうしたのだろう、と思っていたら直行が立ちあがった。

「そろそろ帰る」
「そう……」

 寂しいけれど仕方がない。引っ越し当日はやることがいろいろあって忙しいだろう。それなのに引き留めてしまった、と考えの足りない自分を責める。

「またな」
「うん」

 それでも、先ほどの吐き気がするほどの自己否定は薄らいでいた。有人にとって直行の存在は奇跡でしかない。


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