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一月『幽岳事件』
その五
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「決まっているでしょう。 貴方と私と、この国の未来についてのお話ですよ」
八田幽岳の邸宅にて。
真夜中の応接間で光雪がそう切り出したとき、幽岳の表情は目に見えて綻んだ。
「そうか、ようやく決心したか。これで帝国司書隊とこの国の未来は磐石となるのだな」
ついに息子が、手塩にかけて育てた息子が後を継いでくれる。
誰よりも才能に溢れ、人望にも溢れていた自慢の息子が、帝国司書隊を統べる日が来た。
幽岳はそれを喜んだのだった。
しかし、光雪はそれに対して首を横に振る。
「いいえ、幽岳様。私は帝国司書隊を率いるつもりなど毛頭ありません」
「――なんだと?」
綻んだ顔から一転、それまでよりもいっそう険しい顔つきになる幽岳。
「お前が継がずに、誰が継ぐと言うのだ。――まさか、お前の代わりがいるとでも言うのか」
「ええ、そうですよ」
訝る幽岳に、光雪は平然と答える。
さらりと、さも当然のように答える。
「幽岳様も知らぬわけではありますまい。現在、幹部会は、奥村蒼兵衛を三代目の総統に任命する方向で調整しております。これはもう確定事項です。私も貴方も、帝国司書隊に返り咲くには遅すぎるというものでしょう」
「では、お前はなんのためにここに戻ったというのだ」
幽岳は眉をつり上げながら言う。
「尾前一派を排したのは、国家安寧と、八田家の権威を高めるため――その功績者たるお前が、帝国司書隊を率いていくべきだろう」
「いいえ。私はあくまで後進たちのために一肌脱いだだけです」
光雪はそう言いながら、懐から一丁の銃を取り出し、二人を隔てた机の上に置く。
それは片手に収まる大きさの、小型の拳銃であった。
「こちらはお返しします」
置かれた拳銃を見て、そして光雪の顔を見て、それを繰り返して、幽岳は最終的に光雪を睨んだ。
「なぜだ? なぜそこまでこの国の未来を思っていながら、帝国司書隊を率いることを拒むのだ」
逃げ回っていた父の元にわざわざ戻り、光雪はその命令を忠実にこなした。
幽岳は、息子の見せたその姿勢を『帝国司書隊を率いる者としての覚悟』と受け取ったのだ。
「尾前一派の排除を請け負ったのは私の個人的な理由からですよ。八田家や自分の地位のことなんて最初から考えていません」
光雪は、幽岳の受け取ったことを否定しながら言う。
「乗りかかった船と言うべきですか。鍔倉修一郎の譚だけ見届けて『はい、さようなら』はあんまりでしょう」
それに、と光雪は一度、拳銃に視線を落として、再び幽岳へ戻してから続ける。
「私が尾前一派を排除しなかった場合、彼らと戦うことになるのは私の後輩、未来ある若い隊員たちです。三十年前の帝国司書隊が残した汚点――私たちの世代が生み出したものの尻拭いを、それより後に生まれた若者たちにさせるなど言語道断でございます。次世代を担う若者たちには、私たちの世代よりも一層豊かな国を築いてもらわなければなりません。そんな彼らに余計なものを背負わせるわけにはいかない。そう判断したまでです」
光雪はそこまで言い切って、少し黙った。
幽岳は反論しない――ただ、言葉にならない苛立ちの数々を滲ませるような目で、光雪をじっと見ている。
じろりと、見ている。
そんな彼に、今一度落ち着いた声音で言い聞かせるように、光雪は「幽岳様」と呼んだ。
「私たちはここで手を引くべきなのです。今の私たちが帝国司書隊や国のためになすことがあるとすれば、それは権威や地位の確立ではなく――我々が長年培ってきた知識と経験を、後世に伝えていくことです」
これは紛れもない本心だ。
そして――紛れもない正論だ。
光雪は訴える。
「時の権力など、いつ廃れるか分からないのです。かつての大陽本の権力者が皆一様に栄枯盛衰の途を辿ってきたように。ですが、権力者たちが遺してきた功績は今も語り継がれ、これから先の未来にも生き続けることでしょう。ならば、貴方様が国のために為すべきことは明白――」
「もうよい」
光雪の訴えは、幽岳によって阻まれる。
静かになった空間で、幽岳は長く長く嘆息を漏らした。
「この期に及んで、まだそんな屁理屈を並べるとは」
と、呆れたような口振りで。
言い訳を並べ、回避ばかりしようとする息子の態度を、本気で嘆いて。
「お前は帝国司書隊の長として、大陽本の英雄となるべき男だ。そのために、私がどれだけ苦労してきたと思っている」
苛立たしげに、指で叩く。
自らが腰をかけていた、その車椅子の肘掛けを叩く。
「列車の事故で脚を失くしてからも、裏でお前のために手を尽くしてきたというのに」
光雪はあまり見ないようにしていたその脚を――脚があったであろう箇所を見る。
「多くの血を遺せ、多くの子を産め――私はお前にそう命じてきたはずだ。この国の未来を思うからこそ、お前のような天才の血を遺しておけと再三言ってきたのだ。だというのにお前は縁談を全て断り、一人も子を産ませることなく、挙句この父から逃げ出しおった」
じ、と光雪は目を細める。
その脳裏に駆け巡るのは、幾多の女の姿。
彼がこれまで拒んできた数多の女たちである。
彼女たちにはなんの罪もないのだけど、光雪はそれらを思い出して、胸が焼かれるような不快感を覚えた。
「子を産めぬ娘を妻にしたのは利口であったな。体面上そうしておけば、お前は女を抱かずに済むのだから」
ここで、光雪のまなじりは一気に吊り上がる。
元々垂れ目がちな彼のまなじりがぎちりと細められ、吊り上がる。
「石女の小娘なんぞ娶って、まったく小賢しい。おかげでお前のために見つけておいた縁談がすべて台無しだ」
「……私が自ら選んだ妻を、侮辱しないでいただきたい」
怒号を飛ばしそうになるのをぐっと堪えていても、僅かに震える声までは隠せない。
愛を信じてこなかった光雪が、たった一人だけ愛せた妻への、この上ない侮辱。
光雪の熱い怒りを滲ませた瞳が、幽岳を睨み据えていた。
しかし、幽岳はこれまで通り、息子の怒りに取り合うことなく続ける。
「女としての役目も果たせない小娘に何の意味がある?」
更なる侮辱に、ぴきりと青筋が立つ。
この男は、女を子供を産む道具としてしか見ていないのか?
あるいは、男にかしずくために生まれてきた存在だとでも?
光雪の口の中で、ぎり、と歯の軋む音がする。
しかし、今はそんな憤怒をぶつけている場合ではない。光雪は息をひとつ、大きめに吸って吐き出す。
「……私たちは今、国の未来と私たちの未来について話しているのです。私の妻の話はしていないし、する必要もない。話を戻しましょう」
怒りをなんとか鎮めて、光雪は冷静に振る舞うよう努めた。
――しかし。
「果たして、本当に必要ないかな」
幽岳は、そうはさせなかった。
「光雪。お前が少なからず己が妻を想っていることは分かる。それほどあの娘が大切だというのなら、こちらにも考えがある」
幽岳は、勝ち誇ったように言う。
「あの娘――五年前に自殺した音楽家の一人娘だろう?」
光雪は、動揺する。
見た目には僅かではあったけれど、その目が一瞬見開いたのを、幽岳は見逃さなかった。
「娘の名前も私は知っている。お前が娘を世間から匿うために娶った、ということもな」
――そんなところまで知られていたのか
静かに、激しく睨む光雪に、幽岳は臆することなく言う。
「光雪。あの娘を愛しているというなら、もう子を産めとは言わん。どの道、望めぬことだろう。その代わり、帝国司書隊に戻って総統を継げ」
なるほど、人質にとるか。関係のない妻を、この男も人質にするか。――否、関係ないからこそ、人質としては最適格とも言えるか。
「あの娘を守り帝国司書隊を統べるか、帝国司書隊と国を捨ててあの娘の正体を衆目に晒すか――選ぶべき答えはひとつしかあるまい?」
その気のない息子を帝国司書隊の頂点に据えるために、手段を選ばなくなった時点で、国のことを考えているとはもはや言えまい――それは老害というのだ。
せめて、すんでのところで老害にはならないで欲しかったのだけど、と、光雪は怒りに加えて悲哀さえも覚えた。
……光雪はふ、と息をひとつ吐き出すと、先ほどとは打って変わった、酷く冷たい目で――言葉を放った。
「……幽岳様、一つ答えて頂きたい。その情報、他には誰が把握しているのです?」
「安心しろ。情報を持っているのは私だけだ。情報を掴んだ私の使いは一般人として過ごしていたが、先日、不運にも交通事故に巻き込まれてな」
「左様ならば――」
光雪は静かに立ち上がる。
衣擦れの音さえも立てずに、ゆっくりと立ち上がる。
「一つ選択肢を作るとしましょう。『妻を守り、帝国司書隊を統べぬ』という選択肢を」
静かに言う。
囁くように言う。
「は、どう作るというのだ。情報を持っている私の口を封じるとでも?」
幽岳は、冗談に近いもののつもりでそう言った。
まさかそんなことは考えていないだろう、思いついていたとしても実行はできないだろう、と。
そのつもりで、茶化すつもりで言った。
「ええ」
光雪はあっさりとそれに頷いた。
なんの躊躇いもなく。
酔狂もはったりも駆け引きもなく――本気で頷いた。
「そこにちょうどいい道具もあることですし」
光雪が視線を落とした先は、机の上――そこに置かれた、鉄の塊である。
光雪の冷たい眼差しの奥に潜んだものを察知した幽岳は、冗談めかしていたその顔を引きつらせた。
「まさか――お前、本気で私を……殺すつもりなのか……?」
まるで金縛りにあったかのような状態の幽岳に、光雪はそっと笑いかけた。
幽岳が今まで見たこともないような、穏やかな笑顔だった。
「いいえ、まさか。親である貴方を殺せば、尊属殺人を犯した私は間違いなく死刑ですからね。そんな度胸はありません。私はただ、秘密を葬っていただきたいだけです」
幽岳のすぐ傍まで近づいた光雪は、その耳元で囁く。
光雪を押しのけることくらいは幽岳にもできたはずだが、しかし、彼は予想しなかった恐怖で微動だにできない。
「自力で歩くことができない貴方でも、これならば簡単でしょう。引き金を引くだけ。こめかみに当てて、引き金を引く。ただそれだけです」
光雪は人差し指と中指をぴんと真っ直ぐ伸ばし、その先を自身のこめかみに当てている。
悪魔の囁きであった。
「み、光雪……」
「歩兵銃のように両手で支える必要もない、増して、切腹なんて痛々しいことをしなくても済むのです。一度撃鉄を起こして軽く引き金を引けば、すぐに苦痛なく終わるのですよ。素晴らしいとは思いませんか」
震える幽岳の手を、光雪はそっと両手で包み込む。
不気味な優しさで微笑みかけるのである。
「あぁでも、幽岳様。実行はどうか、私が屋敷を去った後になさってください。念の為、二時間くらい間をあけて。そうでないと、あなたの大事な息子が殺人犯になってしまいますから」
「光雪、お前……っ」
「そうですね、遺書も書いていただくとしましょう。貴方は私に散々酷いことをしてくれましたからね。たくさんたくさんたくさんたくさん、私の気持ちを無視してきましたものね。それを懺悔なさるといいです。あつらえたようにいい動機となりましょう」
幽岳は何度か何かを口にしようとして、ついぞそうすることはなかった。
笑顔を浮かべる光雪の言葉から滲み、滴り落ちる毒が、それを封じてしまったのである。
――殺意。殺意。殺意。
何度も女を抱かせようとしたこと、何度も望まぬ結婚を迫ったこと、何度も追跡し続けてきたこと、何度も帝国司書隊に戻るよう強要したこと――その他諸々。
加えて、妻への害意と侮辱に対する怒り。
積年の恨みが篭った、殺意の言霊。
幽岳はそれに抗えない。
「光雪、私は……私は今まで、この十年間、お前に帝国司書隊を遺すために、そのために生きてきたのだ! だというのに、お前がそうしなければ、私が父として今までしてきたことは一体……」
手塩にかけて育ててきた息子が、心を尽くしてきた息子が、今まさに、父である自分に向かって『死ね』と言ってきているのだ。
幽岳にとっては――国と、息子のためを思って行動してきた父・幽岳にとっては、最上の絶望である。
「幽岳様」
そんな幽岳を、光雪は呼ぶ。
――名前で、呼ぶ。
「私が貴方を『父様』と呼んだことが、これまで一度でもありましたでしょうか」
光雪は既に笑っていなかった。
その瞳の光は鋭く――しっかりと握られた手は、熱いのに冷たい。
「『生んだ子より抱いた子』と言いますが、子としても『生みの親より抱かれた親』なのですよ。私を私たらしめた親は母様――そして、母代わりになってくれた阿子のみ。貴方は生物学上の男親なのであって、父親と思ったことは一度もありません。思いたくもない」
それでもね――と、光雪は静かな声で続ける。
「私は貴方を何度も殺したくなりましたが、絶対に殺すまいと思っていました。どんなに酷い人でも、師として感謝すべき点もなくはないですからね」
じっと睨んで、ぶつける。
「貴方のせいですよ。貴方が私の妻の正体をそんなふうに利用すると言いさえしなければ、こんな馬鹿げたことをしなくて済んだのです。だから、これは息子のために死ななければいけない貴方への、せめてもの手向けです」
光雪は皮肉をたっぷり込めて――にっこりと微笑みながら、最後に囁く。
――念じる。
「地獄に堕ちろ、糞親父」
八田幽岳の邸宅にて。
真夜中の応接間で光雪がそう切り出したとき、幽岳の表情は目に見えて綻んだ。
「そうか、ようやく決心したか。これで帝国司書隊とこの国の未来は磐石となるのだな」
ついに息子が、手塩にかけて育てた息子が後を継いでくれる。
誰よりも才能に溢れ、人望にも溢れていた自慢の息子が、帝国司書隊を統べる日が来た。
幽岳はそれを喜んだのだった。
しかし、光雪はそれに対して首を横に振る。
「いいえ、幽岳様。私は帝国司書隊を率いるつもりなど毛頭ありません」
「――なんだと?」
綻んだ顔から一転、それまでよりもいっそう険しい顔つきになる幽岳。
「お前が継がずに、誰が継ぐと言うのだ。――まさか、お前の代わりがいるとでも言うのか」
「ええ、そうですよ」
訝る幽岳に、光雪は平然と答える。
さらりと、さも当然のように答える。
「幽岳様も知らぬわけではありますまい。現在、幹部会は、奥村蒼兵衛を三代目の総統に任命する方向で調整しております。これはもう確定事項です。私も貴方も、帝国司書隊に返り咲くには遅すぎるというものでしょう」
「では、お前はなんのためにここに戻ったというのだ」
幽岳は眉をつり上げながら言う。
「尾前一派を排したのは、国家安寧と、八田家の権威を高めるため――その功績者たるお前が、帝国司書隊を率いていくべきだろう」
「いいえ。私はあくまで後進たちのために一肌脱いだだけです」
光雪はそう言いながら、懐から一丁の銃を取り出し、二人を隔てた机の上に置く。
それは片手に収まる大きさの、小型の拳銃であった。
「こちらはお返しします」
置かれた拳銃を見て、そして光雪の顔を見て、それを繰り返して、幽岳は最終的に光雪を睨んだ。
「なぜだ? なぜそこまでこの国の未来を思っていながら、帝国司書隊を率いることを拒むのだ」
逃げ回っていた父の元にわざわざ戻り、光雪はその命令を忠実にこなした。
幽岳は、息子の見せたその姿勢を『帝国司書隊を率いる者としての覚悟』と受け取ったのだ。
「尾前一派の排除を請け負ったのは私の個人的な理由からですよ。八田家や自分の地位のことなんて最初から考えていません」
光雪は、幽岳の受け取ったことを否定しながら言う。
「乗りかかった船と言うべきですか。鍔倉修一郎の譚だけ見届けて『はい、さようなら』はあんまりでしょう」
それに、と光雪は一度、拳銃に視線を落として、再び幽岳へ戻してから続ける。
「私が尾前一派を排除しなかった場合、彼らと戦うことになるのは私の後輩、未来ある若い隊員たちです。三十年前の帝国司書隊が残した汚点――私たちの世代が生み出したものの尻拭いを、それより後に生まれた若者たちにさせるなど言語道断でございます。次世代を担う若者たちには、私たちの世代よりも一層豊かな国を築いてもらわなければなりません。そんな彼らに余計なものを背負わせるわけにはいかない。そう判断したまでです」
光雪はそこまで言い切って、少し黙った。
幽岳は反論しない――ただ、言葉にならない苛立ちの数々を滲ませるような目で、光雪をじっと見ている。
じろりと、見ている。
そんな彼に、今一度落ち着いた声音で言い聞かせるように、光雪は「幽岳様」と呼んだ。
「私たちはここで手を引くべきなのです。今の私たちが帝国司書隊や国のためになすことがあるとすれば、それは権威や地位の確立ではなく――我々が長年培ってきた知識と経験を、後世に伝えていくことです」
これは紛れもない本心だ。
そして――紛れもない正論だ。
光雪は訴える。
「時の権力など、いつ廃れるか分からないのです。かつての大陽本の権力者が皆一様に栄枯盛衰の途を辿ってきたように。ですが、権力者たちが遺してきた功績は今も語り継がれ、これから先の未来にも生き続けることでしょう。ならば、貴方様が国のために為すべきことは明白――」
「もうよい」
光雪の訴えは、幽岳によって阻まれる。
静かになった空間で、幽岳は長く長く嘆息を漏らした。
「この期に及んで、まだそんな屁理屈を並べるとは」
と、呆れたような口振りで。
言い訳を並べ、回避ばかりしようとする息子の態度を、本気で嘆いて。
「お前は帝国司書隊の長として、大陽本の英雄となるべき男だ。そのために、私がどれだけ苦労してきたと思っている」
苛立たしげに、指で叩く。
自らが腰をかけていた、その車椅子の肘掛けを叩く。
「列車の事故で脚を失くしてからも、裏でお前のために手を尽くしてきたというのに」
光雪はあまり見ないようにしていたその脚を――脚があったであろう箇所を見る。
「多くの血を遺せ、多くの子を産め――私はお前にそう命じてきたはずだ。この国の未来を思うからこそ、お前のような天才の血を遺しておけと再三言ってきたのだ。だというのにお前は縁談を全て断り、一人も子を産ませることなく、挙句この父から逃げ出しおった」
じ、と光雪は目を細める。
その脳裏に駆け巡るのは、幾多の女の姿。
彼がこれまで拒んできた数多の女たちである。
彼女たちにはなんの罪もないのだけど、光雪はそれらを思い出して、胸が焼かれるような不快感を覚えた。
「子を産めぬ娘を妻にしたのは利口であったな。体面上そうしておけば、お前は女を抱かずに済むのだから」
ここで、光雪のまなじりは一気に吊り上がる。
元々垂れ目がちな彼のまなじりがぎちりと細められ、吊り上がる。
「石女の小娘なんぞ娶って、まったく小賢しい。おかげでお前のために見つけておいた縁談がすべて台無しだ」
「……私が自ら選んだ妻を、侮辱しないでいただきたい」
怒号を飛ばしそうになるのをぐっと堪えていても、僅かに震える声までは隠せない。
愛を信じてこなかった光雪が、たった一人だけ愛せた妻への、この上ない侮辱。
光雪の熱い怒りを滲ませた瞳が、幽岳を睨み据えていた。
しかし、幽岳はこれまで通り、息子の怒りに取り合うことなく続ける。
「女としての役目も果たせない小娘に何の意味がある?」
更なる侮辱に、ぴきりと青筋が立つ。
この男は、女を子供を産む道具としてしか見ていないのか?
あるいは、男にかしずくために生まれてきた存在だとでも?
光雪の口の中で、ぎり、と歯の軋む音がする。
しかし、今はそんな憤怒をぶつけている場合ではない。光雪は息をひとつ、大きめに吸って吐き出す。
「……私たちは今、国の未来と私たちの未来について話しているのです。私の妻の話はしていないし、する必要もない。話を戻しましょう」
怒りをなんとか鎮めて、光雪は冷静に振る舞うよう努めた。
――しかし。
「果たして、本当に必要ないかな」
幽岳は、そうはさせなかった。
「光雪。お前が少なからず己が妻を想っていることは分かる。それほどあの娘が大切だというのなら、こちらにも考えがある」
幽岳は、勝ち誇ったように言う。
「あの娘――五年前に自殺した音楽家の一人娘だろう?」
光雪は、動揺する。
見た目には僅かではあったけれど、その目が一瞬見開いたのを、幽岳は見逃さなかった。
「娘の名前も私は知っている。お前が娘を世間から匿うために娶った、ということもな」
――そんなところまで知られていたのか
静かに、激しく睨む光雪に、幽岳は臆することなく言う。
「光雪。あの娘を愛しているというなら、もう子を産めとは言わん。どの道、望めぬことだろう。その代わり、帝国司書隊に戻って総統を継げ」
なるほど、人質にとるか。関係のない妻を、この男も人質にするか。――否、関係ないからこそ、人質としては最適格とも言えるか。
「あの娘を守り帝国司書隊を統べるか、帝国司書隊と国を捨ててあの娘の正体を衆目に晒すか――選ぶべき答えはひとつしかあるまい?」
その気のない息子を帝国司書隊の頂点に据えるために、手段を選ばなくなった時点で、国のことを考えているとはもはや言えまい――それは老害というのだ。
せめて、すんでのところで老害にはならないで欲しかったのだけど、と、光雪は怒りに加えて悲哀さえも覚えた。
……光雪はふ、と息をひとつ吐き出すと、先ほどとは打って変わった、酷く冷たい目で――言葉を放った。
「……幽岳様、一つ答えて頂きたい。その情報、他には誰が把握しているのです?」
「安心しろ。情報を持っているのは私だけだ。情報を掴んだ私の使いは一般人として過ごしていたが、先日、不運にも交通事故に巻き込まれてな」
「左様ならば――」
光雪は静かに立ち上がる。
衣擦れの音さえも立てずに、ゆっくりと立ち上がる。
「一つ選択肢を作るとしましょう。『妻を守り、帝国司書隊を統べぬ』という選択肢を」
静かに言う。
囁くように言う。
「は、どう作るというのだ。情報を持っている私の口を封じるとでも?」
幽岳は、冗談に近いもののつもりでそう言った。
まさかそんなことは考えていないだろう、思いついていたとしても実行はできないだろう、と。
そのつもりで、茶化すつもりで言った。
「ええ」
光雪はあっさりとそれに頷いた。
なんの躊躇いもなく。
酔狂もはったりも駆け引きもなく――本気で頷いた。
「そこにちょうどいい道具もあることですし」
光雪が視線を落とした先は、机の上――そこに置かれた、鉄の塊である。
光雪の冷たい眼差しの奥に潜んだものを察知した幽岳は、冗談めかしていたその顔を引きつらせた。
「まさか――お前、本気で私を……殺すつもりなのか……?」
まるで金縛りにあったかのような状態の幽岳に、光雪はそっと笑いかけた。
幽岳が今まで見たこともないような、穏やかな笑顔だった。
「いいえ、まさか。親である貴方を殺せば、尊属殺人を犯した私は間違いなく死刑ですからね。そんな度胸はありません。私はただ、秘密を葬っていただきたいだけです」
幽岳のすぐ傍まで近づいた光雪は、その耳元で囁く。
光雪を押しのけることくらいは幽岳にもできたはずだが、しかし、彼は予想しなかった恐怖で微動だにできない。
「自力で歩くことができない貴方でも、これならば簡単でしょう。引き金を引くだけ。こめかみに当てて、引き金を引く。ただそれだけです」
光雪は人差し指と中指をぴんと真っ直ぐ伸ばし、その先を自身のこめかみに当てている。
悪魔の囁きであった。
「み、光雪……」
「歩兵銃のように両手で支える必要もない、増して、切腹なんて痛々しいことをしなくても済むのです。一度撃鉄を起こして軽く引き金を引けば、すぐに苦痛なく終わるのですよ。素晴らしいとは思いませんか」
震える幽岳の手を、光雪はそっと両手で包み込む。
不気味な優しさで微笑みかけるのである。
「あぁでも、幽岳様。実行はどうか、私が屋敷を去った後になさってください。念の為、二時間くらい間をあけて。そうでないと、あなたの大事な息子が殺人犯になってしまいますから」
「光雪、お前……っ」
「そうですね、遺書も書いていただくとしましょう。貴方は私に散々酷いことをしてくれましたからね。たくさんたくさんたくさんたくさん、私の気持ちを無視してきましたものね。それを懺悔なさるといいです。あつらえたようにいい動機となりましょう」
幽岳は何度か何かを口にしようとして、ついぞそうすることはなかった。
笑顔を浮かべる光雪の言葉から滲み、滴り落ちる毒が、それを封じてしまったのである。
――殺意。殺意。殺意。
何度も女を抱かせようとしたこと、何度も望まぬ結婚を迫ったこと、何度も追跡し続けてきたこと、何度も帝国司書隊に戻るよう強要したこと――その他諸々。
加えて、妻への害意と侮辱に対する怒り。
積年の恨みが篭った、殺意の言霊。
幽岳はそれに抗えない。
「光雪、私は……私は今まで、この十年間、お前に帝国司書隊を遺すために、そのために生きてきたのだ! だというのに、お前がそうしなければ、私が父として今までしてきたことは一体……」
手塩にかけて育ててきた息子が、心を尽くしてきた息子が、今まさに、父である自分に向かって『死ね』と言ってきているのだ。
幽岳にとっては――国と、息子のためを思って行動してきた父・幽岳にとっては、最上の絶望である。
「幽岳様」
そんな幽岳を、光雪は呼ぶ。
――名前で、呼ぶ。
「私が貴方を『父様』と呼んだことが、これまで一度でもありましたでしょうか」
光雪は既に笑っていなかった。
その瞳の光は鋭く――しっかりと握られた手は、熱いのに冷たい。
「『生んだ子より抱いた子』と言いますが、子としても『生みの親より抱かれた親』なのですよ。私を私たらしめた親は母様――そして、母代わりになってくれた阿子のみ。貴方は生物学上の男親なのであって、父親と思ったことは一度もありません。思いたくもない」
それでもね――と、光雪は静かな声で続ける。
「私は貴方を何度も殺したくなりましたが、絶対に殺すまいと思っていました。どんなに酷い人でも、師として感謝すべき点もなくはないですからね」
じっと睨んで、ぶつける。
「貴方のせいですよ。貴方が私の妻の正体をそんなふうに利用すると言いさえしなければ、こんな馬鹿げたことをしなくて済んだのです。だから、これは息子のために死ななければいけない貴方への、せめてもの手向けです」
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