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一月『幽岳事件』
了
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全てが、八田光雪によって仕組まれた、隠蔽工作だった。
八田幽岳は自責の念に耐えられず自殺した──ように見せかけて。
実は彼を恨んだ息子がそう仕向けた──ように見せかけて。
実の実は彼の妻の過去を知った父親の口を封じた。
『七本音音は、五年前に死亡した音楽家・実井正蔵の一人娘――行方知れずの実井寧々子である』
――その事実を、世間から隠し通すために!!
「迂闊だったとしか言いようがない。八田幽岳は姐さんを人質に旦那を脅そうとしたみたいですけど、却ってそれが仇になった」
それさえしなければ、せめて命は助かったかもしれないのに。
よりにもよって、三八にとって最愛の存在を巻き込んでしまったせいで、八田幽岳は落命する羽目になったのだ。
「もし万が一、八田幽岳が自殺ではなく、あんたの言霊によって自殺させられたと露見したとしても。つまり、真犯人が本当に旦那だったとバレたとしても――あんたはそこからさらに誤認されるように、もっともらしい動機を用意したんだ」
父・幽岳に対する、八田光雪の対する怨恨──この上ない説得力のある動機を代わりに据えておくことで、妻の秘密をバラすと脅されたから、という真の動機は死守される。
三八の仕掛けたからくりは、そうして完璧に作動するはずだった。だというのに、目の前のこの少年は、からくりを解き明かしてしまった。
絶句する三八を、唯助は淡々と追い詰める。
「……それで、どうするつもりだ」
全てを詳らかにした唯助に、三八は問うた。
「私を警察隊に突き出すかね?」
それに対して、唯助は首を横に振って否定する。
「あんたが言った通りです。無理ですよ。あんたがやったことは規格外すぎます、誰にも証明できません」
「そういう君も――随分と規格外のことをしてくれたではないか」
規格外というより、予想外というべきか。
どちらでも変わりないか。
幽岳の屋敷にいた女中ですら知らなかった出来事を、全く別の場所にいた唯助が知るはずはない。女中が証言できなかった時点で、三八は自身が弄した策略の成功を確信したのだ。
だというのに、唯助は寸分違わずやり取りを言い当ててしまった。なぜ、そんな芸当ができてしまったのか。
その理由として、三八はひとつ思い当たる。――思い当たることは、ひとつしかない。
「珱仙か。奴の『慧眼』で見た事実を、君たちは知らされたんだね?」
全てを見通す『慧眼』の能力――綾城に捕まった三八がどこへ連れていかれたのかまで、正確に言い当てた、禁書の力。
こんな芸当ができるのは、それを操る珱仙だけだ。
しかし、
「違います」
と、唯助は否定する。
「見たのはおれですよ」
と、主張する。
「旦那、思い出してくださいよ。一番初めは、あんたがさせたことですよ」
――それは、十月のことであった。
棚葉町の古本屋・草村堂にて――三八がそこへ双子を連れてきたときに、三八自身がさせたことであった。
「草村堂で、おれは座敷童が持っていた蹴鞠から譚を読み取った。それと同じ手を使っただけです」
「……信じられん」
三八の表情は険しい。唯助の説明を受けてもなお、不可解であるといった様子である。
「あれは蹴鞠という譚の核になりえるものに触れたからできたんだ。唯助のそばにそういうものがあったというなら説明はつくが、それはありえないだろう」
当然ながら、三八は事件に関わった物は一切所持していない。幽岳に書かせた遺書は唯助の手に渡る前に燃やされ、既に灰になっている。唯助が譚を読み取れる核は無いはずだ。
唯助は答える。
「秋声先生に聞きました。ここは旦那にとってゆかりのある土地なんでしょう? なら、旦那の譚を見ることもできるんじゃないかって考えたんですよ」
珱仙と鯖を連れてこの地に辿り着いてから――唯助は眠り続けた。三八の譚を読み解くために、ずっとずっと眠り続けた。
いわれのない罪を着せられた三八の無実を証明するために。七本夫妻を助けるために。
――そして、それは目論見通りに上手くいったのだ。
「でも、まさかこんなものが見えるとは思いませんでした」
上手くいってしまったことで、皮肉にも。
逆に三八が隠蔽しようとした事実が、判明してしまった。
「だから、おれも半信半疑で旦那に鎌をかけたんです。引っかからないでくれたら、よかったんですけどね」
見抜きようがない完璧な策を弄していただけに、三八はそこを暴かれた途端に反応してしまった。露見するはずがない真の動機を見破られてしまったために、冷静ではいられなかったのだ。
「……そんな馬鹿な」
ありえない、と三八はまだ納得できない様子だった。
「この土地は、事件に直接関わりがあったわけではない。私に縁があるのは確かだろうが、それはこの地が私の生まれ故郷だったのだろうというだけで――」
「生まれ故郷だったのだろう?」
その言い回しに反応したのは唯助だけではなかった。
三八の隣にいた秋声もまた、それに違和感を覚えた。
「光雪、それはどういうことですか。生まれ故郷がそんなに曖昧な認識なのですか」
訪れたことがなかったとしても、地名や所在地くらいははっきり知らされていてもいいはずだ。しかし、三八は自分ではっきり分からないようだった。
「私はただ推測しただけだ」
おもむろに、三八は一冊の本を取り出す。それは浄火の禁書『焔神楽』であった。
三八はその題名の下に刻まれた、著者名を指さす。
「漆本? ……ん?」
「下の名前が読めねえ」
「漆本伽那子――」
難しい漢字が読めない双子の代わりに、秋声がそれを読み上げる。
しかし、漆本が読めただけでも実は十分であった。
「漆本って、旦那の筆名――」
「漆本蜜って名前だったよな、おっさんのは」
もしかして、と思い当たった双子の予想は当たりであった。
「この本を書いたのは、私の母だ」
そう言って、三八は自身の背後を指で示した。正確には、この小屋の裏手を示した。
「この丘を登った先に、大きな木があっただろう。その下に建っていた墓石に、同じ名前が刻まれていた。近くに当時の様子を記した石碑もあってな。そこには『息子とこの地で暮らしていた』と記されてもいる」
三八は続ける。
視線を下に落として、続ける。
「漆本伽那子の息子は私一人だけのはず。それに、懐かしい譚の匂いも感じる。――だから、この地は私の生まれ故郷だろうと、推測しただけだ」
推測するという口振り――どうやら、嘘ではないらしい。
三八は本当に、自身の生まれ故郷を覚えていないようだった。論理的に推測して、恐らくそうであろうと考えていただけであった。
「旦那、これ」
思い出したように、唯助が世助より一歩前に出て、それまでずっと手に持っていたものを差し出す。
一冊のノートだった。
「旦那に指示されてつけてた夢日記です」
唯助が八月から見ていた、不思議な夢の数々。夢なのに生々しく現実味があり、しっかりと記憶に残る、奇妙な夢。
優しい母の声に撫でられ、母に懺悔し、母に怯えていた、少年の夢だ。
「八月からずっとつけていたんです。……時間が経つにつれて、断片的でぼやけていたのがどんどん鮮明になってきて」
夢が色濃くなっていったことも、その夢日記には書かれていた。
三八はそれをゆっくりと、速読することなく、一つ一つを確かめるように目を通す。
「その夢に出てくる男の子は、癖っぽい髪の毛で、口元に黒子があって、目の色は若草色で――」
唯助は、そう言って自身の右目を指さした。
「右目だけは絶対に隠しているんです。……旦那みたいに」
そう、三八は絶対に右目を見せないのだ。
そもそも普段から両目とも前髪で隠しているのだが、たまに覗いて見えるとしたら、それは決まって左目の方だ。
世助が見た隊服姿でも、三八は眼帯で右目を隠していた。
「この夢、心当たりないですか?」
「…………ない」
三八は首を振る。戸惑ったように、困ったように首を振る。
「旦那、まさか、記憶を失っているんですか?」
唯助が恐る恐る尋ねると、三八はそれにはっと気づいたような、そんな表情を見せる。
「……母がいたことは覚えている。母を愛していたことも覚えている。……母が生きていた頃の記憶が、無い」
――三八は気づいた。
自身に起きていた異変に、この時ようやく気づいた。
無理もない――彼は昔を思い出す必要が今までなかったのだ。彼にとっては、愛する母がいたという事実だけで十分だったのだから。
けれど、気づいてしまった三八は、その瞬間からそれが――幼少時代の記憶の欠落が、重大な欠陥のように思えたのだ。
「唯助――まさか、八月から見ていたのか? 七本屋にいたときからずっと……私の譚を見ていたのか?」
だとしたら、その力も三八の言霊同様に規格外と言わざるを得まい――
彼は譚に直接関係のあるものに触れずとも、その人にゆかりのあるもの――それも物体に限らず、土地や環境に接触しただけで、唯助はその人の譚を覗いてしまったのだ。
三八の生まれ故郷であるこの丘にいながら、遠方で三八が起こした事件の真相を覗いたように。
三八が営む七本屋にいながら、三八の幼少期を覗いたように。
三八の『言霊』が『強制的に譚をねじ曲げる力』だとするなら、唯助の使った力は『強制的に譚を覗き込む力』――『心眼』と言うべきだろう。
「――! 唯助くん、貴方まさか」
何かに勘づいた秋声が、その何かを言おうとした時だった。
「ならぬッ!」
鈴がけたたましく鳴るような女の声が響く。突然、三八の髪の毛を束ねていた赤い紐の一部が、光を放ってほつれた。
「ならぬ!! ならぬぞ!」
ほつれた光の束はみるみるうちに人の大きさほどの炎に膨らみ、女の姿を形作る。
「うぐっ!?」
女の姿がはっきりと輪郭を浮かべる前に、触手のように伸びた炎が、瞬く間に唯助の首を絡めとった。
「なっ!? やめろ、阿子!!」
三八がその炎の名前を呼ぶ頃には、炎ははっきりとその形を作っていた。
――禁書『焔神楽』の毒、浄火を司る姫巫女・阿子。
毒らしくない毒である彼女が、唯助に跨りながら首を絞めようとしていた。
「やめるんだ、阿子! やめてくれ!!」
ありえないことであった。
『毒の王』という異名がつくほど卓越した技術を持つ八田光雪――七本三八の命令に、その相棒たる『焔神楽』が逆らっているのである。
三八が懇願して止めているにもかかわらず、阿子は唯助の首を今にも焼き切らんとしていた。
「唯助を離せ、この野郎!!」
唯助の意識が飛ぶぎりぎりのところで、世助が怒号と共に阿子の横っ面を殴り抜いた。
「うッ!?」
禁書の毒に対してずば抜けた効力を発揮する世助の拳は、三八の命令を聞かない阿子にも通じた。
その手がゆるんだ隙に、世助は唯助の体を引き剥がした。
「大丈夫か、唯助!」
激しく咳き込む唯助。
幸いなことに、焼かれかけた皮膚は軽い火傷で済んだ。しかし、喘息の発作が出ている上に気道を塞がれたせいで、唯助の呼吸はぜいぜいと異常な音を立てている。
「てめえ、唯助に何しやがる!!」
唯助を庇うように抱き込む世助の目は、阿子を完全に敵として認識していた。
そんな双子の前へさらに、三八が割り込む。
「阿子、なぜだ! なぜ唯助の首を絞めた!?」
三八にとって守るべき存在――それは、三八に従っている阿子とて同じはず。だというのに、なぜ阿子は唐突に唯助を襲ったのか。
阿子は答える。
「光雪! あの童は危険じゃ! おぬしの封印したものを解き放とうとしている!」
「は?」
三八は訳が分からず、困惑するばかりであった。ただ、唯助だけは傷つけさせまいと、それだけは決めて立ちはだかっていた。
「光雪、『糜爛の処女』です!」
秋声が言う。
阿子の意図を誰よりも明確に理解した秋声が、叫ぶ。
「その子は――『糜爛の処女』の譚に接触しています!」
一月『幽岳事件』・了
そして、事態はさらに、火急に進む。
三八を、唯助を、翻弄しながら――
八田幽岳は自責の念に耐えられず自殺した──ように見せかけて。
実は彼を恨んだ息子がそう仕向けた──ように見せかけて。
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――その事実を、世間から隠し通すために!!
「迂闊だったとしか言いようがない。八田幽岳は姐さんを人質に旦那を脅そうとしたみたいですけど、却ってそれが仇になった」
それさえしなければ、せめて命は助かったかもしれないのに。
よりにもよって、三八にとって最愛の存在を巻き込んでしまったせいで、八田幽岳は落命する羽目になったのだ。
「もし万が一、八田幽岳が自殺ではなく、あんたの言霊によって自殺させられたと露見したとしても。つまり、真犯人が本当に旦那だったとバレたとしても――あんたはそこからさらに誤認されるように、もっともらしい動機を用意したんだ」
父・幽岳に対する、八田光雪の対する怨恨──この上ない説得力のある動機を代わりに据えておくことで、妻の秘密をバラすと脅されたから、という真の動機は死守される。
三八の仕掛けたからくりは、そうして完璧に作動するはずだった。だというのに、目の前のこの少年は、からくりを解き明かしてしまった。
絶句する三八を、唯助は淡々と追い詰める。
「……それで、どうするつもりだ」
全てを詳らかにした唯助に、三八は問うた。
「私を警察隊に突き出すかね?」
それに対して、唯助は首を横に振って否定する。
「あんたが言った通りです。無理ですよ。あんたがやったことは規格外すぎます、誰にも証明できません」
「そういう君も――随分と規格外のことをしてくれたではないか」
規格外というより、予想外というべきか。
どちらでも変わりないか。
幽岳の屋敷にいた女中ですら知らなかった出来事を、全く別の場所にいた唯助が知るはずはない。女中が証言できなかった時点で、三八は自身が弄した策略の成功を確信したのだ。
だというのに、唯助は寸分違わずやり取りを言い当ててしまった。なぜ、そんな芸当ができてしまったのか。
その理由として、三八はひとつ思い当たる。――思い当たることは、ひとつしかない。
「珱仙か。奴の『慧眼』で見た事実を、君たちは知らされたんだね?」
全てを見通す『慧眼』の能力――綾城に捕まった三八がどこへ連れていかれたのかまで、正確に言い当てた、禁書の力。
こんな芸当ができるのは、それを操る珱仙だけだ。
しかし、
「違います」
と、唯助は否定する。
「見たのはおれですよ」
と、主張する。
「旦那、思い出してくださいよ。一番初めは、あんたがさせたことですよ」
――それは、十月のことであった。
棚葉町の古本屋・草村堂にて――三八がそこへ双子を連れてきたときに、三八自身がさせたことであった。
「草村堂で、おれは座敷童が持っていた蹴鞠から譚を読み取った。それと同じ手を使っただけです」
「……信じられん」
三八の表情は険しい。唯助の説明を受けてもなお、不可解であるといった様子である。
「あれは蹴鞠という譚の核になりえるものに触れたからできたんだ。唯助のそばにそういうものがあったというなら説明はつくが、それはありえないだろう」
当然ながら、三八は事件に関わった物は一切所持していない。幽岳に書かせた遺書は唯助の手に渡る前に燃やされ、既に灰になっている。唯助が譚を読み取れる核は無いはずだ。
唯助は答える。
「秋声先生に聞きました。ここは旦那にとってゆかりのある土地なんでしょう? なら、旦那の譚を見ることもできるんじゃないかって考えたんですよ」
珱仙と鯖を連れてこの地に辿り着いてから――唯助は眠り続けた。三八の譚を読み解くために、ずっとずっと眠り続けた。
いわれのない罪を着せられた三八の無実を証明するために。七本夫妻を助けるために。
――そして、それは目論見通りに上手くいったのだ。
「でも、まさかこんなものが見えるとは思いませんでした」
上手くいってしまったことで、皮肉にも。
逆に三八が隠蔽しようとした事実が、判明してしまった。
「だから、おれも半信半疑で旦那に鎌をかけたんです。引っかからないでくれたら、よかったんですけどね」
見抜きようがない完璧な策を弄していただけに、三八はそこを暴かれた途端に反応してしまった。露見するはずがない真の動機を見破られてしまったために、冷静ではいられなかったのだ。
「……そんな馬鹿な」
ありえない、と三八はまだ納得できない様子だった。
「この土地は、事件に直接関わりがあったわけではない。私に縁があるのは確かだろうが、それはこの地が私の生まれ故郷だったのだろうというだけで――」
「生まれ故郷だったのだろう?」
その言い回しに反応したのは唯助だけではなかった。
三八の隣にいた秋声もまた、それに違和感を覚えた。
「光雪、それはどういうことですか。生まれ故郷がそんなに曖昧な認識なのですか」
訪れたことがなかったとしても、地名や所在地くらいははっきり知らされていてもいいはずだ。しかし、三八は自分ではっきり分からないようだった。
「私はただ推測しただけだ」
おもむろに、三八は一冊の本を取り出す。それは浄火の禁書『焔神楽』であった。
三八はその題名の下に刻まれた、著者名を指さす。
「漆本? ……ん?」
「下の名前が読めねえ」
「漆本伽那子――」
難しい漢字が読めない双子の代わりに、秋声がそれを読み上げる。
しかし、漆本が読めただけでも実は十分であった。
「漆本って、旦那の筆名――」
「漆本蜜って名前だったよな、おっさんのは」
もしかして、と思い当たった双子の予想は当たりであった。
「この本を書いたのは、私の母だ」
そう言って、三八は自身の背後を指で示した。正確には、この小屋の裏手を示した。
「この丘を登った先に、大きな木があっただろう。その下に建っていた墓石に、同じ名前が刻まれていた。近くに当時の様子を記した石碑もあってな。そこには『息子とこの地で暮らしていた』と記されてもいる」
三八は続ける。
視線を下に落として、続ける。
「漆本伽那子の息子は私一人だけのはず。それに、懐かしい譚の匂いも感じる。――だから、この地は私の生まれ故郷だろうと、推測しただけだ」
推測するという口振り――どうやら、嘘ではないらしい。
三八は本当に、自身の生まれ故郷を覚えていないようだった。論理的に推測して、恐らくそうであろうと考えていただけであった。
「旦那、これ」
思い出したように、唯助が世助より一歩前に出て、それまでずっと手に持っていたものを差し出す。
一冊のノートだった。
「旦那に指示されてつけてた夢日記です」
唯助が八月から見ていた、不思議な夢の数々。夢なのに生々しく現実味があり、しっかりと記憶に残る、奇妙な夢。
優しい母の声に撫でられ、母に懺悔し、母に怯えていた、少年の夢だ。
「八月からずっとつけていたんです。……時間が経つにつれて、断片的でぼやけていたのがどんどん鮮明になってきて」
夢が色濃くなっていったことも、その夢日記には書かれていた。
三八はそれをゆっくりと、速読することなく、一つ一つを確かめるように目を通す。
「その夢に出てくる男の子は、癖っぽい髪の毛で、口元に黒子があって、目の色は若草色で――」
唯助は、そう言って自身の右目を指さした。
「右目だけは絶対に隠しているんです。……旦那みたいに」
そう、三八は絶対に右目を見せないのだ。
そもそも普段から両目とも前髪で隠しているのだが、たまに覗いて見えるとしたら、それは決まって左目の方だ。
世助が見た隊服姿でも、三八は眼帯で右目を隠していた。
「この夢、心当たりないですか?」
「…………ない」
三八は首を振る。戸惑ったように、困ったように首を振る。
「旦那、まさか、記憶を失っているんですか?」
唯助が恐る恐る尋ねると、三八はそれにはっと気づいたような、そんな表情を見せる。
「……母がいたことは覚えている。母を愛していたことも覚えている。……母が生きていた頃の記憶が、無い」
――三八は気づいた。
自身に起きていた異変に、この時ようやく気づいた。
無理もない――彼は昔を思い出す必要が今までなかったのだ。彼にとっては、愛する母がいたという事実だけで十分だったのだから。
けれど、気づいてしまった三八は、その瞬間からそれが――幼少時代の記憶の欠落が、重大な欠陥のように思えたのだ。
「唯助――まさか、八月から見ていたのか? 七本屋にいたときからずっと……私の譚を見ていたのか?」
だとしたら、その力も三八の言霊同様に規格外と言わざるを得まい――
彼は譚に直接関係のあるものに触れずとも、その人にゆかりのあるもの――それも物体に限らず、土地や環境に接触しただけで、唯助はその人の譚を覗いてしまったのだ。
三八の生まれ故郷であるこの丘にいながら、遠方で三八が起こした事件の真相を覗いたように。
三八が営む七本屋にいながら、三八の幼少期を覗いたように。
三八の『言霊』が『強制的に譚をねじ曲げる力』だとするなら、唯助の使った力は『強制的に譚を覗き込む力』――『心眼』と言うべきだろう。
「――! 唯助くん、貴方まさか」
何かに勘づいた秋声が、その何かを言おうとした時だった。
「ならぬッ!」
鈴がけたたましく鳴るような女の声が響く。突然、三八の髪の毛を束ねていた赤い紐の一部が、光を放ってほつれた。
「ならぬ!! ならぬぞ!」
ほつれた光の束はみるみるうちに人の大きさほどの炎に膨らみ、女の姿を形作る。
「うぐっ!?」
女の姿がはっきりと輪郭を浮かべる前に、触手のように伸びた炎が、瞬く間に唯助の首を絡めとった。
「なっ!? やめろ、阿子!!」
三八がその炎の名前を呼ぶ頃には、炎ははっきりとその形を作っていた。
――禁書『焔神楽』の毒、浄火を司る姫巫女・阿子。
毒らしくない毒である彼女が、唯助に跨りながら首を絞めようとしていた。
「やめるんだ、阿子! やめてくれ!!」
ありえないことであった。
『毒の王』という異名がつくほど卓越した技術を持つ八田光雪――七本三八の命令に、その相棒たる『焔神楽』が逆らっているのである。
三八が懇願して止めているにもかかわらず、阿子は唯助の首を今にも焼き切らんとしていた。
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唯助の意識が飛ぶぎりぎりのところで、世助が怒号と共に阿子の横っ面を殴り抜いた。
「うッ!?」
禁書の毒に対してずば抜けた効力を発揮する世助の拳は、三八の命令を聞かない阿子にも通じた。
その手がゆるんだ隙に、世助は唯助の体を引き剥がした。
「大丈夫か、唯助!」
激しく咳き込む唯助。
幸いなことに、焼かれかけた皮膚は軽い火傷で済んだ。しかし、喘息の発作が出ている上に気道を塞がれたせいで、唯助の呼吸はぜいぜいと異常な音を立てている。
「てめえ、唯助に何しやがる!!」
唯助を庇うように抱き込む世助の目は、阿子を完全に敵として認識していた。
そんな双子の前へさらに、三八が割り込む。
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「は?」
三八は訳が分からず、困惑するばかりであった。ただ、唯助だけは傷つけさせまいと、それだけは決めて立ちはだかっていた。
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秋声が言う。
阿子の意図を誰よりも明確に理解した秋声が、叫ぶ。
「その子は――『糜爛の処女』の譚に接触しています!」
一月『幽岳事件』・了
そして、事態はさらに、火急に進む。
三八を、唯助を、翻弄しながら――
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王太子の婚約者として尽くしてきた公爵令嬢エリシアは、ある日突然、身に覚えのない罪で断罪され婚約破棄を言い渡される。
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