貸本屋七本三八の譚めぐり ~熱を孕む花~

茶柱まちこ

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四章『頑張り屋の休息日』

その五

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「おれと唯助は、気づいたら知らない土地の砂浜に投げ出されていたんだ。その時は殆どのことを覚えてなかった。なにがどうしてこうなったのかも、全然思い出せなくて。知ってたのは自分と弟の名前と、弟が喘息を患っていたことだけ」
 世助は俯きながら、幼い頃の譚を吐露し始めた。
「親の名前もどこから来たのかも答えられないんじゃ、助けてもらいようがない。警察にも早々に見捨てられた。だから、弟を背負って、どうにか居場所を求めてさまようしかなかったんだ。それでも昼はまだいい、恐ろしいのは夜だ。唯助が力尽きたらどうしようとか、野盗や獣に襲われたらどうしようとか、幽霊が出たらどうしようとか、そんなことばっかりぐるぐる考えて怯えながら夜を越えた。腹が減って、仕方なく畑から作物を盗んだこともあった。夏目家の婆さんに運良く拾われなかったら、おれは唯助とそのまま野垂れ死んで、ここにいなかったかもしれねえな」
 まあ、その夏目家でも色々あったんだけど。――なんてことを、世助は乾いた笑い声を零しながら言う。
「だから、記憶が無いあんたの不安は、おれも少しは分かるつもり。何もかも分からないまま、頼るあてもなくさまよったあの数日間は、本当に地獄だった」
 とつとつと語られる彼の譚に、私は胸をつかれるような思いがした。同じような経験をしたから――しかも、彼に至っては八歳という幼さだったのだから、輪をかけて過酷な譚になったことだろう。記憶が無いまま投げ出される不安と恐怖を知っていたからこそ、世助はあんなにも私を気にかけてくれていたのだ。それこそ、自分の身を砕いてまで。
「まあ、そうやって助けようとして、無理してぶっ倒れて迷惑かけてるんじゃ、とんだお笑い種だけどな」
「そんなことない」
 自嘲を続ける彼の言葉に被せるようにして、私はそれを否定した。わざと語気を強くして言ったから、世助は少し動揺したようだった。
「迷惑だなんて思ってない。私はそんなこと言った覚えはないわよ」
 自虐的になる彼に不満をぶつけるよう唇を尖らせて言えば、
「でも、心配かけたし」
 と返ってくる。
 確かに心配はしたし、周りの皆も突然人が倒れたのだから仰天したことだろう。けれど、その全てが彼の責任ではない。ここまで必要以上に負い目に感じなくてもいいはずだ。
「最終的にちゃんと回復して、元気になってくれればそれでいいのよ。子供返りしたのだって同じ」
 子供返りしてしまったことについては、彼自身かなり恥ずかしかったらしく、「ゔっ」と唸っていた。
「調子が悪かったんだから仕方ないわよ。こういう時くらい誰かに甘えたって、バチは当たらないわ。あんまり自分を責めすぎると、自分が可哀想よ」
「自分が、可哀想……?」
「そう、自分のことはもっと大事にしてあげないと」
 今朝来た医者の話があってから薄々感じていたことではあったけど、世助の言動を見るに、彼は知らず知らずのうちに自分に我慢を強いてしまっているようだった。誰かに甘えてはいけない、弱ったところを見せてはいけない、情けない姿を晒してはいけない――自分に厳しすぎるから、我慢してしまう。体や心が悲鳴を上げるまで、あるいは上げていたとしても。
 今、『自分が可哀想』という言葉に彼が首を傾げていることからも分かるように、自分が想像以上に傷ついているということを彼はほとんど自覚していないのだ。
 そうして限界に近づいた彼が無意識のうちにあげた悲鳴の形が、あの子供返りだったのかもしれないと、今の私は思っている。
「もっとこうじゃなきゃって思い込んで、自分を強く見せようとしなくたっていいの。世助はそんなことしなくても十分強いんだから」
「おれが、強い?」
「だって、さっき話してくれたじゃない。記憶が無いまま放り出されて、しかも保護された先でも色々あったって。何度も大変な目に遭ってきたのに、全部乗り越えてきたのよ。それって客観的に見たらすごいことでしょ。それに、自分がすごくつらい思いをしたからこそ、私に同じ思いはさせたくないって考えてたんでしょう? そういう誰かに寄り添える優しさも、貴方の強いところだと思う」
 強いという言葉を意外そうに聞いていた世助は、その後私から褒めちぎられたのが照れくさかったようで、俯いてしまった。私は下がった頭に、また手を伸ばす。
「大丈夫、貴方が人一倍頑張り屋なのは皆知ってるわ。だから、そんなふうに迷惑かけたなんて思って、気負わないで」
 彼の茶色い毛並みに沿って撫でながら、そこへ染み渡らせるように言い聞かせる。
「もし迷惑がるような奴がいたら、その時は私がそいつの尻を蹴飛ばしてあげる」
 冗談交じりに笑いながら言えば、今度は顔を上げてぎょっと目を見開いた。
 なんだか表情が豊かで、くるくる変わって面白い。
「……はは、そいつは痛そうだ。リツが本気で蹴ったら暫く座れなくなっちまう」
「あはは、ちゃんと加減しないとね」 
 心を開いて、肯定して、冗談を言って笑いあって――少しでも、彼が肩肘張らずにいられるようになっただろうか。
 世助はそれに答えるように、私に撫でられたところに触れながら言う。
「……誰かにこんなにたくさん褒めてもらったのが久しぶりすぎて、なんか、くすぐったい」
 ゆったりと目を細めた世助を見たその時、ごくごく僅かに大きく、心臓が跳ねるのを感じた。彼が、私に心を許してくれたような気がして。それが純粋に嬉しいのと同時に、胸の中に浮かんでいたシャボン玉の中から、温かい何かが弾けたようだった。
 彼の口元に浮かぶ笑みが、柔らかな頬を持ち上げている。その姿はやっぱり幼い子供のように見えて、むにゅりと頬に触れてみたい気持ちが湧いてくる。
「……元いた場所でも、こんなふうに褒めてもらってたのかな。こんなふうに頭撫でられて」
 撫でられた余韻から辿るように、切れた糸の先をなぞろうとするように。消えてしまった記憶に世助は思いを馳せる。
「夏目家に拾われてから十年間、夏目世助として過ごしてきたけど……夏目って名乗るのはどうしても違和感があるんだ。おかしな話だよなぁ。自分の本当の苗字なんて一文字も思い出せなくて、思い出すこと自体もう諦めてるはずなのに」
「きっと、貴方にとって大事な名前だったのね。いつか、思い出せる日が来るといいわね」
 私は記憶を失ってまだ日が浅いから、どうにか記憶を取り戻せないかと足掻いているけれど、もしも――もしも、状況が進展しなかったら、彼のようにそれを受け入れて新たな道を歩むという選択肢もありなのかもしれない。いや、というよりも――あえて思い出さないという選択肢を取っても良いだろうかと考えていた。私にとって、この椿井家はそれくらい居心地のいい場所なのだ。旦那様や皆さえ許してくれるなら、私は――
「リツ、あのさ、」
 そんなことを考えていると、不意に世助の遠慮がちな声が、私の鼓膜をそっと叩いた。
「これはお願い……ってことになるんだろうけど……」
 途切れ途切れの台詞はなんともぎこちない。世助は一度打ち明けた言葉の続きを、言おうか言うまいかと逡巡しているようだった。
「――……やっぱり、なんでもない」
 そして、言わないことにしたらしい。飲み込むようにして、彼はそのまま口を閉ざした。
「そう? なんでも言ってくれて良いのよ?」
 私は彼の吐き出そうとした言葉をなんとか引き出したくて、たった数秒の間にあれよこれよと考えていた。
「いや、言ってもあんたを困らせるだけだから。それはしたくない」
「……そう」
 けれど、結局引き出すことも出来ないまま、会話は終わってしまった。「なんでもないよ」と言い聞かせるような世助の微笑を見た時、私は針の先でつつかれたような、かすかな痛みを胸のあたりに感じた。
 
 *****

「もう動くのか? あと数日休んでもいいんだぞ」
 翌日の世助の報告に対して、当然のことながら旦那様は瞠目していた。しかし、何より驚くべきは、見るからに全快といった様子の世助が浮かべているきらきらの笑顔だ。
「大丈夫。体を動かしてないと、余計なことまで考えちまいそうなんだ。一応休憩しながら働く感じにはなるんだろうけど」
「相変わらず丈夫な体だな……まったく恐れ入る」
 昨日の弱々しい彼は全くの別人物だとでも言われているようだ。順調な回復ぶりだとは思っていたけど、倒れるほどの風邪を丸一日で治すなんて驚異と言わざるをえまい。数々の苦難を乗り越えてきたのも納得ではあるけれど、なんて生命力だろう。
「まあ、調子が戻ったのであればなによりだ」
「おう、寝込んじまったぶんも取り返していくぜ」
 取り返さなきゃいけないほど寝込んでもいないでしょうに。気合い十分なのは結構だけど、回復した途端にこの調子ではまた倒れてしまうのではないだろうか。
 内心やれやれと呆れていた私の方へ、ふと世助が振り返る。
「リツ、ありがとう。あんたのおかげで治りが早くなった」
 向けられたその表情は、椿井家に保護されて初めて彼の顔を見た時と同じだった。瑞々しくて朗らかな、新緑を思わせる笑顔――けれど、それを見た時の私の気持ちは、初めて見た時とは少し異なっていた。なにがと聞かれても上手く説明できないけれど、なんだか妙に胸が熱い感じがするのだ。
「おれが完全に持ち直したら、記憶探しもまたやって行こうな」
「――……あ」
 ……だったのに、世助のその言葉を聞いて、私はいきなり冷や水を掛けられたような気分になった。じわりと赤くなりかけていた鉄が、じゅうと音を立てながら急激に冷えていくような。
 冷やされた頭が、急にそれまでの全てを悟る。倒れた彼をどうしても自分の手で看病してあげたかったのも。つらい思いをしてきた彼を少しでも楽にしてあげたいと願ったのも。頭を撫でた時の彼がどうしようもなく愛おしく感じられたのも。それから、苦手な薄荷飴の味を知りたがったのも。全てそういうことだったのだと、腑に落ちる。
 私は椿井家が好きだ。しかし、それ以上に――私は、世助のことが好きだった。椿井家を離れなければならないこと以上に、世助と離れなければならないことを恐れていた。



 四章『頑張り屋の休息日』・了
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