貸本屋七本三八の譚めぐり ~熱を孕む花~

茶柱まちこ

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七章『悪鬼羅刹 前編』

その二

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 残暑も落ち着いた秋の日。すっきりと青く澄んだ朝の空を、廃屋の埃のような色をした蒸気が舞っている。
 大陽本南方の港町から出航した、食島行きの蒸気船の甲板にて。陽光が燦々と輝く中、おれは一人で海を眺めていた。一緒に来ているリツは道中で船酔いになり、船室で秋声先生に介抱されていた。
 噴き上げる飛沫の湿っぽい磯臭さと、風に乗ってやってくる蒸気の石油臭さのおかげで、朝からどんよりとしている。波は得体の知れない何かが寝息を立てるかのようにゆらゆらと蠢いていて、それを上から白い薄布で覆い隠しているみたいだった。なんとも言えない不気味さである。普通の感性なら美しいと感じるはずの景色を楽しむ余裕は、今のおれにはない。例えば、ここに落ちたらどうなってしまうんだろうとか。どんなに深いところまで落ちていくんだろうとか。あるいは沈む前に、息を潜めている獰猛な魚に食われるんじゃなかろうかとか。そんな荒唐無稽で陰鬱なことばかりもやもやと想像している。
 理由は多分、棚葉町を訪ねた日を境に頻繁に見るようになった、水中で溺れる夢だ。風邪を引いて寝込んでいた頃よりも頻度は減っているが、それでもまだ週に一回くらいは見る。
 そういえば、溺れる夢の意味を蒼樹郎さんに聞き忘れていたことをふと思い出す。せめて、それを聞いておけばこんなに鬱々とした気持ちで海を見ずに済んだかもしれない。
 所詮は単なる夢だ、自分はどこかしら疲れているのだろう――そう念じて深く考え込まないようにしているが、こう何度も同じ夢を見せられると、どうしても不安になってくる。もがいて溺れて力尽きていく体験は、現実ではない夢と言えどやはり不愉快だ。
 はあ、とひとつため息をついて、鬱々としかけた思考を振り払う。
「うう、気持ち悪い……」
 ふと、くぐもった声が耳に入ってくる。声がした方へ目をやれば、リツがすぐ隣までやって来ていたのに気づいた。彼女はその場にしゃがみ込みつつ、手すりにもたれかかっていた。
「リツ、大丈夫か? もしかして吐きそう?」
 リツの顔を横から覗き込むと、元から白い彼女の肌はさらに白くなっていて、朝なのに幽霊を彷彿とさせるほどだった。
「吐くっていうか、頭がくらくらする……」
「昨日から何回も船に乗ってるからな。そりゃキツイよな」
 可哀想に、と彼女の背中をさすって慰める。
 目指す食島は大陽本帝国領海の端にある、ごく小さな島だ。大陽本帝国本島から食島へ直行する便は無いため、中間にあるいくつかの島を経由し、船を乗り継いで向かう必要がある。
 電車の席に押し込められて揺られるのも疲れるが、海上を行く船に何度も乗り込み、その度に揺られるのはもっと気持ちが悪い。どろどろになった蝋燭のようになったリツは勿論、船での移動に慣れていないおれでもつらいものがあった。
 リツがふと、気だるげに顔を上げたとき、彼女とおれの視線がぱちりと合う。すると、「うぅん」と悩ましい声を出して、リツはおれの胸へそっと頭を預けてきた。
「お、おい、リツ」
 動揺と同時に、頬がかあーっと熱くなっていくのを感じた。遠慮しながら甘えているのか、体までべたっとくっついてこないのが、却ってじれったい。まるで磁力の弱くなった磁石みたいな感覚だった。服越しとはいえ、女の体温が自分の体の一部に触れているだけでそわそわと落ち着かない感じがするし、それがリツなら尚更だ。
「大丈夫、本当に吐きそうな時はちゃんと離れるから」
 そういう意味じゃ、と言おうとする前に、リツがやや上目遣いでおれを見てくる。
「……だめ?」
 彼女の牡丹色の瞳が、つやつやに磨かれたビー玉のような輝きを放っている。なんでだろう、なんでこの人、年上なのにこんなにも可愛いんだろう。彼女のいたいけな瞳に、おれの心はぶっすり撃ち抜かれた。
「だめ、ではない、です」
 むしろ大歓迎です。……というのはやや変態くさい気がしたので、一応飲み込んでおいた。
 晴れて両想いの仲になったとはいえ、おれは元々女慣れしていない。こういった時、男としてはどうやって反応を返すのが適切なのだろうかと考えあぐねていた。普通に労わってあげるのは当然だとして、そこから思い切って肩を抱き寄せても許されるものだろうか。肩をさすって額に口付けなりしたらいいのか。このまま何かしらの反応を返せないと、つまらないと思われてしまいそうで怖い。かと言って、下手な手の出し方をして引かれたりするのはもっと怖いし。世の紳士各位に「こういう時紳士はどうしたらいいんでしょうか」と、聞いて回りたくなった。
 とりあえず出してみた手を、しかしどこに着地させればよいものかと、海月くらげのようにわやわやさまよわせていると、
「やあやあ、お二人さんや」
 と、船室から出てきたおっさんがおれたちに声をかけてきた。満面の笑みである。まるでおかめの面を被ったような三八の顔を見て、おれは思わず「げっ」と声を出す。
「いやぁすまんすまん、仲睦まじいところを邪魔してしまったようだね」
 下心満載の手をひゅっと引っ込めて、おっさんを睨んだ。リツはおれから退く気力もないらしく、頭を預けたまま青い顔でうーうー唸っている。
「大丈夫かい、リツ。あと三十分くらいで着くはずだから、もうちょっとの辛抱だよ」
「ひぁい……」
 おっさんはゆったりとした足取りで傍までやってきてしゃがむと、おれに何かを差し出してきた。
「島に着く前にこれを渡しておこうと思って」
 おっさんの手から受け取ったのは、紐がついた二枚の薄い板だった。一対の牡丹の模様が掘られた、木製の栞である。
「船旅の間にお守りとして仕込んでいたんだ。なにかあった時、役に立つかと思ってね」
 受け取った栞をリツに見せれば、彼女はやっとの思いで身を起こし、その栞をまじまじ眺める。
「綺麗……これは禁書の栞、ですか?」
「おや、知っていたのかい?」
「ええ。旦那様にも以前、同じ物をもらいましたので」
「なら、説明はさほどいらないね。うっかり海に落とさないよう、体のどこかに結びつけておきなさい」
 おっさんはそう言って立ち上がると、船のへ先が指す方向に視線をやる。いつの間にか、目的地の島の影がぼんやりながらも見えてきていた。
「それにしても、海はなんだか不思議な感じがするね」
 被ったカンカン帽が潮風に飛ばされないよう押さえながら、おっさんは気取ったように言う。
「今はこうして穏やかに波打っているが、水面みなもの下にはどんな魔物を飼っているのやら。命を育む豊かな一面を持ちながら、命を奪う無情な一面もまた真で。まるで譚のようではないか」
「あんた、なんでも譚に絡めちまうのな……」
「癖みたいなものだよ」
 ただでさえ気分が下降しているのだから、どうせなら明るくなるような話をしてほしいものだ。リツもぐったりと項垂れていて、再度おれに身を預けたまま動けなくなっていた。
 島に着いたところで、ぎりぎりの日程だからゆっくり観光ができるわけでもないし、やらねばならないのはリツの記憶探しだ。どうしたって気持ちは上向きそうにない。
 一行の中で、この船旅をうきうきしながら楽しんでいるのは、横にいるこの譚好きの男くらいだろう。
「もう少ししたら降りる準備をした方がいい。落ち着いたら戻っておいで」
 おっさんは鼻歌でも歌いそうな軽い足取りで、船室へと戻っていく。おれはへぇいと返事をして、未だだるそうにしているリツに声をかけた。
「リツ、動けそうか?」
「うう……頑張れば」
 渡された栞を手首に結びつつ返事をするリツだが、声には明らかに覇気がない。
「船を降りたら一旦休まないとだな……」
 リツほどではないにいろ、自分もそれなりにしんどいので、まずは誰よりも浮き足立っているあの男にブレーキをかけ、休む暇を乞わなければ。そうでないと、へとへとのまま連れ回されて倒れてしまいそうだ。
 そう考えつつ、リツを立たせた時、おれは異様な光景を目にした――さっきまで晴れ渡っていたはずの空に、いつの間にか巨大な黒雲が現れていたのだ。雲はまるで船の行く手を阻むように、もうもうと渦巻いている。あの高く太く伸びた形の雲は、鉄床かなとこ雲と呼ぶのだったか――深い穴の中を覗き込む巨大な子供のように、船をぐうんと見下ろしていた。
 その姿を気味悪いなと感じていると、突然、
「二人とも、早く中に戻れ!」
 とおっさんの叫び声がした。
 それと同時に、海が船を乗せたまま大きく波打つ。
「うおっ、と!?」
 ほんの三秒前まで穏やかだったはずの海は、いきなり怒髪天を衝かれたように暴れだした。たった一度の波に船体は激しく傾き、おれとリツの体は一気にバランスを崩す。おれはギリギリその場に留まることができたものの、リツはそうはいかない。彼女の体は右へ左へ揺れ、あわや転倒しそうになる。それを抱きとめて阻止するが、波はなおも船をぐらぐら揺さぶる。次第に波は、大蛇の大群が次々押し寄せてくるかのようにうねりを増し、おれたちは翻弄されるまま手すりへ叩きつけられる。それを見計らったかのように、船は宙返りしそうなほどぐわんと傾き、体がとうとう手すりを超えて海へ投げ出されてしまった。
「きゃああっ!」
 宙に浮いたおれたちを、荒波がざんぶと飲み込む。激流はごうごうと音を立て、おれたち二人を振り回して引き離し、もみくちゃにした。
(まずい、息が……!)
 波に揉まれた衝撃で肺の空気を押し出されてしまい、意識が急速に遠のいていく。
(ちくしょう、リツが流されちまう……!)
 ぐるぐるぐるぐる、波に体を引っ張り回されて、リツの居場所も水面の方向も分からなくなった。水を引っ掻いて探り当てようにも、波の力は凄まじく、どんどん体力を奪われていく。
 冷たい。暗い。視界が泡に包まれ、意識は濃藍のうあいに沈んでいく。
 それでもあがかねばと、おれは一度、大きく目を開けた。いつの間にやら、水面は遠のいていた。四方八方を水に囲まれた世界には、あぶくも浮かんでおらず、ただただ青みがかった深淵の暗闇だけが広がっていた。
 ――ああ、これは死ぬんだろうな。
 光景を目にして突然、息苦しさも感じなくなった。おれは静かに死を悟った。抵抗してやろうという気力は消えてなくなった。平たい心持ちで、体が沈んでいくのを受け入れた。
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