貸本屋七本三八の譚めぐり ~熱を孕む花~

茶柱まちこ

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七章『悪鬼羅刹 前編』

その三

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 打ち寄せる波の音が、遠く微かに聞こえていた。意識が少しずつ浮上するのと同時に、うっすら開かれた瞼の隙間から、眩い陽の光が差し込んでくる。
 なかなか言うことを聞かない瞼の筋肉を動かし、やっとの思いで目をぱかっと開けた瞬間、そこへ大きめの波が飛び込んできた。
「ごぶぁ! ぶへっ!」
 顔面を覆い隠した塩水は、当然、鼻腔にも容赦なく入ってきた。おれは驚いて跳ね起き、鼻の奥を突き刺すような刺激に涙目になりつつ、塩辛い水と砂をぺっぺと吐き出す。
「な、なんだぁっ?」
 頭上で燦然と輝く太陽に照らされながら、大海原は凪いでいた。背後には見知らぬ砂浜と防風林。おれの全身は砂まみれになっていて、一緒に流れ着いた海藻がくてくてに疲れ果てた海鼠なまこのように絡みついている。
 ああ、そうか。そういえば海に落ちたんだった。突然訪れた高波に船を揺さぶられて、真っ逆さまに海に落ちて、あっちこっちに引っ掻き回されて――いつの間にか、こんなところに流れ着いてしまったらしい。
 おれは意識を失う直前のことについて、おぼろげながら思い出した。
「……すげえ、生きてる」
 巨大な波に飲み込まれ、呼吸も奪われたというのに、よく生還したものだ。自分の悪運の強さに驚いた。
「……そうだ、リツ!」
 ふわふわ頼りない記憶をたどっているうちに、自分と共にもう一人――リツも海に落ちたことを思い出し、おれは慌てて辺りを探索し始めた。
 
 漂着したその場所は閑散とした島だった。海岸には誰もおらず、自分以外の人がいた形跡もない。人の気配のようなものも感じなかった。波の音、木々のざわめきしか聞こえない。
 あまりにも静かすぎるというこの状況は、焦燥感をしきりに駆り立てていた。
 少しずつ、刻一刻と赤みを帯びていく砂浜を蹴散らすように、おれは早足で歩き回る。おれを急き立てるように、心臓はずくずくと早鐘を鳴らしていた。
 波に沿うように砂浜を進んでいると、波止場が見えてきた。漁船と思わしき質素な作りの木造船が、縄で数隻繋がれたまま浮かんでいた。長らく手入れされていないのだろう――藻がわんさかこびりついている上、あちこちの部品が傷んだまま放置されている船は、見ていると気の毒に思えてきた。乗る人を待ちわびてここに繋がれていたのだろうに、放置された今の状態で無理やり乗り込もうものなら、即座に音を立てて崩壊してしまいそうだ。
 目を皿にして、前後左右の風景を注意深く見渡す。人の姿だけは絶対に見落とすまいと、流れ着いたごみや岩場の模様にも目をこらしていた。
 暫くして、見覚えのある赤い服を纏った人らしきものが、ビタッと目線に止まった。
「……リツ!」
 二つに結い上げた黒髪に、赤い制服を纏った女性――紛れもなくリツだ。彼女は波止場付近の岩場へ体を預けて倒れていた。
「おい、リツ! 起きろ!」
 傍に駆け寄ったおれは目を閉じている彼女を助け起こすと、肩や頬を叩いて呼びかける。彼女は何度目かの呼びかけで、「うう」と呻きながら目を開けた。
「世助……?」
 リツの牡丹色の瞳が、瞼の隙間からのぞいた。目の前にいる顔をおれのものだと認識し、おれの名前を呼んだ。声を聞いて、岩のように重かった心がふっと軽くなる。
「良かった、大丈夫そうだな」
 リツは突然置かれた状況に呆けた様子ではあったが、意識は明瞭だった。目立った外傷もない。彼女はおれの肩につかまりながら、自力で体を起こした。
「……ここは?」
「おれもまだ分からねえ。海に落ちてから、運良く漂着したみたいだ」
 不思議そうに周囲を見渡している彼女に、海に落ちた経緯を説明していると、彼女のほうもだんだん記憶が戻ってきたようだった。
「すごい、生きてるんだ……」
 先ほどのおれと全く同じように、彼女もこの奇跡に驚きを禁じ得ないのだろう。両方、あるいは片方だけが海に沈むことなく、二人とも無傷のまま生還したのだ。その喜びを分かち合いたいところではあったが、しかしここは見知らぬ土地だ。日没が近付いている今は、残念ながら悠長に話している暇はなかった。
「先生や七本さんは無事だったのかしら」
 そう言って、リツは何かにはっと気づく。バタバタと慌ただしそうに制服の袖を二の腕まで捲り上げ、両方の腕から手首を何度も交互に見て、彼女はさあっと青ざめた。
「な、ない! 栞、海に落としちゃった!」
「あ、そういえば」
 確かにリツは先刻、おっさんから受け取った禁書の栞を左手首に結んでいた。きっと海に落ちた時、波に揉まれて外れてしまったのだろう。
 おれも栞の存在を思い出し、自分の左胸に手を当てて確かめる。布越しに硬い感触がある。
「ん、大丈夫。おれのが無事だ。一緒に行動してれば良い」
 禁書の栞は互いの存在を伝えるための、大事な命綱だ。念には念を入れ、ジレの内ポケットに結びつけ、奥の奥までしまい込んでいたのは外れなかったようだ。
「多分、二人も無事だと思う。何かあれば、栞に変化が起きてるだろうし」
 栞が一枚だけでも手元に残っていたのは幸運だ。栞さえあれば、おっさんがそれをたどっておれたちの居場所を突き止めてくれるだろう。おれと唯助が『先生の匣庭』に囚われたときのように、今回もなんとかして助けに来てくれるに違いない。そう祈るしかなかった。
「とにかく今は、ここでしばらく生き延びる手立てを考えよう。まだ明るいうちに、島の周辺を把握しておこうぜ」
 リツを手を引いて立たせ、おれは島の内側へと歩を進めた。
 
 島を囲う防風林を抜けた先は、とんでもない悪路だった。道はガタガタで、石があちこちに転がっている上、草も生え放題。拾った枝木で慎重に探っていかなければ、躓いて転けてしまいそうだ。
 悪路をしばらく歩いた次に現れたのは、畑の跡と思わしき平地だった。とはいっても、やはりここもぼうぼうに生えた雑草に一面覆われており、何を育てていたのかは判然としない。どこの畑もろくにいじった痕跡がなく、作物はほとんど野生化して、周囲の雑草と一体化してしまっていた。
「あ、これって甘藷かんしょかしら」
 リツが草むらの中から一枚、葉をもいでくる。西洋カルタのハートの模様のような形をした葉は、少し黄色っぽく色づいていた。もうすぐ収穫時期なのだろう。
「……ん? 待て、ちょっとおかしくないか?」
「なにが?」
 リツが葉っぱを見ながら首を傾げる。が、おれがおかしいと思ったのは甘藷のほうではなく、周囲の様子の方だ。
「畑の周りだよ。九月って言えば実りの季節だってのに、どこにも獣が入った形跡がない。狸や猪が荒らした跡があっても良いもんじゃないか?」
 おれがいた道場の周辺は農村だったので、畑仕事はかなり身近にあった。農業に従事していなかったとはいえ、獣害がいかに人間にとって深刻な問題であるかは知っているつもりだ。人がいない芋畑なんて、獣にとっては最高の餌場だろう。だというのに、周辺はただただ草が生えるのみで、獣が踏み入った形跡すらない。
「この島には獣がいないのか?」
 こんなにも自然が溢れている島だというのに、不自然ではないだろうか。先ほどから人の気配もない静かな島だとは思っていたが、よくよく考えてみれば、ここにくるまでおれは一切、獣の気配を感じていない。
「……! 世助、あっちの方。よく見て」
 今度はリツがなにかに気づいた。おれも彼女の指差す方向に目を凝らす。
「……あ」
 少し進んでみて、おれも気づいた。
 島の内側に行くに連れて、木々が少しずつ朽ちているのである。
 はじめの方は葉先が少し枯れているだけだから分かりにくかったが、進むごとに辺りの色彩は緑から茶色へと変わっていった。奥に行くにつれて枯れ具合もいよいよ深刻になってくると、木々は生き物の死体のようにバタバタと倒れていた。太い幹は内側からぼろぼろに朽ちていて、足で軽く踏んだだけでグズグズに崩れてしまう。生命を根こそぎ吸われた姿は、まるで木乃伊ミイラのようだった。
「さっき畑があったってことは、このへんは人里だった。……ってことだよな」
 リツはそれを聞いて気味が悪くなったのか、おれの袖をきゅっと掴んできた。おれも自分で口にした言葉に、薄ら寒い感じを覚える。
 呼吸を浅くしながらさらに奥へ進めば、おれが予想した通り、ひっそりと身を寄せ合うかのような家屋の群れが現れた。ここも先ほどの漁船や畑同様に、人の手が長らく入っていない姿をしていた。どの家屋も蔦まみれのおんぼろといった状態で、ほとんど廃墟に近い。唯助あたりは泣いて嫌がりそうな雰囲気が漂っている。
「……ま、野宿になったとしても、屋根の下で一晩過ごせるならだいぶ違うかね」
「冗談でしょ、ここにある建物で寝泊まりするつもり?」
「最悪の場合はな」
 リツはうううと声を出して渋っていたが、夜の冷え込みを甘く見てはいけない。昼と夜の気温差は想像よりも激しいのだ。特に、昼間の残暑が厳しい分、極端な気温差があるこの時期は、夜露も降りてくる。体を冷やせばあっという間に風邪をひくし、不衛生な場所かつ精神面も弱った状態では、単なる風邪も命取りだ。おれとしてはせめて、夜露がしのげそうな空き家だけでも確保したいところである。
 それを懇々と説明すると、リツは嫌々ながら承諾した。
「もう少しだけ頑張ってくれ。疲れたらおぶってやるから、早めに言えよ」
 
 心細そうにしているリツを励ましつつ、家屋が並ぶ道を歩いていると、一軒だけ周りよりも綺麗な小屋が目に入った。他の家屋はどれも妖怪が出てきそうな雰囲気が漂っていたが、ここならリツも大丈夫だろうか。尋ねてみたところ、リツの反応も悪くはなかったので、小屋の中に失敬させてもらうことにした。
「お、ちょうどいいや。燐寸マッチがある」
 軋んだ音のする小屋の扉を開くと、近くにあった台の上に洋燈ランプと燐寸の箱が置かれていた。燐寸の何本かは湿気で駄目になっていたが、火をおこす道具があるのは有難い。木を擦り合わせたりしてもいいのだが、摩擦熱で火をおこすのは意外と骨が折れるのだ。
「洋燈の油も残ってるみたいだな。これ貰ってこうぜ」
「いいのかしら、勝手に持っていって」
「平気だろ、どうせ誰もいないだろうし」
 この際、使えそうな物はここから調達してしまおう。盗っ人みたいで申し訳ない気もするが、この緊急事態でお行儀よくもしていられない。 
 玄関の奥の方にも扉が見えたので、リツの手を引きながらその扉をそっと開ける。中は四畳ほどの小さな部屋だった。洋燈以外に何もなかった玄関とはうってかわり、部屋の中は散らかり放題だった。あちこち黄ばんだカビ臭い本がそこかしこに散らばっていて、どこを踏み越えて入ればいいのやら、といった状態だった。壁に板を打ちつけて作った質素な棚には、細長い口をした丸型のフラスコや正体不明の液体が入った瓶が雑然と置かれている。
 なんとも不可思議な部屋の光景を目にすると同時に、おれはツンと鼻を刺激する独特の臭いを感じとった。
「薬品臭ぇ。もしかして、なんかの研究室だったのかな」
 それがおれの抱いた、率直な感想だった。
 というのは、おれがいつも厄介になっている秋声先生の部屋の様子に似ていたからだ。医者でありながら学者でもある先生は、一度集中すると体力を使い切るまで作業を続ける。徹夜で本を読んだり、熱心に何かを書き綴っていたり、顕微鏡と呼ばれる妙な形をした筒の中をしきりに覗いていたり。部屋の掃除も何もかもをほっぽり出し、作業に熱中しまくった時の彼の部屋は、ちょうどこの小屋の中のように雑然としている。
「……これ、大陽本の字じゃねえな。解剖書か?」
 記載している内容はさっぱりだが、ところどころに人間の体を描いた図が挿し込んである。おれはこれと似たような図を、勉強で何度か目にしたので、特別「ウッ」と気持ち悪くはならなかった。が、この異様な空間では、切開した臓器のスケッチの生々しさも妙に重く感じられた。
「世助、これ見て」
 リツに呼ばれ、ふっと顔を上げる。彼女は部屋に置かれていた机の前で、なにかを手にしながら招いていた。横から彼女の手元を覗き込むと、それは大陽本語が書き込まれた一冊のノートだった。
「ここ、もしかして病院とかだったのかも。患者さんの様子を記録していたんじゃないかしら」
 ノートに綴られた内容は人の名前のようなものと、その下に所見。「~~痛」とか「~~の疑い」とか、そんな文字ばかりだ。
「確かに、カルテにも見えるな」
 しかし、この内容はおれの持つ程度の知識では理解ができない。もしここに秋声先生がいたなら、何か分かっていたのだろうか。
「……なんだこれ。『薬を投与した』? ……肝心の名前が読めねえや。リツ、この字わかるか?」
 尋ねながら横を見ると、そこには普段の明るい笑顔からは想像できないような、ひどく険しい顔つきのリツがいた。彼女は「うっ」と呻いて頭を抑えたかと思うと、何かを拒むようにかぶりを振りはじめた。彼女の肩を抱いて大丈夫かと声をかけてさすってやると、
「なんか、嫌な感じがして……」
 と返ってくる。
「ノートの内容がか?」
「内容というより、この字が……」
 おれはもう一度、目を凝らしてノートの字を見てみる。しかし、特に何か変わったものはない。かっちりと堅苦しい印象の鉛筆の文字が、罫線にそって書かれているのみだ。
「……だめ、ここは嫌。早く出ましょう」
「え、おい、リツ?」
 リツは足早に部屋を出て、小屋の外へ向かう。この奇妙な空間そのものを、頑なに拒否しているようだった。表情は強ばり、強引におれを引っ張る手からは震えと冷や汗の感触が伝わってきた。男でも目を見張るほど豪胆な彼女が、ここまでなにかに怯えて、忌避しているのは珍しい。せっかく見つけた場所なのに、という気持ちはしないでもなかったが、おれはこの場所を嫌がるリツを止めることが出来なかった。
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