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八章『悪鬼羅刹 後編』
その五
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彼の言葉は変身――変質の合図だった。
まっさらな彼を、焦がしていくような熱い風が覆う。
血色のいい肌は、褐色に変化し――
その肌の上を、白い紋様が駆け抜け――
彼の象徴である茶髪は、白藤色に染まり――
焦げ茶色の瞳は、鮮やかな琥珀色に輝き――
けれど、それに目を奪われている時間は、そう長くなかった。
ハッと気づいた時、彼はすぐ目の前にいたのだ。
「――くうッ!」
真正面から、正拳突きが迫ってくる。
その距離、わずか数センチ。
私は咄嗟に刀で受け止める。
けれど、彼の放った一撃は人間一人から繰り出される威力を遥かに超えていた。
「ッ、あぁっ!」
細い刀では到底相殺できるものではない。
彼の一撃を受け止めた刀身はあっけなくへし折れた。幾百もの人を斬って折れも曲がりもしなかった禁書の刀が、パキンと音を立てて折れたのだ。
彼は素手で禁書に干渉できてしまう体質だと聞いたから、禁書の刀を破壊する程度ならまだ納得できる。しかし、今やったのはそれだけではない。彼は刀を折り砕いた上に、人間の体をたったの一撃で、五メートルは軽く吹き飛ばしてしまった。
「殺せるもんなら殺してみな。おれが殺されるか、あんたの刀が全部へし折られるか、力比べといこうじゃねえか」
吹き飛ばされた体を起こしながら、私は戦慄する。
「……っ、貴方、その禁書は……?」
「言ったろ、力で押しきるって。あんたが禁書を使うなら、おれも禁書を使うだけだ」
禁書を使っている今だからこそわかる──彼が名を呼んだ禁書『鏖殺橋』は、おそらく『羅刹女』と互角。それに加えて、彼の放つ、闘気とでも言うべきか――その凄まじさが、今までの比ではない。彼の全身、爪先や毛先に至るまで、熱く煮えた血液が行き渡っているように感じられた。禁書に操られた傀儡などとは違う一人の戦士が、そこに立っていたのだ。
ちゃちな悪女など演じている場合ではない。歯を食いしばり、両足で踏ん張っていなければ、闘気だけで押し潰されそうだ。本気を出す、出さないの問題ではなく、出さざるを得ないのだ。
私の中に巣食った禁書の毒も、目の前の戦士に最大限の警戒をしたらしい。ありったけの刀が空中から現れた。血肉の海と化した大地のどこにも逃げ場は与えないと、上から網を投げるように刀の雨が降り注ぐ。
世助は幾百の閃きの隙間を縫って、ひらりひらりと舞う。しかし、完全に避けていた訳ではない。高密度の刀の雨を無傷でかわしきることは、いくら彼でも不可能だった。だから彼は、自らの両腕を棍棒に変えて、刀を叩き折る。鋼よりも硬い刃を、まるで霜柱のように破壊した。
(この人、怪我することに躊躇いがない――!)
彼は、一連の動きを繰り出すまで、一切の迷いを見せなかった。普通であれば斬撃を受けることを予想した瞬間だけでも、本能的に怯むはずだというのに。
避けられない刀は、表皮を傷つけてでも叩き折る。痛みを伴うとしても、全身が血だらけになっても、世助は刀を破壊するという選択をとった。
皮肉なことに、彼の勇ましさは手傷を負ったことでさらに凄みを増した。自身の血で全身を濡らしながらもそこに佇む姿は、まさに壮絶の一言に尽きる。
嵐のように凶暴で、獣のように獰猛――私の目の前に立っているのは、私の知る夏目世助ではなかった。
「……あああああああッ!!」
喉の奥から突き上げるように、雄叫びがあがった。あげようと思ってあげたのではなく、火山の噴火のように唐突にあがっていた。
私は地面に刺さった刀をひと振り捕まえ、世助に向かって振るう。しかし、私の太刀筋に合わせるように、彼は手刀を振るった。刀が振り下ろされるその瞬間まで、僅かなズレもなく、彼の手刀が叩き込まれる。刀は彼の体に到達する前に、真っ二つに折られた。
彼に刀を破壊されるのはこれまでの流れで予見していた。今度はすぐさま近くに突き刺さった刀を掴んで、横薙ぎにする。即座に肘鉄で折られる。また別の刀を掴まえて突きを繰り出せば、掌底を打たれて折られる。
刀を振るった回数だけ、鋼が折られる音が響いた。バキンバキンバキンバキンバキンバキン――と、短い間隔で繰り返し、けたたましい音が鳴り響く。
気づけば私たちの周りには、へし折られた刀の死骸が散乱していた。
「めちゃくちゃね。何人斬っても曲がらない刀をたった一撃で折るなんて。どんな禁書を使っているというの。それともお得意の馬鹿力?」
一度引いて体勢を整えつつ、私は彼に疑問を投げかける。
「さてな。種明かしするには早いぜ。それに、おれが使うのは腕力に頼らない、相手の要を狙う体術だからな」
「……なるほどね」
世助の今までの大立ち回りを思い浮かべると、確かに彼は、その考え方に基づいて戦っていた。体の急所や継ぎ目を打つ、筋をずらす――人体に向けてやっていたそれらの技術を、今は刀という物質に対してやっているということなのだろう。
「……舐めてるの?」
私は苛立ちを隠さず言った。
「私を無力化したいなら、さっさとその要を打てばいい。どうしてそれをやらないの」
「できねえよ。やったらリツが死んじまうだろ」
「殺人鬼を前にして、よくそんな甘い考えが出てくるわね」
「あんた、もしかしておれに殺されたいのか?」
私はそれに、沈黙で返す。すると、彼は悲しそうな目で訴えてきた。
「おれはあんたを殺したくねえ。なんで好きになった女を殺さなきゃならねえんだ」
拳を構えていた世助は、落としていた重心を元に戻し、今度は私に向かって必死に訴えてきた。
「あんたを相手に戦うのだって、本当は嫌なんだ。刀をぶっ壊すだけで済むならまだいい。でもあんたを傷つけることだけはしたくねえんだ。頼むから、そうなる前に刀を手放してくれ」
まだそんな甘っちょろいことを言うのか。私はこんなにも、憎まれようと必死になっているのに。私のことなどさっさと忌み嫌って、殺してしまえばいいのに。どうして彼は、こうも一途に好きだと言い続けるのか。
「……いい加減にして! 何度言ったらわかるの! 私はもう、貴方が好きになった私には戻れないの!」
私があとどれだけ理性を保っていられるかも分からない。そんな焦りもあって、私の苛立ちはついに頂点に達した。
「分かるの……消えないのよ。斬りたいっておかしな気持ちが! 殺意が消えてくれないの!」
目の前に生きてる人がいるだけで斬りつけたくなる。こんなに斬ったのに、全然満たされない。まだまだ斬り足りないと、私の中の『羅刹女』が叫んでいる。どんなに抵抗しても、どんなに振りほどこうとしても、『羅刹女』の毒が私を放さないのだ。
人を斬る快感が、高揚感が、開放感が、私に赤くこびりついて消えない。目の前に立つ強者に対する恐怖と絶望感は確かにあるが、斬りたいという欲もまた、確かにある。
「もう、時間がない……! これを断ち切るには、死ぬより他に方法がないのよ!」
私は浮かんでくる思考を、往生際悪く浮かんでくる希望を、首を横に振って否定する。
私の帰る場所なんてない。
私は人殺しだ。
帰ればきっと、みんなを殺してしまう。
だから、帰るべきではない。
それなのに、彼は。
「だからってあんたが死んじまうのは嫌だ。椿井家の皆だって悲しむぞ」
そう言って、まだ私を連れ戻そうとする。
椿井家から離れようとする私の心を、連れ戻そうとする。
私は次第に、椿井家に帰りたくなってしまった。
今の今まで幸せな譚を空想していただけに、あのお屋敷に帰りたい、と確かに思っていた。
帰りたくて、たまらなくなってしまった。
そんなの駄目に決まっている。
私がいていい場所なんかあるはずない。
否定、否定、否定。
否定、否定、否定。
湧き上がる希望に否定を重ねていく。
けれど、同時に私の中に刻まれた優しい記憶が、否定する度に色を帯びて蘇ってくる。
――旦那様に会いたい。
――使用人のみんなに会いたい。
駄目。駄目だ。私は人殺しだ。
人を斬らずにはいられない、魔物なんだ。
――旦那様にお茶をお入れしないと。
――お仕事も大変そうだなぁ。
違う、違う!
――そういえば、赤塚さんが畑を手伝ってほしいって言ってたわ。
――また腰を痛めてなければいいけど。
――イシさん、今度お孫さんがお嫁に行くんだっけ。
――少し寂しそうにしてたなぁ。
思い出さないで!
思い出させないで!
――音音さんに教えてあげたお化粧、気に入ってもらえたかしら。
――彼女ならもっと可愛くなれそう。
――唯助くんとも、もっとお話したいな。
――私の知らない彼の譚とか、他にも聞けるかしら。
「なあ、リツ。あんたはもう、椿井家の一員なんだ。あんたが何者で、今まで何をしてきたかなんて関係ない。みんな、あんたを受け入れてるんだよ」
彼が、もう一度手を伸ばしてくる。
その温かさを十分すぎるほど知っているから、私は伸ばされた手を払い除けた。
「もうやめて!!」
堪らず、彼の紡ぐ言葉を拒んだ。
そんな温かい言葉なんてかけないで。
心が裂けてしまうから。
戻れないくせに、戻りたくなってしまうから。
「駄目、なのよ……私、みんな、殺しちゃう……! 今だって、ぎりぎりで抑えてるのに……!」
めまいがした。徐々に足に力が入らなくなってくる。刀を握る手も、指先も冷たい。
私の体が、私の言うことを聞かなくなってきていた。もう、刻限だ。
――だめだ。私が『羅刹女』に変わることだけは、絶対にあってはならない。
――早く、殺してもらわなければ。
私は刀に掴まり立ち上がって、よろめく足で駆ける。
ただ、安らかな人としての死を希求していた。
ちぎれそうなほどよく動く、自分の体に抗いながら、殺されるために刀を振るい続けた。
鋼を壊す音が、ひっきりなしに響く。
私が振るう羅刹女の刀は、鋼よりも硬い彼の鉄拳によって次々に折られていく。
折り重なった人々の死骸の上には、破壊された鉄の残骸が積み上がっていった。
「壊して……全部、壊して……っ!」
示し合わせたように打撃と斬撃を幾度もぶつけ合って──そのうち、私はひとつ、おかしなことに気づいた。
斬りかかっても斬りかかっても、刀がすぐに折られてしまうのだ。
もちろん、彼によって破壊されているということに変わりはないが、先ほどまでは彼の表皮を傷つけることができていた。だというのに今は、世助の体に当たった瞬間に刀が砕けてしまう。刀の方が耐えきれなくなっている。刀を破壊されているというより、もはや刀のほうが自壊しているのだ。
私が違和感に気づいたその時を見計らったように、解は示された。
「え……っ!?」
手元の折られた刀を見て、愕然とする。白銀の刀身が、急激に赤褐色に染まっていく。錆びて朽ちていく。
周囲を見れば、撒き散らされていた刀にも同様の異変が起きているのに、私はようやく気づいた。
私が握っていた武器は、鈍どころではなかった――ぼろぼろの鉄屑同然の代物だったのである。
「そろそろ種明かしをするか」
私の動きが鈍くなったところで、世助は言う。
「おれの特異体質が、素手で毒に干渉できることってのは分かるよな。でもあんたの場合、生きてる人間の体内に毒の力が宿ってるってのが厄介だった。おれの拳は、人を殺せちまう代物だ。毒を本気で攻撃すれば宿主の人間も死んじまう。かといって、手加減すれば毒に効果的な一撃を与えられない。そこで『鏖殺橋』の持つ毒――『万死』の猛毒だ」
「『万死』の……?」
「『万死』の猛毒は不活化の力――あらゆるモノの活力を奪い、停止させる力を持つんだとよ」
世助の持つ、禁書への干渉性――
禁書『鏖殺橋』の持つ、『万死』の猛毒の力――
禁書『羅刹女』の毒が遺憾なく発揮された状態で、この二つの力をぶつけられればどうなるか――カラクリの正体に気づいて、私は言葉を失った。
「あんたの体内にある毒は、刀を通して発せられる。なら逆に、刀を通してあんたの体内に『鏖殺橋』の毒を打ち込むこともできるってことだ。そうすれば、あんたの体内にある毒も不活化させられるって寸法だよ」
世助も単なる単細胞ではない。彼は、戦士としての戦い方をその身に叩き込まれた、生粋だ。何も考えずに『鏖殺橋』を用いてただ私を攻撃していたわけではない。
状況をあえて乱闘に持ち込み、『羅刹女』の刀をわざと使わせることで、逆に不活化し――毒に支配された私に傷を負わせることなく、無力化させたのだ。
禁書『羅刹女』に侵された恋人を、取り戻すために!
「……そん、なわけ、ない……だって、まだ――まだ、貴方を殺したくて、私は……私は……っ」
しかし――その場に跪きかけた私は、それでも刀を手放せなかった。失いかけた戦意を無理やり立て直すかのように、鋭い視線で世助を見据えていた。
「もう禁書の力は使えねえよ。それで十分だ」
――十分すぎる敗北だ。
否、不意打ちで腹を裂かれた世助が、それでもなお生きて戻ってきた時点で、私の敗北は確定的だったのだ。例え禁書を使えていようと――その毒は、禁書を使っていない生身の世助にさえ、効かなかったも同然なのだから。
「もうやめよう、リツ。体力を使い果たして、心だってどんどんすり減って、あんたもう戦える状態じゃねえよ! ここでやめなきゃ……」
「うるさい! うるさいうるさいうるさい! 私の命が尽きるまでは、終わりじゃないの! お願いだから、終わらせて……っ! このままじゃ、私……私……!」
往生際の悪い私を見て、世助は理解できないという顔をしていた。
なおも武器を握り続ける私を一喝して止めようとする。
「もうよせ。これ以上やったらお前の体がもたねえぞ! それでいいのか!」
「それで、いいの……」
――私の手は、震えていた。震えは脆くなった刀に伝わり、カチカチと小刻みに音を立てる。
「皆、殺した。姉さんも! この島の人たちも! 私が殺したの!!」
逆に事実を突きつけ返すように叫ぶ。
こんなにも多くの命が失われたというのに、自分だけが生き残るなど。そんな虫の良い譚があってたまるものか。こんな生半可な敗北で終わっていいはずがない。許されるわけがない。
私は全てを片付けて、全ての罪を、その身に背負って、死ななければならないのに。
「お願い……殺して……っ! そんな生優しいことしないで……こんな女、さっさと殺してよ!!」
私に突進された世助は、歯を食いしばったかと思うと――一歩足を前に出して構えた。
「ぐッ」
刀を振りかぶって、隙だらけになった鳩尾へ、刺すような一撃が入る。息が詰まって、激しく咳き込む。
――私の体は、それでも立ち上がる。
下から斬りあげる。隙の大きすぎる動きは易々と読まれ、世助は軽い一歩でそれを避ける。行き場のない刀が空を斬る。行き場のない体が倒れ込む。
――それでもまだ、立ち上がる。
鈍同然の刀を振るう手も覚束ない。白刃取りにされた刀が、梃子の原理で折られる。膝蹴りがまたも腹部に命中し、倒れ込む。
――それでもなお、立ち上がる。
刃を失った、刀ですらないただの柄で、殴り掛かる。芯のない紙っぺらのような拳はひらりと躱され、足を払われる。
――それでも無様に、立ち上がる。
もう、体が痛くてたまらない。
息をする度に、肺が苦しい。
足の力も入らない。
だというのに――それでも体は動き続ける。
もう折られる寸前の意志を反映するかのように、無慈悲に動き続ける。
「……まだ、やるのかよ」
世助が顔を歪めながら、私を見る。
――私だって、そう思う。
もう終わりにしたいのに。
悲鳴をあげながら、それでも体は動き続ける。
死の希望が、私を解放しない。
「……うあああああああああああぁぁぁッ!!」
咆哮ではない――慟哭だった。
嘆きだった。
嘆きながら、私は世助の顔を目掛けて拳を突き出した。
もう当たったとしてもさほど痛くないだろう攻撃を、世助はするりと躱す。
「ごめんな、リツ」
そして、私の突き出した腕と胸倉を掴むと、一瞬でそれを背負い上げ、地面に投げ落とした。
「かっ、は……ッ!」
受け身も取れない全身に、痛みが走る。
肺の空気を一気に押し出され、悶える。
……だが、もう立ち上がれなかった。
立ち上がる力も、使い果たしたようだった。
やっと。ようやく。私は動けなくなった。
仰向けになった私は、空を仰いだまま涙を流していた。
指一本動かせないような瀕死の状態で、残り僅かな力を振り絞りながら、私は彼に訴える。
早く、殺してよ――と。
声に出そうとするが、ついに言葉を吐く力も失ったようで、音にならない言葉はただかすれた吐息となって消える。
世助が私の顔を覗き込んでくるが、浮かんでくる涙で滲んでよく見えない。
ふと、世助の影が近づいてくる。彼の呼吸を感じたかと思うと――私の口が、彼によって塞がれた。
「――!」
世助が私に覆い被さるように、深く口付けている。
こんな時に、何をしているのか。そんな空気じゃなかっただろうに。
あぁでも、口付けを最期に貰って死ぬのも、悪くはないか。
――そう考えていたら、塞がれた唇の隙間から、なにか液体のようなものが流し込まれた。とてつもなく苦い、さらさらした液体だ。
「ん……!」
苦い液体を全て流し込まれ、口が開放されたかと思えば、今度は手で抑えられた。このとてつもなく苦いものを吐き出すことが出来ず、そのまま飲み下してしまう。
「な、に……?」
抗議しようとした私の目の前で、世助が空になった小瓶を見せる。よく見ると、赤い液体がほんの微量、瓶の内側に残っている。
「秋声先生が作った、『羅刹女』の毒を抑え込む薬だよ。元々は蒼樹郎さんが体調を崩した時のために調合したやつらしいけど」
視界の隅で、何かがほろほろと崩れている。私がまとっていた白無垢が消え、徐々に元の赤い制服に戻っていく。
そこら中に散っていた刀の残骸は、青白いもやとなって消えていく。
白く細やかな粒子が星空に向かって霧散していく姿は、まるで地上から天まで伸びる星の川のようだった。
先ほどまで嵐のように暴れていた衝動は、白無垢や刀が消えたのと同時に、すっかり治まった。
私は解放されたのだ――そう分かったのと同時に、私の意識は光のない深海に沈んでいくように、薄れていく。
仰向けになったまま見た空は、桔梗の花を透かしたような色になっていた。浮かんでいた星は輝きを潜め、暁の光に呑まれようとしている。
私は、す、と息を吸う。辺りに満ちた鉄錆の香りではなく、清らかな上澄みだけを吸い込むように。
夜明けがこんなに清々しく思えたのは、初めてかもしれない。つい先ほどまで真っ黒な泥沼のようなものに支配されていた体が、爽やかな活力で満ちていくようだった。
「疲れただろ。もう大丈夫だから、安心して寝な」
世助の手が、私の両目をそっと覆い隠した。
八章『悪鬼羅刹 後編』・了
まっさらな彼を、焦がしていくような熱い風が覆う。
血色のいい肌は、褐色に変化し――
その肌の上を、白い紋様が駆け抜け――
彼の象徴である茶髪は、白藤色に染まり――
焦げ茶色の瞳は、鮮やかな琥珀色に輝き――
けれど、それに目を奪われている時間は、そう長くなかった。
ハッと気づいた時、彼はすぐ目の前にいたのだ。
「――くうッ!」
真正面から、正拳突きが迫ってくる。
その距離、わずか数センチ。
私は咄嗟に刀で受け止める。
けれど、彼の放った一撃は人間一人から繰り出される威力を遥かに超えていた。
「ッ、あぁっ!」
細い刀では到底相殺できるものではない。
彼の一撃を受け止めた刀身はあっけなくへし折れた。幾百もの人を斬って折れも曲がりもしなかった禁書の刀が、パキンと音を立てて折れたのだ。
彼は素手で禁書に干渉できてしまう体質だと聞いたから、禁書の刀を破壊する程度ならまだ納得できる。しかし、今やったのはそれだけではない。彼は刀を折り砕いた上に、人間の体をたったの一撃で、五メートルは軽く吹き飛ばしてしまった。
「殺せるもんなら殺してみな。おれが殺されるか、あんたの刀が全部へし折られるか、力比べといこうじゃねえか」
吹き飛ばされた体を起こしながら、私は戦慄する。
「……っ、貴方、その禁書は……?」
「言ったろ、力で押しきるって。あんたが禁書を使うなら、おれも禁書を使うだけだ」
禁書を使っている今だからこそわかる──彼が名を呼んだ禁書『鏖殺橋』は、おそらく『羅刹女』と互角。それに加えて、彼の放つ、闘気とでも言うべきか――その凄まじさが、今までの比ではない。彼の全身、爪先や毛先に至るまで、熱く煮えた血液が行き渡っているように感じられた。禁書に操られた傀儡などとは違う一人の戦士が、そこに立っていたのだ。
ちゃちな悪女など演じている場合ではない。歯を食いしばり、両足で踏ん張っていなければ、闘気だけで押し潰されそうだ。本気を出す、出さないの問題ではなく、出さざるを得ないのだ。
私の中に巣食った禁書の毒も、目の前の戦士に最大限の警戒をしたらしい。ありったけの刀が空中から現れた。血肉の海と化した大地のどこにも逃げ場は与えないと、上から網を投げるように刀の雨が降り注ぐ。
世助は幾百の閃きの隙間を縫って、ひらりひらりと舞う。しかし、完全に避けていた訳ではない。高密度の刀の雨を無傷でかわしきることは、いくら彼でも不可能だった。だから彼は、自らの両腕を棍棒に変えて、刀を叩き折る。鋼よりも硬い刃を、まるで霜柱のように破壊した。
(この人、怪我することに躊躇いがない――!)
彼は、一連の動きを繰り出すまで、一切の迷いを見せなかった。普通であれば斬撃を受けることを予想した瞬間だけでも、本能的に怯むはずだというのに。
避けられない刀は、表皮を傷つけてでも叩き折る。痛みを伴うとしても、全身が血だらけになっても、世助は刀を破壊するという選択をとった。
皮肉なことに、彼の勇ましさは手傷を負ったことでさらに凄みを増した。自身の血で全身を濡らしながらもそこに佇む姿は、まさに壮絶の一言に尽きる。
嵐のように凶暴で、獣のように獰猛――私の目の前に立っているのは、私の知る夏目世助ではなかった。
「……あああああああッ!!」
喉の奥から突き上げるように、雄叫びがあがった。あげようと思ってあげたのではなく、火山の噴火のように唐突にあがっていた。
私は地面に刺さった刀をひと振り捕まえ、世助に向かって振るう。しかし、私の太刀筋に合わせるように、彼は手刀を振るった。刀が振り下ろされるその瞬間まで、僅かなズレもなく、彼の手刀が叩き込まれる。刀は彼の体に到達する前に、真っ二つに折られた。
彼に刀を破壊されるのはこれまでの流れで予見していた。今度はすぐさま近くに突き刺さった刀を掴んで、横薙ぎにする。即座に肘鉄で折られる。また別の刀を掴まえて突きを繰り出せば、掌底を打たれて折られる。
刀を振るった回数だけ、鋼が折られる音が響いた。バキンバキンバキンバキンバキンバキン――と、短い間隔で繰り返し、けたたましい音が鳴り響く。
気づけば私たちの周りには、へし折られた刀の死骸が散乱していた。
「めちゃくちゃね。何人斬っても曲がらない刀をたった一撃で折るなんて。どんな禁書を使っているというの。それともお得意の馬鹿力?」
一度引いて体勢を整えつつ、私は彼に疑問を投げかける。
「さてな。種明かしするには早いぜ。それに、おれが使うのは腕力に頼らない、相手の要を狙う体術だからな」
「……なるほどね」
世助の今までの大立ち回りを思い浮かべると、確かに彼は、その考え方に基づいて戦っていた。体の急所や継ぎ目を打つ、筋をずらす――人体に向けてやっていたそれらの技術を、今は刀という物質に対してやっているということなのだろう。
「……舐めてるの?」
私は苛立ちを隠さず言った。
「私を無力化したいなら、さっさとその要を打てばいい。どうしてそれをやらないの」
「できねえよ。やったらリツが死んじまうだろ」
「殺人鬼を前にして、よくそんな甘い考えが出てくるわね」
「あんた、もしかしておれに殺されたいのか?」
私はそれに、沈黙で返す。すると、彼は悲しそうな目で訴えてきた。
「おれはあんたを殺したくねえ。なんで好きになった女を殺さなきゃならねえんだ」
拳を構えていた世助は、落としていた重心を元に戻し、今度は私に向かって必死に訴えてきた。
「あんたを相手に戦うのだって、本当は嫌なんだ。刀をぶっ壊すだけで済むならまだいい。でもあんたを傷つけることだけはしたくねえんだ。頼むから、そうなる前に刀を手放してくれ」
まだそんな甘っちょろいことを言うのか。私はこんなにも、憎まれようと必死になっているのに。私のことなどさっさと忌み嫌って、殺してしまえばいいのに。どうして彼は、こうも一途に好きだと言い続けるのか。
「……いい加減にして! 何度言ったらわかるの! 私はもう、貴方が好きになった私には戻れないの!」
私があとどれだけ理性を保っていられるかも分からない。そんな焦りもあって、私の苛立ちはついに頂点に達した。
「分かるの……消えないのよ。斬りたいっておかしな気持ちが! 殺意が消えてくれないの!」
目の前に生きてる人がいるだけで斬りつけたくなる。こんなに斬ったのに、全然満たされない。まだまだ斬り足りないと、私の中の『羅刹女』が叫んでいる。どんなに抵抗しても、どんなに振りほどこうとしても、『羅刹女』の毒が私を放さないのだ。
人を斬る快感が、高揚感が、開放感が、私に赤くこびりついて消えない。目の前に立つ強者に対する恐怖と絶望感は確かにあるが、斬りたいという欲もまた、確かにある。
「もう、時間がない……! これを断ち切るには、死ぬより他に方法がないのよ!」
私は浮かんでくる思考を、往生際悪く浮かんでくる希望を、首を横に振って否定する。
私の帰る場所なんてない。
私は人殺しだ。
帰ればきっと、みんなを殺してしまう。
だから、帰るべきではない。
それなのに、彼は。
「だからってあんたが死んじまうのは嫌だ。椿井家の皆だって悲しむぞ」
そう言って、まだ私を連れ戻そうとする。
椿井家から離れようとする私の心を、連れ戻そうとする。
私は次第に、椿井家に帰りたくなってしまった。
今の今まで幸せな譚を空想していただけに、あのお屋敷に帰りたい、と確かに思っていた。
帰りたくて、たまらなくなってしまった。
そんなの駄目に決まっている。
私がいていい場所なんかあるはずない。
否定、否定、否定。
否定、否定、否定。
湧き上がる希望に否定を重ねていく。
けれど、同時に私の中に刻まれた優しい記憶が、否定する度に色を帯びて蘇ってくる。
――旦那様に会いたい。
――使用人のみんなに会いたい。
駄目。駄目だ。私は人殺しだ。
人を斬らずにはいられない、魔物なんだ。
――旦那様にお茶をお入れしないと。
――お仕事も大変そうだなぁ。
違う、違う!
――そういえば、赤塚さんが畑を手伝ってほしいって言ってたわ。
――また腰を痛めてなければいいけど。
――イシさん、今度お孫さんがお嫁に行くんだっけ。
――少し寂しそうにしてたなぁ。
思い出さないで!
思い出させないで!
――音音さんに教えてあげたお化粧、気に入ってもらえたかしら。
――彼女ならもっと可愛くなれそう。
――唯助くんとも、もっとお話したいな。
――私の知らない彼の譚とか、他にも聞けるかしら。
「なあ、リツ。あんたはもう、椿井家の一員なんだ。あんたが何者で、今まで何をしてきたかなんて関係ない。みんな、あんたを受け入れてるんだよ」
彼が、もう一度手を伸ばしてくる。
その温かさを十分すぎるほど知っているから、私は伸ばされた手を払い除けた。
「もうやめて!!」
堪らず、彼の紡ぐ言葉を拒んだ。
そんな温かい言葉なんてかけないで。
心が裂けてしまうから。
戻れないくせに、戻りたくなってしまうから。
「駄目、なのよ……私、みんな、殺しちゃう……! 今だって、ぎりぎりで抑えてるのに……!」
めまいがした。徐々に足に力が入らなくなってくる。刀を握る手も、指先も冷たい。
私の体が、私の言うことを聞かなくなってきていた。もう、刻限だ。
――だめだ。私が『羅刹女』に変わることだけは、絶対にあってはならない。
――早く、殺してもらわなければ。
私は刀に掴まり立ち上がって、よろめく足で駆ける。
ただ、安らかな人としての死を希求していた。
ちぎれそうなほどよく動く、自分の体に抗いながら、殺されるために刀を振るい続けた。
鋼を壊す音が、ひっきりなしに響く。
私が振るう羅刹女の刀は、鋼よりも硬い彼の鉄拳によって次々に折られていく。
折り重なった人々の死骸の上には、破壊された鉄の残骸が積み上がっていった。
「壊して……全部、壊して……っ!」
示し合わせたように打撃と斬撃を幾度もぶつけ合って──そのうち、私はひとつ、おかしなことに気づいた。
斬りかかっても斬りかかっても、刀がすぐに折られてしまうのだ。
もちろん、彼によって破壊されているということに変わりはないが、先ほどまでは彼の表皮を傷つけることができていた。だというのに今は、世助の体に当たった瞬間に刀が砕けてしまう。刀の方が耐えきれなくなっている。刀を破壊されているというより、もはや刀のほうが自壊しているのだ。
私が違和感に気づいたその時を見計らったように、解は示された。
「え……っ!?」
手元の折られた刀を見て、愕然とする。白銀の刀身が、急激に赤褐色に染まっていく。錆びて朽ちていく。
周囲を見れば、撒き散らされていた刀にも同様の異変が起きているのに、私はようやく気づいた。
私が握っていた武器は、鈍どころではなかった――ぼろぼろの鉄屑同然の代物だったのである。
「そろそろ種明かしをするか」
私の動きが鈍くなったところで、世助は言う。
「おれの特異体質が、素手で毒に干渉できることってのは分かるよな。でもあんたの場合、生きてる人間の体内に毒の力が宿ってるってのが厄介だった。おれの拳は、人を殺せちまう代物だ。毒を本気で攻撃すれば宿主の人間も死んじまう。かといって、手加減すれば毒に効果的な一撃を与えられない。そこで『鏖殺橋』の持つ毒――『万死』の猛毒だ」
「『万死』の……?」
「『万死』の猛毒は不活化の力――あらゆるモノの活力を奪い、停止させる力を持つんだとよ」
世助の持つ、禁書への干渉性――
禁書『鏖殺橋』の持つ、『万死』の猛毒の力――
禁書『羅刹女』の毒が遺憾なく発揮された状態で、この二つの力をぶつけられればどうなるか――カラクリの正体に気づいて、私は言葉を失った。
「あんたの体内にある毒は、刀を通して発せられる。なら逆に、刀を通してあんたの体内に『鏖殺橋』の毒を打ち込むこともできるってことだ。そうすれば、あんたの体内にある毒も不活化させられるって寸法だよ」
世助も単なる単細胞ではない。彼は、戦士としての戦い方をその身に叩き込まれた、生粋だ。何も考えずに『鏖殺橋』を用いてただ私を攻撃していたわけではない。
状況をあえて乱闘に持ち込み、『羅刹女』の刀をわざと使わせることで、逆に不活化し――毒に支配された私に傷を負わせることなく、無力化させたのだ。
禁書『羅刹女』に侵された恋人を、取り戻すために!
「……そん、なわけ、ない……だって、まだ――まだ、貴方を殺したくて、私は……私は……っ」
しかし――その場に跪きかけた私は、それでも刀を手放せなかった。失いかけた戦意を無理やり立て直すかのように、鋭い視線で世助を見据えていた。
「もう禁書の力は使えねえよ。それで十分だ」
――十分すぎる敗北だ。
否、不意打ちで腹を裂かれた世助が、それでもなお生きて戻ってきた時点で、私の敗北は確定的だったのだ。例え禁書を使えていようと――その毒は、禁書を使っていない生身の世助にさえ、効かなかったも同然なのだから。
「もうやめよう、リツ。体力を使い果たして、心だってどんどんすり減って、あんたもう戦える状態じゃねえよ! ここでやめなきゃ……」
「うるさい! うるさいうるさいうるさい! 私の命が尽きるまでは、終わりじゃないの! お願いだから、終わらせて……っ! このままじゃ、私……私……!」
往生際の悪い私を見て、世助は理解できないという顔をしていた。
なおも武器を握り続ける私を一喝して止めようとする。
「もうよせ。これ以上やったらお前の体がもたねえぞ! それでいいのか!」
「それで、いいの……」
――私の手は、震えていた。震えは脆くなった刀に伝わり、カチカチと小刻みに音を立てる。
「皆、殺した。姉さんも! この島の人たちも! 私が殺したの!!」
逆に事実を突きつけ返すように叫ぶ。
こんなにも多くの命が失われたというのに、自分だけが生き残るなど。そんな虫の良い譚があってたまるものか。こんな生半可な敗北で終わっていいはずがない。許されるわけがない。
私は全てを片付けて、全ての罪を、その身に背負って、死ななければならないのに。
「お願い……殺して……っ! そんな生優しいことしないで……こんな女、さっさと殺してよ!!」
私に突進された世助は、歯を食いしばったかと思うと――一歩足を前に出して構えた。
「ぐッ」
刀を振りかぶって、隙だらけになった鳩尾へ、刺すような一撃が入る。息が詰まって、激しく咳き込む。
――私の体は、それでも立ち上がる。
下から斬りあげる。隙の大きすぎる動きは易々と読まれ、世助は軽い一歩でそれを避ける。行き場のない刀が空を斬る。行き場のない体が倒れ込む。
――それでもまだ、立ち上がる。
鈍同然の刀を振るう手も覚束ない。白刃取りにされた刀が、梃子の原理で折られる。膝蹴りがまたも腹部に命中し、倒れ込む。
――それでもなお、立ち上がる。
刃を失った、刀ですらないただの柄で、殴り掛かる。芯のない紙っぺらのような拳はひらりと躱され、足を払われる。
――それでも無様に、立ち上がる。
もう、体が痛くてたまらない。
息をする度に、肺が苦しい。
足の力も入らない。
だというのに――それでも体は動き続ける。
もう折られる寸前の意志を反映するかのように、無慈悲に動き続ける。
「……まだ、やるのかよ」
世助が顔を歪めながら、私を見る。
――私だって、そう思う。
もう終わりにしたいのに。
悲鳴をあげながら、それでも体は動き続ける。
死の希望が、私を解放しない。
「……うあああああああああああぁぁぁッ!!」
咆哮ではない――慟哭だった。
嘆きだった。
嘆きながら、私は世助の顔を目掛けて拳を突き出した。
もう当たったとしてもさほど痛くないだろう攻撃を、世助はするりと躱す。
「ごめんな、リツ」
そして、私の突き出した腕と胸倉を掴むと、一瞬でそれを背負い上げ、地面に投げ落とした。
「かっ、は……ッ!」
受け身も取れない全身に、痛みが走る。
肺の空気を一気に押し出され、悶える。
……だが、もう立ち上がれなかった。
立ち上がる力も、使い果たしたようだった。
やっと。ようやく。私は動けなくなった。
仰向けになった私は、空を仰いだまま涙を流していた。
指一本動かせないような瀕死の状態で、残り僅かな力を振り絞りながら、私は彼に訴える。
早く、殺してよ――と。
声に出そうとするが、ついに言葉を吐く力も失ったようで、音にならない言葉はただかすれた吐息となって消える。
世助が私の顔を覗き込んでくるが、浮かんでくる涙で滲んでよく見えない。
ふと、世助の影が近づいてくる。彼の呼吸を感じたかと思うと――私の口が、彼によって塞がれた。
「――!」
世助が私に覆い被さるように、深く口付けている。
こんな時に、何をしているのか。そんな空気じゃなかっただろうに。
あぁでも、口付けを最期に貰って死ぬのも、悪くはないか。
――そう考えていたら、塞がれた唇の隙間から、なにか液体のようなものが流し込まれた。とてつもなく苦い、さらさらした液体だ。
「ん……!」
苦い液体を全て流し込まれ、口が開放されたかと思えば、今度は手で抑えられた。このとてつもなく苦いものを吐き出すことが出来ず、そのまま飲み下してしまう。
「な、に……?」
抗議しようとした私の目の前で、世助が空になった小瓶を見せる。よく見ると、赤い液体がほんの微量、瓶の内側に残っている。
「秋声先生が作った、『羅刹女』の毒を抑え込む薬だよ。元々は蒼樹郎さんが体調を崩した時のために調合したやつらしいけど」
視界の隅で、何かがほろほろと崩れている。私がまとっていた白無垢が消え、徐々に元の赤い制服に戻っていく。
そこら中に散っていた刀の残骸は、青白いもやとなって消えていく。
白く細やかな粒子が星空に向かって霧散していく姿は、まるで地上から天まで伸びる星の川のようだった。
先ほどまで嵐のように暴れていた衝動は、白無垢や刀が消えたのと同時に、すっかり治まった。
私は解放されたのだ――そう分かったのと同時に、私の意識は光のない深海に沈んでいくように、薄れていく。
仰向けになったまま見た空は、桔梗の花を透かしたような色になっていた。浮かんでいた星は輝きを潜め、暁の光に呑まれようとしている。
私は、す、と息を吸う。辺りに満ちた鉄錆の香りではなく、清らかな上澄みだけを吸い込むように。
夜明けがこんなに清々しく思えたのは、初めてかもしれない。つい先ほどまで真っ黒な泥沼のようなものに支配されていた体が、爽やかな活力で満ちていくようだった。
「疲れただろ。もう大丈夫だから、安心して寝な」
世助の手が、私の両目をそっと覆い隠した。
八章『悪鬼羅刹 後編』・了
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