47 / 51
終章『花、薫る』
その一
しおりを挟む
目を開けると、そこには小洒落た模様の天井が広がっていた。明らかに椿井家で使っている自室のものではない。ゆっくりと首を横に動かして、辺りを確かめる。真っ白な布団が敷かれた、簡易なベッドが二台整列している。一人分にしてはやたら広い部屋だ――と反対側を見た時、
「やあ、目が覚めたかい」
おれが寝ているベッドのすぐ横で、椅子に腰をかけながら本を読んでいた人がいた。紺色の着物を着た、白髪に眼帯の男――七本三八。譚本好きの、変わり者。
「こ、こは?」
水分のないかすかすの喉を動かしながら、おっさんに尋ねる。
「藤京にある病院の中だよ。君、島で重傷を負ったから入院中なんだ。もう一週間と三日経ったところさ」
「そん、なに……」
ぽん、と開いていた本を閉じつつ、おっさんはここまでの状況を説明してくれた。
おっさんと秋声先生は、おれたちが海に落ちてから、帝国海軍や港町の漁師たちに助けを求めて動き回っていてくれたらしい。鍵となったのはやはり、おれが持っていた『糜爛の処女』の栞だった。
「君が『糜爛の処女』の栞をしっかり持っていてくれたから、君たちのいる場所もすぐに座標特定できたんだ。運良く島に漂着してたみたいだし、さあ救出だと上陸したら、もうすごい臭いで。鼻どころか顔まで曲がるんじゃないかと思ったよ。血の海をかきわけながら進んでたら、君たちもその中で寝そべってたもんだから、死んだんじゃないかと思ってひやひやした」
そういえば、リツに解毒薬を飲ませて休ませた直後から、一切記憶がない。リツを助けた後、おれも気を失ってしまったのだろう。おっさんたちが到着したのは、あの激闘の後だったということだ。
「……リツ! リツは……んがぁッ!?」
リツの安否が気になり、急いで体を起こそうとしたところで、おれの脇腹に抉られるような激痛が走った。
「こらこら、重傷だと言っただろうに。無理に動くと傷が開くぞ」
「いっってぇ……!」
そうだった。おれ、重傷のままリツと戦ったんだった。あの時は緊急事態でそれどころではなかったが、本当は十人力の力士に絶え間なくどつかれてるくらいには痛かったのだ。
おれが腹を押さえて悶絶していると、おっさんは子供を寝かしつけるようにおれの肩をとんとん叩いた。
「安心なさい。彼女も無事だよ。念の為、秋声からも栞を仕込んでおいて正解だったね。傷口を縫ってなかったら、本当に死んでたかもしれない」
「傷口を縫った……って?」
おれは服の下に手を入れ、痛む箇所にそっと触れた。確かに、糸で縫われたらしい感触が、ぽつぽつと規則正しく並んでいる。
「君が怪我をした直後、彼女が急いで縫ったそうだよ。ほら、そこにいる子さ」
「え……うぉわっ!」
寝台を挟んだ反対側を指さすおっさん。先ほども確認した風景に、人影なんてあっただろうか――と思っていたら、いた。
おれのベッドの影にひっそりと隠れるようにして、小さな女の子がいたのだ。見た目はナナヱよりもさらに幼いだろうか、十歳かそこらかもしれない。人間のものとは違う、浅黒くなめらかな肌と、肩の上で整えた真っ白な髪が特徴的だった。黒いリボンのカチューシャと、袖が風船のような形をした白い洋服がよく映えていて、ずいぶんと可愛らしい印象だ。
女の子はおれの声にたいそう驚いたようで、逃げる猫のようにベッドの下にばたばたと潜り込むと、反対側にいるおっさんの膝の上に登った。
「この子は『紡姫』。糸の禁書だ。秋声が現役時代から使っている、相方の禁書と言ってもいい」
紡姫は、やはり猫のようにおっさんの膝で丸くなりつつ、おれのほうをちらちらと見てくる。随分と人見知りの禁書らしい。
「万が一のとき、『糜爛の処女』だけでは心もとなかったからね。念には念をと、君たちの服に彼女の糸を仕込んでいたんだ」
「……あ」
あの時か――おれは記憶を遡り、ひとつ思い当たる。そう、秋声先生がおれたちの制服を繕ってくれた、あの時だ。なんだかいつもより強引だと思ったが、そういうことだったのか。
「じゃあおれが怪我をした時、すぐにその子が縫ってくれたから助かった、ってこと?」
「そう。それに、彼女の毒は第四級。人体に使ってもほとんど影響がない。罠から応急処置までお手の物。実に優秀な子だよ」
そう言って、おっさんは紡姫の頭を優しく撫でていた。褒められたことが嬉しくも照れくさかったのか、紡姫はもじもじと指をいじりつつ、おっさんの手に擦り寄っていた。
「そうだったのか。ありがとうな、紡姫。お前のおかげで命拾いしたよ」
彼女を怯えさせないよう、できるだけ明るく穏やかな笑顔を作って礼を言うと、紡姫はおっさんに隠れるようにして、ぎゅうっと抱きついた。なんだか見た目よりも精神年齢が幼く見える。先日、幼女の禁書から思いっきり怯えられたおれとしては、せめて怖がられていないことを願いたい。
「さ、紡姫。お父さんのところへお戻り。小生はこれからこのお兄さんと大事なお話があるからね」
おっさんがそう言うと、紡姫は素直に頷き、おっさんの膝から降りてぱたぱたと部屋を後にした。
紡姫の軽い足音が遠のいたところで、おっさんは「さて、」と切り出す。
「聞きたいことは大小含めて山ほどあるのだけど、まずはそうだね――君たちが漂着したあと、島で何があったかを聞かせてもらおうか」
おれは記憶を遡りつつ、できる限り当たり障りのないよう話をした。
島に漂着したとき、おれたちは二人とも無傷だったこと。
状況把握のために島を探索したところ、奇妙な点(生物がいた痕跡がなかった等)が多かったこと。
日没後、島の内部から薄気味悪い気配を感じたので、それを避けるように夜を過ごしたこと。
……それ以降の話については、上手い言い方が分からなくて、見事に詰まった。
「その後は? そこからなんで、あんな光景を生み出すに至ったのかな」
「う……」
ずい、とやや前のめりになるおっさんを見て、一瞬だけ迷った。帝国司書隊に対してクーデターを企てていた人物がいて、そこにリツも深く関わっていた……などと、果たして言ってもいいものか。島にあった血溜まりについても、島の人々がリツに斬殺されてできたもの、なんて言えないし。果たして、どう彼女を庇えばいいものか。
しかし、一瞬の迷いは、おっさんの目を見てたちまち消え失せた――おっさんの目は、なにか確信を持っておれを見ていたからだ。何について確信していたかまでは分からないけれど、少なくとも嘘を吐き通せるような雰囲気ではない。おれは早々に観念して、知っている限りの全ての情報を吐くことにした。
「……なるほど。禁書の毒を使って組織の転覆を目論んでいた、ねえ」
「あの、おっさん。リツは騙されてただけなんだ。確かに帝国司書隊を憎んではいたけど、でも、騒ぎを起こすつもりなんてなかったんだ。リツは姉ちゃんと一緒に、以前の帝国司書隊の不正を暴こうとしていただけで――」
「それでも、禁書に手を出してしまったことについては看過できないよ」
おれはなんとかリツを弁護しようとするが、おっさんは余計なことは言うなとばかりに、静かにおれを牽制した。こういう時のおっさんの目つきは妙に迫力があって怖い。そこそこに実戦経験のあるおれでも怯んでしまう。
「危険性を十分に認識していなかったとしても、危険物であること自体は分かっていたはずだ。死者も多数出てしまっているし、彼女も間違いなく何らかの罪に問われるだろう。不用意な発言はやめた方がいい」
「……っ」
やはり、この人を相手に論戦を繰り広げるなど無謀か。おれはあれこれ言おうと考えていた手札を全て、胸の奥にしまい込んだ。
「しかし、こう言ってはなんだけど、結果は悪くない。ここ最近の事件が一気に解決しそうだからね」
「事件?」
本好きで、帝国司書隊とも縁のある人だ。おっさんはてっきり渋い顔でもするのだろうかと思った。しかし意外なことに、彼の見せた表情は腑に落ちたという感じの、どちらかというと晴れやかそうなものだった。
「大陽本各地での暴動事件だよ。君たちを助けに島に入った時、即座に警察隊と禁回部に通報したんだけどね。思わぬ所で、手詰まりだった捜査の糸口が見つかったんだよ」
君にもきっと関係のあることだから、とおっさんは声を潜めて教えてくれた。
「暴動事件で拘束された市民の血液からは、禁書の毒が検出されていたのだけど――島で押収していた灯堂倫十郎の使った禁書の記録と一致したんだ。暴動事件を起こした人たちの胡乱で奇妙な言動も、彼が記録していたカルテの内容とほとんど同じでね」
「……! じゃあ、一連の暴動事件の真犯人は……」
「そう。灯堂リツの父・灯堂倫十郎だったというわけだ。さらに、彼が闇市に売られた禁書を入手するまでのルートを辿って、密売に関与していた蔵書窃盗犯を芋づる式に摘発できた。君が先日捕まえた禁回部のならず者――蔵書窃盗犯も、灯堂倫十郎と禁書を取引していたことを吐いたのさ」
つまり、この数ヶ月間、灯堂倫十郎は大陽本各地で、自身の目的のために暗躍していたということだ。リツの記憶を探している裏でそんなことが起きていたなんて、恐ろしい話である。
「おっさんも、やっぱり事件のことを捜査してたのか」
「うん。市民による暴動事件も、現役司書の蔵書窃盗も、帝国司書隊に関わる身としては無視できない事態だったからね。事件を新聞で目にする度に、嫌なにおいを感じていたし」
捜査といえば、とおっさんは手にしていた本をとん、と指で叩く。
「事件の渦中にいたであろう彼女にも、ぜひ、捜査に協力してもらいたいのだけど。ひとつ困ったことがあってねぇ。彼女、今、昏睡状態なんだよ」
「!? リツはまだ目を覚ましてなかったのか!?」
おっさんはいかにも困った、どうしたもんかと言わんばかりに口をひん曲げ、こめかみを指でしきりに叩いている。
「どちらかと言えば重傷だったのは君の方だし、彼女はほとんど怪我をしていなかったから、体力さえ回復すればすぐに目を覚ますはずなんだ。なのに、島から帰ってきて一週間と三日──君が目覚めても、彼女だけはずっと眠っているんだ」
――まるで、現実に帰るのを拒むように。
おっさんはそう付け加えて、おれを見やる。
「君、他にもなにか知っていることはないかい?」
「おれが知ってることは全部話した。もう隠してることなんてねえよ」
「だよねえ……もう嘘をついてるようなにおいはしないし」
おれはもう一度辺りを見渡す。だだっ広い部屋には相変わらず、中身のないベッドが整列している。病人としているのはおれ一人だけだ。
「リツは、どこにいる?」
「そんな怖い顔しなくても、適切な治療は受けているよ。秋声がそばについているから、安心なさい」
「怖い顔してねえよ」
「してるよ。こんなふうにシワ寄せちゃってさ」
「顔が近い。こんな時にふざけんなっ!」
おっさんが大げさなしかめっ面を浮かべたままおれに近づいてくるので、来るなと肩を押して拒む。
すると、おれの右手から布団の上へ、ぽろっと何かがこぼれ落ちた。
「! これは……」
「おや、ようやく手を離したね。ずっと大事そうに持ってたから、何かと思ったら」
あぁこれは納得だ、と言いながら、おっさんはおれが落としたものを指で摘んで拾い上げる。
リツの身につけていたペンダントの石――海竜珠だった。どうやらおれは、リツの胸元からもぎ取った後からもずっと、それを持っていたらしい。多分、その海竜珠はおれの皮脂と手汗でギトギトだろう。持ち主のリツに大変申し訳ない。
「おい、今そいつのにおいを嗅がないでくれ。多分汚ねえから」
「汚いなんて何を言う。君が肌身離さず持っていたからこそ、輝きを増しているじゃないか」
「冗談じゃねえ、それはリツの持ち物だ」
おっさんから石を取り返そうとするも、今のおれは脇腹の怪我のせいで満足に動けない。おっさんもちょろちょろとすばしっこく逃げ回るせいで、なかなか石に手が届かなかった。
おっさんは不意に、石をひょーいと空中に向かって投げた。
「あっ、おい! 何しやがる!」
人の物になんてことを、と続けて言う前に、おっさんの足元からどぷん! と音が鳴った。おっさんの足から伸びている影が、石を投げつけられた水面のように水柱を立てる。――七本三八の影から生まれる拒絶の禁書・『糜爛の処女』だ。
「『糜爛の処女』、彼の者に影を貸しておやり。決して傷つけてはいけないよ」
まるでざばざばと暴れる墨汁のような姿だった『糜爛の処女』は、いつもの黒い蛇に形を変え、石をぱくんと飲み込む。とぐろを巻き、渦となり、柱となり――真っ黒だった姿はやがて、一人の大男へと変貌した。間違えようもない。岩のような褐色の体躯に、白い髪、つり上がった目つき――どこからどう見ても、その大男は藤次だった。
「初めまして、小生は七本三八。世助に色々教えてくれた禁書は君かな」
「おう。『鏖殺橋』だ。藤次でいい」
おれに対してにやにや愛想を振っていた藤次は、おっさんに対してはぶっきらぼうに名乗っていた。しかめっ面をしていると、改めて鬼のような見た目の男である。
「ほう、『万死』の禁書か。第一級禁書『鏖殺橋』と相まみえることになろうとは。光栄なことだね」
「あァ、そうかい。つっても、本体はちぃと前に焚書されちまったし、今のおれは単なる思念体みたいなもんだけどな」
「焚書された? んなことされたら、その禁書にいる毒も消滅するんじゃないのか?」
おれは藤次の発言に首を傾げる。というのも、禁書の毒は本体があってこそ存在していられるものだからだ。以前、姉御が鯖に連れていかれかけた時も、紫蔓さんが『本体の禁書を燃やしてしまえばお陀仏』だと言っていた。
本体を燃やされたのに、宿っていた毒が生き残っているなんて、ありなのか。
「そのへんは本によるよ。消えてしまう子も多いけど、『鏖殺橋』はかなり強い力を持った禁書だからね。栞に逃げ込んだことで、辛うじて難を逃れたと言ったところかな」
「あァ。栞になってたあの海竜珠の首飾りに逃げ込むことができなきゃ、マジで一巻の終わりだったな。ま、人に読み解いてもらうことはできなくなったから、寂しいっちゃ寂しいが……」
「人間に例えるなら、肉体を失った亡霊みたいなものだよ。目に見えない、でもそこに在る。お化けと一緒さ」
「あー、そういうこと?」
つまり、そこに居るのに認識してもらえない。呼びかけても、相手からは見えないから分からない。確かに幽霊の類と同じである。以前のおれだったら、唯助を襲いに来たと勘違いして殴り飛ばしていたかもしれない。
「しかし、藤次。どうして今回は応じてくれたんだい? 前に一度調べた時は、こちらの呼びかけに頑なに応じてくれなかったけど……」
前、というのは、リツが初めておっさんと対面した時のことだろう。あの時、おっさんは海竜珠のにおいを嗅いだり、光に透かして見たり、耳を近付けたりと、あの手この手で探りを入れていた。あれはおっさんからの呼びかけだったのか。
「応じるわけにはいかなかったんだ。あん時は、お姫さんの記憶をできるだけ封じ込めておきたかったからな」
「なるほど、持ち主の身を案じていたということか」
藤次は、おれの頭を勝手に肘置きにし、しかもおれを指差しながら言った。
「にしても、こいつの双子の弟には吃驚したぜ。人の譚を勝手に覗き見しやがって。新手の覗き魔かっつーの」
「唯助の『心眼』のことかい? まあ、あながち間違いではないかもね」
「おいっ」
人の頭を肘置きにした挙句、その弟を変態みたいに言うなんて、失礼すぎじゃなかろうか。おれの唯助は確かに好奇心が強い方ではあるが、礼節はきちんと弁えているはずである。少なくとも、この譚好きのおっさんや藤次よりは。
「んなこたァ、今はどうでもいい。問題はこいつの愛する眠り姫様だろ」
「ぐっ」
愛する、というのは間違っていないが、改めて第三者から言われるとかなりむず痒い。
「そうだね。昏睡状態の彼女を手をこまねいて待つのはまずい。彼女の心がもし、譚の世界――夢の世界に囚われているのなら。永遠にそのままだったら。彼女の譚が停止したまま、肉体的に終わりを迎えてしまう」
「……つまり、珱仙先生に連れていかれた時のおれと、同じってことか?」
おっさんは頷き、肯定する。
禁書の毒だろうが、譚の夢だろうが――人は現実から乖離した世界に囚われたままでは、永久に前に進めなくなってしまう。おれもあの時、珱仙先生の『先生の匣庭』の世界に囚われる選択をしていたら、とっくに亡きものになっていただろう。
リツの心を早く現実世界に戻さなければ、彼女は永遠に目覚めないまま、死を迎えてしまう。
「けど、お姫さん的には実際、帰りたくないんだろうよ。忘れたくてたまらない記憶を取り戻しちまったんだ」
「……っ」
リツを再び目覚めさせることは、リツを再び地獄に突き落とすことに等しい。そうなれば、ギリギリで保たれていた彼女の心は今度こそ砕け散るだろう。
彼女を待ち受ける運命は、死か地獄か、その二択なのだ。
「一応、お姫さんの目を覚まさせる方法は一つだけあるぜ。このガキの力を使えばいける」
「世助の?」
「おれの……?」
おれとおっさんは同時に首を傾げる。おれのどこに、そんな力があるというのか。
藤次は驚くべき事実を、あっさりと口にした。
「お前さん、自分じゃ気づいてないかもしれねェが、その干渉力が使えるのは禁書に対してだけじゃねェ。人間の譚にも通用するんだぜ」
「な……!」
驚くおれの横で、おっさんは若草色の目を細めて、冷静に藤次の言葉を咀嚼している。
「小生の『言霊』のように、世助も何かを通して譚に干渉ができるということかな」
「そう。こいつの場合は夢から影響を与えることができる」
藤次はおれの額を小突く。こいつにしてみれば、チョンとつついたくらいのつもりなのだろうが、葉巻ぐらいの太さをしたこいつの人差し指では、『チョン』どころか『ズドン』である。
内心、(痛えんだよ、バカタレ)と思いながら、おれは藤次を見上げた。
「道は開いてるはずだ。お姫さんの持ってた石に宿っていた俺が、こいつの夢に接触した。このガキとお姫さんの夢を繋ぐ通り道もできている」
「君、世助の力のことが分かるんだね。なにか関わりでも?」
「さてな。あったとしても、今はそれを語る時じゃねェ。物事にも物語にも、最良の時機ってのがあるだろう」
「確かにね」
おっさんは腰をかけていた椅子からすっくと立ち上がると、おれに静かに問いかけた。
「世助。君はどうだい。彼女の目を覚まさせることについて」
「お、れは……」
リツを死なせるわけにはいかない――そのためにも、彼女を目覚めさせなければならないことは確かだ。しかし、現実に帰ることを拒んでいる彼女を無理やり引き戻し、もう一度苦しめるのも酷な話である。
どうするべきなのか、おれには分からなかった。何が彼女にとって最善なのか、分からなかった。
「君は彼女に何をしてあげたい? 君は、灯堂リツにどうやって手を差し伸べたい?」
まごついているおれの肩に、おっさんがそっと手を置く。
「彼女に働きかけることは、小生にも、おそらく秋声にもできない。止まった彼女の歯車を動かせるのは、君だけなんだ。世助」
おっさんがおれと視線を合わせて、真っ直ぐに訴えてくる。言霊の力なのか――おっさんの放つ言葉を聞いているうちに、不思議とおれの中に勇気が湧いてくる。
「……おれは、リツに――もう一度、幸せになってほしい」
叶うなら、もう一度、彼女の眩しい笑顔が見たい。
根っから生真面目な彼女が、もう何にも苦しまないで済むようになってほしい。
リツは本来、おれとは比べ物にならないほど明るい性格なのだ。
「……もう一度笑ってほしい」
つらい思い出は勿論、屋敷の仕事にも、何にも囚われずに思い切りはしゃいだ時の、あの大輪のような笑顔が――おれはなにより好きなのだ。
「なら、そうしてあげなさい。そのための覚悟はできるだろう」
肩に置かれていたおっさんの手が、頭の方へと移る。ぽん、と軽く置かれた手のひらが温かくて、ほんの少し、張り詰めていたものが緩んだ。
「やあ、目が覚めたかい」
おれが寝ているベッドのすぐ横で、椅子に腰をかけながら本を読んでいた人がいた。紺色の着物を着た、白髪に眼帯の男――七本三八。譚本好きの、変わり者。
「こ、こは?」
水分のないかすかすの喉を動かしながら、おっさんに尋ねる。
「藤京にある病院の中だよ。君、島で重傷を負ったから入院中なんだ。もう一週間と三日経ったところさ」
「そん、なに……」
ぽん、と開いていた本を閉じつつ、おっさんはここまでの状況を説明してくれた。
おっさんと秋声先生は、おれたちが海に落ちてから、帝国海軍や港町の漁師たちに助けを求めて動き回っていてくれたらしい。鍵となったのはやはり、おれが持っていた『糜爛の処女』の栞だった。
「君が『糜爛の処女』の栞をしっかり持っていてくれたから、君たちのいる場所もすぐに座標特定できたんだ。運良く島に漂着してたみたいだし、さあ救出だと上陸したら、もうすごい臭いで。鼻どころか顔まで曲がるんじゃないかと思ったよ。血の海をかきわけながら進んでたら、君たちもその中で寝そべってたもんだから、死んだんじゃないかと思ってひやひやした」
そういえば、リツに解毒薬を飲ませて休ませた直後から、一切記憶がない。リツを助けた後、おれも気を失ってしまったのだろう。おっさんたちが到着したのは、あの激闘の後だったということだ。
「……リツ! リツは……んがぁッ!?」
リツの安否が気になり、急いで体を起こそうとしたところで、おれの脇腹に抉られるような激痛が走った。
「こらこら、重傷だと言っただろうに。無理に動くと傷が開くぞ」
「いっってぇ……!」
そうだった。おれ、重傷のままリツと戦ったんだった。あの時は緊急事態でそれどころではなかったが、本当は十人力の力士に絶え間なくどつかれてるくらいには痛かったのだ。
おれが腹を押さえて悶絶していると、おっさんは子供を寝かしつけるようにおれの肩をとんとん叩いた。
「安心なさい。彼女も無事だよ。念の為、秋声からも栞を仕込んでおいて正解だったね。傷口を縫ってなかったら、本当に死んでたかもしれない」
「傷口を縫った……って?」
おれは服の下に手を入れ、痛む箇所にそっと触れた。確かに、糸で縫われたらしい感触が、ぽつぽつと規則正しく並んでいる。
「君が怪我をした直後、彼女が急いで縫ったそうだよ。ほら、そこにいる子さ」
「え……うぉわっ!」
寝台を挟んだ反対側を指さすおっさん。先ほども確認した風景に、人影なんてあっただろうか――と思っていたら、いた。
おれのベッドの影にひっそりと隠れるようにして、小さな女の子がいたのだ。見た目はナナヱよりもさらに幼いだろうか、十歳かそこらかもしれない。人間のものとは違う、浅黒くなめらかな肌と、肩の上で整えた真っ白な髪が特徴的だった。黒いリボンのカチューシャと、袖が風船のような形をした白い洋服がよく映えていて、ずいぶんと可愛らしい印象だ。
女の子はおれの声にたいそう驚いたようで、逃げる猫のようにベッドの下にばたばたと潜り込むと、反対側にいるおっさんの膝の上に登った。
「この子は『紡姫』。糸の禁書だ。秋声が現役時代から使っている、相方の禁書と言ってもいい」
紡姫は、やはり猫のようにおっさんの膝で丸くなりつつ、おれのほうをちらちらと見てくる。随分と人見知りの禁書らしい。
「万が一のとき、『糜爛の処女』だけでは心もとなかったからね。念には念をと、君たちの服に彼女の糸を仕込んでいたんだ」
「……あ」
あの時か――おれは記憶を遡り、ひとつ思い当たる。そう、秋声先生がおれたちの制服を繕ってくれた、あの時だ。なんだかいつもより強引だと思ったが、そういうことだったのか。
「じゃあおれが怪我をした時、すぐにその子が縫ってくれたから助かった、ってこと?」
「そう。それに、彼女の毒は第四級。人体に使ってもほとんど影響がない。罠から応急処置までお手の物。実に優秀な子だよ」
そう言って、おっさんは紡姫の頭を優しく撫でていた。褒められたことが嬉しくも照れくさかったのか、紡姫はもじもじと指をいじりつつ、おっさんの手に擦り寄っていた。
「そうだったのか。ありがとうな、紡姫。お前のおかげで命拾いしたよ」
彼女を怯えさせないよう、できるだけ明るく穏やかな笑顔を作って礼を言うと、紡姫はおっさんに隠れるようにして、ぎゅうっと抱きついた。なんだか見た目よりも精神年齢が幼く見える。先日、幼女の禁書から思いっきり怯えられたおれとしては、せめて怖がられていないことを願いたい。
「さ、紡姫。お父さんのところへお戻り。小生はこれからこのお兄さんと大事なお話があるからね」
おっさんがそう言うと、紡姫は素直に頷き、おっさんの膝から降りてぱたぱたと部屋を後にした。
紡姫の軽い足音が遠のいたところで、おっさんは「さて、」と切り出す。
「聞きたいことは大小含めて山ほどあるのだけど、まずはそうだね――君たちが漂着したあと、島で何があったかを聞かせてもらおうか」
おれは記憶を遡りつつ、できる限り当たり障りのないよう話をした。
島に漂着したとき、おれたちは二人とも無傷だったこと。
状況把握のために島を探索したところ、奇妙な点(生物がいた痕跡がなかった等)が多かったこと。
日没後、島の内部から薄気味悪い気配を感じたので、それを避けるように夜を過ごしたこと。
……それ以降の話については、上手い言い方が分からなくて、見事に詰まった。
「その後は? そこからなんで、あんな光景を生み出すに至ったのかな」
「う……」
ずい、とやや前のめりになるおっさんを見て、一瞬だけ迷った。帝国司書隊に対してクーデターを企てていた人物がいて、そこにリツも深く関わっていた……などと、果たして言ってもいいものか。島にあった血溜まりについても、島の人々がリツに斬殺されてできたもの、なんて言えないし。果たして、どう彼女を庇えばいいものか。
しかし、一瞬の迷いは、おっさんの目を見てたちまち消え失せた――おっさんの目は、なにか確信を持っておれを見ていたからだ。何について確信していたかまでは分からないけれど、少なくとも嘘を吐き通せるような雰囲気ではない。おれは早々に観念して、知っている限りの全ての情報を吐くことにした。
「……なるほど。禁書の毒を使って組織の転覆を目論んでいた、ねえ」
「あの、おっさん。リツは騙されてただけなんだ。確かに帝国司書隊を憎んではいたけど、でも、騒ぎを起こすつもりなんてなかったんだ。リツは姉ちゃんと一緒に、以前の帝国司書隊の不正を暴こうとしていただけで――」
「それでも、禁書に手を出してしまったことについては看過できないよ」
おれはなんとかリツを弁護しようとするが、おっさんは余計なことは言うなとばかりに、静かにおれを牽制した。こういう時のおっさんの目つきは妙に迫力があって怖い。そこそこに実戦経験のあるおれでも怯んでしまう。
「危険性を十分に認識していなかったとしても、危険物であること自体は分かっていたはずだ。死者も多数出てしまっているし、彼女も間違いなく何らかの罪に問われるだろう。不用意な発言はやめた方がいい」
「……っ」
やはり、この人を相手に論戦を繰り広げるなど無謀か。おれはあれこれ言おうと考えていた手札を全て、胸の奥にしまい込んだ。
「しかし、こう言ってはなんだけど、結果は悪くない。ここ最近の事件が一気に解決しそうだからね」
「事件?」
本好きで、帝国司書隊とも縁のある人だ。おっさんはてっきり渋い顔でもするのだろうかと思った。しかし意外なことに、彼の見せた表情は腑に落ちたという感じの、どちらかというと晴れやかそうなものだった。
「大陽本各地での暴動事件だよ。君たちを助けに島に入った時、即座に警察隊と禁回部に通報したんだけどね。思わぬ所で、手詰まりだった捜査の糸口が見つかったんだよ」
君にもきっと関係のあることだから、とおっさんは声を潜めて教えてくれた。
「暴動事件で拘束された市民の血液からは、禁書の毒が検出されていたのだけど――島で押収していた灯堂倫十郎の使った禁書の記録と一致したんだ。暴動事件を起こした人たちの胡乱で奇妙な言動も、彼が記録していたカルテの内容とほとんど同じでね」
「……! じゃあ、一連の暴動事件の真犯人は……」
「そう。灯堂リツの父・灯堂倫十郎だったというわけだ。さらに、彼が闇市に売られた禁書を入手するまでのルートを辿って、密売に関与していた蔵書窃盗犯を芋づる式に摘発できた。君が先日捕まえた禁回部のならず者――蔵書窃盗犯も、灯堂倫十郎と禁書を取引していたことを吐いたのさ」
つまり、この数ヶ月間、灯堂倫十郎は大陽本各地で、自身の目的のために暗躍していたということだ。リツの記憶を探している裏でそんなことが起きていたなんて、恐ろしい話である。
「おっさんも、やっぱり事件のことを捜査してたのか」
「うん。市民による暴動事件も、現役司書の蔵書窃盗も、帝国司書隊に関わる身としては無視できない事態だったからね。事件を新聞で目にする度に、嫌なにおいを感じていたし」
捜査といえば、とおっさんは手にしていた本をとん、と指で叩く。
「事件の渦中にいたであろう彼女にも、ぜひ、捜査に協力してもらいたいのだけど。ひとつ困ったことがあってねぇ。彼女、今、昏睡状態なんだよ」
「!? リツはまだ目を覚ましてなかったのか!?」
おっさんはいかにも困った、どうしたもんかと言わんばかりに口をひん曲げ、こめかみを指でしきりに叩いている。
「どちらかと言えば重傷だったのは君の方だし、彼女はほとんど怪我をしていなかったから、体力さえ回復すればすぐに目を覚ますはずなんだ。なのに、島から帰ってきて一週間と三日──君が目覚めても、彼女だけはずっと眠っているんだ」
――まるで、現実に帰るのを拒むように。
おっさんはそう付け加えて、おれを見やる。
「君、他にもなにか知っていることはないかい?」
「おれが知ってることは全部話した。もう隠してることなんてねえよ」
「だよねえ……もう嘘をついてるようなにおいはしないし」
おれはもう一度辺りを見渡す。だだっ広い部屋には相変わらず、中身のないベッドが整列している。病人としているのはおれ一人だけだ。
「リツは、どこにいる?」
「そんな怖い顔しなくても、適切な治療は受けているよ。秋声がそばについているから、安心なさい」
「怖い顔してねえよ」
「してるよ。こんなふうにシワ寄せちゃってさ」
「顔が近い。こんな時にふざけんなっ!」
おっさんが大げさなしかめっ面を浮かべたままおれに近づいてくるので、来るなと肩を押して拒む。
すると、おれの右手から布団の上へ、ぽろっと何かがこぼれ落ちた。
「! これは……」
「おや、ようやく手を離したね。ずっと大事そうに持ってたから、何かと思ったら」
あぁこれは納得だ、と言いながら、おっさんはおれが落としたものを指で摘んで拾い上げる。
リツの身につけていたペンダントの石――海竜珠だった。どうやらおれは、リツの胸元からもぎ取った後からもずっと、それを持っていたらしい。多分、その海竜珠はおれの皮脂と手汗でギトギトだろう。持ち主のリツに大変申し訳ない。
「おい、今そいつのにおいを嗅がないでくれ。多分汚ねえから」
「汚いなんて何を言う。君が肌身離さず持っていたからこそ、輝きを増しているじゃないか」
「冗談じゃねえ、それはリツの持ち物だ」
おっさんから石を取り返そうとするも、今のおれは脇腹の怪我のせいで満足に動けない。おっさんもちょろちょろとすばしっこく逃げ回るせいで、なかなか石に手が届かなかった。
おっさんは不意に、石をひょーいと空中に向かって投げた。
「あっ、おい! 何しやがる!」
人の物になんてことを、と続けて言う前に、おっさんの足元からどぷん! と音が鳴った。おっさんの足から伸びている影が、石を投げつけられた水面のように水柱を立てる。――七本三八の影から生まれる拒絶の禁書・『糜爛の処女』だ。
「『糜爛の処女』、彼の者に影を貸しておやり。決して傷つけてはいけないよ」
まるでざばざばと暴れる墨汁のような姿だった『糜爛の処女』は、いつもの黒い蛇に形を変え、石をぱくんと飲み込む。とぐろを巻き、渦となり、柱となり――真っ黒だった姿はやがて、一人の大男へと変貌した。間違えようもない。岩のような褐色の体躯に、白い髪、つり上がった目つき――どこからどう見ても、その大男は藤次だった。
「初めまして、小生は七本三八。世助に色々教えてくれた禁書は君かな」
「おう。『鏖殺橋』だ。藤次でいい」
おれに対してにやにや愛想を振っていた藤次は、おっさんに対してはぶっきらぼうに名乗っていた。しかめっ面をしていると、改めて鬼のような見た目の男である。
「ほう、『万死』の禁書か。第一級禁書『鏖殺橋』と相まみえることになろうとは。光栄なことだね」
「あァ、そうかい。つっても、本体はちぃと前に焚書されちまったし、今のおれは単なる思念体みたいなもんだけどな」
「焚書された? んなことされたら、その禁書にいる毒も消滅するんじゃないのか?」
おれは藤次の発言に首を傾げる。というのも、禁書の毒は本体があってこそ存在していられるものだからだ。以前、姉御が鯖に連れていかれかけた時も、紫蔓さんが『本体の禁書を燃やしてしまえばお陀仏』だと言っていた。
本体を燃やされたのに、宿っていた毒が生き残っているなんて、ありなのか。
「そのへんは本によるよ。消えてしまう子も多いけど、『鏖殺橋』はかなり強い力を持った禁書だからね。栞に逃げ込んだことで、辛うじて難を逃れたと言ったところかな」
「あァ。栞になってたあの海竜珠の首飾りに逃げ込むことができなきゃ、マジで一巻の終わりだったな。ま、人に読み解いてもらうことはできなくなったから、寂しいっちゃ寂しいが……」
「人間に例えるなら、肉体を失った亡霊みたいなものだよ。目に見えない、でもそこに在る。お化けと一緒さ」
「あー、そういうこと?」
つまり、そこに居るのに認識してもらえない。呼びかけても、相手からは見えないから分からない。確かに幽霊の類と同じである。以前のおれだったら、唯助を襲いに来たと勘違いして殴り飛ばしていたかもしれない。
「しかし、藤次。どうして今回は応じてくれたんだい? 前に一度調べた時は、こちらの呼びかけに頑なに応じてくれなかったけど……」
前、というのは、リツが初めておっさんと対面した時のことだろう。あの時、おっさんは海竜珠のにおいを嗅いだり、光に透かして見たり、耳を近付けたりと、あの手この手で探りを入れていた。あれはおっさんからの呼びかけだったのか。
「応じるわけにはいかなかったんだ。あん時は、お姫さんの記憶をできるだけ封じ込めておきたかったからな」
「なるほど、持ち主の身を案じていたということか」
藤次は、おれの頭を勝手に肘置きにし、しかもおれを指差しながら言った。
「にしても、こいつの双子の弟には吃驚したぜ。人の譚を勝手に覗き見しやがって。新手の覗き魔かっつーの」
「唯助の『心眼』のことかい? まあ、あながち間違いではないかもね」
「おいっ」
人の頭を肘置きにした挙句、その弟を変態みたいに言うなんて、失礼すぎじゃなかろうか。おれの唯助は確かに好奇心が強い方ではあるが、礼節はきちんと弁えているはずである。少なくとも、この譚好きのおっさんや藤次よりは。
「んなこたァ、今はどうでもいい。問題はこいつの愛する眠り姫様だろ」
「ぐっ」
愛する、というのは間違っていないが、改めて第三者から言われるとかなりむず痒い。
「そうだね。昏睡状態の彼女を手をこまねいて待つのはまずい。彼女の心がもし、譚の世界――夢の世界に囚われているのなら。永遠にそのままだったら。彼女の譚が停止したまま、肉体的に終わりを迎えてしまう」
「……つまり、珱仙先生に連れていかれた時のおれと、同じってことか?」
おっさんは頷き、肯定する。
禁書の毒だろうが、譚の夢だろうが――人は現実から乖離した世界に囚われたままでは、永久に前に進めなくなってしまう。おれもあの時、珱仙先生の『先生の匣庭』の世界に囚われる選択をしていたら、とっくに亡きものになっていただろう。
リツの心を早く現実世界に戻さなければ、彼女は永遠に目覚めないまま、死を迎えてしまう。
「けど、お姫さん的には実際、帰りたくないんだろうよ。忘れたくてたまらない記憶を取り戻しちまったんだ」
「……っ」
リツを再び目覚めさせることは、リツを再び地獄に突き落とすことに等しい。そうなれば、ギリギリで保たれていた彼女の心は今度こそ砕け散るだろう。
彼女を待ち受ける運命は、死か地獄か、その二択なのだ。
「一応、お姫さんの目を覚まさせる方法は一つだけあるぜ。このガキの力を使えばいける」
「世助の?」
「おれの……?」
おれとおっさんは同時に首を傾げる。おれのどこに、そんな力があるというのか。
藤次は驚くべき事実を、あっさりと口にした。
「お前さん、自分じゃ気づいてないかもしれねェが、その干渉力が使えるのは禁書に対してだけじゃねェ。人間の譚にも通用するんだぜ」
「な……!」
驚くおれの横で、おっさんは若草色の目を細めて、冷静に藤次の言葉を咀嚼している。
「小生の『言霊』のように、世助も何かを通して譚に干渉ができるということかな」
「そう。こいつの場合は夢から影響を与えることができる」
藤次はおれの額を小突く。こいつにしてみれば、チョンとつついたくらいのつもりなのだろうが、葉巻ぐらいの太さをしたこいつの人差し指では、『チョン』どころか『ズドン』である。
内心、(痛えんだよ、バカタレ)と思いながら、おれは藤次を見上げた。
「道は開いてるはずだ。お姫さんの持ってた石に宿っていた俺が、こいつの夢に接触した。このガキとお姫さんの夢を繋ぐ通り道もできている」
「君、世助の力のことが分かるんだね。なにか関わりでも?」
「さてな。あったとしても、今はそれを語る時じゃねェ。物事にも物語にも、最良の時機ってのがあるだろう」
「確かにね」
おっさんは腰をかけていた椅子からすっくと立ち上がると、おれに静かに問いかけた。
「世助。君はどうだい。彼女の目を覚まさせることについて」
「お、れは……」
リツを死なせるわけにはいかない――そのためにも、彼女を目覚めさせなければならないことは確かだ。しかし、現実に帰ることを拒んでいる彼女を無理やり引き戻し、もう一度苦しめるのも酷な話である。
どうするべきなのか、おれには分からなかった。何が彼女にとって最善なのか、分からなかった。
「君は彼女に何をしてあげたい? 君は、灯堂リツにどうやって手を差し伸べたい?」
まごついているおれの肩に、おっさんがそっと手を置く。
「彼女に働きかけることは、小生にも、おそらく秋声にもできない。止まった彼女の歯車を動かせるのは、君だけなんだ。世助」
おっさんがおれと視線を合わせて、真っ直ぐに訴えてくる。言霊の力なのか――おっさんの放つ言葉を聞いているうちに、不思議とおれの中に勇気が湧いてくる。
「……おれは、リツに――もう一度、幸せになってほしい」
叶うなら、もう一度、彼女の眩しい笑顔が見たい。
根っから生真面目な彼女が、もう何にも苦しまないで済むようになってほしい。
リツは本来、おれとは比べ物にならないほど明るい性格なのだ。
「……もう一度笑ってほしい」
つらい思い出は勿論、屋敷の仕事にも、何にも囚われずに思い切りはしゃいだ時の、あの大輪のような笑顔が――おれはなにより好きなのだ。
「なら、そうしてあげなさい。そのための覚悟はできるだろう」
肩に置かれていたおっさんの手が、頭の方へと移る。ぽん、と軽く置かれた手のひらが温かくて、ほんの少し、張り詰めていたものが緩んだ。
0
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる