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終章『花、薫る』
その二
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「あの橋を渡って行けば、お姫さんの囚われている譚の夢に行ける」
藤が照らす暗闇の世界には、以前とは少し異なる風景があった。藤次が導いた先には、淡く光る木造のアーチ橋がある。白く塗られた橋は、藤の灯りも届かない暗闇の先まで続いていた。
「いいか、絶対に振り返るんじゃねえぞ。一度でもためらえば、二度とお姫さんの夢には行けなくなっちまうからな」
藤次に背中を押され、おれは橋の敷板に足を乗せた。きし、きし、と敷板が音を立てるのに合わせて、おれの心臓もびくん、びくん、と拍動する。
背中に感じていた藤次の気配も、次第に遠くなっていく。気づけばおれは一人、橋をただひたすら渡っていた。
長い長い道のりだ――アーチ橋の緩やかな坂を登っては下り、登っては下りを繰り返す。十回くらいは繰り返して、ようやく橋の果てがぼんやりと見えてきた。
(あれは……花?)
闇を再び照らしていたのは、ひときわ美しく咲く牡丹の花の群れだった。白に赤に紫に、濃紅に薄紅と、様々な濃淡の牡丹だけで埋め尽くされている空間は、まさに夜の花園である。
以前、リツは牡丹の絵を見ながら「世助みたい」だと言ってくれたが、彼女の夢にこうして現れているのを見ると、やはり牡丹はリツにこそ似合う花なのだと思う。
ふわふわと柔く薄い花びらが幾重にも広がる様を見ていると、頭にはドレス姿の淑女が思い浮かぶ。リツがこんなドレスを着れば、きっとどんなに良い家柄の貴婦人にも負けない、美しい立ち姿になるだろう。
牡丹が咲き乱れる花園を進んでいると、その中心にぽつんと建っている一軒の東屋を見つけた。屋根も柱も真っ白に塗られた東屋の中に入れば、リツはその床で、色とりどりの牡丹の花に囲まれながら、静かに眠っていた。
リツは赤紫に染めた薄布をふんだんに重ねたドレスを纏っている。広がった布地がちょうど、大輪の牡丹の花のようだった。
やっぱり、この人はとびきりの美女だ。神様とやらが丹精込めて作ったのであろう、整った造形だった。唇に赤い紅を挿して眠っている彼女は、生身の人間というより、等身大の人形だった。
「リツ……」
近づいて見ると、彼女が両手で包むように何かを抱いていることに気づいた。赤紫色のドレスの中ではひときわ目立つ、青い石――海竜珠だ。
これが鍵なのだろうか、と。おれは彼女が持っていた海竜珠にぴたりと手を触れる。
途端――彼女の中に巡っていた譚が、活動写真のフィルムのように漏れ出て、おれの周囲を取り囲んだ。
*****
小さい頃の記憶。私の中では、一番か二番くらいに古い記憶。それは、姉さんが浜辺で拾って集めてきた石や貝殻などを見せてもらっていた時のことだった。
「ねえ、お姉ちゃん。りっちゃん、このきれいなのがいいな」
私はその中にあったひとつの小石に惹かれたのだ。
真っ白に濁っていた石に、どうして惹かれたのか……今となってはよく分からない。ただ、当時の私にとってその石は、いっとう素敵な宝物のように見えていたのだ。生まれて初めて目にする輝きを手にして、私は心を踊らせていたのだ。
姉さんはそんな私を見て、可笑しそうに笑っていた。白く濁った、なんの面白みもない石ころなんかにはしゃいでいるのだから、当たり前だ。
「そう? こっちの桜貝とか、硝子の欠片とかのほうが綺麗じゃない?」
「んーん、これがいーい! これがいちばんきれい!」
姉さんから他のものを勧められても、私はこの石が綺麗だと、頑なに意見を曲げなかった。取り憑かれてしまったように小石を気に入った私に対して、姉さんはこう言ってくれた。
「分かった。そんなにその石が気に入ったなら、それはりっちゃんにあげる」
「いいの!?」
「うん。でも大事にするんだよ。ポイ捨ては厳禁だからね」
「はぁい! やったやったぁ!」
私は姉さんから思いがけないプレゼントをもらって、それがまた嬉しくて、転びそうになるほどぴょんぴょん飛び跳ねていた。
「お父さん、みてー! これ、お姉ちゃんからもらったんだよ。きれいでしょ?」
姉さんからもらった宝物をさっそく自慢するために、私は父さんに見せに行った。父さんはその時、部屋で何かを書いていたけれど、私がやってくるとわざわざ手を止めて見てくれた。
「おお、リツ。それはなんだい?」
手を伸ばしてきた父さんに石を渡すと、その石を撫でたり、傾けたりしながらじっくりと観察していた。父さんは手に取ったものはなんでも観察する。研究者だからなのか、いつもやってしまう癖のようだった。
「ほうほう、これは珍しいね。波に運ばれてやってきたのかな。すごい偶然だな」
父さんはふむふむと感心しながら石を眺めた後、私に石を返しながらこう言った。
「リツ、お前には審美眼があるようだね。これは特別な石なんだよ」
「しんびがん? ってなぁに?」
「綺麗なものや美しいものを見出す目のことだよ。お前には見た目にとらわれない、素敵なものを見つける力が備わっているらしい」
「そうなの?」
「そうだとも。その石はお母さんにお願いして、首飾りにでもしてもらったらどうかな。毎日大事につけていれば、もっと輝くよ」
その時の私には、父さんの意図がよく分からなかった。けれど、父さんの言う通りにすれば、必ず面白いことが起こることも知っていた。
例えば、ただの砂粒だと思っていたものを畑にまいて、数日置いていたら芽が出てきたり。よく飛ぶ紙飛行機の作り方を教えてくれたり。父さんは子供たちに対して、色んな体験をさせてくれる人だった。
「お母さん! これ、首飾りにしてほしいなあ」
私は父さんに言われた通り、母さんに石を渡してお願いした。母さんは浜辺の貝や硝子から、素敵な首飾りや腕輪を作る名人だった。母さんが作ったものはどれも島の人達に好評で、売りに出せばあっという間に売り切れてしまうのだ。
「あら、りっちゃん。どうしたの、それ?」
「お姉ちゃんからもらったの! そしたら、お父さんがくびかざりにしてもらいなさいって!」
「どれどれ……あぁ、これはなかなかの大物が来たわね。分かったわ。お母さん、丹精込めて作るわね!」
――結論からして、父さんの言ったことは正しかった。
母さんから大きめに作ってもらったペンダントを毎日つけていたら、真っ白に濁っていたその石は、数年かけてみるみる青くなっていった。まるで海のように綺麗な宝石になったのだ。
その時は姉さんからも羨ましがられた。貸してと言われて貸したことはあるけれど、冗談で「ちょうだい」と言われても、私は絶対に首を縦に振らなかった。
*****
「わあっ! すごいねぇ、お姉ちゃん! お花がいっぱいさいてるよ!」
「でしょ? ここが一番大きな畑なんだって!」
ある日、母さんに連れられた私たち姉妹がやって来たのは、見渡す限りの牡丹畑だった。私の故郷は毎年暖かくなると、牡丹の花で溢れかえっていた。この地域では牡丹はちょっとした名物なので、牡丹にちなんだお菓子があったり、神社の手水に牡丹が浮かべられたりもしていたのだ。
「二人とも知ってる? 牡丹の花の中にはかわいい女の子が住んでいるんだよ。牡丹の花のお姫様」
母さんは私たちと手を繋いで歩きながら、こんな話をしてくれた。
「またまたぁ、お母さんてば作り譚が上手なんだもん。もう騙されないからね」
「作ってないよ、レイ。この島に伝わる伝説なんだ。牡丹のお姫様に会えた女の子は、将来素敵な旦那さんのもとへ嫁いで、幸せになれるんですって」
「ほんと!? りっちゃん、おひめさまにあいたい! お姉ちゃん、さがそ!」
「あ、ちょっと! 待ちなさいって、リツ!」
心がときめくような素敵な話を耳にし、私は興奮してあたりの牡丹の花を覗き回った。姉さんもなんだかんだ気になるようで、時々花弁をめくりながらお姫様を探していたようだ。
そんな私たち二人を見て、母さんは「あらら、二人ともあわてんぼうねえ」ところころ笑っていた。
「大丈夫よ、レイちゃんもりっちゃんもいい子だもの。お姫様は二人を見てるから、きっと二人とも幸せになれるわよ」
今思えば、母さんは本当に愛情深い人だった。私たち姉妹を平等に愛してくれたし、叱る時も少し厳しめではあったけど優しかった。
中でも私は、母さんが毎日即興でしてくれる作り譚が好きだった。牡丹のお姫様も、あとから考えれば設定がめちゃくちゃだったから、きっと母さんの作り譚だったのだろう。
けれど、私はそのお姫様の譚がなにより好きで、いっとき毎日のようにねだっていた。
*****
――夢を見ていた。
私は小さな子供になっていて、家族みんなで懐かしい夕暮れ時の家路を歩いていた。
烏の親子が巣に帰っていくなか、私はお母さんやお姉ちゃんと手を繋いでいる。お姉ちゃんの隣にはお父さんもいた。前に長く伸びた四人分の影法師が、それぞれの手からひと続きになっているのを見て、私はずいぶん浮かれていた。
足取りを弾ませながら、みんなでなにか楽しい話をしていた気がする。今日はこんなことをして遊んだとか、友達とこんな約束をしたとか。そういった感じの、ありきたりな話だ。
私がはしゃいでいると、突然、お母さんの手がするりと私から離れた。いきなり私を置いて先を歩き始めたお母さんに吃驚していると、次にお姉ちゃんの手が離れた。お父さんも一緒に離れた。
「ま、まって! まってよぉ!」
私は先を行く三人を呼び留めるけれど、何度叫んでも、誰一人、振り返ってもくれない。水中をバタバタと慌ただしくもがくように、必死に走った。けれども、追いつけない。
三人の背中は遠のいていくばかりで、怖くて、悲しくて、声がどんどん震えてくる。
「やだ、やだぁ! まってっ……あうっ!?」
足がもつれて、私は転んでしまった。それでも、誰も私に気づいてくれない。三人は私を置いて、先へ先へと行ってしまう。
三人から見捨てられてしまったような気がして、惨めな気持ちになってきて、私の目からぼろぼろと涙がこぼれた。
「いかないで……お母さん――お姉ちゃん、お父さん……!」
ずるずると汚い自分の嗚咽だけが聞こえる。
きりきりと締めあげられるような、切ない痛みが胸を襲う。
温かかった心が、急激に冷えていくのが分かる。
「やだぁ……ひとりは、やだよぉ……」
三人の後ろ姿が遠くに消えても、私は起き上がれないまま、めそめそと惨めに泣いていた。
日が沈んでいく。赤黒く染まった雲が不気味で、恐ろしい。このまま暗くなって、なにか悪いものに襲われたらどうしよう。怖くて心細くて、私はついに泣き声もあげられなくなった。
「──リツ」
ふと、誰かの声が私を呼ぶ。男の人の声だ。その人の声はお父さんのものよりも透き通っていて、若い人だと分かる。地面から顔を出したばかりの、春先の草の芽のように、その人の声は瑞々しく柔らかい。
「リツ。大丈夫か?」
声が頭上から聞こえてきて、私はぎこちなく頭をあげる。見えたのは、茶色の髪の毛をした、若い男の人だった。
男の人は私の所へやってきたかと思うと、地面に突っ伏したままの私の体を抱き上げる。赤い夕日に照らされたその顔は、泣き顔の私に向かって優しく微笑んでいた。
「お兄ちゃん、だれ……? どうして、私の名前をしってるの?」
男の人はまったく知らない顔なのに、どうしてか不安にならなかった。抱き上げられた時の熱がじんわりと伝わってきて、冷えた心がまた少しだけ温度を取り戻す。
「……会ったことがあるから」
男の人はそう言って寂しそうに笑うと、
「なんで、泣いてたんだ?」
と尋ねてきた。
――私は、幼いままの姿で、ありのままを語った。
「お母さんが、いなくなっちゃったの。そしたらどんどんおかしくなったの」
――幼い言葉で、拙い言葉で、この身で体験したことを語った。
「お父さんがね、全然笑わなくなっちゃったの。話しかけていても、ずっと怖い顔して、私のことを無視するの。何かを書いたり、本を読んだり、ずっとそればっかり。お医者さんのお仕事、忙しいのかな」
――私の父さんは、確かに研究熱心だった。けれど、忙しそうにしていても、いつも私に笑いかけてくれていた。もちろん、患者にも丁寧に接する人だった。他人で実験をするような非道な人ではなかったのだ。
「お姉ちゃんも、全然遊んでくれなくなっちゃった。一人でお部屋に閉じこもって、入ったら私を怖い顔でじっと見てくるの。最近はずぅっと本を読んでばっかりで、お話も全然してくれなくなって」
――私は、姉さんとするままごとが大好きだった。たまに喧嘩もしたけれど、結局退屈で寂しくなって、姉さんから離れられなかったっけ。ずいぶん甘えっ子で我儘な妹だったけど、それでも姉さんは私を大事にしてくれた。
――私の中にあった普通の日常が、母さんの死をきっかけに壊れていった。家族の心が、乾いた砂の城のように崩れて、ばらばらになっていった。
「お父さんも、お姉ちゃんも、お母さんがいなくなってから、変わっちゃったの。どうすればいいのか、分からないの」
――どうすれば二人の笑顔を取り戻せるのか、私には分からなかった。いや、私が何をしたとしても、二人を元に戻すことは不可能だったのかもしれない。
――私はただ、二人が壊れていくのを見ていることしかできなかった。擦り切れて摩耗していく二人に対して、何もできないまま見ていただけだ。
――どうしてこんなことになってしまったんだろう。私たち家族の、何が悪かったのだろう。あの時、母さんが助かっていれば、こうはなっていなかったに違いない。母さんさえ生きていれば、きっと立ち直れたに違いない。
「……お母さんは、どうして死んじゃったのかな」
――本当はわかっている。どうして、お母さんは助からなかったのか。
――全部、帝国司書隊のせいだ。あいつらが父さんを不当に扱ったから。あいつらの勝手な理屈のせいで、お母さんは見殺しにされ、私たち家族は崩壊してしまったのだ。
――だから私は、私たちを助けてくれなかった帝国司書隊を恨むことにした。私たちから普通を奪った、あの人間の屑たちを。……そうでもしなければ、私は惨めなこの気持ちに耐えることができなかったのだ。
「……そうか」
男の人はそう言うと、私をそっと抱きしめた。お父さんよりも太くて硬い腕が、くっと私を締めつける。
「寂しかったな。つらくて、悲しくて、苦しかったよな」
優しく撫でるような声が、私の胸にすとんと落ちていく。彼の掛けてくれる言葉の一つ一つが、卵のように硬い殻をすり抜けて、私の奥深くに浸透していくようだった。
「もう、一人じゃないからな。おれがずっとそばにいるから」
彼は私を腕で包み込むようにしながら、ゆっくり囁いた。
――どうしてだろう。知らない人なのに、私はこの言葉がずっと恋しかった気がするのだ。
すっかり泣き腫らした夜に食べる、甘い砂糖菓子のように……優しい言葉が柔らかく溶けて、私の体に染み込んでいく。
「お兄ちゃんは、だれ……?」
幼いままの私は、彼に尋ねる。
なぜか私に寄り添ってくれる彼の名前を、知りたかった。
「おれは――あんたのことが好きだ。ただ、それだけだ」
彼は私に名乗ることもなく、ただただ真摯な目で、私を「好き」だと伝えてきた。
「……お兄ちゃん。お兄ちゃんは、どこにも行かない? このまま、一緒にいてくれる?」
「ああ。お前がそうしてほしいなら、そうする。約束だ」
私は彼にぎゅうっと抱きつく。そうすることで、彼の言葉を確かめようとした。
「泣き疲れただろ。寝ちまいな。眠って、嫌なことは全部忘れような」
「うん……」
私は彼の肩口に顔を埋めて頷いた。私を抱きかかえたまま、彼は歩き出す。沈んでしまった夕日の後を追うように。私は薄暗くなっていく後ろの光景を、もう振り返らなかった。
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
「私、私の名前はね……名前はね――」
……あれ、私の名前って、なんだっけ?
私、今まで誰といたんだっけ……?
《私》って、誰だっけ――?
*****
眠ったままのリツを腕に抱き、彼女の手をそっと握る。彼女の手の中に大切に抱えられていた海竜珠は、青い粒子になって、さらさらと暗闇に消えていった。
それを皮切りに、花園に咲いていた牡丹の花も一挙に崩れ始める。開ききった軸から重力に従って、花びらが一枚、また一枚と落ちる。ほろほろ落ちた花びらは、闇に吸い込まれて溶けていった。
――崩壊の合図だった。灯堂リツという一人の人間を形作っていた譚の世界。それが今まさに、崩壊し始めているのだ。
おれはもう、この胸の内をどう表現したらいいのか分からない。心の中にいるもう一人の自分が、食い荒らされて、もみくちゃにされて、挽き潰されて、跡形もなく壊されたような気がした。
当事者のリツは、果たしてどんな心境だったのだろう。きっと、想像がつかないほどに荒れ果てていたのだろう。こんな清廉な世界の中に閉じこもっていなければ、やっていられないところまで来ていたことは間違いない。
おれは腕に抱いた彼女の髪を撫でながら、彼女に額を合わせて祈る。
「リツ……もういいんだ。あんたは解放されていいんだ」
大勢の命を奪ってしまった彼女に――少なからず罪を背負ってしまった彼女に、こんなことは許されないのかもしれない。それでも、おれは……彼女が救われるようにと願わずにはいられなかった。
家族を奪われ、日常を壊され、憎しみを抱くことで凌ごうとした。その憎しみさえ愛する父親に利用されて、愛する姉を手にかけてしまった。こんなに重いものを、どうして一人の人間が抱えていられようか。
「今までよく頑張ったな。もう、なにも思い出さなくていいから。苦しかったことも、悲しかったことも、ぜーんぶ忘れちまおうな……」
死の解放を願った彼女が、せめてもう一度だけ幸せに生きられるように、おれは祈りを込める。
どんなに彼女が死を望んでいようと、それが精神的であろうと肉体的であろうと、死なせるわけにはいかなかった。――もちろん、おれのエゴであることは分かっているが、彼女の譚を横からねじ曲げてでも、そこだけは譲れなかった。
海竜珠の粒子がすべて溶けて消えると、抱いていたリツの体も、ついに端から徐々に崩れ始めた。彼女は柔く薄い、紅色の牡丹の花びらに姿を変えていく。
どうかこれで、解放されてくれ。二度と、思い出してしまわないように。二度と、地獄を見ないように。
「リツ……っ!」
彼女の苦しみに満ちた記憶を消すということは、ここまで育んできたおれと彼女の思い出も破棄するということに他ならない。おれもまた、彼女の苦しい思い出の一端となってしまったのだから、当然の報いだった。
それでも、やはり思ってしまう。もしかしたら、自分のことだけ、都合よく覚えていてはくれないだろうか、と──。
「リツ……リツ……」
何度も愛しい名を口にする。しゃくり上げる声で、祈り届けるように。彼女の幸せを願っておきながら、未練がましいと思うけれど。それでも。どうか少しでも、彼女の中に残ってくれはしないか。なにか、彼女の譚のどこかに、引っかかってはくれないだろうか。
「――、――」
「!」
不意に、彼女の口から、微かに息の流れを感じた。
合わせていた額を離せば、リツの瞳が微かに開いていた。
彼女はおれを見ながら、しきりに唇を動かして、何かを伝えようとしている。
息が漏れるばかりで声になっていない言葉を、おれはどうにか読み取ろうとする。
「――ないで――かないで――なかないで――おにいちゃ――」
繰り返し、彼女が言う。
ぼろぼろに傷ついた心で、けなげに笑いながら。
「なかないで――なかないで―― ……――あいしてる」
「リ、ツ……っ!」
愛の言葉を最後に、リツは微笑むように目を閉じる。
たまらなくなって抱きしめた途端、リツの体が形を失い、おれの腕をすり抜ける。
無数の牡丹の花びらに姿を変え、舞い上がり、闇に溶けていく。
どんなに抱き寄せようとしても、腕の中にはひと欠片も、温もりさえも残らなかった。
あたりの牡丹も、すべて崩れ落ちたようだった。残されていたのは、東屋で膝をついているおれだけだ。
――やっと、彼女は……全ての重みから解放されたのだ。
「……ったく、これじゃ、どっちが救われたんだか……」
辛うじて手の中に残ったひとひらを握りしめて、そっと唇をあてがう。せめて、彼女に届いてくれと。
「おれもだよ。おれも、あんたを愛してる」
言葉を添えた最後の花びらは、おれの手の中ですうっと溶けて、消えていった。
藤が照らす暗闇の世界には、以前とは少し異なる風景があった。藤次が導いた先には、淡く光る木造のアーチ橋がある。白く塗られた橋は、藤の灯りも届かない暗闇の先まで続いていた。
「いいか、絶対に振り返るんじゃねえぞ。一度でもためらえば、二度とお姫さんの夢には行けなくなっちまうからな」
藤次に背中を押され、おれは橋の敷板に足を乗せた。きし、きし、と敷板が音を立てるのに合わせて、おれの心臓もびくん、びくん、と拍動する。
背中に感じていた藤次の気配も、次第に遠くなっていく。気づけばおれは一人、橋をただひたすら渡っていた。
長い長い道のりだ――アーチ橋の緩やかな坂を登っては下り、登っては下りを繰り返す。十回くらいは繰り返して、ようやく橋の果てがぼんやりと見えてきた。
(あれは……花?)
闇を再び照らしていたのは、ひときわ美しく咲く牡丹の花の群れだった。白に赤に紫に、濃紅に薄紅と、様々な濃淡の牡丹だけで埋め尽くされている空間は、まさに夜の花園である。
以前、リツは牡丹の絵を見ながら「世助みたい」だと言ってくれたが、彼女の夢にこうして現れているのを見ると、やはり牡丹はリツにこそ似合う花なのだと思う。
ふわふわと柔く薄い花びらが幾重にも広がる様を見ていると、頭にはドレス姿の淑女が思い浮かぶ。リツがこんなドレスを着れば、きっとどんなに良い家柄の貴婦人にも負けない、美しい立ち姿になるだろう。
牡丹が咲き乱れる花園を進んでいると、その中心にぽつんと建っている一軒の東屋を見つけた。屋根も柱も真っ白に塗られた東屋の中に入れば、リツはその床で、色とりどりの牡丹の花に囲まれながら、静かに眠っていた。
リツは赤紫に染めた薄布をふんだんに重ねたドレスを纏っている。広がった布地がちょうど、大輪の牡丹の花のようだった。
やっぱり、この人はとびきりの美女だ。神様とやらが丹精込めて作ったのであろう、整った造形だった。唇に赤い紅を挿して眠っている彼女は、生身の人間というより、等身大の人形だった。
「リツ……」
近づいて見ると、彼女が両手で包むように何かを抱いていることに気づいた。赤紫色のドレスの中ではひときわ目立つ、青い石――海竜珠だ。
これが鍵なのだろうか、と。おれは彼女が持っていた海竜珠にぴたりと手を触れる。
途端――彼女の中に巡っていた譚が、活動写真のフィルムのように漏れ出て、おれの周囲を取り囲んだ。
*****
小さい頃の記憶。私の中では、一番か二番くらいに古い記憶。それは、姉さんが浜辺で拾って集めてきた石や貝殻などを見せてもらっていた時のことだった。
「ねえ、お姉ちゃん。りっちゃん、このきれいなのがいいな」
私はその中にあったひとつの小石に惹かれたのだ。
真っ白に濁っていた石に、どうして惹かれたのか……今となってはよく分からない。ただ、当時の私にとってその石は、いっとう素敵な宝物のように見えていたのだ。生まれて初めて目にする輝きを手にして、私は心を踊らせていたのだ。
姉さんはそんな私を見て、可笑しそうに笑っていた。白く濁った、なんの面白みもない石ころなんかにはしゃいでいるのだから、当たり前だ。
「そう? こっちの桜貝とか、硝子の欠片とかのほうが綺麗じゃない?」
「んーん、これがいーい! これがいちばんきれい!」
姉さんから他のものを勧められても、私はこの石が綺麗だと、頑なに意見を曲げなかった。取り憑かれてしまったように小石を気に入った私に対して、姉さんはこう言ってくれた。
「分かった。そんなにその石が気に入ったなら、それはりっちゃんにあげる」
「いいの!?」
「うん。でも大事にするんだよ。ポイ捨ては厳禁だからね」
「はぁい! やったやったぁ!」
私は姉さんから思いがけないプレゼントをもらって、それがまた嬉しくて、転びそうになるほどぴょんぴょん飛び跳ねていた。
「お父さん、みてー! これ、お姉ちゃんからもらったんだよ。きれいでしょ?」
姉さんからもらった宝物をさっそく自慢するために、私は父さんに見せに行った。父さんはその時、部屋で何かを書いていたけれど、私がやってくるとわざわざ手を止めて見てくれた。
「おお、リツ。それはなんだい?」
手を伸ばしてきた父さんに石を渡すと、その石を撫でたり、傾けたりしながらじっくりと観察していた。父さんは手に取ったものはなんでも観察する。研究者だからなのか、いつもやってしまう癖のようだった。
「ほうほう、これは珍しいね。波に運ばれてやってきたのかな。すごい偶然だな」
父さんはふむふむと感心しながら石を眺めた後、私に石を返しながらこう言った。
「リツ、お前には審美眼があるようだね。これは特別な石なんだよ」
「しんびがん? ってなぁに?」
「綺麗なものや美しいものを見出す目のことだよ。お前には見た目にとらわれない、素敵なものを見つける力が備わっているらしい」
「そうなの?」
「そうだとも。その石はお母さんにお願いして、首飾りにでもしてもらったらどうかな。毎日大事につけていれば、もっと輝くよ」
その時の私には、父さんの意図がよく分からなかった。けれど、父さんの言う通りにすれば、必ず面白いことが起こることも知っていた。
例えば、ただの砂粒だと思っていたものを畑にまいて、数日置いていたら芽が出てきたり。よく飛ぶ紙飛行機の作り方を教えてくれたり。父さんは子供たちに対して、色んな体験をさせてくれる人だった。
「お母さん! これ、首飾りにしてほしいなあ」
私は父さんに言われた通り、母さんに石を渡してお願いした。母さんは浜辺の貝や硝子から、素敵な首飾りや腕輪を作る名人だった。母さんが作ったものはどれも島の人達に好評で、売りに出せばあっという間に売り切れてしまうのだ。
「あら、りっちゃん。どうしたの、それ?」
「お姉ちゃんからもらったの! そしたら、お父さんがくびかざりにしてもらいなさいって!」
「どれどれ……あぁ、これはなかなかの大物が来たわね。分かったわ。お母さん、丹精込めて作るわね!」
――結論からして、父さんの言ったことは正しかった。
母さんから大きめに作ってもらったペンダントを毎日つけていたら、真っ白に濁っていたその石は、数年かけてみるみる青くなっていった。まるで海のように綺麗な宝石になったのだ。
その時は姉さんからも羨ましがられた。貸してと言われて貸したことはあるけれど、冗談で「ちょうだい」と言われても、私は絶対に首を縦に振らなかった。
*****
「わあっ! すごいねぇ、お姉ちゃん! お花がいっぱいさいてるよ!」
「でしょ? ここが一番大きな畑なんだって!」
ある日、母さんに連れられた私たち姉妹がやって来たのは、見渡す限りの牡丹畑だった。私の故郷は毎年暖かくなると、牡丹の花で溢れかえっていた。この地域では牡丹はちょっとした名物なので、牡丹にちなんだお菓子があったり、神社の手水に牡丹が浮かべられたりもしていたのだ。
「二人とも知ってる? 牡丹の花の中にはかわいい女の子が住んでいるんだよ。牡丹の花のお姫様」
母さんは私たちと手を繋いで歩きながら、こんな話をしてくれた。
「またまたぁ、お母さんてば作り譚が上手なんだもん。もう騙されないからね」
「作ってないよ、レイ。この島に伝わる伝説なんだ。牡丹のお姫様に会えた女の子は、将来素敵な旦那さんのもとへ嫁いで、幸せになれるんですって」
「ほんと!? りっちゃん、おひめさまにあいたい! お姉ちゃん、さがそ!」
「あ、ちょっと! 待ちなさいって、リツ!」
心がときめくような素敵な話を耳にし、私は興奮してあたりの牡丹の花を覗き回った。姉さんもなんだかんだ気になるようで、時々花弁をめくりながらお姫様を探していたようだ。
そんな私たち二人を見て、母さんは「あらら、二人ともあわてんぼうねえ」ところころ笑っていた。
「大丈夫よ、レイちゃんもりっちゃんもいい子だもの。お姫様は二人を見てるから、きっと二人とも幸せになれるわよ」
今思えば、母さんは本当に愛情深い人だった。私たち姉妹を平等に愛してくれたし、叱る時も少し厳しめではあったけど優しかった。
中でも私は、母さんが毎日即興でしてくれる作り譚が好きだった。牡丹のお姫様も、あとから考えれば設定がめちゃくちゃだったから、きっと母さんの作り譚だったのだろう。
けれど、私はそのお姫様の譚がなにより好きで、いっとき毎日のようにねだっていた。
*****
――夢を見ていた。
私は小さな子供になっていて、家族みんなで懐かしい夕暮れ時の家路を歩いていた。
烏の親子が巣に帰っていくなか、私はお母さんやお姉ちゃんと手を繋いでいる。お姉ちゃんの隣にはお父さんもいた。前に長く伸びた四人分の影法師が、それぞれの手からひと続きになっているのを見て、私はずいぶん浮かれていた。
足取りを弾ませながら、みんなでなにか楽しい話をしていた気がする。今日はこんなことをして遊んだとか、友達とこんな約束をしたとか。そういった感じの、ありきたりな話だ。
私がはしゃいでいると、突然、お母さんの手がするりと私から離れた。いきなり私を置いて先を歩き始めたお母さんに吃驚していると、次にお姉ちゃんの手が離れた。お父さんも一緒に離れた。
「ま、まって! まってよぉ!」
私は先を行く三人を呼び留めるけれど、何度叫んでも、誰一人、振り返ってもくれない。水中をバタバタと慌ただしくもがくように、必死に走った。けれども、追いつけない。
三人の背中は遠のいていくばかりで、怖くて、悲しくて、声がどんどん震えてくる。
「やだ、やだぁ! まってっ……あうっ!?」
足がもつれて、私は転んでしまった。それでも、誰も私に気づいてくれない。三人は私を置いて、先へ先へと行ってしまう。
三人から見捨てられてしまったような気がして、惨めな気持ちになってきて、私の目からぼろぼろと涙がこぼれた。
「いかないで……お母さん――お姉ちゃん、お父さん……!」
ずるずると汚い自分の嗚咽だけが聞こえる。
きりきりと締めあげられるような、切ない痛みが胸を襲う。
温かかった心が、急激に冷えていくのが分かる。
「やだぁ……ひとりは、やだよぉ……」
三人の後ろ姿が遠くに消えても、私は起き上がれないまま、めそめそと惨めに泣いていた。
日が沈んでいく。赤黒く染まった雲が不気味で、恐ろしい。このまま暗くなって、なにか悪いものに襲われたらどうしよう。怖くて心細くて、私はついに泣き声もあげられなくなった。
「──リツ」
ふと、誰かの声が私を呼ぶ。男の人の声だ。その人の声はお父さんのものよりも透き通っていて、若い人だと分かる。地面から顔を出したばかりの、春先の草の芽のように、その人の声は瑞々しく柔らかい。
「リツ。大丈夫か?」
声が頭上から聞こえてきて、私はぎこちなく頭をあげる。見えたのは、茶色の髪の毛をした、若い男の人だった。
男の人は私の所へやってきたかと思うと、地面に突っ伏したままの私の体を抱き上げる。赤い夕日に照らされたその顔は、泣き顔の私に向かって優しく微笑んでいた。
「お兄ちゃん、だれ……? どうして、私の名前をしってるの?」
男の人はまったく知らない顔なのに、どうしてか不安にならなかった。抱き上げられた時の熱がじんわりと伝わってきて、冷えた心がまた少しだけ温度を取り戻す。
「……会ったことがあるから」
男の人はそう言って寂しそうに笑うと、
「なんで、泣いてたんだ?」
と尋ねてきた。
――私は、幼いままの姿で、ありのままを語った。
「お母さんが、いなくなっちゃったの。そしたらどんどんおかしくなったの」
――幼い言葉で、拙い言葉で、この身で体験したことを語った。
「お父さんがね、全然笑わなくなっちゃったの。話しかけていても、ずっと怖い顔して、私のことを無視するの。何かを書いたり、本を読んだり、ずっとそればっかり。お医者さんのお仕事、忙しいのかな」
――私の父さんは、確かに研究熱心だった。けれど、忙しそうにしていても、いつも私に笑いかけてくれていた。もちろん、患者にも丁寧に接する人だった。他人で実験をするような非道な人ではなかったのだ。
「お姉ちゃんも、全然遊んでくれなくなっちゃった。一人でお部屋に閉じこもって、入ったら私を怖い顔でじっと見てくるの。最近はずぅっと本を読んでばっかりで、お話も全然してくれなくなって」
――私は、姉さんとするままごとが大好きだった。たまに喧嘩もしたけれど、結局退屈で寂しくなって、姉さんから離れられなかったっけ。ずいぶん甘えっ子で我儘な妹だったけど、それでも姉さんは私を大事にしてくれた。
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「お父さんも、お姉ちゃんも、お母さんがいなくなってから、変わっちゃったの。どうすればいいのか、分からないの」
――どうすれば二人の笑顔を取り戻せるのか、私には分からなかった。いや、私が何をしたとしても、二人を元に戻すことは不可能だったのかもしれない。
――私はただ、二人が壊れていくのを見ていることしかできなかった。擦り切れて摩耗していく二人に対して、何もできないまま見ていただけだ。
――どうしてこんなことになってしまったんだろう。私たち家族の、何が悪かったのだろう。あの時、母さんが助かっていれば、こうはなっていなかったに違いない。母さんさえ生きていれば、きっと立ち直れたに違いない。
「……お母さんは、どうして死んじゃったのかな」
――本当はわかっている。どうして、お母さんは助からなかったのか。
――全部、帝国司書隊のせいだ。あいつらが父さんを不当に扱ったから。あいつらの勝手な理屈のせいで、お母さんは見殺しにされ、私たち家族は崩壊してしまったのだ。
――だから私は、私たちを助けてくれなかった帝国司書隊を恨むことにした。私たちから普通を奪った、あの人間の屑たちを。……そうでもしなければ、私は惨めなこの気持ちに耐えることができなかったのだ。
「……そうか」
男の人はそう言うと、私をそっと抱きしめた。お父さんよりも太くて硬い腕が、くっと私を締めつける。
「寂しかったな。つらくて、悲しくて、苦しかったよな」
優しく撫でるような声が、私の胸にすとんと落ちていく。彼の掛けてくれる言葉の一つ一つが、卵のように硬い殻をすり抜けて、私の奥深くに浸透していくようだった。
「もう、一人じゃないからな。おれがずっとそばにいるから」
彼は私を腕で包み込むようにしながら、ゆっくり囁いた。
――どうしてだろう。知らない人なのに、私はこの言葉がずっと恋しかった気がするのだ。
すっかり泣き腫らした夜に食べる、甘い砂糖菓子のように……優しい言葉が柔らかく溶けて、私の体に染み込んでいく。
「お兄ちゃんは、だれ……?」
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なぜか私に寄り添ってくれる彼の名前を、知りたかった。
「おれは――あんたのことが好きだ。ただ、それだけだ」
彼は私に名乗ることもなく、ただただ真摯な目で、私を「好き」だと伝えてきた。
「……お兄ちゃん。お兄ちゃんは、どこにも行かない? このまま、一緒にいてくれる?」
「ああ。お前がそうしてほしいなら、そうする。約束だ」
私は彼にぎゅうっと抱きつく。そうすることで、彼の言葉を確かめようとした。
「泣き疲れただろ。寝ちまいな。眠って、嫌なことは全部忘れような」
「うん……」
私は彼の肩口に顔を埋めて頷いた。私を抱きかかえたまま、彼は歩き出す。沈んでしまった夕日の後を追うように。私は薄暗くなっていく後ろの光景を、もう振り返らなかった。
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
「私、私の名前はね……名前はね――」
……あれ、私の名前って、なんだっけ?
私、今まで誰といたんだっけ……?
《私》って、誰だっけ――?
*****
眠ったままのリツを腕に抱き、彼女の手をそっと握る。彼女の手の中に大切に抱えられていた海竜珠は、青い粒子になって、さらさらと暗闇に消えていった。
それを皮切りに、花園に咲いていた牡丹の花も一挙に崩れ始める。開ききった軸から重力に従って、花びらが一枚、また一枚と落ちる。ほろほろ落ちた花びらは、闇に吸い込まれて溶けていった。
――崩壊の合図だった。灯堂リツという一人の人間を形作っていた譚の世界。それが今まさに、崩壊し始めているのだ。
おれはもう、この胸の内をどう表現したらいいのか分からない。心の中にいるもう一人の自分が、食い荒らされて、もみくちゃにされて、挽き潰されて、跡形もなく壊されたような気がした。
当事者のリツは、果たしてどんな心境だったのだろう。きっと、想像がつかないほどに荒れ果てていたのだろう。こんな清廉な世界の中に閉じこもっていなければ、やっていられないところまで来ていたことは間違いない。
おれは腕に抱いた彼女の髪を撫でながら、彼女に額を合わせて祈る。
「リツ……もういいんだ。あんたは解放されていいんだ」
大勢の命を奪ってしまった彼女に――少なからず罪を背負ってしまった彼女に、こんなことは許されないのかもしれない。それでも、おれは……彼女が救われるようにと願わずにはいられなかった。
家族を奪われ、日常を壊され、憎しみを抱くことで凌ごうとした。その憎しみさえ愛する父親に利用されて、愛する姉を手にかけてしまった。こんなに重いものを、どうして一人の人間が抱えていられようか。
「今までよく頑張ったな。もう、なにも思い出さなくていいから。苦しかったことも、悲しかったことも、ぜーんぶ忘れちまおうな……」
死の解放を願った彼女が、せめてもう一度だけ幸せに生きられるように、おれは祈りを込める。
どんなに彼女が死を望んでいようと、それが精神的であろうと肉体的であろうと、死なせるわけにはいかなかった。――もちろん、おれのエゴであることは分かっているが、彼女の譚を横からねじ曲げてでも、そこだけは譲れなかった。
海竜珠の粒子がすべて溶けて消えると、抱いていたリツの体も、ついに端から徐々に崩れ始めた。彼女は柔く薄い、紅色の牡丹の花びらに姿を変えていく。
どうかこれで、解放されてくれ。二度と、思い出してしまわないように。二度と、地獄を見ないように。
「リツ……っ!」
彼女の苦しみに満ちた記憶を消すということは、ここまで育んできたおれと彼女の思い出も破棄するということに他ならない。おれもまた、彼女の苦しい思い出の一端となってしまったのだから、当然の報いだった。
それでも、やはり思ってしまう。もしかしたら、自分のことだけ、都合よく覚えていてはくれないだろうか、と──。
「リツ……リツ……」
何度も愛しい名を口にする。しゃくり上げる声で、祈り届けるように。彼女の幸せを願っておきながら、未練がましいと思うけれど。それでも。どうか少しでも、彼女の中に残ってくれはしないか。なにか、彼女の譚のどこかに、引っかかってはくれないだろうか。
「――、――」
「!」
不意に、彼女の口から、微かに息の流れを感じた。
合わせていた額を離せば、リツの瞳が微かに開いていた。
彼女はおれを見ながら、しきりに唇を動かして、何かを伝えようとしている。
息が漏れるばかりで声になっていない言葉を、おれはどうにか読み取ろうとする。
「――ないで――かないで――なかないで――おにいちゃ――」
繰り返し、彼女が言う。
ぼろぼろに傷ついた心で、けなげに笑いながら。
「なかないで――なかないで―― ……――あいしてる」
「リ、ツ……っ!」
愛の言葉を最後に、リツは微笑むように目を閉じる。
たまらなくなって抱きしめた途端、リツの体が形を失い、おれの腕をすり抜ける。
無数の牡丹の花びらに姿を変え、舞い上がり、闇に溶けていく。
どんなに抱き寄せようとしても、腕の中にはひと欠片も、温もりさえも残らなかった。
あたりの牡丹も、すべて崩れ落ちたようだった。残されていたのは、東屋で膝をついているおれだけだ。
――やっと、彼女は……全ての重みから解放されたのだ。
「……ったく、これじゃ、どっちが救われたんだか……」
辛うじて手の中に残ったひとひらを握りしめて、そっと唇をあてがう。せめて、彼女に届いてくれと。
「おれもだよ。おれも、あんたを愛してる」
言葉を添えた最後の花びらは、おれの手の中ですうっと溶けて、消えていった。
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