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1.ジーニアス・ノイティ公爵
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開け放たれた窓からそよ風が会場内に入ってくると、男女の香水の香りがあちこちを漂って、その混ざり合う匂いが鼻について、とても気分が悪かった。
グラスをぶつける音と、男女が交わす甘い言葉は、ただの雑音でしかなかった。穏やかで、柔らかい音楽を奏でる楽器の音でさえもそうだった。
ここは、パーティー会場――独身の男女のみが参加を許された、所謂お見合いパーティーが開かれたそこには、妖艶を演出して腰のラインを強調したドレスを着た女性や、華奢でふんわりとした花を飾った可愛らしさを魅せる女性と、豊満な胸を強調したドレスに身を包んだ女性が、自分の魅力を最大限に見せつけて、皆一様に男の心を虜にしようと躍起になっていた。
男性側も、己の欲情を誘う好みの女性を探すのに視線が忙しなくて、見た目もさることながら身分や財産、仕事を武器にして女性を惹きつけようと躍起になっていた。
貴族間の婚姻は、主に両親が相手を決めて婚約をし、付き合いを重ねて夫婦に至るケースがほとんどであった時代は、もう古いしきたりで、現在はお見合いが主流となっている。
恋愛を自由に楽しみたい、という若者の声が時代を重ねるごとに多くなってきたからという経緯らしい。
だが、恋愛に全く関心のない、場違いな男が一人、このパーティー会場にいた。
ジーニアスは、このお見合いパーティーというものに参加したことをひどく悔やんでいた。
一度だけでもいいから一緒に参加して欲しいと、友人たっての希望を叶えてあげようと、親切心を僅かでも抱いた己を恨んだ。
ジーニアス・ノイティ――高身長で、細身でありながら逞しい筋肉で引き締まった体をスーツの上からでも見せつける。ブルーブラックの髪に端正な顔立ち、青く冷徹な瞳で送る視線はあらゆる女性を惹きつけると、今結婚したい男ナンバーワンと噂されているノイティ公爵家の若き当主である。
外見だけではなく、身分も財産も抱える事業も多数あり、さらには戦場を勇猛な姿で駆け巡った勲章をいくつも与えられていて、申し分のない理想の結婚相手であった。
だが、そんな彼にも欠点が一つある。
それは、女性が嫌いだということ。奥手で苦手、というだけなら克服もできよう。けれどそうではなくて、女性から香る香水の匂いと自分を見つめる、あのねっとりとした視線と甘く淀んだ言葉を吐き出す紅い唇……そして、絡みつこうと伸ばしてくる手が蛇のように見えて、ジーニアスの脳裏に過去のトラウマを呼び起こす。
今もそうだ。友人と会場に姿を現すと、ほとんどの女性の視線がこちらを向いて、それからずっとあの視線を送ってくる。
お見合いパーティーに参加した時点で、妻候補を探していることを公言しているようなものなのだから、当然の視線と好意である。
女性に対してトラウマを抱えていることは、誰にも教えていない。だからこそ、公爵家当主のジーニアスに「早く妻を」という声が上がるのだ。
22年間、恋人がいたことがないジーニアスに対して、男色の気があるのではという噂もある。それを払拭しなければいけない。当主としての義務を果たすためにも。
わかっている。わかってはいるのだけど、やはり、だめだ――限界であった。
友人は、女性人気の高いジーニアスの側にいれば〈ノイティ公爵家当主の友人〉として女性からの評価を得られる。
本人と添い遂げることが無理でも、その友人の妻となればジーニアスに近付くことができると目論む、そんな女性でもいいから近付く口実が欲しいと、友人から一緒に参加して欲しいと懇願された。
なんとも自分勝手で哀れなお願いではあるけれど、そろそろジーニアスも妻候補の女性を探すフリでもしなければと考えていた最中であったので承諾した。
けれど、もう、そんなのどうでもいい。
側に来た複数の女性がジーニアスと友人を囲って、皆視線をジーニアスに向けながらぺちゃくちゃと友人と喋っている。その合間に「ノイティ公爵は……」とジーニアスに向けて声を掛ける女性に、そっけない返事と視線だけを返すのだが、そんな返事でも返してもらえたことに感激した女性がさらに声を掛け続ける。
それも、徐々に体を近付けながら。
段々と込み上げる吐き気と、眩暈を覚えさせる耳鳴りに襲われて、ジーニアスは友人に「帰る」と言い放って、その場から去った。
大股で急いで歩いて、馬車に乗り込んだ。
ノイティ家の屋敷に到着するまで、ひどく時間が長く感じたけれど、倒れまいと我慢した。弱い姿を、誰にも見せたくなかった。
会場で衣服にこびりついた香水の匂いが、気分を悪くさせる。
目を瞑ると思い出される記憶に吐き気を催して、我慢すると手が震えてきた。
そして、屋敷に着くなり自室まで一目散に駆け込んで、浴室に置いてあるバケツの中に込み上げたものを吐き出した。口の中に広がる胃酸の味が、また吐き気を催してもう一度吐いた。
苦しい、もう嫌だと、惨めな気持ちに襲われながら荒い息を吐き出して、汚れた口元を服の袖で拭き取った。
すると、香水の匂いがこびりついていたことを思い出して、すぐに着ているもの全てを脱いでバケツに放り込んだ。
それから湯浴みをして、あの場所にいた自分自身に纏わりついた淀んだ空気を洗い流した。
『今日は、特別な授業を受けてもらいます』
後継者教育の授業の日――教師として雇われた女が、14歳のジーニアスに向けてにこやかな笑みを見せて言った。
『……はい』
普段からその女教師は、ジーニアスに口調には気を付けるようにと口を酸っぱくして言っていた。自分は教師で目上の存在であるから、返事は「はい」を、私の言う事には必ず従いなさいと。
言われた通りにできないときは、ムチで背中を叩かれた。
ジーニアスは、教えられた通りに従っていた。両親も誰も、ジーニアスに無関心でいたために行われていた虐待行為であった。
ジーニアス本人は、それが間違いであることを知っていて、助けを母親に求めたのだけど、母は冷たい視線を送ってそっぽを向くだけで、助けてはくれなかった。父は、家を空けることが多くて声を掛けることすらできなかった。
いつものように、椅子に座って机の上のノートに書き記すためにペンを握って授業を受ける姿勢を見せると、女教師は「ペンを置いて、こちらに来なさい」とジーニアスに自分の前に立つように促した。
大人しく言われた通りにした。
すると、女教師と同じくらいの身長であったジーニアスの顔を両手で包んで、女教師の真っ赤な唇が、気持ちの悪い粘りのような音を立てて言葉を吐いた。
『ああ……私の、可愛い坊や』
鳥肌が立った。気持ち悪くて、逃げようと引こうとしたが、女教師に力強く顔を引っ張られると、バランスを崩して倒れてしまった。
床に頭を打ち付けた衝撃で眩暈に襲われていると、女教師が馬乗りの状態になって、すぐにジーニアスの唇に紅い唇を重ねてきた。
ぬるりと口に侵入してくる舌に、口紅と唾液が混ざった味が纏わりついて、ジーニアスの舌にそれを押し付けてくる。
首を振って、藻掻いた。女の髪を引っ張って、無理矢理引き剝がすと女は笑いながら言い放った。
『私に従いなさい、ジーニアス』
これまでの虐待から、体が覚えた恐怖に怯んだ。
女教師は「悪い子は、ご両親から嫌われるのよ」と普段からジーニアスを脅していた。だから言う事を聞かない悪い子は、すぐに報告をしますと。
ジーニアスは震えながら、抵抗を止めた。
震える体を、女の手が弄って、体のあちこちに口付けをしていく。
荒い息を吐きながら、女が口と舌で愛撫すると、ジーニアスは恐怖で呼吸を荒くした。それを聞いた女が、興奮しているのだと勘違いをして、自分の服のボタンを外して、素肌を晒して見せた。
『今日の授業は、気持ちのいいことだからよく覚えて、ね』
真っ赤な唇を舐めまわして濡らす姿が、蛇のように見えて気持ち悪かった。
このままではだめだ、いやだと、視線をあちこちに動かした。
――ふと、視界に映った。床に転がるペンが、手を伸ばせば届く場所に。
そこからは、無我夢中だった。
ペン先を女教師のどこかに刺すと、悲鳴が上がって、馬乗りだった女が退いた隙に逃げた。
母親の部屋に逃げると、驚いて悲鳴を上げた母親が助けを乞うジーニアスの姿に驚愕した。
乱れた衣服の、開けた肌のあちこちと唇についた真っ赤な口紅の痕跡。
『お前も、あの人と同じなのね! やはり血は争えないのだわ!』
そこからは、よく覚えていない。
助けて欲しかったはずなのに、母親から体罰を受けて頭から足の先まで、どこもかしこも痛くて、寒くて、震えて床に転がっていた。
微かな意識で見た母親の顔は憎悪に満ちていて「お前さえいなければ……!」と悪態をついていた。
息子に向ける顔ではないそれに、絶望したまま気を失った。
ノイティ家の唯一の後継者であるジーニアスのその姿を見た父親は激怒し、母親を公爵家から追い出した。
女教師には金を渡して口止めをして、ジーニアスには「お前が弱いからそうなったのだ」と吐き捨てた。
父親は、ジーニアスが生まれると後継者ができたことを喜んだ……のも束の間、妻である母親に興味を失くして、愛人の元に入り浸るようになった。
母親は、常日頃からジーニアスに「お前さえいなければ、あの人の愛は私の物だった」と嘆きぼやいていた。
母親がいなくなって、自分を助けてくれる大人が一人もいないことを思い知ったジーニアスは、強くなるために剣を学んだ。家に居たくなくて、自ら志願して戦場に赴いた。
女教師に襲われる、母親に悪態をつかれる……そんな悪夢を見ることはあったが、戦場には幸いなことに女性が少なくて、ジーニアスは気持ちが少しは楽であった。
そして、20歳になった年――父親が亡くなった。父親の乗った馬車が崖から転落した、不慮の事故だった。
ノイティ公爵家当主となってから、ジーニアスは自分の側に女を寄せ付けないようにと秘書に言い渡した。
部屋の掃除なども、女を一切入れることを許さなかった。視界に入ることも許さなかった。
理由は、嫌いだから。その一言だけ伝えた。
湯浴みを終えて着替えると、まだ鼻の奥に香水の匂いが残っているような気がして、気分が悪かった。
濡れたままの髪から、雫が床に滴り落ちると、ふと思い出す。
『傷ついた貴方を、放っておけない』
涙をぼろぼろと流しながら、泣いた人。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
朧げな記憶に残されたその人は、謝罪の言葉をずっと口にしながら、零れる涙をジーニアスの頬に落とした。
その記憶が呼び起こされると、ジーニアスは屋敷を出て馬に跨って走った。
向かった先は"エルフの森"――かつて、ジーニアスが命を救われたその場所に。
グラスをぶつける音と、男女が交わす甘い言葉は、ただの雑音でしかなかった。穏やかで、柔らかい音楽を奏でる楽器の音でさえもそうだった。
ここは、パーティー会場――独身の男女のみが参加を許された、所謂お見合いパーティーが開かれたそこには、妖艶を演出して腰のラインを強調したドレスを着た女性や、華奢でふんわりとした花を飾った可愛らしさを魅せる女性と、豊満な胸を強調したドレスに身を包んだ女性が、自分の魅力を最大限に見せつけて、皆一様に男の心を虜にしようと躍起になっていた。
男性側も、己の欲情を誘う好みの女性を探すのに視線が忙しなくて、見た目もさることながら身分や財産、仕事を武器にして女性を惹きつけようと躍起になっていた。
貴族間の婚姻は、主に両親が相手を決めて婚約をし、付き合いを重ねて夫婦に至るケースがほとんどであった時代は、もう古いしきたりで、現在はお見合いが主流となっている。
恋愛を自由に楽しみたい、という若者の声が時代を重ねるごとに多くなってきたからという経緯らしい。
だが、恋愛に全く関心のない、場違いな男が一人、このパーティー会場にいた。
ジーニアスは、このお見合いパーティーというものに参加したことをひどく悔やんでいた。
一度だけでもいいから一緒に参加して欲しいと、友人たっての希望を叶えてあげようと、親切心を僅かでも抱いた己を恨んだ。
ジーニアス・ノイティ――高身長で、細身でありながら逞しい筋肉で引き締まった体をスーツの上からでも見せつける。ブルーブラックの髪に端正な顔立ち、青く冷徹な瞳で送る視線はあらゆる女性を惹きつけると、今結婚したい男ナンバーワンと噂されているノイティ公爵家の若き当主である。
外見だけではなく、身分も財産も抱える事業も多数あり、さらには戦場を勇猛な姿で駆け巡った勲章をいくつも与えられていて、申し分のない理想の結婚相手であった。
だが、そんな彼にも欠点が一つある。
それは、女性が嫌いだということ。奥手で苦手、というだけなら克服もできよう。けれどそうではなくて、女性から香る香水の匂いと自分を見つめる、あのねっとりとした視線と甘く淀んだ言葉を吐き出す紅い唇……そして、絡みつこうと伸ばしてくる手が蛇のように見えて、ジーニアスの脳裏に過去のトラウマを呼び起こす。
今もそうだ。友人と会場に姿を現すと、ほとんどの女性の視線がこちらを向いて、それからずっとあの視線を送ってくる。
お見合いパーティーに参加した時点で、妻候補を探していることを公言しているようなものなのだから、当然の視線と好意である。
女性に対してトラウマを抱えていることは、誰にも教えていない。だからこそ、公爵家当主のジーニアスに「早く妻を」という声が上がるのだ。
22年間、恋人がいたことがないジーニアスに対して、男色の気があるのではという噂もある。それを払拭しなければいけない。当主としての義務を果たすためにも。
わかっている。わかってはいるのだけど、やはり、だめだ――限界であった。
友人は、女性人気の高いジーニアスの側にいれば〈ノイティ公爵家当主の友人〉として女性からの評価を得られる。
本人と添い遂げることが無理でも、その友人の妻となればジーニアスに近付くことができると目論む、そんな女性でもいいから近付く口実が欲しいと、友人から一緒に参加して欲しいと懇願された。
なんとも自分勝手で哀れなお願いではあるけれど、そろそろジーニアスも妻候補の女性を探すフリでもしなければと考えていた最中であったので承諾した。
けれど、もう、そんなのどうでもいい。
側に来た複数の女性がジーニアスと友人を囲って、皆視線をジーニアスに向けながらぺちゃくちゃと友人と喋っている。その合間に「ノイティ公爵は……」とジーニアスに向けて声を掛ける女性に、そっけない返事と視線だけを返すのだが、そんな返事でも返してもらえたことに感激した女性がさらに声を掛け続ける。
それも、徐々に体を近付けながら。
段々と込み上げる吐き気と、眩暈を覚えさせる耳鳴りに襲われて、ジーニアスは友人に「帰る」と言い放って、その場から去った。
大股で急いで歩いて、馬車に乗り込んだ。
ノイティ家の屋敷に到着するまで、ひどく時間が長く感じたけれど、倒れまいと我慢した。弱い姿を、誰にも見せたくなかった。
会場で衣服にこびりついた香水の匂いが、気分を悪くさせる。
目を瞑ると思い出される記憶に吐き気を催して、我慢すると手が震えてきた。
そして、屋敷に着くなり自室まで一目散に駆け込んで、浴室に置いてあるバケツの中に込み上げたものを吐き出した。口の中に広がる胃酸の味が、また吐き気を催してもう一度吐いた。
苦しい、もう嫌だと、惨めな気持ちに襲われながら荒い息を吐き出して、汚れた口元を服の袖で拭き取った。
すると、香水の匂いがこびりついていたことを思い出して、すぐに着ているもの全てを脱いでバケツに放り込んだ。
それから湯浴みをして、あの場所にいた自分自身に纏わりついた淀んだ空気を洗い流した。
『今日は、特別な授業を受けてもらいます』
後継者教育の授業の日――教師として雇われた女が、14歳のジーニアスに向けてにこやかな笑みを見せて言った。
『……はい』
普段からその女教師は、ジーニアスに口調には気を付けるようにと口を酸っぱくして言っていた。自分は教師で目上の存在であるから、返事は「はい」を、私の言う事には必ず従いなさいと。
言われた通りにできないときは、ムチで背中を叩かれた。
ジーニアスは、教えられた通りに従っていた。両親も誰も、ジーニアスに無関心でいたために行われていた虐待行為であった。
ジーニアス本人は、それが間違いであることを知っていて、助けを母親に求めたのだけど、母は冷たい視線を送ってそっぽを向くだけで、助けてはくれなかった。父は、家を空けることが多くて声を掛けることすらできなかった。
いつものように、椅子に座って机の上のノートに書き記すためにペンを握って授業を受ける姿勢を見せると、女教師は「ペンを置いて、こちらに来なさい」とジーニアスに自分の前に立つように促した。
大人しく言われた通りにした。
すると、女教師と同じくらいの身長であったジーニアスの顔を両手で包んで、女教師の真っ赤な唇が、気持ちの悪い粘りのような音を立てて言葉を吐いた。
『ああ……私の、可愛い坊や』
鳥肌が立った。気持ち悪くて、逃げようと引こうとしたが、女教師に力強く顔を引っ張られると、バランスを崩して倒れてしまった。
床に頭を打ち付けた衝撃で眩暈に襲われていると、女教師が馬乗りの状態になって、すぐにジーニアスの唇に紅い唇を重ねてきた。
ぬるりと口に侵入してくる舌に、口紅と唾液が混ざった味が纏わりついて、ジーニアスの舌にそれを押し付けてくる。
首を振って、藻掻いた。女の髪を引っ張って、無理矢理引き剝がすと女は笑いながら言い放った。
『私に従いなさい、ジーニアス』
これまでの虐待から、体が覚えた恐怖に怯んだ。
女教師は「悪い子は、ご両親から嫌われるのよ」と普段からジーニアスを脅していた。だから言う事を聞かない悪い子は、すぐに報告をしますと。
ジーニアスは震えながら、抵抗を止めた。
震える体を、女の手が弄って、体のあちこちに口付けをしていく。
荒い息を吐きながら、女が口と舌で愛撫すると、ジーニアスは恐怖で呼吸を荒くした。それを聞いた女が、興奮しているのだと勘違いをして、自分の服のボタンを外して、素肌を晒して見せた。
『今日の授業は、気持ちのいいことだからよく覚えて、ね』
真っ赤な唇を舐めまわして濡らす姿が、蛇のように見えて気持ち悪かった。
このままではだめだ、いやだと、視線をあちこちに動かした。
――ふと、視界に映った。床に転がるペンが、手を伸ばせば届く場所に。
そこからは、無我夢中だった。
ペン先を女教師のどこかに刺すと、悲鳴が上がって、馬乗りだった女が退いた隙に逃げた。
母親の部屋に逃げると、驚いて悲鳴を上げた母親が助けを乞うジーニアスの姿に驚愕した。
乱れた衣服の、開けた肌のあちこちと唇についた真っ赤な口紅の痕跡。
『お前も、あの人と同じなのね! やはり血は争えないのだわ!』
そこからは、よく覚えていない。
助けて欲しかったはずなのに、母親から体罰を受けて頭から足の先まで、どこもかしこも痛くて、寒くて、震えて床に転がっていた。
微かな意識で見た母親の顔は憎悪に満ちていて「お前さえいなければ……!」と悪態をついていた。
息子に向ける顔ではないそれに、絶望したまま気を失った。
ノイティ家の唯一の後継者であるジーニアスのその姿を見た父親は激怒し、母親を公爵家から追い出した。
女教師には金を渡して口止めをして、ジーニアスには「お前が弱いからそうなったのだ」と吐き捨てた。
父親は、ジーニアスが生まれると後継者ができたことを喜んだ……のも束の間、妻である母親に興味を失くして、愛人の元に入り浸るようになった。
母親は、常日頃からジーニアスに「お前さえいなければ、あの人の愛は私の物だった」と嘆きぼやいていた。
母親がいなくなって、自分を助けてくれる大人が一人もいないことを思い知ったジーニアスは、強くなるために剣を学んだ。家に居たくなくて、自ら志願して戦場に赴いた。
女教師に襲われる、母親に悪態をつかれる……そんな悪夢を見ることはあったが、戦場には幸いなことに女性が少なくて、ジーニアスは気持ちが少しは楽であった。
そして、20歳になった年――父親が亡くなった。父親の乗った馬車が崖から転落した、不慮の事故だった。
ノイティ公爵家当主となってから、ジーニアスは自分の側に女を寄せ付けないようにと秘書に言い渡した。
部屋の掃除なども、女を一切入れることを許さなかった。視界に入ることも許さなかった。
理由は、嫌いだから。その一言だけ伝えた。
湯浴みを終えて着替えると、まだ鼻の奥に香水の匂いが残っているような気がして、気分が悪かった。
濡れたままの髪から、雫が床に滴り落ちると、ふと思い出す。
『傷ついた貴方を、放っておけない』
涙をぼろぼろと流しながら、泣いた人。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
朧げな記憶に残されたその人は、謝罪の言葉をずっと口にしながら、零れる涙をジーニアスの頬に落とした。
その記憶が呼び起こされると、ジーニアスは屋敷を出て馬に跨って走った。
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