【R18】さようなら、元旦那様。

あまやどんぐり

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23.動き出した歯車(下)

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 アレクシスが病院に運び込まれてきたときから、彼の姿を見た従兄は、彼がアレクシス・ヴィガードであるとすぐに分かった。
 バンズ公爵家と敵対関係にある家門の次期公爵の姿は、社交界で知らない者はいないほど有名であるし、自分の目で何度も見たことがあったから。

 治療室で処置を済ませると、従兄はアレクシスを院内で一番大きい個室に入院させた。その部屋のある階は、入院患者が少なくて、人目につきにくいからという理由で。
 敵対している家門の公子がここに運び込まれて治療を受けたと騒ぎになれば、元婚約者でもある彼とミラが、スキャンダルの餌食にもなりかねないと懸念してそうしたのだという。

 従兄の賢明な判断に、ミラはさすがお兄様だと褒め称えて、自分のためを思ってくれたことに感謝をして微笑みを向けると、院長室を後にした。

 薬を詰めたカバンを持って、ミラは一人でアレクシスのいる病室の前に立ち止まった。
 緊張から、心臓が早鐘を打って耳にまで響いてうるさかった。
 婚約期間中も、彼に忘却の薬を飲ませるときも、その後のベッドの上での行為の最中も、ここまで鼓動がうるさいと感じたことはなかった。

 彼に会える喜びからの緊張であれば、まだ良かった。
 だけど、違う。あの頃のように、自分の気持ちを隠すことができるのかと不安から来る緊張だった。

 しかし、ミラがここに来た目的は薬剤師としての役割を果たすためで、彼はあくまでも患者である。

 何を隠す必要があるのか――いつも通りの、薬剤師としての仕事をこなせばいいだけだと、ミラは深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、ドアをノックしてから開けた。

「失礼します……小公爵様」

 ドアを開けると、まだ昼間の時間なので窓が開け放されていて、そこから入ってくる風がミラの頬を撫でて出迎えてくれた。

 一番大きい個室と言っても、屋敷やホテルとは違って広くはない空間の窓際に設置されたベッドの上に、懐かしい人がいた。
 背中を怪我していると聞いたから、固いベッドの上でまっすぐに横たわることができない彼は、大きなクッションに背中を預けて上半身を起こした状態で、そこに存在していた。

 布団からはみ出した両足と右腕は、骨折をしたためにギプスをはめられていて、左腕と胸から腰にかけての胴体には包帯が巻かれている。
 見るからに大怪我をしている彼だったが、不思議なことに頭から首にかけては無事であったようで、かつてミラが好んで眺めていた顔は相変わらずのままだった。

 柔らかそうな金髪とワインレッドの瞳が、アレクシス・ヴィガードである彼の特徴そのままで、こちらを見ない彼の横顔もあのときから変わらない、馴染みのある姿だった。

「……小公爵様」

 近づいて声をかけてみたけれど、ミラの小さい声は空気に消えるだけだった。
 アレクシスは、目を開けて意識はあるようだが、宙を見つめているだけで、従兄が話したように放心状態であることが分かると、心配になった。

 もう一度、声をかけてみようと思ったその時、不意に思い出された。

『名前……呼んで』

 彼が、初めてミラに求めた願い。最後でもあった、願いの言葉。
 あのときの、彼の微笑みが、なぜか思い浮かんだ。

「アレク……さん」

 呼び捨てではなれなれしいかと気付いて、さん、の部分を後付けすると、声がか細くなってしまった。

 しかし、名を呼んだ声が二人きりの空間で静かに響くと、呼ばれたアレクシスの顔がゆっくりと動いて、ミラを視界に捉えると、彼は無表情のまま、じっとミラを見つめた。

(反応してくれた……?)

 名前に反応したのか、それとも声に反応したのか曖昧だけれど、こちらを向いてくれたアレクシスに、ミラはもう一度声をかけた。

「アレクさん……?」

 声が出せないようだから、彼の瞳の動きを注視していた。
 すると、その彼の目から突然、涙が零れた。

「!……え、や、なんで……?」

 アレクシスの目から止めどなく流れる涙が、ぼろぼろと零れて彼の頬を濡らしているのに、そんなこと気にもしないでアレクシスはミラを見つめたままで微動だにしなかった。どうやら、泣いていることを自覚していないようだった。

「やだ……なんで……」

 感情を表に出さない彼が、初めて見せる顔に、どうしたらいいのかと戸惑い、混乱してミラはとっさにアレクシスの涙で濡れてしまう包帯や寝具のことを心配して、素手で流れる涙を堰き止めようと、アレクシスの頬を両手で包んだ。

 ところが、ミラの手がその涙で濡れるばかりで、止めることができないことを知ると、ミラは白衣のポケットからハンカチを取り出して、そこに涙を吸わせることにした。

 アレクシスは、涙で濡らしたままの目を瞑ると、ミラの手のひらに頬をすり寄せた。
 その仕草が、これまで見てきた患者の子供の姿と重なって見えた。痛いと訴えて、泣きながら甘える幼い子供のように、小さく震えて弱々しい彼の姿に、胸が切なくなった。

「……痛いの?」

 まるで子供に問いかけるときのような声で、優しい言葉が勝手に口をついて出た。

 声の出ないアレクシスは、その問いに小さくうなずいた。
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