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29.相/愛(アイ)、対する〈5〉
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* * *
アレクシスのわがままな要望のおかげで、朝食と呼ぶには少し遅い食事を取ることになったけど、ミラはそれに対して文句を言うことなく一緒に付き合ってくれた。
さらには、彼女の手から食べさせてくれるという特別待遇付きで、アレクシスは卑怯にも、記憶をなくしたフリをすることにして良かったと満悦の表情を隠せなかった。
以前のアレクシスとは違う表情を見せると、ミラは戸惑いながらも接してくれた。無言の言葉を交わしていたあの頃の二人とは違って、声をたくさん聞かせてくれる。それだけでも、アレクシスは喜びに満ちていた。
そうであるのに、苦手な食べ物を交換しようという提案をし出したミラの言葉に、アレクシスは思いがけない喜びの追撃を受けて、たまらなくなった。
苦手なものでも、静かに体に取り込まなければいけないと教育を受けてきた。むしろ、苦手なものから先に食しなさいとまで言われてきた。
できれば口に入れたくないと思うほど苦手であっても、我慢をしないといけないことに、アレクシスは忠実に従ってきた。
ミラが嫌いなものはあるのかと質問を投げかけてくると、素直に答えた。同じ公爵家の身分で育った彼女なら、同じように教育を受けてきただろうから、先にそれを食しなさいと口に運ばれると覚悟をしていた。
ところが、予想に反した言葉が返ってくると、アレクシスは戸惑った。どういうことかと彼女の様子をうかがっていると、思いがけない提案を受けた。
交換するなんて、そんな発想アレクシスにはなかった。
誰かと何かを分かち合うという行為も、どの場面でもしたことなかった。公爵家の後継者は、自分一人だけ。家門の責任を背負うべき者として、その重圧に一人で耐えなければいけなかった。
過去の少女が解してくれた心を、現在の彼女が温もりで満たしてくれる。
相変わらず、無邪気な姿を見せる紅茶色の髪の人が、可愛くて、愛しくて、我慢ならなかった。
体が不自由でなければ、抱き締めてしまいたい衝動と、くすぐられているように込み上げてくる笑いと、襲ってくる体中の痛みとで、アレクシスの思考は忙しかった。
そんなアレクシスを、ミラは訝しげに見つめていた。
そこにいる彼女は、かつて微笑みで本音を隠していた彼女ではなくて、色んな表情を見せてくれる。
アレクシスは、この瞬間の何もかもが愛しくて、幸せに満ちた時間がいつまでも続いてほしいと切に願った。
調子の良かった体調が崩れるのは、一瞬だった。
その日の夜、アレクシスは高熱に苦しめられた。
夕刻から、体が怠く感じ、食事のほとんどを残した。ミラの手を煩わせてしまって申し訳ない気持ちがあるので、できればその厚意を受け取りたかったのだけど、無理だった。
アレクシスの不調に気付いたミラは、すぐに従兄に知らせに走って、病室に人が数人集まると騒々しくなった。
「応急処置はしたけど、熱が引くまでは予断を許さない状態だから……」
熱で意識が朦朧としていると、ミラの従兄の言葉と、その指示に従う看護師の声が聞こえてきた。
(ミラは……どこにいるんだ……)
ミラの声が聞こえないことに、不安が募った。
目を開けて彼女を探したいのに、瞼が重く感じ意識が闇に引っ張られて、終わりの見えない微睡みの世界に囚われた。
夢なのか、現実なのかわからない境界線を意識がうろうろと彷徨っていた。
家門を背負う重さを説く両親の声が聞こえる。
幼い弟が無邪気に駆け回って、兄である自分に笑顔を向ける。
アレクシスの婚約者候補だと言われて、書面を机に広げられた過去。
思い出したくもない気色の悪い女の映像が流れると、吐き気がした。
(ミラは……?)
めまいを覚えるほど、意識がぐるぐると回っている感覚に襲われている中でも、彼女の存在を探した。
記憶は残っている。なのに、現れてくれないミラの記憶。
望まない焦燥感が降ってくると、恐怖の波が押し寄せた。
(ミラ……!)
声に出せない叫びを上げると、景色が変わった。
霧で隠れた世界が目の前にあって、その先に彼女がいるような気がした。だけど、手を伸ばそうとすると、体が動かない。足も、その場から動くことができなかった。
(……なんで)
もどかしく思っていると、冷たい雨がアレクシスの頬に落ちた。
空を見上げようとした仕草が、意識を引き上げる。
「……大丈夫」
耳に心地よく聞こえる声が、求めていた声だと、すぐに気付いた。
ミラが冷たい水で湿らせたハンカチをアレクシスの熱くなった首や額に当てて、冷やしてくれていた。
「つらいだろうけど、大丈夫よ」
アレクシスは、腕を動かすことはできないけど、手の指は動かせるし、感触もわかる。
その左手を、ミラの手が握ってくれていた。
体が弱ると、心も弱くなる。彼女の温もりが弱ったアレクシスを慰めてくれている。
アレクシスの両親も、幼いときに体調を崩すと、傍にいてくれた。
夢の中では一人にされても、傍に誰かがいてくれるだけで、不思議と大丈夫な気になれた。
そんな懐かしい過去を思い出しながら、ミラの存在を左手から感じると、アレクシスは彼女がいかに自分にとって、かけがえのない人であるかを思い知った。
(……ごめん)
いつも、その言葉が出ないまま、彼女に傲慢な自分を押し付けた。
(わがままを言って、君を困らせて……ごめん)
食べさせてほしいとせがんだくせに、夕食を残したことを怒っているのではないかと心配になった。
(悲しませて、ごめん)
微笑みで本心を隠さなければいけないほど、彼女を追い込んだ。
(傷つけてごめん……)
アレクシスの記憶から自分を消してまで、関係を断ち切る行為に及んだ彼女の思いに気付いてあげられなかった。
ミラが苦しんでいるときに、アレクシスは何もしてあげられなかった。
自分はそうであったのに、彼女は、アレクシスがつらい状況にいる今、懸命に寄り添ってくれている。
(ごめん……ミラ……ごめん)
過ちだらけだった、昔の自分に後悔しかない。
謝っても、許されないだろう。それでも、謝らないといけないと、声に出そうとしても吐息に変わるだけだった。
それが、ミラには苦しんでいるように見えたようで、彼女は握る手に少し力を込めて、アレクシスの髪を優しく撫でてくれた。
「大丈夫……大丈夫よ」
優しく響く澄んだ声が、心地よい子守唄に変わると、アレクシスの意識が夢の中に誘われる。
(……ミラ)
夢の中に、君はいないのに――。
眠りたくない。だけど、意識を引っ張る力に抗えなくて、段々と眠りの中に落ちていく。
(君のことを諦められなくて……ごめん)
いつまでも、どこにいても彼女を探す。みっともない姿しか見せない自分が情けなく思うけど、どうしても、心が彼女を求めてしまう。
すがりついてでも、彼女が欲しいと願う。
いつか、彼女に伝えたいと願っている言葉を吐けずに、アレクシスは暗い底に沈んでいった。
アレクシスのわがままな要望のおかげで、朝食と呼ぶには少し遅い食事を取ることになったけど、ミラはそれに対して文句を言うことなく一緒に付き合ってくれた。
さらには、彼女の手から食べさせてくれるという特別待遇付きで、アレクシスは卑怯にも、記憶をなくしたフリをすることにして良かったと満悦の表情を隠せなかった。
以前のアレクシスとは違う表情を見せると、ミラは戸惑いながらも接してくれた。無言の言葉を交わしていたあの頃の二人とは違って、声をたくさん聞かせてくれる。それだけでも、アレクシスは喜びに満ちていた。
そうであるのに、苦手な食べ物を交換しようという提案をし出したミラの言葉に、アレクシスは思いがけない喜びの追撃を受けて、たまらなくなった。
苦手なものでも、静かに体に取り込まなければいけないと教育を受けてきた。むしろ、苦手なものから先に食しなさいとまで言われてきた。
できれば口に入れたくないと思うほど苦手であっても、我慢をしないといけないことに、アレクシスは忠実に従ってきた。
ミラが嫌いなものはあるのかと質問を投げかけてくると、素直に答えた。同じ公爵家の身分で育った彼女なら、同じように教育を受けてきただろうから、先にそれを食しなさいと口に運ばれると覚悟をしていた。
ところが、予想に反した言葉が返ってくると、アレクシスは戸惑った。どういうことかと彼女の様子をうかがっていると、思いがけない提案を受けた。
交換するなんて、そんな発想アレクシスにはなかった。
誰かと何かを分かち合うという行為も、どの場面でもしたことなかった。公爵家の後継者は、自分一人だけ。家門の責任を背負うべき者として、その重圧に一人で耐えなければいけなかった。
過去の少女が解してくれた心を、現在の彼女が温もりで満たしてくれる。
相変わらず、無邪気な姿を見せる紅茶色の髪の人が、可愛くて、愛しくて、我慢ならなかった。
体が不自由でなければ、抱き締めてしまいたい衝動と、くすぐられているように込み上げてくる笑いと、襲ってくる体中の痛みとで、アレクシスの思考は忙しかった。
そんなアレクシスを、ミラは訝しげに見つめていた。
そこにいる彼女は、かつて微笑みで本音を隠していた彼女ではなくて、色んな表情を見せてくれる。
アレクシスは、この瞬間の何もかもが愛しくて、幸せに満ちた時間がいつまでも続いてほしいと切に願った。
調子の良かった体調が崩れるのは、一瞬だった。
その日の夜、アレクシスは高熱に苦しめられた。
夕刻から、体が怠く感じ、食事のほとんどを残した。ミラの手を煩わせてしまって申し訳ない気持ちがあるので、できればその厚意を受け取りたかったのだけど、無理だった。
アレクシスの不調に気付いたミラは、すぐに従兄に知らせに走って、病室に人が数人集まると騒々しくなった。
「応急処置はしたけど、熱が引くまでは予断を許さない状態だから……」
熱で意識が朦朧としていると、ミラの従兄の言葉と、その指示に従う看護師の声が聞こえてきた。
(ミラは……どこにいるんだ……)
ミラの声が聞こえないことに、不安が募った。
目を開けて彼女を探したいのに、瞼が重く感じ意識が闇に引っ張られて、終わりの見えない微睡みの世界に囚われた。
夢なのか、現実なのかわからない境界線を意識がうろうろと彷徨っていた。
家門を背負う重さを説く両親の声が聞こえる。
幼い弟が無邪気に駆け回って、兄である自分に笑顔を向ける。
アレクシスの婚約者候補だと言われて、書面を机に広げられた過去。
思い出したくもない気色の悪い女の映像が流れると、吐き気がした。
(ミラは……?)
めまいを覚えるほど、意識がぐるぐると回っている感覚に襲われている中でも、彼女の存在を探した。
記憶は残っている。なのに、現れてくれないミラの記憶。
望まない焦燥感が降ってくると、恐怖の波が押し寄せた。
(ミラ……!)
声に出せない叫びを上げると、景色が変わった。
霧で隠れた世界が目の前にあって、その先に彼女がいるような気がした。だけど、手を伸ばそうとすると、体が動かない。足も、その場から動くことができなかった。
(……なんで)
もどかしく思っていると、冷たい雨がアレクシスの頬に落ちた。
空を見上げようとした仕草が、意識を引き上げる。
「……大丈夫」
耳に心地よく聞こえる声が、求めていた声だと、すぐに気付いた。
ミラが冷たい水で湿らせたハンカチをアレクシスの熱くなった首や額に当てて、冷やしてくれていた。
「つらいだろうけど、大丈夫よ」
アレクシスは、腕を動かすことはできないけど、手の指は動かせるし、感触もわかる。
その左手を、ミラの手が握ってくれていた。
体が弱ると、心も弱くなる。彼女の温もりが弱ったアレクシスを慰めてくれている。
アレクシスの両親も、幼いときに体調を崩すと、傍にいてくれた。
夢の中では一人にされても、傍に誰かがいてくれるだけで、不思議と大丈夫な気になれた。
そんな懐かしい過去を思い出しながら、ミラの存在を左手から感じると、アレクシスは彼女がいかに自分にとって、かけがえのない人であるかを思い知った。
(……ごめん)
いつも、その言葉が出ないまま、彼女に傲慢な自分を押し付けた。
(わがままを言って、君を困らせて……ごめん)
食べさせてほしいとせがんだくせに、夕食を残したことを怒っているのではないかと心配になった。
(悲しませて、ごめん)
微笑みで本心を隠さなければいけないほど、彼女を追い込んだ。
(傷つけてごめん……)
アレクシスの記憶から自分を消してまで、関係を断ち切る行為に及んだ彼女の思いに気付いてあげられなかった。
ミラが苦しんでいるときに、アレクシスは何もしてあげられなかった。
自分はそうであったのに、彼女は、アレクシスがつらい状況にいる今、懸命に寄り添ってくれている。
(ごめん……ミラ……ごめん)
過ちだらけだった、昔の自分に後悔しかない。
謝っても、許されないだろう。それでも、謝らないといけないと、声に出そうとしても吐息に変わるだけだった。
それが、ミラには苦しんでいるように見えたようで、彼女は握る手に少し力を込めて、アレクシスの髪を優しく撫でてくれた。
「大丈夫……大丈夫よ」
優しく響く澄んだ声が、心地よい子守唄に変わると、アレクシスの意識が夢の中に誘われる。
(……ミラ)
夢の中に、君はいないのに――。
眠りたくない。だけど、意識を引っ張る力に抗えなくて、段々と眠りの中に落ちていく。
(君のことを諦められなくて……ごめん)
いつまでも、どこにいても彼女を探す。みっともない姿しか見せない自分が情けなく思うけど、どうしても、心が彼女を求めてしまう。
すがりついてでも、彼女が欲しいと願う。
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