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第1章 いざないの風
5 逃走
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今まで一歩も動く気配も見せなかった兵士たちが、いっせいに散った。よく訓練された素早い動きで、あっという間に二人を包囲する。
すぐ横に立っていたウィルが、身動きできずにいたエフィミアの腕をとらえた。だがしっかりとつかまれる寸前、エフィミアの体が後ろへと引かれた。入れ替わって前へ出た男の肘がウィルの顔面へ埋め込まれる。
ぎょっとするエフィミアの耳元で、男が囁いた。
「走れ」
「え?」
エフィミアが呟いたときには、景色が後ろへと流された。
待てと怒鳴る声も聞こえた気がしたが、確かなことは言えない。あとは、エフィミアの手を引いて走る、広い背中が見えるばかりだ。
二人は信じられない速さで走っていた。人間がこんなに速く走れるものとは、エフィミアは知らなかった。木々は瞬く間に背後へと流され、兵士たちをぐんぐん引き離す。
村にいる同世代の中でエフィミアは足が速い方だが、これほどの速く走ったことはなかった。目の前を走る男が自分よりもかなり足が速いとして、はたして手を引いてもらうだけで、こんなに速くなれるものだろうか。
疑問が胸をよぎったところで、不意に男の歩がゆるみ、エフィミアの腰に腕が回された。
「飛ぶよ」
「え、ちょっと待……」
エフィミアが身構える前に、両足は地面を離れていた。
寄り添う男に抱えられて、地面からふわりと浮くように飛び上がる。そのまま二人は、ひときわ高い木の枝に飛び乗った。それも、本当にひと飛びで、だ。
肝をつぶすエフィミアを男は抱き寄せて、枝から落ちないように支えた。
「どうなってるの、どうやったらこんな高いところ――」
なにが起きたのかを問い詰めようとしたエフィミアの口を、男は片手で覆った。
「静かに、じっとして」
囁かれて、エフィミアは大人しく男の言うとおりに黙った。
すぐに、落ち葉を踏む複数の足音が聞こえてきた。音がかなり近くなって、恐る恐る木の下を見下ろしてみる。
二人のいる木の下を、黒服の兵士がひとり走り抜けていくのが見えた。それに続くように、まばらにひとりふたりとエフィミアたちの下を走り過ぎていく。木の枝がうまく張り出して、エフィミアたちの姿を隠していたため、兵士たちが二人に気づくことはなかった。
兵士たちが行ってしまってからも、二人は用心深くじっとしていた。息をひそめている時間は、あまりに遅く長く感じられた。やがて騎竜兵たちが諦めたろう頃に、男がようやくほっと息をついた。
「もう大丈夫のようだ」
口を覆っていた手がどけられ、エフィミアはつめていた息を吐き出した。安堵感から脱力するエフィミアに、男がかすかに笑った。
「さて、ずっとこんなところにいて疲れただろう」
エフィミアは軽く首をそらして男を見た。
「こんな高いところ、降りるのに骨が折れそうね」
「心配いらない」
彼は言うなり、エフィミアを抱いたまま枝から飛び降りた。
「ええっ……」
家の屋根よりずっと高いだろう枝から、男はためらうことなく身を躍らせる。あまりのことに、エフィミアは悲鳴が喉の奥に引っ込んでしまった。
本当に骨が折れてしまうかもしれない。恐怖で目を閉じることさえできず、エフィミアは男にしがみついた。
突然、おそろしく強い突風が地上から空へと吹き上げた。その風で落下速度が急速にゆるむ。そして地に両足がついたときには、ちょっとした段差から飛び降りた程度の衝撃しかなかった。
エフィミアはぽかんとすると、ついさっきまでいただろう木の枝を見上げ、それから地面を見下ろした。
「……うそ」
エフィミアの呟きは男にも聞こえていたはずだが、体を離した彼はなにごともなかったように言った。
「怪我はないかい」
訊かれて、エフィミアはまだ少し呆然としながら答えた。
「怪我はないけど……」
「それならよかった」
男はほっとしたように言うと、非の打ちどころのない、飛びきり感じのいい笑みを浮かべた。瞬間、エフィミアの心臓が大きく鼓動し、一瞬にして彼に対するさまざまな疑問を忘れた。エフィミアは顔が熱くなるのを感じて、慌てて彼から顔をそむけた。
「ところで、君はなぜあんなところにいたんだ」
男はエフィミアのようすに気づかないふうで尋ねた。
「ええっと、薬草をとりに……って、あっ……」
エフィミアは自分で言って思い出し、今走ってきたと思われる方向を見た。
「どうしよう、籠を置いてきちゃった」
「籠って、これのことかい」
男を振り返って、エフィミアは驚いた。彼は、とても見覚えのある浅い籠を抱えていた。籠に入っているのは、薬草と、いくらかの山菜と木の実、そしてしめじがひと株。
「そう、それ! いつの間に」
「やっぱり君のものか。この近くに住んでいるのかい?」
薄く笑んで言った男を見上げ、エフィミアはまただと思った。さっきから彼は、エフィミアの問いにひとつも答えていない。全てをさりげなく受け流されてしまう――優しい笑顔に、誤魔化されてしまう。
「この山の、西のふもとにある村よ」
エフィミアが答えると、男は一瞬笑みを消し、夜へと移ろいつつある空を仰いだ。木々の合間から残照が差し、彼の白髪が真紅に染まる。
「いつの間にかずいぶん人里まできてしまったんだな……」
どこか深刻さをはらんだ男の呟きに、エフィミアは首をかしげた。だが彼はすぐにもとの笑みに戻り、こちらを見下ろした。
「村まで送ろう」
彼の申し出に、エフィミアは一瞬きょとんとしてしまった。
「でも、そこまでしてもらって迷惑じゃあ……」
「そんなことはない。夜に女性のひとり歩きは危険だ。籠はわたしが持って行こう。こんな重いもの、君のような女の子が持つものじゃあない」
彼はそう言って、籠を抱えなおした。男の人にこれだけ優しくしてもらったことのなかったエフィミアはなんとなく照れてしまい、それを隠すようにほほ笑んだ。
「なにからなにまでありがとう」
エフィミアが素直に礼を言うと、彼はにこりと笑い返した。
「気にすることはない。それでは、行こうか。真西でいいのかい?」
「ええ」
エフィミアが頷くと、男は方角を定めて前を歩き出した。
(どうしよう、すごく嬉しい)
普段よりも速い鼓動に合わせて、エフィミアは足取りも軽く、彼の横に並んで歩いた。
すぐ横に立っていたウィルが、身動きできずにいたエフィミアの腕をとらえた。だがしっかりとつかまれる寸前、エフィミアの体が後ろへと引かれた。入れ替わって前へ出た男の肘がウィルの顔面へ埋め込まれる。
ぎょっとするエフィミアの耳元で、男が囁いた。
「走れ」
「え?」
エフィミアが呟いたときには、景色が後ろへと流された。
待てと怒鳴る声も聞こえた気がしたが、確かなことは言えない。あとは、エフィミアの手を引いて走る、広い背中が見えるばかりだ。
二人は信じられない速さで走っていた。人間がこんなに速く走れるものとは、エフィミアは知らなかった。木々は瞬く間に背後へと流され、兵士たちをぐんぐん引き離す。
村にいる同世代の中でエフィミアは足が速い方だが、これほどの速く走ったことはなかった。目の前を走る男が自分よりもかなり足が速いとして、はたして手を引いてもらうだけで、こんなに速くなれるものだろうか。
疑問が胸をよぎったところで、不意に男の歩がゆるみ、エフィミアの腰に腕が回された。
「飛ぶよ」
「え、ちょっと待……」
エフィミアが身構える前に、両足は地面を離れていた。
寄り添う男に抱えられて、地面からふわりと浮くように飛び上がる。そのまま二人は、ひときわ高い木の枝に飛び乗った。それも、本当にひと飛びで、だ。
肝をつぶすエフィミアを男は抱き寄せて、枝から落ちないように支えた。
「どうなってるの、どうやったらこんな高いところ――」
なにが起きたのかを問い詰めようとしたエフィミアの口を、男は片手で覆った。
「静かに、じっとして」
囁かれて、エフィミアは大人しく男の言うとおりに黙った。
すぐに、落ち葉を踏む複数の足音が聞こえてきた。音がかなり近くなって、恐る恐る木の下を見下ろしてみる。
二人のいる木の下を、黒服の兵士がひとり走り抜けていくのが見えた。それに続くように、まばらにひとりふたりとエフィミアたちの下を走り過ぎていく。木の枝がうまく張り出して、エフィミアたちの姿を隠していたため、兵士たちが二人に気づくことはなかった。
兵士たちが行ってしまってからも、二人は用心深くじっとしていた。息をひそめている時間は、あまりに遅く長く感じられた。やがて騎竜兵たちが諦めたろう頃に、男がようやくほっと息をついた。
「もう大丈夫のようだ」
口を覆っていた手がどけられ、エフィミアはつめていた息を吐き出した。安堵感から脱力するエフィミアに、男がかすかに笑った。
「さて、ずっとこんなところにいて疲れただろう」
エフィミアは軽く首をそらして男を見た。
「こんな高いところ、降りるのに骨が折れそうね」
「心配いらない」
彼は言うなり、エフィミアを抱いたまま枝から飛び降りた。
「ええっ……」
家の屋根よりずっと高いだろう枝から、男はためらうことなく身を躍らせる。あまりのことに、エフィミアは悲鳴が喉の奥に引っ込んでしまった。
本当に骨が折れてしまうかもしれない。恐怖で目を閉じることさえできず、エフィミアは男にしがみついた。
突然、おそろしく強い突風が地上から空へと吹き上げた。その風で落下速度が急速にゆるむ。そして地に両足がついたときには、ちょっとした段差から飛び降りた程度の衝撃しかなかった。
エフィミアはぽかんとすると、ついさっきまでいただろう木の枝を見上げ、それから地面を見下ろした。
「……うそ」
エフィミアの呟きは男にも聞こえていたはずだが、体を離した彼はなにごともなかったように言った。
「怪我はないかい」
訊かれて、エフィミアはまだ少し呆然としながら答えた。
「怪我はないけど……」
「それならよかった」
男はほっとしたように言うと、非の打ちどころのない、飛びきり感じのいい笑みを浮かべた。瞬間、エフィミアの心臓が大きく鼓動し、一瞬にして彼に対するさまざまな疑問を忘れた。エフィミアは顔が熱くなるのを感じて、慌てて彼から顔をそむけた。
「ところで、君はなぜあんなところにいたんだ」
男はエフィミアのようすに気づかないふうで尋ねた。
「ええっと、薬草をとりに……って、あっ……」
エフィミアは自分で言って思い出し、今走ってきたと思われる方向を見た。
「どうしよう、籠を置いてきちゃった」
「籠って、これのことかい」
男を振り返って、エフィミアは驚いた。彼は、とても見覚えのある浅い籠を抱えていた。籠に入っているのは、薬草と、いくらかの山菜と木の実、そしてしめじがひと株。
「そう、それ! いつの間に」
「やっぱり君のものか。この近くに住んでいるのかい?」
薄く笑んで言った男を見上げ、エフィミアはまただと思った。さっきから彼は、エフィミアの問いにひとつも答えていない。全てをさりげなく受け流されてしまう――優しい笑顔に、誤魔化されてしまう。
「この山の、西のふもとにある村よ」
エフィミアが答えると、男は一瞬笑みを消し、夜へと移ろいつつある空を仰いだ。木々の合間から残照が差し、彼の白髪が真紅に染まる。
「いつの間にかずいぶん人里まできてしまったんだな……」
どこか深刻さをはらんだ男の呟きに、エフィミアは首をかしげた。だが彼はすぐにもとの笑みに戻り、こちらを見下ろした。
「村まで送ろう」
彼の申し出に、エフィミアは一瞬きょとんとしてしまった。
「でも、そこまでしてもらって迷惑じゃあ……」
「そんなことはない。夜に女性のひとり歩きは危険だ。籠はわたしが持って行こう。こんな重いもの、君のような女の子が持つものじゃあない」
彼はそう言って、籠を抱えなおした。男の人にこれだけ優しくしてもらったことのなかったエフィミアはなんとなく照れてしまい、それを隠すようにほほ笑んだ。
「なにからなにまでありがとう」
エフィミアが素直に礼を言うと、彼はにこりと笑い返した。
「気にすることはない。それでは、行こうか。真西でいいのかい?」
「ええ」
エフィミアが頷くと、男は方角を定めて前を歩き出した。
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