三人の竜は、囚われ乙女の胸に沈む ― Dragon Heart ―

入鹿なつ

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第1章 いざないの風

7 追手

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 避暑地として知られるアナトレーナ州は、季節ごとの寒暖の差が少ない過ごしやすい地域だった。辺鄙ではあったが地味は肥えており、風土柄か暮らす人の心は穏やかだ。この地を領する伯爵も穏和な人物として知られていた。

 オロデン村はアナトレーナ州の中でもなお辺鄙な土地だった。村を過ぎてしまえば、これ以上は東にいくらいこうと山野が続くばかりで、国境近くまで集落はない。

 だがその分、空気は清浄で、家畜は肥え、実りは豊かだ。村の中には澄んだ水をたたえた井戸があり、山から流れ出る清流もある。血気盛んな若者たちにとっては、なにもないつまらないところかもしれないが、穏やかに安定した暮らしを営むには申し分ない土地だった。

 母親から濡れた食器を受け取ると、エフィミアは丁寧に拭き上げて使いこまれた棚へと収めた。

 朝食をすませてそろそろどこの家も外出を始める時刻で、がまんしきれずに外へと飛び出した子供たちが、ガアガアと鳴き立てる鵞鳥がちょうを追いかけ回している。エフィミアの家も、父親は外につないである馬の世話をしに、母親とエフィミアは土間で食後のあとかたづけをしていた。

 母親がたらいに張った水で次々と食器を洗っていき、エフィミアがそれを受けとっては拭いて、食器棚へとしまっていく。母親はエフィミアに最後の食器を渡すと、よごれた水を捨てるため、たらいを抱えて勝手口から外へと出た。そしてちょうどエフィミアがかまどの上に布巾を干し終えたころで戻ってきた。

「まだやることある?」

 前かけで手をぬぐいながらエフィミアがたずねると、土間の壁にたらいを立てかけた母親はくびれのない体を起こして家の中を見回した。

「それじゃあ、かめの水を足しておいてもらえる? また使うから、甕をいっぱいにしておいて」
「分かった」

 エフィミアは土間のすみに置かれた木桶を取り上げ、村の南の外れにある井戸へと向かうために家を出た。

 村の井戸までやってきたエフィミアは、持ってきた桶をかたわらに置き、つるべを井戸の中に落とした。つるべが着水する音を聞きながら、エフィミアは自分の胸にそっと手をあてた。

 昨夜、家に帰ってからは当然のごとく、心配をさせてしまった両親に大目玉を食らったが、結局その後はなにごともなく終わった。帰りが遅くなった言い訳は――あながち間違いでもないので――ひなたぼっこをしていたら寝入ってしまったのだということにしておいた。

 昨夜寝る前と、今朝目覚めてから、エフィミアは小さな手鏡で自分の胸を確認した。そこには確かに、奇妙な形の赤い痣がくっきりと浮かんでおり、昨日のできごとが夢でないことを物語っていた。

(なんだろう、これ)

 昨日の昼間に激痛に襲われて以来、今までこれといった体の変調もなく、夜もぐっすりと眠ることができた。それでも奇妙でしかたがない。

 エフィミアは、これから自分がどうにかなってしまうのではないかという、漠然とした、恐怖に似たものを感じていた。なにもないまま終わるはずがないという、確信めいた思いもある。かといって、なにが起こるのかという予想はまったくできずにもいた。

 風でひるがえる茶色のスカートを手で押さえながら、エフィミアは答えを求めるように、誰もいない井戸端で空を仰いだ。

 視界に入る内の半分ほどを、村と隣接する山に遮られた空は、遅い夜明けで白く光っていた。それもやがて、日が高くなるとともに青へと移ろっていく。

 だが山のない開けた側――西の空を見ると広がる青は途中で途切れ、今度はどこまでも暗く低い灰色の雨雲が空を占領していた。おそらくそう経たない内にこの辺りの青空も隠れて、雨になるだろう。もしかしたら強く降るかもしれない。

 エフィミアは息を吐き出して物思いを中断すると、井戸に落としっぱなしにしていたつるべを引き上げ、くみ上げた水を持ってきた桶に移した。

(一杯だけじゃあ足りないかな)

 家と井戸とをもう一往復しなくてはと思いつつ、エフィミアはせっかくくんだ水をこぼさないよう慎重に桶を持ち上げて、もときた道を戻り始めた。

 エフィミアは水を運びながら、なにも考えずに村の中央を通っている道に出ようとした。そして視界に飛びこんできたものに驚き、慌てて民家の影に身を隠した。そのとき桶の水がわずかにこぼれて足にかかったが、そんなことは気にならなかった。

 そっと顔だけをのぞかせて今見たものを確認し、エフィミアは改めて驚愕した。

 ゆるやかに湾曲している道は、こがね色の麦畑の間を抜け、村の外まで続いている。その、ちょうど村の入口になっているあたり。昨日も見た、黒服の一団がいた。
 一団の真ん中あたりにいる、黒の帽子から赤っぽい髪をのぞかせている長身の男は、昨日相対した騎竜隊の指揮官だと思われる。

 エフィミアは顔を引っ込めると、落ち着くために何度も深呼吸をした。

(どうして、こんなところに……)

 昨日のできごとを思い出し、エフィミアは背筋にひやりとしたものを感じた。また同じことが起きるのではないかと不安になる。

 とにかく状況を把握しなければと、彼らに見つからないよう注意深く自分の家へと向かった。黒服の兵士たちが村中を歩いていて思いのほか神経を使うことになったが、民家の陰に身をひそませながら、どうにか見つかることなく家にたどり着く。それでもエフィミアは油断せず、裏口からそっと家の中へと入った。

 できるだけ音をたてないように裏口の戸を閉めたエフィミアの耳に、人の話し声が届いた。玄関にもなっている土間の方からだ。来客があったらしい。

 エフィミアは水の入った桶をその場に置くと、足音をしのばせて会話の聞こえる位置まで移動した。父親はさきほど外で見かけたので、家にはいないはずだ。

 目隠しの衝立を挟んだ向こう側から、来客に対応する母親の声が聞こえてくる。

「女の子、ですか?」
「そうだ。金茶色の長い髪に、胡桃色の目をしている、十八歳のやせた娘だ」

 聞き覚えのない男声が肯定した。客は人探しをしているらしい。

 エフィミアはおさげに結った自分の髪をつかみ、目の前にかざした。産まれたころから変わらない、金にも見える薄茶色の髪。
 今度は、さっき自分が置いた桶のところまで戻り、そこに張った水を覗きこんだ。映るのは、今まで十八年間慣れ親しみ、これからもつき合っていくことになる顔。見返す胡桃色の瞳。

 母親の戸惑いの声が、エフィミアのもとまで届いた。

「あの、それってもしかして……」
(あたしのことだ)

 エフィミアは母親の言葉を最後まで聞く前に、裏口から再び外へ出た。

「エフィ」

 戸を閉めた途端、背後から呼びかけられた。エフィミアの心臓が、口から飛び出そうなほど跳ねあがる。振り向くとそこには見慣れた幼馴染みが立っていて、エフィミアは胸を撫で下ろした。

「もう、カイルったら。驚かさないでよ」

 カイルはエフィミアの文句には耳も貸さず、真摯な面持ちで大股に歩み寄ってきた。

「どういうことなんだ」
「どうって?」

 エフィミアが訊き返すと、カイルは苛立ってため息を吐き出した。

「頼むよエフィ、誤魔化さないでくれ。なんなんだあいつらは。なんで王国軍がエフィを探してるんだ」

 エフィミアは無理があるとは思いながらも、なんとかしらばくれようと笑みを作った。

「なに言ってるのよ。別に誤魔化そうなんてしてないわよ。それに、王国軍の人たちが探しているのが、あたしだって決まったわけじゃあ――」
「この辺りで金髪の十八歳の娘っていったら、おまえぐらいしか思いつかない。金髪じゃあないなんて言い訳はなしだからな。見る人によっては金髪に見えるし、金だって言っても十分通じる色だ」
「…………」

 返す言葉もなく、エフィミアは黙り込んだ。

 確かに、この辺りの村でこんな色の髪をしているのはエフィミアぐらいだ。茶色い髪は珍しくないのだが、エフィミアの髪は同じ茶色でも色素が薄く、光の当たり方によって金髪であるように見える。
 街まで行けばどうかは分からないが、この山間の小さな村で金色の髪は珍しいと言えた。

 エフィミアが黙っていると、カイルが距離をつめてきた。

「説明してくれ。なんであいつらはエフィを探してるんだ」

 エフィミアは始め、真っ直ぐと見据えてくるカイルの目を見返していたが、少し間を置いてから目をそらした。

「説明してほしいのはあたしの方よ」

 なにに対するものか分からない怒りで感情が高ぶってくるのを必死でおさえながら、エフィミアは声をしぼり出した。

「だって、突然なんの説明もなしに王宮まで来いなんて言われて、聞けると思う? あたしがなにしたって言うのよ。ただいつもと同じように過ごしていただけなのに……」

 エフィミアは不覚にも、目頭が熱くなってきてしまった。一度話し始めてしまったら、もう不安を吐露せずにはいられなくなってしまっていた。

「もう、なにが起きたのか、全然分からないのよ。誰も、なにも説明してくれないんだもの。あたしがなんだって言うのよ。あたしは、どうしたらいいのよ」

 目の端に涙さえ浮かべたエフィミアを見て、カイルは少し慌てた。

「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだ。ただ、エフィが心配で……そういえばエフィ、どこかに出かけるところだったんじゃないのか?」

 苦しい話題転換ではあったが、エフィミアはとりあえず気をとり直して目元をぬぐった。

「ええ、出かけるところよ」

 カイルがほっとため息をついたのが聞こえたが、エフィミアは気づかないふりをした。少し作ったような明るさで、カイルは問いを重ねた。

「どこに行くところだったんだ?」
「村を出ようと思って」
「なんだって!」
「しっ、声が大きい」

 エフィミアに睨まれて、カイルは慌てて口をふさいだ。辺りを見まわし、誰もいないことを確かめてから声をひそめて話しを続けた。

「自分がなにを言っているのか分かってるのか? 冗談だろう?」
「本気よ」
「本気って、なにばかなこと言って……」
「みんなに迷惑かけられないもの」

 エフィミアはカイルの言葉を遮って言った。

「あたしだっていや。村を出るなんて、本当はいや。いやに決まってるじゃない。でも、あたしひとりのせいで皆にまでなにかあるなんて、あたしもっといやなの」
「だからって……」
「お願いカイル、あたしをこのまま行かせて。みんなを巻きこみたくないの。もちろん、あなたのことだって」

 エフィミアは決心も固く、はっきりと言った。

「エフィ……」

 カイルは黙ると、まるで泣く寸前のような表情でエフィミアを見た。どこか幼さをのぞかせるその表情にエフィミアの胸は痛んだが、決意を揺るがせるものではなかった。

「もう一度訊く……本気か?」
「うん」
「どこか、行くあてはあるのか?」

 エフィミアはぐっと表情をひきしめた。
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