三人の竜は、囚われ乙女の胸に沈む ― Dragon Heart ―

入鹿なつ

文字の大きさ
10 / 61
第2章 竜王の憂鬱

1 衰弱

しおりを挟む
 かすかな水の音を聞いた気がして、エフィミアはゆるゆると目蓋を開いた。

 目に入ったのは、滑らかな灰褐色の天井だった。そこに橙色の光が濃淡の円を描き出し、ゆらめいている。瞳だけを動かして周囲を見れば、たたずむ影のように並ぶ調度が視界に入り、ここが灰色の壁に囲われた部屋であることが窺えた。

 少しずつ意識がはっきりしてくるのに合わせて、ここはどこだろうという疑問が、エフィミアの中でゆるやかに浮かんだときだった。突如、視界が見知らぬ少女が顔で占領された。驚いたエフィミアの意識が一気に浮上する。

 年齢は十を少し過ぎているだろうか。少女はエフィミアの顔の脇に両手をつき、大きな黄色い瞳でエフィミアの表情を覗き込んでいた。

 エフィミアが呆然と見返していると、少女は深緑の前髪をゆらして、幼く不機嫌な声を出した。

「やーっと起きた。いつまで経っても起きないから、どっかにほっぽってきてやろうかと思ったわよ。ちょっとそのまま待っていて。今ナッちゃんに知らせてくるから」

 少女は責めるような早口で言い、現れたときと同じ速さで視界から消えた。エフィミアが反応する間もなく、とことこという足音が離れていく。

 扉を開閉する音でエフィミアはやっと我に返って、よく動かない体をゆっくりと起こした。たったそれだけの動きなのに、節々が痛み、思いのほか体力を使った。

 体を起こして初めて、エフィミアは自分がベッドに寝かされていたことに気づいた。広いベッドに敷かれた寝具は肌触りのよい木綿で、綿が厚く詰められている。見れば、服までもが白い寝衣に着替えさせられていた。

 部屋は広さのわりに、あまりものが置かれていなかった。今いるベッド、大き過ぎない箪笥、一組の椅子と卓、その上に置かれた燭台。床にはくすんだ赤の絨毯が敷かれている。
 どれも高級感はあるが実用本位のものばかりで、装飾的なものは見当たらない。窓がなかったが、壁にいくつも並べられた灯が室内を十分に照らし、暗い印象は受けなかった。

 ここがどこかの答えを求めてエフィミアが視線を巡らせていると、部屋の扉ががちゃりと開かれた。翡翠色の瞳と目が合い、白髪の男が明るくほほ笑えんだ。

「よかった、目を覚ましてくれて」

 彼が部屋に足を踏み入れると、彼の後ろから少女の怒鳴り声が響いた。

「ちょっとナッちゃん! ノックもなしに勝手に女の子の部屋に入るなんて、どういう神経してるのよ」

 ナーガは立ち止まり、うんざり顔になって、後ろで仁王立ちする少女を振り向いた。

「彼女は仮とはいえ半身だ、そんなこと関係ないだろう」
「大ありよ。まったく、デリカシーがないんだから。簡単に異性の部屋に入らない。黙って他人の部屋に入らない。この程度の人間のエチケットくらい知ってなさいよ」

 少女がまくし立てると、ナーガは髪に片手を差し入れてため息をついた。

「ああ、もう分かったから。今度から気をつけるから、今はエフィと話をさせてくれ」
「本当に分かったの?」
「そう言っているだろう」

 言いながらナーガは進行方向に向き直ると、真っ直ぐエフィミアのいるベッドへと歩み寄ってきた。

 その間、エフィミアは近づいてくるナーガを頭から足先までじっくりと見つめた。
 雪色の髪、翡翠の瞳、柔和な面差しに、すらりと長い手足。自然と耳につく優しいテノールは、固くなっていた心をほぐさせる。

 記憶と寸分も違わぬ姿にエフィミアは安堵し、また彼に助けられたのだということを実感した。

「見苦しいところを見せてすまない。いつもこうなんだ」

 気にしなくていいと言う代わりに、エフィミアはゆるく首を振った。

 ナーガはベッドのところまで来て、その縁に腰を下ろした。すると、急に手を伸ばした彼に額を触られ、驚いたエフィミアは思わず身を引いた。

 手をかざしたままナーガが苦笑した。

「なにもしない。熱をみるだけだ」

 エフィミアが見つめると、彼は大丈夫だからとほほ笑んで、再びエフィミアの額に触れた。

「大分下がってきてはいるが、まだ熱いな。気分はどうだい? 何か欲しいものとかは?」

 エフィミアはわずかに考えて、喉がからからに乾いていることに気づいた。

「……水がほしい」

 声がひどくかすれてしまったが、相手はしっかりと聞きとってくれたようだった。

「水か。分かった、今とってこよう。シュリ、水だそうだ」

 ナーガの横に座ろうとしていた少女が、ぴたりと動きを止めた。

「あたしが行くのぉ?」

 ナーガは悪びれるようすもなく、にこりと笑った。

「傷が癒えるまでは、わたしの望みを聞いてくれるのだろう?」
「それはナッちゃんの望みのことで、その子の望みを聞くなんて言ってない」
「水がほしいとエフィが言った。だからわたしはエフィに水をあげたい。これなら問題ないだろう」

 少女はなにか言い返そうと口を開け閉めしたが、結局諦めたらしく脱力した。

「分かったわよ。行けばいいんでしょ。まったく、ひとをなんだと思ってるのよ」

 緑の髪をひるがえして、少女はとことこと部屋の出口へ向かった。

「シュリ」
「まだなにかあるの?」

 ナーガに呼ばれて、少女は扉の把手をつかみながら振り向いた。

「今、一ヶ所表現が間違っていた」
「ご親切にどうも」

 ばたんと扉を大きく鳴らせて、少女は苛立たしげに部屋を出ていった。それをほほ笑ましそうに、ナーガは見つめる。気づくと、エフィミアもつられて一緒にほほ笑んでいた。

「かわいい子ね」

 ナーガは微笑を浮かべたままエフィミアを見た。

「そう思うかい?」
「うん。妹さん?」

 ナーガは一瞬きょとんとすると、くすくすと笑い声を立てた。

「妹じゃあない。どこも似ていないだろう? 彼女はシユリー。なんというか、なりゆきで一緒にいる。彼女のことは――呼びにくいだろうが――そのままシユリーと呼んであげてくれ。わたし以外の者がシュリと呼ぶと怒るんだ。いい子ではあるんだが少し気の強すぎるきらいがあって、よく困らされる」
「それ、あたしもよく言われるわ」

 エフィミアとナーガは顔を見合わせると、なんだかおかしくて互いに笑った。ついさっきまで荒んでいた気持ちが、彼といるだけでゆるやかにぬくもっていく。それがエフィミアは不思議でならなかったけれど、まったく悪い感じはしなかった。むしろ、今の自分には必要なことにさえ思える。

 ふと、ナーガが目を細めてじっとエフィミアを見つめていることに気づいた。顔がかすかに熱くなるのを感じて、エフィミアは戸惑った。

「あたし、なにか変?」

 不安になって訊くと、彼は首を横に振った。

「君が無事でよかった。自然に笑えるのなら、もう大丈夫だろう。ずっと眠ったままだったから、心配していたんだ」

 彼の言葉で、気を失う直前の記憶が急激に思い出され、エフィミアは息をのんだ。震えをもよおす冷えた感情と雨の感触までが蘇る気がして、押さえつけるように肩を抱いた。

「……あたし、また助けられたのね」

 沈み込むエフィミアをいたわるように、ナーガは麦穂色の髪を指ですいた。

「君が気にすることじゃあない。わたしはわたしのすべきことをしたまでだ。安心していい。エフィはわたしが守る」

 エフィミアは驚いてナーガを見た。

 彼は相変わらず、柔和な美貌に穏やかなほほ笑みを浮かべている。そこに彼とは似ても似つかないはずの少年の顔が重なり、エフィミアは不意に涙ぐんでしまった。

 泣き顔を見られまいと、エフィミアは慌てて顔をふせた。

「エフィ?」

 困惑したようにナーガが呼んだが、エフィミアは顔を上げられなかった。

「ごめんなさい。なんか、急に……」

 嗚咽で喉がつまり、言葉は続かなかった。せめて涙を堪えようとエフィミアが目元を押さえると、ベッドがきしんで、温かなものに頭から包み込まれた。白銀の髪が頬に触れ、ナーガに抱き締められたことに一瞬遅れて気づく。

 エフィミアが戸惑うよりも先に、心地よいテノールが耳に直接滑り込んできた。

「がまんしなくていい。泣きたいときに泣かなければ、本当に泣けなくなってしまうよ。大丈夫、すべてが終われば、また元の生活に戻れる。それまでは、わたしが必ず君を守っていく。だから、今だけの辛抱だ」

 エフィミアはナーガの服を強くつかんだ。
 やはりナーガはなにかを知っている。しかし今のエフィミアには、それに気づく余裕も気力もなかった。

 声を震わせて、エフィミアは言った。

「村を出るときに、同じことを言われたの。あたしのこと、守るって……でもあたし、こんなあたしのことを好きだって言ってくれた彼のこと、巻き込みたくなくて……」
「彼というのは、この間の君の幼馴染みのことだね」

 エフィミアはもうがまんし切れずにむせび泣いた。不安と、恐怖と、寂しさと、苦しさと、全部がぐちゃぐちゃに混ざって涙となり声となりあふれだす。

 ナーガはなにも言わなかった。服が汚れるのも構わず、エフィミアの気が済むまで抱き締め、髪を撫でててくれていた。その優しさがさらにエフィミアのたがをはずし、涙はなかなか止まらなかった。

 泣いて泣いて、やがて泣き疲れた彼女が気を失うように眠るまで、ナーガはただじっと服を濡らした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

彼の巨大な体に覆われ、満たされ、貪られた——一晩中

桜井ベアトリクス
恋愛
妹を救出するため、一ヶ月かけて死の山脈を越え、影の沼地を泳ぎ、マンティコアとポーカー勝負までした私、ローズ。 やっと辿り着いた先で見たのは——フェイ王の膝の上で甘える妹の姿。 「助けなんていらないわよ?」 は? しかも運命の光が私と巨漢戦士マキシマスの間で光って、「お前は俺のものだ」宣言。 「片手だけなら……」そう妥協したのに、ワイン一杯で理性が飛んだ。 彼の心臓の音を聞いた瞬間、私から飛びついて、その夜、彼のベッドで戦士のものになった。

ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました

大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――

【完結】呪いを解いて欲しいとお願いしただけなのに、なぜか超絶美形の魔術師に溺愛されました!

藤原ライラ
恋愛
 ルイーゼ=アーベントロートはとある国の末の王女。複雑な呪いにかかっており、訳あって離宮で暮らしている。  ある日、彼女は不思議な夢を見る。それは、とても美しい男が女を抱いている夢だった。その夜、夢で見た通りの男はルイーゼの目の前に現れ、自分は魔術師のハーディだと名乗る。咄嗟に呪いを解いてと頼むルイーゼだったが、魔術師はタダでは願いを叶えてはくれない。当然のようにハーディは対価を要求してくるのだった。  解呪の過程でハーディに恋心を抱くルイーゼだったが、呪いが解けてしまえばもう彼に会うことはできないかもしれないと思い悩み……。 「君は、おれに、一体何をくれる?」  呪いを解く代わりにハーディが求める対価とは?  強情な王女とちょっと性悪な魔術師のお話。   ※ほぼ同じ内容で別タイトルのものをムーンライトノベルズにも掲載しています※

【短編】淫紋を付けられたただのモブです~なぜか魔王に溺愛されて~

双真満月
恋愛
不憫なメイドと、彼女を溺愛する魔王の話(短編)。 なんちゃってファンタジー、タイトルに反してシリアスです。 ※小説家になろうでも掲載中。 ※一万文字ちょっとの短編、メイド視点と魔王視点両方あり。

【R18】熱い夜の相手は王太子!? ~婚約者だと告げられましたが、記憶がございません~

世界のボボブラ汁(エロル)
恋愛
激しい夜を過ごしたあと、私は気づいてしまった。 ──え……この方、誰? 相手は王太子で、しかも私の婚約者だという。 けれど私は、自分の名前すら思い出せない。 訳も分からず散った純潔、家族や自分の姿への違和感──混乱する私に追い打ちをかけるように、親友(?)が告げた。 「あなた、わたくしのお兄様と恋人同士だったのよ」 ……え、私、恋人がいたのに王太子とベッドを共に!? しかも王太子も恋人も、社交界を騒がすモテ男子。 もしかして、そのせいで私は命を狙われている? 公爵令嬢ベアトリス(?)が記憶を取り戻した先に待つのは── 愛か、陰謀か、それとも破滅か。 全米がハラハラする宮廷恋愛ストーリー……になっていてほしいですね! ※本作品はR18表現があります、ご注意ください。

悪役令嬢と氷の騎士兄弟

飴爽かに
恋愛
この国には国民の人気を2分する騎士兄弟がいる。 彼らはその美しい容姿から氷の騎士兄弟と呼ばれていた。 クォーツ帝国。水晶の名にちなんだ綺麗な国で織り成される物語。 悪役令嬢ココ・レイルウェイズとして転生したが美しい物語を守るために彼らと助け合って導いていく。

男嫌いな王女と、帰ってきた筆頭魔術師様の『執着的指導』 ~魔道具は大人の玩具じゃありません~

花虎
恋愛
魔術大国カリューノスの現国王の末っ子である第一王女エレノアは、その見た目から妖精姫と呼ばれ、可愛がられていた。  だが、10歳の頃男の家庭教師に誘拐されかけたことをきっかけに大人の男嫌いとなってしまう。そんなエレノアの遊び相手として送り込まれた美少女がいた。……けれどその正体は、兄王子の親友だった。  エレノアは彼を気に入り、嫌がるのもかまわずいたずらまがいにちょっかいをかけていた。けれど、いつの間にか彼はエレノアの前から去り、エレノアも誘拐の恐ろしい記憶を封印すると共に少年を忘れていく。  そんなエレノアの前に、可愛がっていた男の子が八年越しに大人になって再び現れた。 「やっと、あなたに復讐できる」 歪んだ復讐心と執着で魔道具を使ってエレノアに快楽責めを仕掛けてくる美形の宮廷魔術師リアン。  彼の真意は一体どこにあるのか……わからないままエレノアは彼に惹かれていく。 過去の出来事で男嫌いとなり引きこもりになってしまった王女(18)×王女に執着するヤンデレ天才宮廷魔術師(21)のラブコメです。 ※ムーンライトノベルにも掲載しております。

コワモテ軍人な旦那様は彼女にゾッコンなのです~新婚若奥様はいきなり大ピンチ~

二階堂まや♡電書「騎士団長との~」発売中
恋愛
政治家の令嬢イリーナは社交界の《白薔薇》と称される程の美貌を持ち、不自由無く華やかな生活を送っていた。 彼女は王立陸軍大尉ディートハルトに一目惚れするものの、国内で政治家と軍人は長年対立していた。加えて軍人は質実剛健を良しとしており、彼女の趣味嗜好とはまるで正反対であった。 そのためイリーナは華やかな生活を手放すことを決め、ディートハルトと無事に夫婦として結ばれる。 幸せな結婚生活を謳歌していたものの、ある日彼女は兄と弟から夜会に参加して欲しいと頼まれる。 そして夜会終了後、ディートハルトに華美な装いをしているところを見られてしまって……?

処理中です...