三人の竜は、囚われ乙女の胸に沈む ― Dragon Heart ―

入鹿なつ

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第2章 竜王の憂鬱

5 林檎の味

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 エフィミアたちがいる辺りには、これまで歩いてきた山中ほど木が密集していなかった。

 秋の日差しが林檎の葉を透かして真上から降り注ぎ、優しく暖かな空気を生み出している。そのせいか、ここの下草はまだまだ青く、風にその身を躍らせ波打っていた。傍を流れる沢が日の光を返して輝き、鮮やかな景色をさらに明るく彩る。

 涼やかな水のせせらぎ。顔を撫でる柔らかな風。鼻腔をくすぐる林檎の香り。色づく木の葉たちの描き出すまだら模様。五感を刺激するどれもが現実感なくエフィミアを包み込み、今欲しているものすべてが、ここに揃っているような気がした。この世のどこかに楽園があるならば、きっとここのことだろう。

 エフィミアが三つ目の林檎を手にするのを見て、ナーガは苦笑をした。

「よく食べるなあ」
「そうかしら」

 果実の表面につている埃を袖でぬぐいながらエフィミアは気に障ったようすもなく言い、ナーガはさらに笑った。

 林檎の実は女性の片手では余るほどの大きさがあり、普通に考えればひとつでも十分に胃はふくれる。しかしエフィミアは、今手に取った三つ目さえも、ぺろりと平らげようとしていた。

 林檎を皮ごとかじり、エフィミアは至上の幸せに身をひたした。

「これぞ、人生の楽しみよね」

 エフィミアは指についた甘い汁も残さず舐めとると、さらに次の実へと手を伸ばした。するとナーガが、エフィミアの体を後ろから優しく抱きすくめるようにしてそれを押し留めた。

「その辺にしておいた方がいい」

 驚いたのもつかの間、エフィミアは少しばかりの非難を込めて、背の高いナーガの顔を仰ぎ見た。

「まだ食べられるわ」

 ナーガは眉尻を下げ、困ったような呆れたような、そんな表情をしてまるで子供に言い聞かせるように言った。

「だめだ。食欲が戻ったところだというのに、そんなに詰め込んではかえって毒だ」
「平気だってば。あたしこれでも体は丈夫なのよ」

 エフィミアの反論に、ナーガは今度こそ呆れ返って言った。

「とんだお転婆だな。つい先日まで寝込んでいたのはどこの誰だったか、もう忘れたとみえる」

 エフィミアはぐっと言葉に詰まった。

「それは……いいじゃない別に、もうよくなったんだし。それに、せっかくの一番美味しい時季を逃せないでしょう?」

 むっとして言いよどみつつも切実に言い募るエフィミアに、ナーガは再び苦笑を浮かべた。

「まったく、まるで子供だな。そうごねなくてもここの林檎はまだもう少しもつ。また来ればいい。だから今日はここまでにしておくんだ。ほら、あまりがっつくから汁がついている」

 ナーガはエフィミアの顎から口元へと指を滑らせると、手についた果汁を舐めた。

 途端に、エフィミアの顔が熱を持ったように熱くなった。それが、気づかぬ内に口元を汚してしまっていたのを見られたからなのか、ナーガの思わぬ行動のせいなのかは判然としない。そして彼と体が密着していることに、今更ながら緊張をおぼえた。

 エフィミアはナーガから顔をそむけながら、声を小さくして言った。

「分かったわよ。今日はもうやめるわ。でも……もう少しだけ、ここにいてもいいでしょう?」

 ナーガはそれを聞き、ややあってからふわりと笑んだ。

「構わないよ。好きなだけここにいればいい。エフィがそれを望むのであれば」

 抱き締める腕の力が増し、麦穂色のつむじに唇が押し当てられた。瞬間、エフィミアは驚き、全身を奇妙な感覚が走り抜けた。
 しかしナーガを振り払う気にはならなかった。彼に抱き締められていると落ち着かなかったが、不思議と安心できた。まるで、胸の内にひそむ不安や孤独感をとろかしてくれるようだ。

「ねえ、エフィ」

 耳元で囁くように呼びかけられ、エフィミアはもう一度首をひねってナーガを仰ぎ見た。間近に翡翠色の目が見えたと思った刹那、柔らかなものに口を塞がれた。

 エフィミアはびっくりして顔を背けようとしたが、頬に添えられた大きな手がそれを許さなかった。胴に回された腕も容易たやすくのけられるものでなく、体を離すこともできない。
 それでもどうにか身じろぎすると、塞がれていた口が放され、エフィミアは息を吸い込んだ。

 鼻先が触れ合う距離で、ナーガは胡桃色の目を覗き込んだ。

「いやだったかい」

 ナーガの静かな問いかけに、エフィミアの頬が熱くなる。戸惑いや混乱が頭の中に渦巻き、思考がままならない。それでも、混沌と混ざり合ういくつもの感情の中に、嫌悪は見出せなかった。

 混乱のあまりうまく言葉が出ないままエフィミアが見詰め返していると、その感情のありさまを見てとったようにナーガの目が細まった。そして再び唇が重ねられるにいたり、エフィミアはきつく目を瞑った。

(もう、だめだ……)

 限界だ、とエフィミアは感じた。

 口づけられた瞬間に胸を満たしたのは、明確な喜びだった。これ以上、芽生えてしまった恋心を隠し通すことができない。
 恋人のおこないをするということは、ナーガもまた同じように思ってくれているのではという期待に、感情が熱くざわめく。

「ふぅ、ん……」

 エフィミアが切なく鼻から息をもらすと、口づけが深くなった。唇を割って忍び込んできたぬめりが歯列をなぞり、探り当てた舌先を撫でた。
 初めての感触に驚いて舌を縮めると、それを追いかけるようにぬめりはさらに奥へと入り込んできた。

 逃げ場を失った舌は容易く絡めとられ、ナーガの口腔の方へといざなうように引き込まれる。彼の導きに羞恥心を甘くくすぐられ、閉じた目蓋が熱を持った。

「林檎の味がする」

 唇が離れた一瞬にナーガが囁き、エフィミアは顔から火が出そうだった。笑われたのだと思って窺うように薄目を開いてみると、透き通った翡翠の瞳が間近にあり、捕らえられたように身動きできなくなった。見詰める翡翠の瞳が、またさらに距離を詰める。

 三度目の口づけ。今度は、唇を柔く食まれた。下唇を甘噛みされると、振り返るために反らせているうなじが淡く痺れた。

 ナーガは果汁を舐めつくそうとでもするように、何度も唇をついばみ、口腔に舌を這わせた。唇を重ねる以上のキスの仕方がまるで分からないエフィミアは、彼のすることを必死で真似た。

 覚束ない乙女にナーガは焦れるようすは見せず、むしろ教え込むようにゆっくりと舌で舌を愛撫し、甘く歯を立て、唇を吸う。エフィミアはただただ夢中で、ナーガの唇と舌の動きを追いかけた。
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