三人の竜は、囚われ乙女の胸に沈む ― Dragon Heart ―

入鹿なつ

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第2章 竜王の憂鬱

9 油断

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 エフィミアは真紅に熟した実を枝の先からそっともぎ取った。手に乗せれば以前よりも重く、皮の色が濃くなっているのが分かる。味もより糖度が増し、甘くなっていることだろう。

 林檎を採りながら、エフィミアはここでの情事を思い返し、急に恥ずかしくなって我にもなく顔を赤くした。

 初めて経験が屋外とは、なんと大胆なことをしたのか。けれどそこに多少の羞恥はあれど嫌悪はなく、むしろ、ささやかなトキメキを覚える記憶となっている。

 不思議な青年だと、エフィミアは思った。改めて思わされたと言ったほうが正しいかもしれない。

 ナーガはエフィミアに対してやけに優しく接してくる。それは初めて出会ったときから変わらないが、親しくなるにつれて子供っぽく砕けたところも見えてきた。それが、意外といえば意外、彼らしいといえば彼らしかった。

 またナーガはいつも、エフィミアが知らないことを、ときに明かし、ときにひた隠した。例えば、竜の生態、胸の痣の意味、王国軍に狙われる理由、ナーガの正体、そして……。

 捧げるように持った林檎を見詰め、エフィミアは淡いため息をついた。

 この場所での初めての情事以来、月経による不調のあった数日をのぞいて、毎日のようにエフィミアはナーガと体を繋げている。

 ナーガは彼女を求めるとき、時間や場所にあまり頓着することがない。すでに何度も真昼の屋外で裸体をさらすことをしているし、家の居間や廊下でのこともある。
 あの家には幼いシユリーもいるのだからもう少しはばかるべきではとも思うのだが、彼は二人きりとみれば場所に構わず素肌を求めてくる。

 夜の寝室ともなれば、彼はエフィミアが疲れ果てて眠りに落ちるまで、何度でも苦く熱い欲を注いだ。

 どんな姿も優雅だと思っていたナーガの淫らな本性に、エフィミアは正直かなり戸惑っていた。とはいえ彼の愛撫はいつでも丁寧で、無理強いされている感覚はない。情と欲に流されている自覚はあるが、嫌だとは思ったことは一度もなかった。

 それでも、と考えながらエフィミアは腕を伸ばして、もう一つ林檎をもいだ。

 肉欲に溺れるような今の関係への迷いと疑問は、ずっと胸に巣くっていた。
 ナーガにとって異性と体を繋げることは、エフィミアが思っているほど特別なことではないのだろうと察しはついている。打開するには、彼の気持ちをはっきりと確かめるべきだ。

 しかし、以前にエフィミアが好意を口走ったときにナーガが見せた困惑げな表情が脳裏をよぎり、彼を前にすると言葉がつかえた。

 自ら別れを招くのが恐ろしいだけでなく、今放り出されては追われている身の上をどうしたらいいかも分からない。ナーガには危機を救われ、匿われたあとも衣食住を頼り切っている。その恩に返せるものが、エフィミアにはこの身しかない。

 拒絶してもなにも起きないかもしれない。しかしナーガに触れられると、またたく間に理性は輪郭を失い、悦びに意識が支配されてしまう。いくら抗う試みをしても、まともな思考力を保てたことは、ことごとくなかった。

 やはりエフィミアは、ナーガが好きなのだ。今とて、彼のことを考えるだけで体が甘く疼いている。この疼きを自分の手だけではとり除けないことも、もう知っている。

 だからこそ、いい加減、少し頭を冷やして先のことを考えねばなるまい――避妊くらいは、すぐにでも相談すべきだろう。彼に触れられる前に、うまく切り出せればいいのだが。

 そう思索しながらエフィミアはおさげ髪を風に遊ばせて、しばらく爽やかな香りの満ちる中に身をひたした。
 もう秋も半ばを過ぎた。乾いた風が、エフィミアの頬を冷やしていく。これからどんどん寒さも厳しくなり、ここの林檎も、もうすぐ実が落ちる。

(林檎酒でもつくろうかな)

 このまま実をだめにしてしまうのは惜しい気がして、エフィミアは唐突にそんなことを考えた。ここの林檎ならば、上質な林檎酒になるに違いない。

 思い立ったらすぐに行動に移すのがエフィミアだった。たくさん実っている林檎の中からよく熟したものを選び取り、両手に抱えられるだけ抱えた。かなりの重さがあるが、岩屋までならば運べないことはない。

 思ったより長居してしまったので急いで戻ろうと、エフィミアは岩屋のある方角へと体を向けた。

 ふと、大きな影が地面を這った。影の形から、また竜が林檎を食べにきたのだと思ったエフィミアは、なにとはなしに上空を仰ぎ見た――


 ☫


 大きな一枚岩の上に、ナーガはその巨体を横たえていた。全身を覆う純白の鱗は、朝日の中で燐光を発するかのように輝いている。しかしよく見やれば、たたまれた翼のつけ根の一部だけ鱗がはがれて薄紅い皮膚がむき出し、治ったばかりの傷痕が露出していた。

 軽くため息をつき、ナーガは目を閉じた。

 こうして竜の姿に戻ってみると、思った以上に自身が疲労していることがよく分かる。泥を纏ったような重さが、四肢や尾に貼りついている。

 人の姿をとることは体に負担をかけることなのだと、ナーガは改めて知った気がした。日に一度はこうして元の姿に戻らなくては、維持をしきれない。

 あるべきものがないことによる体調の変化に、ナーガはいまだ戸惑っていた。疲労が激しいのはそのせいもある。とはいえ、これでもまだましな状態ではあるはずなのだ。
 本来ナーガの体内にあるべきものは、今エフィミアの体内に宿っている。そう仕向けたのはナーガ自身だ。後悔はしていない。しかし、力不足は切実だった。

 ナーガは目を開くと翼を大きく広げ、伸びをするようにぐっと首をもたげた。そのまま太い首をひねり、前足を軽く浮かせながら背中の傷痕をなめる。そして一度だけ翼を羽ばたかせてみた。なんとなく違和感は残っているものの、痛みはほとんどとれている。

(そろそろ、エフィを開放してあげるべきか……)

 日の下で真っ直ぐに伸びる麦穂のような彼女の姿を見るたび、ナーガの心を罪悪感がさいなんだ。その度に、仕方がなかったのだと自分に言い聞かせてきた。

 ナーガは確実な生が欲しかった――それが、彼女の日常を奪おうとは思わなかったが。

 卑怯だとは自身でも思う。ただひたすらナーガ自身のために、エフィミアをナーガのいる場所へ引き込み、できるだけ思考時間を奪って依存させることで、その身を利用し続けている。

 それも、そろそろ終わらせるべきかもしれない。

(明日にでもエフィを帰そう)

 物思いに切りをつけると、ナーガは大きく翼をはばたかせた。翼がつかんだ空気に引っ張り上げられるように、純白の巨体をゆっくりと浮上する。

 そのとき、遠くの木立から飛び立つものが見えた。ナーガは慌てて再び地上に降り立ち、人の姿に変じて茂みに身を隠した。

 ややあって、ナーガの頭上を赤竜が通過した。わずかに間隔をあけて群れる赤竜たちは背に人を乗せており、ナーガは息を詰めて身を低めた。幸運にも、彼らはナーガの存在には気づいていなかった。

(こんなところにまで王国軍が……)

 ふとナーガは、彼らの中で一騎だけ、二人乗りをしている竜に気づいた。二人乗りの内、一方は周りの者と同じ黒服に身を包んだ軍人だ。そしてもうひとり、その軍人に抱えられるようにして乗っている、ほかより小柄な人影――その人物を認め、ナーガは自分の目を疑った。

 騎竜兵が見えなくなるや、ナーガは覚束ない足取りで茂みから出た。愕然として、騎竜兵たちが消えた空の彼方を見つめる。動揺するナーガの心理に反するように、いかにものんきそうな雲がゆったりと流れていた。

「そんな、ばかな……」

 ナーガは呟いて口を引き結ぶと、本当に安全になったかを確認する間も惜しく、白い翼で飛び立った。





「エフィ!」

 岩屋に帰り着くなり、ナーガは叫んだ。乱暴に扉を引き開け、彼には珍しく足音を荒立たせて、エフィミアの姿を求めて広い岩屋の中を駆け回った。

「どこだエフィ。エフィっ!」

 彼女に与えた部屋に姿はない。居間にも、台所にも――どこにもいない。岩屋には、彼女どころか人の気配すらなかった。ナーガの中で焦ばかりがつのる。

「どうしたの?」

 不意に声がして、ナーガはハッと振り返った。いつの間にかそこに幼い少女がおり、大きな黄色い瞳でこちらを見ていた。

「そんなに大きな声出して、なにかあったの? 帰りも思ったより早かったし……」

 ナーガはシユリーが言い終わらないうちに彼女へと迫り、勢い込んで言った。

「シュリ、エフィはどこにいる」

 ナーガのただならぬようすに、シユリーは驚き戸惑って答えた。

「エフィミアなら、たぶん林檎を採りに……」

 ナーガは少女が言い終わる前に外へと飛び出した。空を舞い、つい先日エフィミアを案内した林檎の群生林へと急ぐ。そのあとを、ナーガより一回り以上小さな緑竜がせわしなく翼を羽ばたかせて追った。

《どうしたの、ナッちゃん。なにがあったの?》

 しかしナーガは答えず、前だけを見て飛び続けた。ただひたすら、さっき目にしたものが見間違いであることを祈り続けた。突きつけられる現実に、怯えていた。

 まもなく眼下に林檎の群生林が見え、ナーガは迷わず降り立った。

「エフィ!」

 求める者の名を叫び、ナーガは林檎の木々の間を駆けずり回った。どんな小さなものでも見逃すまいと、必死に視線を巡らせる。

「エフィ! エフィ、エ……」

 眼前に広がった惨状にナーガは足をとめ、息をのんだ。

 人の手でもがれたのだろう林檎が、地面に散乱していた。割れて踏みつけられた果肉は濁り、赤い果皮とまじり合って下草を茶色く汚している。べたついた下草も、千切れて貼りつき、不自然に折り重なっていた。視線を上げれば、折れた枝が林檎の木の幹にぶら下がっていた。

 残された傷痕のどれもがまだ真新しく、つい先ごろ起きたことを、ナーガに見せつけていた。

 ナーガは、がくりとその場に膝をついた。

 うかつだった、とナーガは後悔した。喜ばせるためとはいえ、エフィミアにこの場所を教えたのは間違いだった。

 ここは樹木が密になっていない分、上空から地上がよく見える。ナーガはそれをよく分かっていたが、こんな果てまで捜索の手が伸びるはずがないと高をくくっていた。

 しかし、彼らはやってきた。王国軍を甘く見過ぎていたことを、ナーガは認めざるをえなかった。

「ナッちゃん……」

 恐る恐る歩み寄ってきたシユリーが、震える声で呼びかけてきた。しかしナーガは応えなかった。

「ナッちゃん、ごめんなさい……ごめんなさいっ」

 ナーガはゆっくりと顔をあげて、シユリーを見た。そして彼女の大きな目からぼろぼろと涙がこぼれるのを見て、わずかに目を見開いた。

「あた……あたし、ナッちゃんにエフィミアのこと、頼……むって、言われたのに……。それなのにあたし、あたし……。ごめんなさい、ごめんなさっ……ごめんなさい。ごめんなさいっ」

 シユリーは何度もしゃくりをあげ、言葉を途切れさせながら言った。

 ナーガは膝をついたまま手を伸ばすと、泣きじゃくる幼い少女をそっと抱き寄せた。シユリーはナーガの肩に顔を押しつけると、顔をぐしゃぐしゃにして大声で泣き、何度も何度も、ごめんなさい、と言い続けた。

 ナーガはまだ思考がよく働いていなかったが、それでも優しく、少女の頭を撫でた。

「シュリはなにも悪くない。わたしのために、よく頑張ってくれた。すべての責任はわたしにある。全部、わたしが悪いんだ。わたしが……。わたしは、無力だ」

 ナーガは、きつく唇をかみしめた。
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