三人の竜は、囚われ乙女の胸に沈む ― Dragon Heart ―

入鹿なつ

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第3章 空虚の王

5 動揺

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 この日の任務を終えたアレクスは、愛騎セスに水を飲ませながら小さく息をついた。

 今日もまた、騎竜隊は白竜の捜索に駆り出されたのだった。とは言っても、心臓を手に入れた今、どちらかといえば情報収集の方が主立った任務となっている。

 同時に、相変わらず漠然とした占い師の言葉を頼りに、心臓の宿主がナーガと呼んでいる男の捜索もされていた。だが今回これといって成果はあがらず、苛立ちと疲労だけを持ち帰ってくる結果となった。

 竜舎内に部下たちの気配を感じながら、アレクスはまたひとつ、ため息をついた。

 若き王の横暴に、隊の士気は下がりつつあった。王宮内でも、今の王に反発している者は多い。公爵が不穏な動きを見せているという情報まである。このままでは確実に国政に支障をきたすことになるだろう。

 しかしそれが分かっていても、アレクスに王に逆らう気はなかった。なにがあろうとも彼に仕え続けると、初めて出会った頃から誓いを立てている。

 アレクスにとってルーファンスは唯一無二の主君であり、自身の存在理由である絶対的な存在だ。彼の傍にいられれば、それで満足なのだ。

 だが最近、その感情に変化が生じ始めていた。今日まで気づかなかったくらいにごく些細な、それでいて確かな変化だった。

「セス、エフィミアをどう思う」

 それは無意識の問いかけだった。こぼすこともなく器用に水を飲んでいた赤竜は、桶から顔をあげて低くうなった。

 アレクスの中のほんのわずかな心の隙間に、彼女は滑り込んできた。こぼした水が絨毯に浸透していくようにゆっくりと、しかし確実に広がり、気づいたときには心の一角を占めるようになっていた。

 なぜか彼女はアレクスの目を引きつける効果を持っていて、その言動ひとつひとつが妙に印象的だった。初めて彼女と出会ったときも、色づき始めた森の中、突如現れた乙女に目を奪われたのを覚えている。

 今朝とて、任務に向かおうとしたアレクスが無意識に彼女の部屋の窓へと目を向けたところ、そこから転落しようとする姿を目にとめ、あの救出劇が繰り広げられたのである。
 これまでルーファンス以外の人間に興味のなかったアレクスにとって、これらのことはただただ不可解でしかなかった。

 セスが頭をすり寄せてきて、アレクスは物思いから我に返った。見ると、水で満たされていたはずの桶が空になっていた。気がつけば、竜舎内から人の気配も消えている。アレクスは愛騎の額を撫でてやってから桶を片づけると、最近回数が増えたと自覚するため息をついて竜舎を出た。

 もう日が傾き始めていた。白い宮殿が西日に照らされて、赤く浮かび上がっている。
 アレクスはすっかりなじんだ黒の帽子をかぶり直し、今日の報告をするために王のもとへと向かった。





「ふぅん。いいけどさ、別に」

 王の執務室にやってきたアレクスが実りのない報告を終えると、若き王は大して興味もなさそうに呟いた。

 最奥の窓際に黒い大きな机があるだけの殺風景な室内で、アレクスは主君と向かい合っていた。実用本位に意匠のされた王の執務室は奥行きがあるにも関わらず、中の者にどこかこじんまりとした印象を与えた。床には深緑の絨毯が敷き詰められ、褪めた色の壁に古びた絵画がいくつも掛けられている。

 年代を経た黒檀の大机に形だけ向かいながら、ルーファンスは退屈そうに自分の金髪を指で弄んでいた。隣には、黒のローブを着た占い師が影のようにひっそりとたたずんでいる。

「もういいや」

 言葉と共に、ルーファンスは髪を鬱陶しげに払った。

「アレクス、竜王の捜索はもう切り上げていい。心臓は手に入れたんだ、待っていれば向こうが動くだろう。竜王は必ず現れる。ヴィナもそう言っている。それまで、いつでも竜が出せるように待機していてくれ」

 数拍の間のあとで、アレクスは答えた。

「拝命いたしました」
「さがっていいよ」

 アレクスは深く一礼して部屋を出るために向きを変えた。

 そのとき、大音量に執務室の扉が開いた。室内の者がいっせいに注目する中、入ってきたのは顔を真っ赤に怒らせた、中年を過ぎたくらいの男だった。身につけている物を見れば、誰でも彼が身分ある人物であることが知れた。

 男は白髪しらが混じりの髪を振り乱し、足音を荒立たせてアレクスの横を素通りすると、国王の机に両手を叩きつけた。

 ルーファンスは肘かけに頬杖を突き、上目遣いに男を見上げた。

「ノックもしないなんて、無礼な人だな。なんの用だい、ハインリクス宰相」
「なんの用じゃあないだろう! なにを考えているんだ貴様は!」

 先王の治世から宰相として王家に仕えている男は、礼儀も忘れてわめいた。

「聞いたぞ。西の塔に娘をひとり監禁しとるそうではないか。竜王の心臓だと? お遊びも大概にしたらどうだ。訳の分からない女に惑わされおって。罪人以外の者の幽閉など、もってのほかだ。臣下の不信を買うばかりだ」

 若年な王は黙って宰相の言葉を聞いているが、その表情はいかにもわずらわしそうだった。

「そこの女と騎竜隊長ばかり重用するのもなんとかしたらどうだ。それによる不満も広がっているのだぞ。しかも余計なことばかりにかまけて、来月の冬至祭の準備がなにも進んでないではないか。二ヶ月も前に申請のあった堰の補修にいたっては、着工前にかかわらず六割もの予算が不明になっている。臣らが秩序をなくして堂々と専横を始めたのは、どれもこれも陛下の無関心が原因なのを自覚なさっているのか!」

 ルーファンスは返事をせず、不機嫌な顔でそっぽを向いていた。宰相の声が自然と大きくなる。

「聞いておられるのか、陛下!」
「……うるさいなぁっ」

 ルーファンスが椅子を倒す勢いでがたりと立ち上がり、金属のこすれ合う耳障りな音が響いた。
 聞き覚えのある音にアレクスがハッとしたときには、ずぶっ、と鈍く湿ったような音が聞こえた。

 宰相の筋張った喉に、細身の剣の切っ先がめり込んでいた。
 一瞬、時が止まった気がした。

「少し黙っていてよ」

 ルーファンスは静かに言うと、剣を引き抜いた。

 宰相の喉がら鮮血が噴出し、口から血しぶきが吐き出された。宰相は目玉がとび出さんばかりに目を見開いて自らの主君を見ると、その場にくずおれた。
 気道を断たれ、息苦しさに咳き込むたびに、口と喉から血のあぶくがごぼごぼとわき出す。泡立ちあふれた血が深緑の絨毯を黒く染め、室内にさび臭さが充満した。

 ルーファンスは剣を片手に下げたまま、無関心な瞳でそれを見下ろしていた。白い肌に点々と、紅いしずくが映えている。

 王が肌身離さず帯びている剣は、実用性と共に意匠がこらされ、金の柄に大きなルビーがひとつはめ込まれている。そして今、銀の刃の尖端がそのルビーと同じ色に濡れていた。

 異変に気づいた女官が執務室を覗き見て、アレクスの背後で絹を裂く悲鳴をあげた。

「行こう、ヴィナ」
「…………」

 金髪碧眼の若き王は無言の占い師をともなって、私室へと下がっていった。

 アレクスは目の前のできごとに、指一つ動かすことができなかった。悲鳴と血の匂いがすべての感覚器をふさぎ、思考力さえ遮断する。視野はぼやけていたが、広がっていく赤だけはやけにはっきり見えていた。

 その色から目を離せないまま、アレクスは呆然と立ちつくした。


 ☫


 騎竜隊長によってあっさり部屋に連れ戻されてしまったエフィミアは、長椅子に身を沈めて、どうしたものかと考え込んでいた。今朝の失態により、状況は悪化していた。

 エフィミアはちらりと、部屋の出入り口となっている扉の方を見た。扉の横に若い女官がひとり、微動だにせず静かに立っている。騎竜隊長の迅速な対応により、部屋の外だけではなく、中にまで見張りがつけられてしまったのである。

 竜での飛行体験に夢中になって忘れていたが、エフィミアはここからの脱出方法を探していたのであり、これではうかつに動けない。話し相手くらいにはならないかと何度か声もかけてみたが、迂闊な事はしゃべるなという騎竜隊長の指示を女官は忠実に守るばかりだった。

 これといって打開策も思いつかないまま、二度の見張りの交代が行われ、気がつけば窓の外が赤く染まっていた。

 不意に、遠慮がちなノックの音が室内に響いて扉が開いた。エフィミアが顔を向ければ、見張りに立っていた女官が訪れた別の従僕に応対していた。

 ぼそぼそと話し込む二人をエフィミアは肘かけに身を預けて眺めた。ひそめられた会話の内容までは聞き取れないが、「陛下」とか「閣下」などといった断片的な単語だけが、時おりエフィミアの耳にも届く。

 すると来室者の応対をしていた女官の顔が、見る見る蒼白になっていった。エフィミアになにも告げることなく、慌しげに部屋を出て行ってしまう。不審に思ったエフィミアは長椅子を離れ、扉へと歩み寄った。

 扉の鍵はきちんとかけられていた。しかし扉の外の気配がノブを握った手に感じられる気がした。

 ざわざわと、どこか落ち着きのない空気。これまで扉の向こうに感じていた喧騒となにかが違う。意識しなければ分からないほどの、かすかな違和感。確かに起こっている――あるいは起こった――異常。

(なにがあったんだろう)

 扉一枚へだてた向こう側の異常を確かに感じるのに、エフィミアにはそれがなんなのか知る手段がなかった。
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