三人の竜は、囚われ乙女の胸に沈む ― Dragon Heart ―

入鹿なつ

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第4章 騎士の忠義

4 少年①

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 三歳のルーファンスは覚束ない足取りで、広大な宮殿の中をさまよっていた。人の気配を感じるたびに物陰に小さな体を隠しながら、空恐ろしいくらい広い廊下を進んでいく。

 いつも一緒にいる少年の姿が見当たらなくて、心細さからこっそり抜け出して探しにきてしまったのだった。あとで怒られてしまうかもしれないけれど、それでも探さずにはいられなかった。

 しかしこの巨大な建造物の中、迷ってしまったらしい。もう自分がどこをどう歩いてきたのか分からなくなっていた。同じところをぐるぐると回っているような気さえする。

 ぐすっ、とルーファンスは鼻をすすった。

「アレクス、どこ……」

 弱々しく呼んでみるものの、求める姿はどこにもない。このまま見つからなかったらという不安と恐怖が、胸の中でどんどん肥大していく。

 ルーファンスは、もういくつ目になるか分からない灰色の扉をくぐった――外に、出てしまった。

 風が、肩口で切りそろえられた金髪を乱した。高いところに、自分の瞳と同じ色をした空がある。左手を見るとローラ川が流れていて、街の赤屋根が途切れていた。宮殿の裏に出てしまったらしい。背後には大理石の壁がそびえ、目の前は広く開けていた。

 広場の向こうの緑の縁取りの手前に、石造りの建物がある。その建物には、黒色をした大きな両開きの扉がついていた。しかし他には、寂しいくらいなにもなかった。

「アレクス……」

 ルーファンスは呟くと、ずっと我慢していた涙をついにあふれさせた。泣き出したら、もうと止まらなかった。心は不安と恐怖で埋め尽くされていた。自分はどうしたらいいのか分からなくて泣いた。帰り道も分からないから、部屋に戻ることさえできない。

 いつまでも泣いていると、不意に声がした。

「ルー?」

 涙と鼻水でべたべたになった顔を上げると、艶やかな赤毛の少年が驚いた顔でこちらを見ていた。

「ルー、どうしてここにいるんだ?」

 ルーファンスより三つ年上の少年は首をかしげて言った。ルーファンスは息を詰まらせた。

「アレクス、いたぁ……」

 今度は探しものを見つけた安堵感から涙が出た。泣きじゃくりながら、ルーファンスは少年へと必死に手を伸ばした。少年は顔を和ませながらその手をとった。

「おれを探しにきてくれたのか――ごめんね」

 ルーファンスが首に抱きつくと、幼い彼には重いだろうに、少年はどっこいしょと声を出してとルーファンスを抱き上げた。ルーファンスは彼の肩に顔を押しつけてわあわあと泣いた。少年は服が汚れるのも構わず、ルーファンスを抱き締めた。

「もう泣かなくていいよ。おれはここにいるから」

 少年に優しく言われても、なかなか涙は止まらなかった。

 ルーファンスは声のかぎり泣いた。手放しで泣くルーファンスを、少年は辛抱強くじっと抱き締めていた。
 少年は本当に優しくて、ルーファンスはそんな彼が大好きだった。親さえくれない無償の愛を、彼だけがくれる。だからこそ、失いたくなかった。

 ルーファンスの泣き声がすすり泣きに収まったころになって、少年は口を開いた。

「部屋にもどろう。きっと今度はみんながルーを探しているよ。怒られるときは、おれも一緒に怒られるから」

 ルーファンスは、少年の頬に頭を寄せた。

「もう、どこにもいかないでね」

 ルーファンスを抱き締める腕の力が強くなった。

「どこにもいかないよ。おれはずっとルーといるから。さっきは、秘密の場所に行ってたんだ」

 少年の言葉が好奇心を刺し、ルーファンスは泣くのを忘れてきょとんとした。

「秘密の場所?」

 少年は得意そうに、にこりと笑ってみせた。

「誰にも内緒だ。今度、ルーも連れていってあげる」





 窓から光差す宮殿の広い廊下を、ルーファンスとアレクスは走っていた。

「ルー、速く。こっちだ」
「待って、アレクス。速いよ」

 ルーファンスは四歳に、アレクスは七歳になっていた。歳のわりに小さなルーファンスと、見るからにすくすくと育ったらしいアレクスの追い駆けっこは、はたから見ればいかにもほほ笑ましい。

 だが若鹿のように軽やかに駆けるアレクスを追いかけるルーファンスは、かなり必死だった。

 本当は廊下を走ってはいけないのだけれど、アレクスが走るのでルーファンスも走ってついていくしかない。アレクスは一切の迷いなく、入り組ん通路をどんどん進んでいく。今いるのは宮殿のどの辺りなのか、そんなことを考える余裕もなくルーファンスは彼を追い駆けた。

 しかしアレクスの足がどんなに速くても、ルーファンスが置き去りにされることはなかった。たとえ見失いかけたとしても、彼は廊下の角でちゃんとルーファンスを待ってくれている。

 最後に彼が待っていたのは、灰色の扉の前だった。その扉に見覚えがあって、ルーファンスは首をかしげた。アレクスに続いて扉を抜けると、そこは広く開けた宮殿の裏だった。

「あそこだ」

 アレクスは正面にある石造りの建物を指差し、ルーファンスの手を引いた。

「早く行こう」

 ルーファンスはうながされるがままに、ところどころ青い下草のはえている広場へと駆け出した。

 周りは鮮やかな極彩色で彩られていた。街の赤、宮殿の白、木々の緑、空の青。中でもひときわ輝いているのは、少年たちの持つ磨き上げられた金と銅。

 暖かな風の間を駆け抜けると、二人の輝く色合いの髪が乱れて、多彩に光を放った。ルーファンスは自分の髪は見えなかったけれど、前を走るアレクスのふわりとなびく赤毛を見て、綺麗な色だなと思った。そして自分もこんな温かい色の髪が欲しいと、ぼんやり考えた。

 石の建物が目の前に迫った。離れたところから見てもそれなりの大きさがあるように見えたが、近づいてみると思ったよりずっと大きな建物だった。ローリアにある貴族の別邸より、ひと回り小さいくらいだろうか。

 飾り気のない建造物はローリア城を見慣れてしまうとかなり質素に見えるが、厚い石壁はいかにも堅牢そうだ。正面にある黒い扉も、王の謁見の間のものと同じくらいの大きさがある。その大きな扉には、大人ひとり通れるの通用扉がついていた。

 アレクスが通用扉を開いて建物に入っていき、ルーファンスは少しためらって中を覗きこんだ。建物の中は薄暗く、雰囲気が厩舎に似ていた。厩舎をもっと大きく重厚にした感じだ。

 正面の大扉から奥まで真っ直ぐ広い通路が通っていて、通路の両側には石壁で区切られた小部屋がたくさん並んでいた。小部屋と通路の間には壁がなく、木の柵で分けられている。

 入口から一番近い小部屋の中に、赤い大きな生き物がいるのを見て、ルーファンスは思わず顔を引っ込めた。奥に進みかけていたアレクスが、不審そうに引き返してきた。

「どうした? 早くおいで」
「だって」

 今見たものを確かめるように、ルーファンスはもう一度建物の中を覗きこんだ。中の小部屋にうずくまる生き物は本当に大きくて、ルーファンスは息をのんだ。

 今までに見たどんな生き物よりも、それは大きかった。頭には角が四本はえていて、足の先には鋭く大きなかぎ爪がついている。背中には薄い翼がたたまれていて、全身を覆っているくすんだ赤色の鱗が不気味な艶を放っていた。

 生き物が大きくあくびをした。口の中にびっしりと並ぶ、鋭く尖ったぎざぎざの歯を見て、ルーファンスは凍りついた。こんな大きな生き物なら、きっと小さなルーファンスは丸のみにされてしまう。しかもあんなにも鋭い歯で噛みつかれたら、腕や足は簡単に食いちぎられてしまうだろう。

 ルーファンスは泣きそうになって、アレクスを見た。アレクスは首をかしげると、その大きな生き物の方をちょっとだけ見た。

「竜が恐い?」

 竜がなんなのかよく分からなかったけれど、ルーファンスは何度も頷いた。するとアレクスは、ルーファンスを安心させるように優しく笑った。

「竜は大きいけれど、とても頭がいいから噛みついたりしないし、あそこからも出てこないよ」

 それでもルーファンスが不安な顔をしていると、アレクスが手を差し出した。

「どうしても恐いなら手を繋いで行こう。それなら大丈夫だろう? この奥に、ルーに見せたいものがあるんだ。早く行かないと自由時間が終わっちゃう。だから、行こう」

 自由時間、という言葉にルーファンスは反応した。

 ルーファンスの生活はすべて、国王である父親の管理下にある。起床や就寝、食事の時間から内容まで徹底的に管理されており、今はルーファンスの自由にできる貴重な時間だった。
 そして時間を破れば父親から厳しい罰が与えられることは身をもって知っていた。

 ルーファンスは上目遣いにアレクスを見ると、彼の手に自分の手をおずおずと重ねた。

 アレクスはルーファンスの小さな手を握って建物の奥へといざなった。アレクスの手に縋りついて、ルーファンスはびくびくしながら広い通路を進んだ。

 両側の小部屋には一頭ずつ、あの大きな赤い生き物がいた。しかし、小部屋全部にいるわけではなく、見れば、半分程度が空き部屋であることが知れた。

 靴の裏で、通路の砂がざりざりと鳴る。それと、ときどき聞こえる赤い生き物の鳴き声だろう低いうなり。石壁に囲まれた空間の中で、それらは妙に響いて聞こえた。

 各小部屋にひとつずつ格子のついた採光窓はあるけれど、建物の中はどうしても薄暗く、ルーファンスの恐怖心を煽った。

 それに反しアレクスはまったく恐れることもなく、ルーファンスをくっつけたままどんどん奥へ進んでいく。そして一番奥にある小部屋の前でようやく足をとめた。

「ルー、見てごらん」

 できるだけ周りを見ないようにしていたルーファンスは、アレクスが指差すものに恐る恐る目を向けた。小部屋の中に、赤い生き物がうずくまっていた。ほかより小さな赤い生き物が。

「セス」

 アレクスが生き物に向かって呼びかけると、それは機敏に顔をこちらに向けて、嬉しそうにころころと鳴いた。生き物が体を起こして柵に寄ってくると、アレクスはルーファンスの手を放してそちらに駆けていった。

 突然手を放されたことにルーファンスが戸惑っている間に、アレクスは柵をくぐって赤い生き物のいる小部屋に入っていってしまう。アレクスと生き物の体は、同じくらいの大きさだった。

 アレクスが飛びつくと、生き物は黄色くて丸い目をくるくると動かし、未熟な翼をはしゃぐようにばたつかせた。アレクスはきゃあきゃあと笑いながらひとしきり生き物とじゃれ合ってから、ルーファンスの方を見た。

「おれの竜だよ。この前、騎竜隊長がくれたんだ。セスっていって、おれと同い年なんだ。ここで産まれた竜なんだって」

 言い終わるとともに生き物がアレクスの顔を大きな舌でなめ、彼らはまたじゃれ始めた。

「ルーもおいで」

 アレクスに呼ばれて、その場にぼんやり突っ立っていたルーファンスは小声で応えた。

「ルーはいい」

 生き物とじゃれ合いながら、アレクスは不思議そうにルーファンスを見た。

「セスは噛みついたりしないよ?」
「……うん。でも、ルーはいいや」
「恐くないのに」

 アレクスはややがっかりしたように言ったけれど、すぐに声をあげてはしゃぎ始めた。ルーファンスは言い知れぬ疎外感の中で、それを見詰めた。

 アレクスが笑っている。きつい印象の顔を柔らかなものへと変える、輝くばかりの彼の笑顔。ルーファンス以外にこんな表情を向ける彼を見るのは、初めてだった。

 いつも、二人きりのときにだけアレクスは笑顔を見せてくれた。彼のこの表情を、大人たちは知らない。大人たちがアレクスのことを愛想がない子供だと話しているのを聞いたときには、少し得意な気分になったものだ。アレクスの笑顔は自分だけのもの。そう信じていた。

 目の前のアレクスは当たり前のように、赤い生き物の子供に笑いかけていた。ルーファンスの前だからこそ、彼がこんな顔を見せてくれている。それは分かるのだけれど、なぜかとても寂しかった。

 ずっとついて離れずにいた二人の間に、なにかが入り込んでくる奇妙な感覚。理由の分からない孤独感。ひとり取り残される感じ。それらに対する嫌悪。

 初めて抱く感情に戸惑いながら、幼いルーファンスはアレクスの笑顔を見詰めていた。
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