三人の竜は、囚われ乙女の胸に沈む ― Dragon Heart ―

入鹿なつ

文字の大きさ
39 / 61
第4章 騎士の忠義

7 傷痕①

しおりを挟む
 この日も彼はやってきた。

 隙間なくカーテンが閉じられ、灯りもすべて落とした室内は暗闇に満たされていた。視界の効かない闇の中でエフィミアが息をひそめて手足を縮めていると、扉が開かれて音もなく人の気配が部屋の中に侵入してくる。

 エフィミアは寝具に頭までもぐり込んで、それを全身で感じた。心臓が体内に大音響を響かせていてうるさかった。迫る気配が、恐い。

 逃げたいけれど、今はできなかった。逃げたところでなにもならない。

 肌をそっと撫で回すような、鳥肌さえ立つほどの悪意に満ちた気配。それがベッドのすぐ傍で立ち止まる。

「寝たの?」

 無邪気な少年じみた声。エフィミアは答えず、身じろぎもしなかった。

「それとも、それで隠れているつもり?」

 天蓋から下がる帳が揺れたのが分かった。掛布が持ち上げられ、夜気が寝具の中に滑り込んでくる。エフィミアが驚いたときには、闇のすぐ向こうにルーファンスの白い顔があった。

「見つけた」

 エフィミアは大きく息を吸い込み、寝具を跳ねのけて起き上がった。ルーファンスはおかしそうに笑い声を立てる。

「いいね。今のはちょっとおもしろかった」

 それからルーファンスは、少し顔を巡らせた。

「でもこの部屋、どうしてこんなに暗いの? 暗いのはあまり好きではないんだ」

 ルーファンスは一度ベッドから離れて窓に歩み寄ると、重く垂れたカーテンを、さあっと音をたてて開いた。外からガラス越しに、完全な夜を迎える一歩手前の光が差し込んだ。窓辺にルーファンスの細い輪郭が、青白く浮かび上がる。

 薄闇の中、ルーファンスはさらに移動すると、ベッドに近い位置にあるランプをともした。橙色の頼りなく揺れる光が、周囲にまき散らされる。

「これくらいでいいかな」

 彼は満足そうな顔をすると、帳を払ったベッドに座り込むエフィミアを見た。

「髪、綺麗にしてもらったんだね。そっちの方が似合うよ」

 うっとりするような微笑を浮かべ、ルーファンスは体の前で両手を合わせる。

「次はなにをしようか」

 エフィミアは灯火の中でぼんやりと浮かび上がるルーファンスの白皙はくせきの顔と金髪を見詰めた。壊れた心が生み出す、感情の欠落した笑み。見ているだけで、エフィミアまでもが彼の心の空洞に吸い込まれそうな錯覚におちいる。

 呑まれてはいけないと、エフィミアは自分に言い聞かせた。呑まれて自分を見失えば、彼の持つ闇のあぎとに食いつかれる。すでに二度、エフィミアは食いつかれた。食いつかれて、危ういところをアレクスに救われてきた。

 しかし救いを待っているだけではなにもならない。委縮しそうになる自分を奮い立たせるように、唇を引き結ぶ。

 ルーファンスがゆっくりと手を伸ばしてきた。エフィミアはわずかに身を引いてその手をよけたが、彼はさらに手を伸ばして、包帯の巻かれた手首をつかんだ。

「傷痕が残らないといいね」

 手首をつかんでいるのとは逆の手を伸ばし、ルーファンスは薬で湿った頬に触れた。どの口が言うのか、と叫びそうになるのを、エフィミアはつばを飲み込むことで堪えた。

 つかんだ手をルーファンスが強く引っ張った。エフィミアは咄嗟に体を引いて抗ったが、彼は構わず身を乗り出して彼女の手を口元に寄せた。傷薬の匂いを確かめるように包帯に鼻を当て、どこか恍惚とした表情で目を伏せる。

 その行動は異常さを孕みながら、なぜか害意が感じられず、エフィミアが戸惑いが先に立ち振り払えなかった。

 ルーファンスが目蓋を開いた。不意打ちで碧眼と目が合い、エフィミアの心臓が跳ねた。だが青い双眸はすぐに、下へと目線を移していった。
 エフィミアの手はつかんだまま、頬に触れていた方の手だけが離れる。離れた手はすぐに再び伸ばされ、寝衣の上から胸の膨らみを強くつかんだ。

「いやっ!」

 エフィミアは驚いてルーファンスを引き剥がそうとした。ところが体を引く動きに合わせて体重をかけられ、背中から寝具に倒れ込む結果になった。状況の悪化にたまらず固まるエフィミアの耳に、かすかな囁きが滑り込む。

「……ここにも傷がある」

 馬乗りになったルーファンスに荒い手つきで襟を引っ張られてエフィミアは焦った。

「だめっ」

 やめさせようとしたエフィミアの手を、ルーファンスは強くはたいて乱暴に振り払った。寝衣を引き下ろして露わにされた胸には、腕と同様に傷を保護する包帯が巻かれている。その包帯までも力づくで引きずらせば、爪で掻き裂いた傷を覆うように膏薬の湿布が貼られていた。

 ほどけた包帯からこぼれ出た性的な膨らみには見向きもせず、ルーファンスは薬の染みた湿布に指先で触れた。

「これ、アレクスが手当てした?」
「え……?」

 静かな問いに、身を強張らせていたエフィミアは驚いてルーファンスを見た。彼女の反応を見て、彼はさらに目を細めた。

「やっぱりアレクスなんだね」

 ルーファンスとは対照的に、エフィミアは目を見開いた。

「分かるの?」
「もちろんさ。わたしもアレクスに薬を塗ってもらったんだ」

 ルーファンスはエフィミアの胸に貼ってある湿布の端をつまんで剥がした。彼女が自らの手でつけた、深く湿った爪痕が露出する。湿布をベッドの外へ放り捨て、彼はエフィミアにまたがったままおもむろに自身の服の前留めをはずした。

「ほら、おそろいだ」

 サテンのシャツの前が開かれ、今日まで決してさらされることのなかった若年な王の体が、橙の灯を浴びて薄い陰影を見せる。

 ほのかに骨格が浮くほど痩せた胸板に、エフィミアの目は自然と吸い寄せられた。長いすじ状に引きれた傷痕が、濃くはっきりと刻まれていた。

「これは、十歳のとき父上につけられたんだ。これにアレクスは薬をつけてくれた」

 息をのむエフィミアの手をとり、ルーファンスは前屈みになって自分の胸の傷痕に触れさせた。体温が低いのか、彼の胸は掌にひんやりとして感じるほど冷たかった。

「ほかにも……」

 囁くように言いながら、ルーファンスはシャツの前をさらに大きく開いた。そうして目の前に現されたものに、エフィミアは凍りついた。ルーファンスはエフィミアの手をつかみ直し、肉の薄い体に残る傷痕ひとつひとつに触れさせた。

「これは突き飛ばされた先にあった鏡が割れて裂けたんだ。こっちは食事をこぼしたことを怒られて、熱いティーポットを投げつけられときのものだ。ここは字を書き間違えた罰にペン先で刺された――みんなアレクスが治してくれたんだ」

 花がほころぶように、ルーファンスは笑った。エフィミアは彼の体から目が離せずに凝視したまま、たまらず震える声で言った。

「これ……みんな、お父さんに?」

 ルーファンスは感情の見えない笑みのまま目を細めた。

「そうだよ――母に似ているこの顔だけは、殴られなかったけれど。きっと父は、母の顔に男の体がついているのが腹立たしかったんだろう」
「ひどい……」

 過去に経験のないほどのショックに耐えきれず、エフィミアは顔をそむけた。

 切り傷、刺し傷、裂傷、打ち身、火傷……エフィミアが考えつきようのないほど無数の傷痕が、そこにあった。今まで服に隠されていた肩に、胸に、脇腹に――おそらく背中にも――刻まれた、折檻の痕跡。

 話を聞くだけでは理解できなかったものが、目の前に突きつけられた気がした――こんなもの、理解できるはずがない。

 あまりにも遠いできごとで、どうしたらこれだけの傷がつくのか、エフィミアには分からない。ただ、体の傷が増えるたびに心の傷も増えていったのだろうと思う。
 自分の子にこれだけのことができる親がいることが、エフィミアはなにより信じられなかった。

 不意に、ルーファンスが寂しげな声を出した。

「でもアレクスは、これには薬をつけてくれなかったな」

 エフィミアが恐る恐る顔を上げてルーファンスを見ると、彼は右掌に巻かれていた包帯をほどいた。つい先日裂いたばかりの掌が、縫い糸をそのままに引きつった傷口を見せていた。ルーファンスはその手で、すがるようにエフィミアの手を握った。

 肌に触れる縫い糸の異物感に、自然とエフィミアの体が強張った。ルーファンスが、身を乗り出して顔を寄せてくる。

「どうして、アレクスはわたしの傷を治してくれない? 君のはこうやって手当てしたのに。わたしも――わたしの方が、痛いのに」

 裂けた手に力が込められ、エフィミアの手が痛いほどに握られた。ルーファンスの力は容赦なく、エフィミアは苦痛に顔を歪める。

 ルーファンスの掌から濡れた感触が伝わってきた。縫合されていた傷が開き、血が滲み出してきている。しかし、ルーファンスは力をゆるめない。

「君がとったの?」

 なにを、と問う余裕はエフィミアになかった。らん、とルーファンスの碧眼が光った。

「君にはあげない。アレクスは、わたしのだ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

彼の巨大な体に覆われ、満たされ、貪られた——一晩中

桜井ベアトリクス
恋愛
妹を救出するため、一ヶ月かけて死の山脈を越え、影の沼地を泳ぎ、マンティコアとポーカー勝負までした私、ローズ。 やっと辿り着いた先で見たのは——フェイ王の膝の上で甘える妹の姿。 「助けなんていらないわよ?」 は? しかも運命の光が私と巨漢戦士マキシマスの間で光って、「お前は俺のものだ」宣言。 「片手だけなら……」そう妥協したのに、ワイン一杯で理性が飛んだ。 彼の心臓の音を聞いた瞬間、私から飛びついて、その夜、彼のベッドで戦士のものになった。

ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました

大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――

【完結】呪いを解いて欲しいとお願いしただけなのに、なぜか超絶美形の魔術師に溺愛されました!

藤原ライラ
恋愛
 ルイーゼ=アーベントロートはとある国の末の王女。複雑な呪いにかかっており、訳あって離宮で暮らしている。  ある日、彼女は不思議な夢を見る。それは、とても美しい男が女を抱いている夢だった。その夜、夢で見た通りの男はルイーゼの目の前に現れ、自分は魔術師のハーディだと名乗る。咄嗟に呪いを解いてと頼むルイーゼだったが、魔術師はタダでは願いを叶えてはくれない。当然のようにハーディは対価を要求してくるのだった。  解呪の過程でハーディに恋心を抱くルイーゼだったが、呪いが解けてしまえばもう彼に会うことはできないかもしれないと思い悩み……。 「君は、おれに、一体何をくれる?」  呪いを解く代わりにハーディが求める対価とは?  強情な王女とちょっと性悪な魔術師のお話。   ※ほぼ同じ内容で別タイトルのものをムーンライトノベルズにも掲載しています※

【短編】淫紋を付けられたただのモブです~なぜか魔王に溺愛されて~

双真満月
恋愛
不憫なメイドと、彼女を溺愛する魔王の話(短編)。 なんちゃってファンタジー、タイトルに反してシリアスです。 ※小説家になろうでも掲載中。 ※一万文字ちょっとの短編、メイド視点と魔王視点両方あり。

【R18】熱い夜の相手は王太子!? ~婚約者だと告げられましたが、記憶がございません~

世界のボボブラ汁(エロル)
恋愛
激しい夜を過ごしたあと、私は気づいてしまった。 ──え……この方、誰? 相手は王太子で、しかも私の婚約者だという。 けれど私は、自分の名前すら思い出せない。 訳も分からず散った純潔、家族や自分の姿への違和感──混乱する私に追い打ちをかけるように、親友(?)が告げた。 「あなた、わたくしのお兄様と恋人同士だったのよ」 ……え、私、恋人がいたのに王太子とベッドを共に!? しかも王太子も恋人も、社交界を騒がすモテ男子。 もしかして、そのせいで私は命を狙われている? 公爵令嬢ベアトリス(?)が記憶を取り戻した先に待つのは── 愛か、陰謀か、それとも破滅か。 全米がハラハラする宮廷恋愛ストーリー……になっていてほしいですね! ※本作品はR18表現があります、ご注意ください。

悪役令嬢と氷の騎士兄弟

飴爽かに
恋愛
この国には国民の人気を2分する騎士兄弟がいる。 彼らはその美しい容姿から氷の騎士兄弟と呼ばれていた。 クォーツ帝国。水晶の名にちなんだ綺麗な国で織り成される物語。 悪役令嬢ココ・レイルウェイズとして転生したが美しい物語を守るために彼らと助け合って導いていく。

男嫌いな王女と、帰ってきた筆頭魔術師様の『執着的指導』 ~魔道具は大人の玩具じゃありません~

花虎
恋愛
魔術大国カリューノスの現国王の末っ子である第一王女エレノアは、その見た目から妖精姫と呼ばれ、可愛がられていた。  だが、10歳の頃男の家庭教師に誘拐されかけたことをきっかけに大人の男嫌いとなってしまう。そんなエレノアの遊び相手として送り込まれた美少女がいた。……けれどその正体は、兄王子の親友だった。  エレノアは彼を気に入り、嫌がるのもかまわずいたずらまがいにちょっかいをかけていた。けれど、いつの間にか彼はエレノアの前から去り、エレノアも誘拐の恐ろしい記憶を封印すると共に少年を忘れていく。  そんなエレノアの前に、可愛がっていた男の子が八年越しに大人になって再び現れた。 「やっと、あなたに復讐できる」 歪んだ復讐心と執着で魔道具を使ってエレノアに快楽責めを仕掛けてくる美形の宮廷魔術師リアン。  彼の真意は一体どこにあるのか……わからないままエレノアは彼に惹かれていく。 過去の出来事で男嫌いとなり引きこもりになってしまった王女(18)×王女に執着するヤンデレ天才宮廷魔術師(21)のラブコメです。 ※ムーンライトノベルにも掲載しております。

コワモテ軍人な旦那様は彼女にゾッコンなのです~新婚若奥様はいきなり大ピンチ~

二階堂まや♡電書「騎士団長との~」発売中
恋愛
政治家の令嬢イリーナは社交界の《白薔薇》と称される程の美貌を持ち、不自由無く華やかな生活を送っていた。 彼女は王立陸軍大尉ディートハルトに一目惚れするものの、国内で政治家と軍人は長年対立していた。加えて軍人は質実剛健を良しとしており、彼女の趣味嗜好とはまるで正反対であった。 そのためイリーナは華やかな生活を手放すことを決め、ディートハルトと無事に夫婦として結ばれる。 幸せな結婚生活を謳歌していたものの、ある日彼女は兄と弟から夜会に参加して欲しいと頼まれる。 そして夜会終了後、ディートハルトに華美な装いをしているところを見られてしまって……?

処理中です...