湖の民

影燈

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 その夜、令は儺楼湖のほとりにいた。

 麻呂が、夜宿舎を抜け出して薬草を採りに行ったらいいと教えてくれたのだった。

 役人は祝宴を催すし、ほかの人足たちも疲れ果てて寝てしまう。

抜け出してもわからない、と教えてくれた。

 それで令は、人足たちが寝静まったのを見計らって、宿舎を抜け出てきたのだ。

 月夜で辺りは明るく、湖に顔を近づけると魚の泳いでいるのが見えるほどだった。

 令は、そこで祈りをささげた。
 昔、父から教えてもらったことだ。

 儺楼湖に入るときには、必ず水神様の許しを得なければならない。

 そこには水神様の巣があるからだ。

「水神様。お願いします。どうか、ぼくに薬草を採らせてください。病の母を助けたいのです。お願いします」

 令は、湖に向かって手を合わせたあと、そっと足から湖に入った。

 嫌な感じはしない。
むしろ、湖の水が、自分を受け入れてくれているような、そんな気がした。

 令はそのまま水底まで潜った。そこには目を瞠る光景が広がっていた。

 昼間は全然見つけられなかった薬草が、嘘のようにそこかしこに生えていたのだ。

 水底はもう一面虹色に光っている。
「水神様。ありがとうございます」

 令は心の中で水神に祈り、薬草を一つむしり取った。

 薬草はちょうど腕一本分くらいの長さで、それ一つでどれくらい使えるのかもわからなかったが、その光景があまりに神秘すぎて、それ以上薬草を採る気にはなれなかった。

 令が岸に上がると、なにか視線を感じた。
 はっとして振り向くと、湖の上に、少女が一人立っていた。

「人が――水の上に――?」
 風が吹いた。

 湖面が波紋を作るのに、なぜか、少女の長い髪も、白い小袖の裾もなびきはしなかった。

「早くここから立ち去れ」
 少女が言った。


「さもないと、命はないぞ」


 自分と変わらないような年の子からそんな言葉を聞かされて、令はなんと答えてよいかわからなかった。

 ただ、顔ははっきりと見えないのに、その少女がとても美しいと、そんなことを呑気に思っていた。

だから、
「君の名前は?」
などと聞けたのだ。

「――燐」
 リン。

 少女はそう、教えてくれた。

「おまえは、水神様が許した。だから襲わない。けれど、これ以上湖を荒らすものは、私たちが許さない。命が欲しくばさっさと去れ、令」

 燐は、太郎ではなく、令と呼んだ。
「君、どうしてぼくの名を――」

 令の問いは虚空に消えた。

 問うたときにすでに少女の姿は跡形もなく消えていたのだ。

「燐――」

 何者であろうか。

令は、月明かりに照らされた燐の白く輝く相貌を、忘れられそうにないのだった。













 翌朝――。

 令はひどい眠気に耐えながら、なんとか儺楼湖に向かった。

 昨夜、手に入れた薬草をもって逃げ出してもよかったのだが、それでは護衛官を務めている半井に咎が及ぶかもしれなかった。

 これまでさんざん迷惑をかけてきたのに、これ以上半井につらい思いをさせるのは嫌だった。

「君、昨日は湖に行ったの?」
 整列の前、麻呂が不思議そうに話しかけてきた。

 令が答えようとしたとき、号令の太鼓が鳴ってしまった。

「すいません」

 令は、麻呂にお礼が言えなかったことに悪いと思いながらも、出立前の整列に参加した。

 昨日よりも簡素に主任教官の斎藤が話をし、人足たちは湖に飛び込んだ。

 令も、怪しまれないように、湖に入る。

 だが、水底には薬草はおろか、金も宝も一切なくなっていた。

 昨日はところどころ光っていた湖底が、今はただ黄土色が広がるばかり。

 令がおかしいと思って水面に上がると、ほかの人足たちも潜るのをやめて浮上していた。

「どうした。早く掘りに行け!」
 加藤が檄を飛ばすが、ないものは取りに行っても仕方がない。

「でもお役人様。水底にはなんもねえですら」
 ゴンザが人足を代表して答えた。

「なに? 何もないとはどういうことだ」

「そのまんまの意味ですら。金も宝も薬草も、なんもなくなってる」

「なんだと。どういうことだ」

「わかりませんら。そんなことは、わしらが聞きたいら」

 役人たちは集まって何事か相談しはじめた。

 半井は表情を変えずにいる。

どうするのだろうかと令が思っていると、ゴンザが令を見て言った。

「ああ、お役人様。儂には、一つ心当たりがありますら」

 加藤がその声に振り向き、「なんだ。言ってみろ」と言った。

 令はその瞬間悪い予感がしたが、すでに遅かった。

「この小僧が、独り占めしたんですら」

 この小僧、と言ってゴンザが指さしたのは、令だった。

 令は驚いて、「そんなことしてません」と言ったが、ゴンザは取り合わない。

「儂は昨日の夜、おまえが宿舎を抜け出したのを見たんら。夜のうちに湖に一人で来て、宝を全部採ったんらろ!」

「違います!」

「じゃあ、昨日の夜、どこに行ってたんら」

「それは――」
 令は、嘘が苦手だ。

 つい、湖に来ていたことを、話してしまいそうになる。

だが、それを明かすわけにはいかない。
令が困っていると、意外なところから助け船が出た。

「ああ、この小僧とは昨日の夜、厠で会ったな。じいさんが見たのは、小僧が厠へ行くときのことだろう」

 そう言ってくれたのは、令が名前も知らない男だった。

 でも、顔は見たことがある。

昨日、浮力の強いところでもがいていて、水の中に潜れないでいた人だ。

 令は厠へ行っていない。この人にも会っていない。

 令が、昨日潜れるところを教えてやったから、恩を返してくれたのだろう。

 それに慌てたのは、ゴンザだった。

「嘘だ! こいつは帰ってきたとき、濡れていたんだ。それが湖に来ていた証拠だろう。こいつは夜のうちに潜って、のきなみ金、財宝をさらっていったんら!」

 ゴンザはむきになって言うが、半井はじめ、ほかの役人も取り合おうとはしなかった。それには理由がある。

「どうやって、夜に潜ったというんだ」
 半井のその言葉に、ゴンザは口をつぐむ。

 それが何を意味しているのか、このとき、令にもよくわからなかったが、加藤の言葉で合点がいった。

「儺楼湖には夜行性の人食い魚がいる。前に、夜抜け出して湖に潜った者が、骨だけになって翌朝浮かんでいたのを、おまえも見ていたはずだ」

 それを聞いて、ゴンザの顔色が急に青くなった。
そのときのことを、思い出したのだろう。

 令も、それを想像するだけでゾッとした。

というか、夜潜るのがそんなに危険だと知っていたら、決して潜ろうとなどしなかったのに。

 でも、令は無事だった。
 それはやはり、水神様が許してくれたということなのだろうか。

 だが、ゴンザはまだ納得していないようだった。
「また、なんかあんたが手助けしたんだろう」

 ゴンザは、半井を指さして言った。

「あんた、この小僧と知り合いだろう。儂は見ていたぞ。こいつは街道であんたの馬の前に飛び出してきた子どもだ。あんたを先生と呼んでいた。教え子だから、かくまっているんだら!?」

 半井もまた嘘が得意ではない。

 何か言えばいいのに、むっと黙ったまま、口を開かなくなった。

 頼むよ、先生。
 令は内心冷や冷やしている。

 昔もよく、令たちのいたずらに巻き込まれた半井は、うまくごまかせずに和尚に一緒に怒られていた。

 でも、今は怒られるだけじゃ済まないのだ。

 なんとかうまくやり過ごしてくれと、令が祈るように半井を見つめていると、
「そうなのか? 半井」
 加藤が半井に詰め寄った。

 半井が黙ったままでいると、突如辺りがまばゆい光に包まれた。

 追って、雷鳴がとどろいた。

 前置きなく雨がドシャドシャと降り注ぎ、一気に暗くなった空に不機嫌な音が鳴り響き続ける。

「岸に上がれ!」
 半井が叫んだ。

 人足たちは我先にと岸に上がっていく。
令もそれに続こうとしたが、後ろから服をつかまれ、湖に引きずり戻された。

 代わりに岸に上がったのは、ゴンザだった。
「悪いな、小僧。儂はまだ死ぬわけにゃいかねえんだ」

 そんなの、ぼくだって同じだ。
ぼくは、ぼくが、母さんと弟を助けてやらなくてはならない。のに――。

 稲光が暗い空を裂いていった。
 その寸前、令は頭をつかまれ、水の中に押し込まれていた。
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