悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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元彼というやつ

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 スマホがベッドの中で震える。うっかり手に持ったまま寝てしまったので、その振動で目が覚めた。
 音を立てずにゆっくり動く。たろちゃんはぐっすり寝ているようだった。
 暗闇に目が慣れていたせいで、スマホの明かりの眩しさにギュッと目を瞑った。うっすら開けて確認すると、誰かが私にメッセージを送ってきたようだった。
 上部のデジタル数字が示すのは、夜中の二時だ。こんな時間に連絡を寄越す奴は、梨花くらいだった。
 話なら明日聞くのに。そう思いながらアイコンをタップすると、そこに現れた事実に、思わず目を見張った。

『蓮見』

 連絡は、彼からだった。その瞬間、眠気も吹き飛ぶ。
──こんな時間になんだろう。
 ソワソワしつつも、それでも初めて連絡が来た時よりは冷静に、タップした。

『飲みに行く場所、どこがいい?』

 脱力だ。これこそいつだっていいじゃないか。蓮見って本当につくづくマイペースな奴。

『どこでもいいけど……でも美穂子呼ぶならオシャレなところじゃないと怒るかもよ? ていうか、賢治くん忙しいみたいだけど予定空いてたの?』

 急いで送信したら、これまた直ぐに返事が来た。

『え? なんで? 俺は宮下さんと二人のつもりだけど』

 『二人』という文字が画面から浮かんで見えた。途端に心臓がドクンと波打つ。やばい、焦って誤変換しないようにしないと。冷静に。

『あ、そーなんだ。了解』

 ぶっきらぼうに見えるかもしれないが、これが精一杯だった。余計な文字を入れると、こっちの思いまで見透かされそうだからだ。

『時間は八時で』

 私に聞くでもなく、蓮見がそう決めた。その内容に既読だけつけ、私はスマホを横に置いた。
──二人って。
 てっきり、またみんなで集まろうとかそういうノリだと思ってた。というか、そうとしか取れないだろう、この場合。だって私たちはとっくに──
 私は再び目を瞑り、眠ることだけに意識を集中した。けれども、眠ろうとすればするほど、頭の中に疑問と後悔が浮かんでは消えた。
 結局、鳥の鳴き声が聞こえてくる時間まで、眠ることはできなかった。





 「これってデートなんだろうか」と訊いたら、「それってデートでしょ」とたろちゃんがあっけらかんと答えた。
 例のメッセージから二日後のことだ。仕事から帰ってきた私は、同じくどこか・・・から帰ってきたたろちゃんと夜ご飯の準備に励んでいた。
 サヤエンドウの味噌汁を作るのに、二人して細々と筋を取っている。
 たろちゃんは結局、次の日の朝何事も無かったかのように話しかけてきた。彼が大人と言うよりは、そもそも『喧嘩した』という意識がないんだと思う。ここで意地を張るのも大人気ないので、私も彼に合わせて普通に接することにした。

「ていうか千春さん、ちゃんとデートする相手いるんじゃん? 俺、心配して損した」

「なにそれっ。や、でもまだデートって決まったわけじゃ……」

「デートだって。千春さんもそう思ったから俺に言ったんでしょ? 『金曜の夜は家を空けて』って」

 そう。そんなこと万が一も億が一もないと思うが、かと言って全くないとも言いきれない。もし、もしもこの部屋に蓮見が来るとしたら、その時にたろちゃんが居たらおかしなことになる。
 私の勝手な申し出に、彼は二つ返事でオーケーした。

「ねー、その人どんな人?」

「は? どんなって?」

「だからさー、どういう知り合い? 最近知り合ったの?」

 たろちゃんはとても器用で、彼の目の前の皿には、私のものの二倍ほどの量のサヤエンドウが乗っていた。

「高校の同級生」

「へー」

「──で、元彼」

「ふーん……て、え?」

 たろちゃんが手に持っていたサヤエンドウをポロリと落とした。わかりやすい驚きように思わず笑ってしまう。
 目を丸くした彼は何も言わないが、詳細を求めているのがなんとなく伝わった。

「高校の時ね、四人でいつもつるんでたの。私と、今はもう主婦になっちゃった美穂子と、大手銀行でバリバリやってる賢治くんと、そんで蓮見……彼ね」

「うん」

「当時は何もなかったの。周りからは不思議がられたけど……でも四人の中で付き合ったりとかは、全然」

「へー、純粋な友情だったんだ? なんかいいね」

 たろちゃんが肯定してくれたことにホッとしつつ、私は続きを話すために口を開いた。

「純粋……でもないかな。何もなかったけど……でも私は好きだった。蓮見のことが好きだったんだ」

 たろちゃんの目が、興味津々といったように爛々と輝きだした。

「あ……でも別に告白もしないまま卒業して……」

「えー? 告んなかったの?」

「告白なんてできないよ。だって当時の私たちは『仲良し四人グループ』だったんだもん。変に踏み込んだら、すぐ壊れちゃう。壊したくなかったの」

「ふーん……」

 イマイチ腑に落ちない顔をしている。きっと彼にはわからないだろう。だってたろちゃんは、すごく自由だから。

「再び会ったのは、ありがちなんだけど同窓会。大学を卒業して働き始めた頃だった。私と美穂子は連絡を取り合ってたんだけど、県外の大学に行った蓮見とは全然で……それで本当に久しぶりに会ったの」

 私は、今となってはもう懐かしいとさえ感じる、あの春の日を思い返した。
 大学生、そして社会人になっていろんな人と出会ったけど、誰も蓮見には敵わなかった。実らなかった恋が、自分の中でいつまでも燻っていたんだ。久しぶりに会った彼はやっぱり素敵で、この想いを断ち切るためにも言うしかなかった。

「──それで告ったんだ?」

 たろちゃんの問いかけに、ゆっくり頷いた。

「『俺も好きだった』って」

 馬鹿みたいな回り道をしたなと思うけど、それでも嬉しかった。好きな人が自分を好きだなんて、奇跡みたいだった。

「へぇ! それで付き合ったんだ」

「うん、でも──」

 三年。三年で私たちは終わりを迎えた。奇跡を大切にしなかったバチが当たったんだと思う。あっけなくて、寂しい終わり方だった。
 私はあの日から、ずっと何かを抱えている。蓮見と別れてから、周りも呆れるくらいたくさん合コンに参加した。いいなと思う人が全くいなかったわけではない。デートだって何回かした。けれども、そこから本格的な『お付き合い』に発展する人は一人もいなかった。
 そうこうしている内に、気づいたら二十九になっていた。
 まだ蓮見を好きなのかと聞かれると、首を横に振る自信がある。そういうのじゃないんだ。私たちは、あの日あの時に終わったんだから。
 続きを口にしない私を見て、たろちゃんは何を思ったのか、おもむろに立ち上がった。マグカップに何かを注ぐ音がする。

「はい、これ、コーヒー。……インスタントだけど」

 私の目の前にコーヒーを差し出すと、たろちゃんは再び椅子に腰掛けた。何も言わない。何も訊かない。これはきっと、たろちゃんの優しさなんだ。

「ありがとう……でも、ご飯前なのに?」

 くすりと微笑みかけると、たろちゃんは真顔で固まった。

「い、いーんだよ! 飲みたくなった時に飲めば!」

 サヤエンドウの筋を取ろうとあたふたしている。でもそれは、もう筋を取り終わったやつなんだけどな。
 昨日偉そうに恋愛を語っていた彼との違いが可笑しかった。ここにいるのは、間違いなくハタチのたろちゃんだ。

「そーだね。飲みたくなったら飲む。恋愛も……したくなったらすればいっか……」

「え──」

 私の言葉が聞き取れなかったのか、たろちゃんは変な顔で私を見ていた。
 流れに身を任せて恋愛、やってみようか。この年だけど……でもこの年だからこそ。今まで頑なだったのが、たろちゃんと話したことで不思議とそう思えるようになった。
 たろちゃんは、不思議。
 梨花や京子さんに言えなかった蓮見のことを、たろちゃんになら話せる。きっと彼が、行きずりの『ただの同居人』だからなんだ。名前も知らない、ただの──


 その日の夜はすごく穏やかな気持ちだった。新しい自分の初めての夜。
 たろちゃんは、恋人としてはサイテーかもしれないけど、友人としてなら付き合えるかもしれない。そんなことを考えながら、眠りについた。
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