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元彼というやつ
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スマホがベッドの中で震える。うっかり手に持ったまま寝てしまったので、その振動で目が覚めた。
音を立てずにゆっくり動く。たろちゃんはぐっすり寝ているようだった。
暗闇に目が慣れていたせいで、スマホの明かりの眩しさにギュッと目を瞑った。うっすら開けて確認すると、誰かが私にメッセージを送ってきたようだった。
上部のデジタル数字が示すのは、夜中の二時だ。こんな時間に連絡を寄越す奴は、梨花くらいだった。
話なら明日聞くのに。そう思いながらアイコンをタップすると、そこに現れた事実に、思わず目を見張った。
『蓮見』
連絡は、彼からだった。その瞬間、眠気も吹き飛ぶ。
──こんな時間になんだろう。
ソワソワしつつも、それでも初めて連絡が来た時よりは冷静に、タップした。
『飲みに行く場所、どこがいい?』
脱力だ。これこそいつだっていいじゃないか。蓮見って本当につくづくマイペースな奴。
『どこでもいいけど……でも美穂子呼ぶならオシャレなところじゃないと怒るかもよ? ていうか、賢治くん忙しいみたいだけど予定空いてたの?』
急いで送信したら、これまた直ぐに返事が来た。
『え? なんで? 俺は宮下さんと二人のつもりだけど』
『二人』という文字が画面から浮かんで見えた。途端に心臓がドクンと波打つ。やばい、焦って誤変換しないようにしないと。冷静に。
『あ、そーなんだ。了解』
ぶっきらぼうに見えるかもしれないが、これが精一杯だった。余計な文字を入れると、こっちの思いまで見透かされそうだからだ。
『時間は八時で』
私に聞くでもなく、蓮見がそう決めた。その内容に既読だけつけ、私はスマホを横に置いた。
──二人って。
てっきり、またみんなで集まろうとかそういうノリだと思ってた。というか、そうとしか取れないだろう、この場合。だって私たちはとっくに──
私は再び目を瞑り、眠ることだけに意識を集中した。けれども、眠ろうとすればするほど、頭の中に疑問と後悔が浮かんでは消えた。
結局、鳥の鳴き声が聞こえてくる時間まで、眠ることはできなかった。
◇
「これってデートなんだろうか」と訊いたら、「それってデートでしょ」とたろちゃんがあっけらかんと答えた。
例のメッセージから二日後のことだ。仕事から帰ってきた私は、同じくどこかから帰ってきたたろちゃんと夜ご飯の準備に励んでいた。
サヤエンドウの味噌汁を作るのに、二人して細々と筋を取っている。
たろちゃんは結局、次の日の朝何事も無かったかのように話しかけてきた。彼が大人と言うよりは、そもそも『喧嘩した』という意識がないんだと思う。ここで意地を張るのも大人気ないので、私も彼に合わせて普通に接することにした。
「ていうか千春さん、ちゃんとデートする相手いるんじゃん? 俺、心配して損した」
「なにそれっ。や、でもまだデートって決まったわけじゃ……」
「デートだって。千春さんもそう思ったから俺に言ったんでしょ? 『金曜の夜は家を空けて』って」
そう。そんなこと万が一も億が一もないと思うが、かと言って全くないとも言いきれない。もし、もしもこの部屋に蓮見が来るとしたら、その時にたろちゃんが居たらおかしなことになる。
私の勝手な申し出に、彼は二つ返事でオーケーした。
「ねー、その人どんな人?」
「は? どんなって?」
「だからさー、どういう知り合い? 最近知り合ったの?」
たろちゃんはとても器用で、彼の目の前の皿には、私のものの二倍ほどの量のサヤエンドウが乗っていた。
「高校の同級生」
「へー」
「──で、元彼」
「ふーん……て、え?」
たろちゃんが手に持っていたサヤエンドウをポロリと落とした。わかりやすい驚きように思わず笑ってしまう。
目を丸くした彼は何も言わないが、詳細を求めているのがなんとなく伝わった。
「高校の時ね、四人でいつもつるんでたの。私と、今はもう主婦になっちゃった美穂子と、大手銀行でバリバリやってる賢治くんと、そんで蓮見……彼ね」
「うん」
「当時は何もなかったの。周りからは不思議がられたけど……でも四人の中で付き合ったりとかは、全然」
「へー、純粋な友情だったんだ? なんかいいね」
たろちゃんが肯定してくれたことにホッとしつつ、私は続きを話すために口を開いた。
「純粋……でもないかな。何もなかったけど……でも私は好きだった。蓮見のことが好きだったんだ」
たろちゃんの目が、興味津々といったように爛々と輝きだした。
「あ……でも別に告白もしないまま卒業して……」
「えー? 告んなかったの?」
「告白なんてできないよ。だって当時の私たちは『仲良し四人グループ』だったんだもん。変に踏み込んだら、すぐ壊れちゃう。壊したくなかったの」
「ふーん……」
イマイチ腑に落ちない顔をしている。きっと彼にはわからないだろう。だってたろちゃんは、すごく自由だから。
「再び会ったのは、ありがちなんだけど同窓会。大学を卒業して働き始めた頃だった。私と美穂子は連絡を取り合ってたんだけど、県外の大学に行った蓮見とは全然で……それで本当に久しぶりに会ったの」
私は、今となってはもう懐かしいとさえ感じる、あの春の日を思い返した。
大学生、そして社会人になっていろんな人と出会ったけど、誰も蓮見には敵わなかった。実らなかった恋が、自分の中でいつまでも燻っていたんだ。久しぶりに会った彼はやっぱり素敵で、この想いを断ち切るためにも言うしかなかった。
「──それで告ったんだ?」
たろちゃんの問いかけに、ゆっくり頷いた。
「『俺も好きだった』って」
馬鹿みたいな回り道をしたなと思うけど、それでも嬉しかった。好きな人が自分を好きだなんて、奇跡みたいだった。
「へぇ! それで付き合ったんだ」
「うん、でも──」
三年。三年で私たちは終わりを迎えた。奇跡を大切にしなかったバチが当たったんだと思う。あっけなくて、寂しい終わり方だった。
私はあの日から、ずっと何かを抱えている。蓮見と別れてから、周りも呆れるくらいたくさん合コンに参加した。いいなと思う人が全くいなかったわけではない。デートだって何回かした。けれども、そこから本格的な『お付き合い』に発展する人は一人もいなかった。
そうこうしている内に、気づいたら二十九になっていた。
まだ蓮見を好きなのかと聞かれると、首を横に振る自信がある。そういうのじゃないんだ。私たちは、あの日あの時に終わったんだから。
続きを口にしない私を見て、たろちゃんは何を思ったのか、おもむろに立ち上がった。マグカップに何かを注ぐ音がする。
「はい、これ、コーヒー。……インスタントだけど」
私の目の前にコーヒーを差し出すと、たろちゃんは再び椅子に腰掛けた。何も言わない。何も訊かない。これはきっと、たろちゃんの優しさなんだ。
「ありがとう……でも、ご飯前なのに?」
くすりと微笑みかけると、たろちゃんは真顔で固まった。
「い、いーんだよ! 飲みたくなった時に飲めば!」
サヤエンドウの筋を取ろうとあたふたしている。でもそれは、もう筋を取り終わったやつなんだけどな。
昨日偉そうに恋愛を語っていた彼との違いが可笑しかった。ここにいるのは、間違いなくハタチのたろちゃんだ。
「そーだね。飲みたくなったら飲む。恋愛も……したくなったらすればいっか……」
「え──」
私の言葉が聞き取れなかったのか、たろちゃんは変な顔で私を見ていた。
流れに身を任せて恋愛、やってみようか。この年だけど……でもこの年だからこそ。今まで頑なだったのが、たろちゃんと話したことで不思議とそう思えるようになった。
たろちゃんは、不思議。
梨花や京子さんに言えなかった蓮見のことを、たろちゃんになら話せる。きっと彼が、行きずりの『ただの同居人』だからなんだ。名前も知らない、ただの──
その日の夜はすごく穏やかな気持ちだった。新しい自分の初めての夜。
たろちゃんは、恋人としてはサイテーかもしれないけど、友人としてなら付き合えるかもしれない。そんなことを考えながら、眠りについた。
音を立てずにゆっくり動く。たろちゃんはぐっすり寝ているようだった。
暗闇に目が慣れていたせいで、スマホの明かりの眩しさにギュッと目を瞑った。うっすら開けて確認すると、誰かが私にメッセージを送ってきたようだった。
上部のデジタル数字が示すのは、夜中の二時だ。こんな時間に連絡を寄越す奴は、梨花くらいだった。
話なら明日聞くのに。そう思いながらアイコンをタップすると、そこに現れた事実に、思わず目を見張った。
『蓮見』
連絡は、彼からだった。その瞬間、眠気も吹き飛ぶ。
──こんな時間になんだろう。
ソワソワしつつも、それでも初めて連絡が来た時よりは冷静に、タップした。
『飲みに行く場所、どこがいい?』
脱力だ。これこそいつだっていいじゃないか。蓮見って本当につくづくマイペースな奴。
『どこでもいいけど……でも美穂子呼ぶならオシャレなところじゃないと怒るかもよ? ていうか、賢治くん忙しいみたいだけど予定空いてたの?』
急いで送信したら、これまた直ぐに返事が来た。
『え? なんで? 俺は宮下さんと二人のつもりだけど』
『二人』という文字が画面から浮かんで見えた。途端に心臓がドクンと波打つ。やばい、焦って誤変換しないようにしないと。冷静に。
『あ、そーなんだ。了解』
ぶっきらぼうに見えるかもしれないが、これが精一杯だった。余計な文字を入れると、こっちの思いまで見透かされそうだからだ。
『時間は八時で』
私に聞くでもなく、蓮見がそう決めた。その内容に既読だけつけ、私はスマホを横に置いた。
──二人って。
てっきり、またみんなで集まろうとかそういうノリだと思ってた。というか、そうとしか取れないだろう、この場合。だって私たちはとっくに──
私は再び目を瞑り、眠ることだけに意識を集中した。けれども、眠ろうとすればするほど、頭の中に疑問と後悔が浮かんでは消えた。
結局、鳥の鳴き声が聞こえてくる時間まで、眠ることはできなかった。
◇
「これってデートなんだろうか」と訊いたら、「それってデートでしょ」とたろちゃんがあっけらかんと答えた。
例のメッセージから二日後のことだ。仕事から帰ってきた私は、同じくどこかから帰ってきたたろちゃんと夜ご飯の準備に励んでいた。
サヤエンドウの味噌汁を作るのに、二人して細々と筋を取っている。
たろちゃんは結局、次の日の朝何事も無かったかのように話しかけてきた。彼が大人と言うよりは、そもそも『喧嘩した』という意識がないんだと思う。ここで意地を張るのも大人気ないので、私も彼に合わせて普通に接することにした。
「ていうか千春さん、ちゃんとデートする相手いるんじゃん? 俺、心配して損した」
「なにそれっ。や、でもまだデートって決まったわけじゃ……」
「デートだって。千春さんもそう思ったから俺に言ったんでしょ? 『金曜の夜は家を空けて』って」
そう。そんなこと万が一も億が一もないと思うが、かと言って全くないとも言いきれない。もし、もしもこの部屋に蓮見が来るとしたら、その時にたろちゃんが居たらおかしなことになる。
私の勝手な申し出に、彼は二つ返事でオーケーした。
「ねー、その人どんな人?」
「は? どんなって?」
「だからさー、どういう知り合い? 最近知り合ったの?」
たろちゃんはとても器用で、彼の目の前の皿には、私のものの二倍ほどの量のサヤエンドウが乗っていた。
「高校の同級生」
「へー」
「──で、元彼」
「ふーん……て、え?」
たろちゃんが手に持っていたサヤエンドウをポロリと落とした。わかりやすい驚きように思わず笑ってしまう。
目を丸くした彼は何も言わないが、詳細を求めているのがなんとなく伝わった。
「高校の時ね、四人でいつもつるんでたの。私と、今はもう主婦になっちゃった美穂子と、大手銀行でバリバリやってる賢治くんと、そんで蓮見……彼ね」
「うん」
「当時は何もなかったの。周りからは不思議がられたけど……でも四人の中で付き合ったりとかは、全然」
「へー、純粋な友情だったんだ? なんかいいね」
たろちゃんが肯定してくれたことにホッとしつつ、私は続きを話すために口を開いた。
「純粋……でもないかな。何もなかったけど……でも私は好きだった。蓮見のことが好きだったんだ」
たろちゃんの目が、興味津々といったように爛々と輝きだした。
「あ……でも別に告白もしないまま卒業して……」
「えー? 告んなかったの?」
「告白なんてできないよ。だって当時の私たちは『仲良し四人グループ』だったんだもん。変に踏み込んだら、すぐ壊れちゃう。壊したくなかったの」
「ふーん……」
イマイチ腑に落ちない顔をしている。きっと彼にはわからないだろう。だってたろちゃんは、すごく自由だから。
「再び会ったのは、ありがちなんだけど同窓会。大学を卒業して働き始めた頃だった。私と美穂子は連絡を取り合ってたんだけど、県外の大学に行った蓮見とは全然で……それで本当に久しぶりに会ったの」
私は、今となってはもう懐かしいとさえ感じる、あの春の日を思い返した。
大学生、そして社会人になっていろんな人と出会ったけど、誰も蓮見には敵わなかった。実らなかった恋が、自分の中でいつまでも燻っていたんだ。久しぶりに会った彼はやっぱり素敵で、この想いを断ち切るためにも言うしかなかった。
「──それで告ったんだ?」
たろちゃんの問いかけに、ゆっくり頷いた。
「『俺も好きだった』って」
馬鹿みたいな回り道をしたなと思うけど、それでも嬉しかった。好きな人が自分を好きだなんて、奇跡みたいだった。
「へぇ! それで付き合ったんだ」
「うん、でも──」
三年。三年で私たちは終わりを迎えた。奇跡を大切にしなかったバチが当たったんだと思う。あっけなくて、寂しい終わり方だった。
私はあの日から、ずっと何かを抱えている。蓮見と別れてから、周りも呆れるくらいたくさん合コンに参加した。いいなと思う人が全くいなかったわけではない。デートだって何回かした。けれども、そこから本格的な『お付き合い』に発展する人は一人もいなかった。
そうこうしている内に、気づいたら二十九になっていた。
まだ蓮見を好きなのかと聞かれると、首を横に振る自信がある。そういうのじゃないんだ。私たちは、あの日あの時に終わったんだから。
続きを口にしない私を見て、たろちゃんは何を思ったのか、おもむろに立ち上がった。マグカップに何かを注ぐ音がする。
「はい、これ、コーヒー。……インスタントだけど」
私の目の前にコーヒーを差し出すと、たろちゃんは再び椅子に腰掛けた。何も言わない。何も訊かない。これはきっと、たろちゃんの優しさなんだ。
「ありがとう……でも、ご飯前なのに?」
くすりと微笑みかけると、たろちゃんは真顔で固まった。
「い、いーんだよ! 飲みたくなった時に飲めば!」
サヤエンドウの筋を取ろうとあたふたしている。でもそれは、もう筋を取り終わったやつなんだけどな。
昨日偉そうに恋愛を語っていた彼との違いが可笑しかった。ここにいるのは、間違いなくハタチのたろちゃんだ。
「そーだね。飲みたくなったら飲む。恋愛も……したくなったらすればいっか……」
「え──」
私の言葉が聞き取れなかったのか、たろちゃんは変な顔で私を見ていた。
流れに身を任せて恋愛、やってみようか。この年だけど……でもこの年だからこそ。今まで頑なだったのが、たろちゃんと話したことで不思議とそう思えるようになった。
たろちゃんは、不思議。
梨花や京子さんに言えなかった蓮見のことを、たろちゃんになら話せる。きっと彼が、行きずりの『ただの同居人』だからなんだ。名前も知らない、ただの──
その日の夜はすごく穏やかな気持ちだった。新しい自分の初めての夜。
たろちゃんは、恋人としてはサイテーかもしれないけど、友人としてなら付き合えるかもしれない。そんなことを考えながら、眠りについた。
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