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蓋をして
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はぁ。
本日三十回目のため息をつく。別に数えていたわけではないけど、多分そのくらいだと思う。
ぼーっとしていたら、フライパンの上の卵が固まりすぎていた。切ったら中からじゅわ~どろぉ~っとなるオムレツライスを作りたかったのに、これじゃあ卵の塊ライスみたいだ。失敗、でも自分の分だけだからどうでもいいか。
あの日からたろちゃんは家に帰ってこない。いや、正確には、夜中に帰ってきて明け方出かけている。だから私とは顔も合わせない生活が続いていた。
きっと『マリコさん』の所にいるんだと思う。けどもう、どうでもいい。
こうやってたろちゃんがいない生活を始めてみたら、寂しくなるかと思ったけど、意外となんとかなった。いやむしろ、顔を合わせないことで心の整理ができている気がするから、この方がかえってよかったのかもしれない。
そう、これでよかったんだ。
そばに居るのが当たり前で、自分に笑いかけてくれるから期待してしまう。たろちゃんは『マリコさん』のもので、私はただの同居人。そう思ってしまえば意外とすんなり納得できる自分がいた。
見栄えの悪いオムライスに、ケチャップをたっぷりかける。口に入ればどんな形をしていようが、同じことだ。そう思ったのに、いざ食べてみるとチキンライスの味付けがしょっぱすぎた。
はぁ。三十一回目のため息(おそらく)をつくと、同時にベッドに放り投げてあったスマホがメロディを奏でた。
珍しい。電話だ。
急いでスマホを手に取ると、またもや珍しい名前がディスプレイに表示された。
「もしもし、美穂子?」
蓮見と共に仲の良かった友人四人組のうちの一人、美穂子だ。彼女が結婚したのが三年前。式に参列して以来、今日まで一度も会えていなかった。
「うん、うん……久しぶり! え? え、今? うん、大丈夫だけど……。え、もう? わ、わかった……すぐ片付ける! うん、うん、はーい」
なんて短い電話。要件はこれだけだった。『今から会えない?』
たしかに久しぶりに会えるのは嬉しい。嬉しいけど、でもこんな急に、一体何があったんだろう。時刻は二十時をまわったところ。普通の主婦ならば出歩く時間じゃないはずだけど……。
しかも『すぐ近くまで来てるから、もうすぐ着くよ』なんて。たろちゃんが最近遅いからよかったものの、もしこの部屋にいる時に来られたら、それこそ梨花の二の舞になりかねない。
とりあえず大慌てで掃除機をかけた。ぐるりと見回し、たろちゃんの形跡がないことを確認する。もしたろちゃんが今日に限って早く帰ってきたら……そんなことないと思うけど……もしそうなったら、その時はその時だ。
うん、と頷くと、すぐにピンポーンとチャイムが鳴った。
本当に早かった。電話から五分後のことだ。最後にもう一度見回して、ドアを開ける。
「あ、久しぶりー、元気だったー?」
「元気元気! あ、上がって」
美穂子だ。優しくて綺麗で姉御肌の、美穂子だ。雰囲気は変わってないけど、少しやつれている気がする。結婚式でのドレス姿を見た時も痩せたなぁと思ったけど、今はそれ以上だ。
「うわっ、女らしさの欠けらも無い部屋」
「それ言わないで。あ、紅茶? ルイボスティーもあるよ?」
「じゃあルイボスティー貰おうかな」
相変わらずズバズバ言ってくる、美穂子。このやり取りが昔を思い出すようで懐かしくなる。
美穂子はたろちゃんの定位置のソファに座った。そこは特に念入りに掃除したから、髪の毛一本もない、はず。
温かいルイボスティーをテーブルの上に置いた所で美穂子が切り出した。
「蓮見となんかあった?」
「な! なんかって! な、なんで!」
私の言葉に美穂子はニヤリと微笑んだ。
「おおかた、好きだとでも言われたんでしょ」
「な! なんで!」
今客観的に見ても、すごくわかりやすい反応をしているな私、と思う。墓穴を掘るってこういうことか。
「風の便り?」
「なにその疑問形……」
──落ち着け、落ち着け私
美穂子の正面に座ると、動揺を悟られないよう、ゆっくりマグカップに口をつける。温かいルイボスティー。一口飲むとたちまちホッとする。
「……私の話はいいから。美穂子こそ、旦那さん元気? こんな時間に外出して平気なの?」
わざわざこんな時間にやってきたのだ。蓮見とのことを聞きに来た、というのは考えにくい。きっと何か大事なことを言いに来たに違いない。
ナチュラルに美穂子に話題を向けると、当の本人はたちまち浮かない顔で、飲み終わったであろうカップの底を見つめた。
ただ事じゃない雰囲気。いつもの美穂子なら、自分の話はもったいつけずに真っ先に言いそうなのに。
「あー……もしかして、喧嘩しちゃった?」
恐る恐る訊ねてみた。
「そうなのよー」と明るい笑い声が続くものだと思った。だけど、彼女から発せられたのはふぅ、という重たいため息だけだった。
美穂子はしばらくじっと石のように動かなかったけれど、やがてパッと顔を上げると意を決したように口を開いた。
「あのね千春、私…………離婚したの」
『リコンシタノ』
一瞬、その言葉の意味がよく分からず、私の耳から零れ落ちる。反芻するうちに『リコン』が『離婚』だと気づいた。
「え……う、うそ……」
「本当なの。ごめんね、式にも出てもらったのに。だから、これ……」
そう言って、美穂子が取り出したのは白い封筒。中には御祝儀の半分程のお金が入っていた。
「こ、こんなの受け取れないよ!」
「ううん、お願い受け取って。こうでもしないと、気が済まないの」
もしかして、参列者一人一人にこうして謝ってまわってるんだろうか。律儀で真面目な美穂子らしい。
一度こうと決めたら意見を曲げない彼女のことだ。ここは一旦受け取らないと話が進まないだろう。
「わかった……」
封筒を手にすると、美穂子は『助かった』とでもいうような安堵の表情を浮かべた。
「これは一旦もらう。だけど、何か困ったことがあったらすぐ言って? 私じゃ頼りないかもしれないけど……」
「ううん、ありがとう」
美穂子はそう口にしながらも、視線を泳がせる。気まずそうに、小さな声でこう言った。
「……すぐに離婚だなんて……ひくよね」
「何言ってんの! フツーだって! アリだよ、アリ!」
私の慌てた姿が可笑しかったのか、美穂子はくすくす笑いだした。
「り、離婚なんてイマドキ三組に一組がするって言うじゃん。そんな重く考えなくていいんじゃない? あ、ほら、うちだって離婚しそうになったし」
テレビで聞きかじった情報を話す、独身女。だめだ、経験値がなさすぎて、こんな時にどう慰めたらいいかわからない。
「うち……? あ、千春のご両親?」
脳内プチパニックに陥っている中、美穂子は私の言葉からある一部分を拾って訊ねた。
「あ……うん。中学の時だったから話してなかったと思うけど、うちの親、一度離婚危機を迎えてたんだよね」
「ええ! びっくり……だってお会いした時はすごく仲良さそうで……」
「うん、まぁ一応モトサヤ? そこらへん、よくわかんないけど──」
話してて思った。これって 全然慰めになってない。『親が離婚した話』ならともかく、『親が離婚しそうになって結局モトサヤに戻った話』なんて。けれども美穂子は興味津々といった様子で相槌をうっていた。
「……ごめん、関係ない話しちゃった」
「どうして! お願い、その話聞かせてよ」
離婚しなかった話でいいんだろうか。私は美穂子に促されるままに、昔の両親の修羅場を話し出した。
そう、修羅場だ。あれは間違いなく、両親にとっても私にとっても人生最大の修羅場だったと思う。
あれは、私が中学二年生の頃。当時真面目少女だった私は、部活と塾で、家に帰るのは毎日夜の九時。帰ったら帰ったで学校の宿題で忙しく、だから家で何が起こっているかなんてわからなかった。
なんとなく、夏休み明けくらいから父親の帰りが極端に遅くなったなとは思っていた。私が寝た後に帰ってきて、起きたらもういない。でもそういう家だってあることは知っていたし、勉強で忙しくてそれどころじゃなかったから、あまり深く考えなかった。
後で聞いた話なんだけど、この頃父親が浮気していた。大人になった今では、父親の挙動は浮気男のそれだって気づくんだけど、当時は子供だからわからなかった。
もっと、話を聞いてあげればよかったのかもしれない。まだ子供だったけど、でも一人で抱えるよりマシだったかも……って。
そう、年が明けて二月、母親が壊れた。
本日三十回目のため息をつく。別に数えていたわけではないけど、多分そのくらいだと思う。
ぼーっとしていたら、フライパンの上の卵が固まりすぎていた。切ったら中からじゅわ~どろぉ~っとなるオムレツライスを作りたかったのに、これじゃあ卵の塊ライスみたいだ。失敗、でも自分の分だけだからどうでもいいか。
あの日からたろちゃんは家に帰ってこない。いや、正確には、夜中に帰ってきて明け方出かけている。だから私とは顔も合わせない生活が続いていた。
きっと『マリコさん』の所にいるんだと思う。けどもう、どうでもいい。
こうやってたろちゃんがいない生活を始めてみたら、寂しくなるかと思ったけど、意外となんとかなった。いやむしろ、顔を合わせないことで心の整理ができている気がするから、この方がかえってよかったのかもしれない。
そう、これでよかったんだ。
そばに居るのが当たり前で、自分に笑いかけてくれるから期待してしまう。たろちゃんは『マリコさん』のもので、私はただの同居人。そう思ってしまえば意外とすんなり納得できる自分がいた。
見栄えの悪いオムライスに、ケチャップをたっぷりかける。口に入ればどんな形をしていようが、同じことだ。そう思ったのに、いざ食べてみるとチキンライスの味付けがしょっぱすぎた。
はぁ。三十一回目のため息(おそらく)をつくと、同時にベッドに放り投げてあったスマホがメロディを奏でた。
珍しい。電話だ。
急いでスマホを手に取ると、またもや珍しい名前がディスプレイに表示された。
「もしもし、美穂子?」
蓮見と共に仲の良かった友人四人組のうちの一人、美穂子だ。彼女が結婚したのが三年前。式に参列して以来、今日まで一度も会えていなかった。
「うん、うん……久しぶり! え? え、今? うん、大丈夫だけど……。え、もう? わ、わかった……すぐ片付ける! うん、うん、はーい」
なんて短い電話。要件はこれだけだった。『今から会えない?』
たしかに久しぶりに会えるのは嬉しい。嬉しいけど、でもこんな急に、一体何があったんだろう。時刻は二十時をまわったところ。普通の主婦ならば出歩く時間じゃないはずだけど……。
しかも『すぐ近くまで来てるから、もうすぐ着くよ』なんて。たろちゃんが最近遅いからよかったものの、もしこの部屋にいる時に来られたら、それこそ梨花の二の舞になりかねない。
とりあえず大慌てで掃除機をかけた。ぐるりと見回し、たろちゃんの形跡がないことを確認する。もしたろちゃんが今日に限って早く帰ってきたら……そんなことないと思うけど……もしそうなったら、その時はその時だ。
うん、と頷くと、すぐにピンポーンとチャイムが鳴った。
本当に早かった。電話から五分後のことだ。最後にもう一度見回して、ドアを開ける。
「あ、久しぶりー、元気だったー?」
「元気元気! あ、上がって」
美穂子だ。優しくて綺麗で姉御肌の、美穂子だ。雰囲気は変わってないけど、少しやつれている気がする。結婚式でのドレス姿を見た時も痩せたなぁと思ったけど、今はそれ以上だ。
「うわっ、女らしさの欠けらも無い部屋」
「それ言わないで。あ、紅茶? ルイボスティーもあるよ?」
「じゃあルイボスティー貰おうかな」
相変わらずズバズバ言ってくる、美穂子。このやり取りが昔を思い出すようで懐かしくなる。
美穂子はたろちゃんの定位置のソファに座った。そこは特に念入りに掃除したから、髪の毛一本もない、はず。
温かいルイボスティーをテーブルの上に置いた所で美穂子が切り出した。
「蓮見となんかあった?」
「な! なんかって! な、なんで!」
私の言葉に美穂子はニヤリと微笑んだ。
「おおかた、好きだとでも言われたんでしょ」
「な! なんで!」
今客観的に見ても、すごくわかりやすい反応をしているな私、と思う。墓穴を掘るってこういうことか。
「風の便り?」
「なにその疑問形……」
──落ち着け、落ち着け私
美穂子の正面に座ると、動揺を悟られないよう、ゆっくりマグカップに口をつける。温かいルイボスティー。一口飲むとたちまちホッとする。
「……私の話はいいから。美穂子こそ、旦那さん元気? こんな時間に外出して平気なの?」
わざわざこんな時間にやってきたのだ。蓮見とのことを聞きに来た、というのは考えにくい。きっと何か大事なことを言いに来たに違いない。
ナチュラルに美穂子に話題を向けると、当の本人はたちまち浮かない顔で、飲み終わったであろうカップの底を見つめた。
ただ事じゃない雰囲気。いつもの美穂子なら、自分の話はもったいつけずに真っ先に言いそうなのに。
「あー……もしかして、喧嘩しちゃった?」
恐る恐る訊ねてみた。
「そうなのよー」と明るい笑い声が続くものだと思った。だけど、彼女から発せられたのはふぅ、という重たいため息だけだった。
美穂子はしばらくじっと石のように動かなかったけれど、やがてパッと顔を上げると意を決したように口を開いた。
「あのね千春、私…………離婚したの」
『リコンシタノ』
一瞬、その言葉の意味がよく分からず、私の耳から零れ落ちる。反芻するうちに『リコン』が『離婚』だと気づいた。
「え……う、うそ……」
「本当なの。ごめんね、式にも出てもらったのに。だから、これ……」
そう言って、美穂子が取り出したのは白い封筒。中には御祝儀の半分程のお金が入っていた。
「こ、こんなの受け取れないよ!」
「ううん、お願い受け取って。こうでもしないと、気が済まないの」
もしかして、参列者一人一人にこうして謝ってまわってるんだろうか。律儀で真面目な美穂子らしい。
一度こうと決めたら意見を曲げない彼女のことだ。ここは一旦受け取らないと話が進まないだろう。
「わかった……」
封筒を手にすると、美穂子は『助かった』とでもいうような安堵の表情を浮かべた。
「これは一旦もらう。だけど、何か困ったことがあったらすぐ言って? 私じゃ頼りないかもしれないけど……」
「ううん、ありがとう」
美穂子はそう口にしながらも、視線を泳がせる。気まずそうに、小さな声でこう言った。
「……すぐに離婚だなんて……ひくよね」
「何言ってんの! フツーだって! アリだよ、アリ!」
私の慌てた姿が可笑しかったのか、美穂子はくすくす笑いだした。
「り、離婚なんてイマドキ三組に一組がするって言うじゃん。そんな重く考えなくていいんじゃない? あ、ほら、うちだって離婚しそうになったし」
テレビで聞きかじった情報を話す、独身女。だめだ、経験値がなさすぎて、こんな時にどう慰めたらいいかわからない。
「うち……? あ、千春のご両親?」
脳内プチパニックに陥っている中、美穂子は私の言葉からある一部分を拾って訊ねた。
「あ……うん。中学の時だったから話してなかったと思うけど、うちの親、一度離婚危機を迎えてたんだよね」
「ええ! びっくり……だってお会いした時はすごく仲良さそうで……」
「うん、まぁ一応モトサヤ? そこらへん、よくわかんないけど──」
話してて思った。これって 全然慰めになってない。『親が離婚した話』ならともかく、『親が離婚しそうになって結局モトサヤに戻った話』なんて。けれども美穂子は興味津々といった様子で相槌をうっていた。
「……ごめん、関係ない話しちゃった」
「どうして! お願い、その話聞かせてよ」
離婚しなかった話でいいんだろうか。私は美穂子に促されるままに、昔の両親の修羅場を話し出した。
そう、修羅場だ。あれは間違いなく、両親にとっても私にとっても人生最大の修羅場だったと思う。
あれは、私が中学二年生の頃。当時真面目少女だった私は、部活と塾で、家に帰るのは毎日夜の九時。帰ったら帰ったで学校の宿題で忙しく、だから家で何が起こっているかなんてわからなかった。
なんとなく、夏休み明けくらいから父親の帰りが極端に遅くなったなとは思っていた。私が寝た後に帰ってきて、起きたらもういない。でもそういう家だってあることは知っていたし、勉強で忙しくてそれどころじゃなかったから、あまり深く考えなかった。
後で聞いた話なんだけど、この頃父親が浮気していた。大人になった今では、父親の挙動は浮気男のそれだって気づくんだけど、当時は子供だからわからなかった。
もっと、話を聞いてあげればよかったのかもしれない。まだ子供だったけど、でも一人で抱えるよりマシだったかも……って。
そう、年が明けて二月、母親が壊れた。
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