悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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悪魔は天使の面して嗤う

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「──それにしても、辞めちゃうなんて寂しくなりますぅ」

 いつもの病院。いつもの仕事終わり。更衣室では、ナース服を脱いだ梨花が目を潤ませていた。

「でも、おめでたいことだし……梨花、ワガママ言いません」

 そう言うと、自身のロッカーからあるものをサッと取り出した。
 それは、赤、白、黄色、色とりどりの花で造られた花束だった。どちらかというと可愛らしい雰囲気のそれは、渡す人をイメージしたというよりは、本人の好みだろう。

「おめでとうございますっ! 元気な赤ちゃん、産んでくださいね……!」

 涙ながらに叫ぶと、花束を差し出した。
 そう、赤ちゃんを産むために、仕事を一旦辞めるのだ。

「ありがと、梨花ちゃん」



 …………京子さんが。


 旦那さんの文句を言いながらちゃっかり三人目ができるところが、京子さんらしいっちゃ、らしい。

「超高齢出産なんだけど、あなた健康そうだし、三人目なら大丈夫だろうって先生が言ってくれたのよ」

 そう言いながら嬉しそうに目を細める京子さんが、微笑ましくて羨ましい。

「明日から来る新しい看護師さん、優しいといいんですけどぉ……。梨花、虐められたらどうしよぉ!」

「ちょっと梨花ちゃん? 泣いた理由って私がいなくて寂しいからじゃないわけ?」

「えっ……も、もちろん寂しいですけどぉ……」

「梨花ちゃん……」

 相変わらずの職場。相変わらずの私たち。
 京子さんがいなくなった後のこの病院はちょっと不安だけど、成長した梨花とならどんなに大変でも楽しくやっていけると思う。

「ねぇ、やってくれるんでしょ? 私の送別会。やっぱりここは景気づけに肉よね、肉──」
「あ! いっけなぁい!」

 京子さんの提案を遮って、梨花が大声で叫んだ。

「……なによ、梨花ちゃん」

 恨めしそうな京子さんをよそに、梨花はポーチから手鏡を取り出して、入念にお化粧のチェックをし始めた。

「梨花、今日合コンなんですよぉ。相手はお医者様で超気合い入れなきゃなんで、帰りますねぇ」

 梨花は手鏡を仕舞うと、「じゃあ」と手を挙げ足早に帰って行った。

「もぉなんなのあの子。いつぞやの誰かさんみたい……」

 京子さんが横目で私を見る。
 ……そうなのだ。梨花ったら、ここ最近『彼氏を作るぞ!』と燃えていて、週に三回は合コンに通うほどになっていた。
 ヒロくんのことは吹っ切れたみたいだけど、それはそれで心配でもある。

「ま、まぁ、そういう時期なんですよ……」

「時期ねぇ……。あ、ねぇ、千春は暇よね? 付き合ってくれるわよね?」

「すみません……私もこの後人に会う約束が……」

 私の言葉に京子さんの目がカッと見開く。

「な……あなたまさか……彼氏っ?」

「あはは……ご想像におまかせします。京子さん、送別会はまた後日しましょう。ね?」

 京子さんに捕まる前に、私も素早く病院を出た。後ろで「千春ぅ」という叫び声が聞こえる気がするが、時間がないから振り返らない。
 外は、昼間降り続いた雪がすっかり積もっていて、吐く息が白く空に溶けていった。
 私はかじかむ指先を擦り合わせ、転ばないように雪道を歩いていく。
 あれから季節は二回まわり、私はもうすぐ三十二になる。
 三十二って、昔はうんと大人な印象だったけど、私は何も変わらない。相変わらず朝は弱いし、よく転ぶ。
 変わったことといえば、私は髪をうんと短く切り、人生初のショートヘアにしたことぐらいだろうか。
 形から大人になりたくて切ったけど、あまり効果はなかった。でも周りからは結構評判で、こんなことならもっと早く切っておけばよかったと思うほどだった。

 ──それにしても、雪すごいなぁ。

 今年最大、いや、ここ数年で一番積もったのではないか。ふかふかの雪が、私の進路を阻む。
 ひたすらに雪道を歩いていると、後ろから小さくクラクションの音が聞こえてきた。
 振り向くと、待ち合わせ場所にいるはずのその人が車に乗って現れた。

「──……蓮見!」

 車の窓が開き、蓮見がひょっこり顔を出す。

「こんなことだろうと思って、迎えに来た」

 早く乗れば? とでも言いたげに、私をじっと見る。

「やー、助かったよー。ありがとね」

 助手席のドアを勢いよく開けると、目の前の無表情の男に感謝した。

「実は期待してたよね?」

「あ、バレた?」

 あははと笑い声をこぼす。
 やっぱり蓮見は楽ちんだ。付き合いが長いからか、痒いところに手が届く。

「ところで、俺、場所わかんないんだけど」

「あ、ごめんごめん。ナビします! 美穂子の家はねー……──」

 二年も経てば人間関係も変わる。あんなに気まずかった蓮見とは、半年ほど前急に関係が修復された。
 別になにがあったわけではない。美穂子の言葉を借りると、『時間が解決した』ということだと思う。
 彼はまた私を『宮下さん』と呼び、私はもう、寂しいからって彼にこの身を寄せたりはしない。
 たまにこうして会って、互いの近況報告をしたり愚痴を吐いたりする。今が一番ちょうどいい距離感で、それが心地いい。

「そういえば、聞いた? 美穂子ってば彼氏ができたんだって!」

「へぇ」

「あ、その反応、全然興味ないのね」

「いや、めでたいと思うよ」

「……本当かなぁ」

 車は街中まちなかに入っていく。何気なしに窓の外を見ていると、俳優のリヒト・・・・・・のCMが大型ビジョンで流れていた。
 リヒトの活躍は目を見張るものだった。リヒトの出るドラマは軒並み高視聴率で、今や注目の若手俳優ナンバーワンとすら言われている。
 CMも何社か契約しているようで、シャンプーからスポーツ飲料水まで、今ではテレビをつけると必ずリヒトを見ると言っても過言ではないくらいだった。
 そんな彼の活躍を、私は密かに嬉しく思っている。
 ドラマは毎回録画し、DVDに保存して何度も見ている。彼の出る雑誌は毎回買ってきて、そこの部分だけ切り取ってファイルにしてあった。
 間違いなく、彼の一番のファンは私だと思う。

「……すごいよねぇ」

 遠くを見てぽつりと呟く私に、蓮見がちらりと視線を寄越した。

「宮下さん……彼は……」

 ──会いに来た? きっと、そう言いたいんだと思う。
 私はゆるゆると首を振り、苦笑いで返事をした。

「……そう」

 蓮見はそれ以上何も聞かない。
 会いに来るはずないんだ。
 リヒトは…………たろちゃんは、もう私なんかじゃ手が届かないくらい遠い人になってしまった。
 きっと芸能人の女の子に言い寄られて、既に付き合っているに決まっている。
 悲しくないと言ったら嘘になるけれど、こうなることは最初から分かっていた。元々彼が私に対して感じた想いは、一時の気の迷いのようなものだったんだと思う。
 それに、私はもう三十二で、夢なんて見ている場合じゃないんだ。
 仕事も人間関係も、今が一番楽しい。私はがむしゃらに前を向く。現実世界に、生きる。
 曲がり角を曲がったら、大型ビジョンが見えなくなった。
 美穂子の家には既に賢治くんもいて、私たち四人は『美穂子、彼氏おめでとう』にかこつけて、たこ焼きパーティーを楽しんだ。
 蓮見は聞いているのかいないのか、ぼんやり顔で座り、賢治くんはよく喋った。美穂子は照れているのか無口になり、私はそんな美穂子をいじって笑った。






 世界は今日もまわる。
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