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全年齢対応・表現マイルドバージョン
第45話 傘を差す ~赤い雨~
しおりを挟む昼過ぎの安全地帯は、いつも通りの静けさに包まれていた。
風は穏やかで、空には薄い雲が流れ、女子高生たちは思い思いに談笑していた。
手にしているのは戦利品。
ここまでの探索で手に入れていたものだ。
中でも彼女たちが気に入っていたのは『傘』。
宝箱で頻繁に見つかった『虫除け傘』だ。
見た目は普通の雨傘と変わらないが、魔法の加工が施されていて『虫』を寄せ付けない簡易の結界を張れるもの。
使うかと問えば全員が「使わない」と答えるだろう。
彼女たちが気に入っているのは『効果』ではなく図柄だった。
『ダンジョン』で見つかるにしてはカラフルで、可愛らしいモノが多いのだ。
『外』で使うのならいいかもしれない。
そんな話題で盛り上がっていた。
ダンジョンの虫型モンスター相手には『使えない』道具だが、『外』で普通の虫相手の『虫除け』なら『大歓迎』である。
ただ、歓迎されない『虫』は、突然やってきた。
空がざわめいた。
雲が裂けるようにして、巨大な虫たちが降ってきた。
羽の音は雷鳴のように響き、地面に落ちた影が、まるで生きているかのように蠢いた。
「えっ・・・なに・・・?」
誰かがそう呟いた瞬間、悲鳴が上がった。
『虫だ!』、と。
ダンジョン内で『虫』、それは敵襲ということ。
少女たちは慌てて傘を開き、身を寄せ合うようにして隠れた。
ピンク、水色、黄色——傘の色が、まるで命の灯のように揺れていた。
傘の内側は静かだった。
赤く光る雨が降り始め、傘の表面に当たるたびに、虫たちが弾かれていく。
それでも、傘の外では何かが始まっていた。
制服姿の誰かが、傘を持たずに立ち向かっていた。
叫び声、衝突音、そして・・・沈黙。
彼女は、傘の窓から外を見ていた。
片目だけが覗くその視線は、恐怖ではなく、何かを見定めるような冷静さを帯びていた。
「始まったんだね」
誰かがそう呟いた。
傘の中にいる少女たちは、ただ黙ってその言葉を受け止めた。
安全だったはずの場所は、もう安全ではない。
そして、傘の中にいる彼女たちも、いつまで守られるかはわからなかった。
傘の窓から彼女は『外』を見ていた。
誰の目にも見ず彼女の左目にだけ映る未来の断片を。
赤い雨に染まる空と、震える傘の群れを。
その向こう側を。
世界の裏側を。
彼女にだけ見える『ちょっと先に、起きるかもしれない未来』を。
「・・・行くね」
誰にも聞こえないような声でそう言うと、彼女は傘を閉じた。
赤い雨——それは、忘れられた者たちの怒りと悲しみが染み出した“呪いの雨”——が肩に落ちる。
でも、彼女は一歩、前へ踏み出す。
傘を閉じた瞬間、周囲の虫たちがざわめく。
けれど、彼女の足元に影は差さない。
まるで、彼女自身が傘に、『結界』に、なっているかのように。
『物体としての傘』は確かに閉じたが、彼女が持つ『能力に拠る傘』はまだ開いている。
『見る』ために。
彼女は戦うために出たのではなかった。
何かを確かめるために、傘の外に出たのだ。
誰がこの状況を仕組んだのか。
彼女にだけ見えていた『あの影』が何者なのか。
背後で少女たちが叫ぶ。
でも彼女は振り返らない。
彼女以外には『虫』しか見えていない。
『彼』の影は、香子の左目にだけ映っていた。
『あの影』を見て、追おうとしているのは自分だけだ。
彼女の選択は、真実に触れること。
たとえその先に、守るものも、壊すものも待っていたとしても。
それは彼女の秘められた『能力』。
ステータスには出ない、彼女だけの秘密。
『下駄占い』と呼ばれるもの。
雨具を身につけているときだけ発動する、未来の断片を左目に映す力だった。
傘を、レインコートを。
『雨』に関するものを身に付けているときにだけ現れる不確かな力。
左目でだけ、未来の断片を『見る』能力。
赤い雨が降る前、彼女はすでに見ていた。
倒れていく制服姿の少女たち。
そして、虫たちの群れの奥に立つ、顔のない影。
「・・・やっぱり、来るんだね」
彼女はそう呟いて、傘の柄をぎゅっと握った。
この力は、予知ではなく『選択の提示』。
『決められた未来』が見えるわけではない。
いくつもある選択肢の向こう側、『ある選択』の先が見えるだけ。
それも一部のみ。
自分の選択が、他人の選択が、織りなす数多の未来。
その断片が見えるだけ。
とりとめがない。
信頼性も皆無。
だけど、『ソレ』は選択の先に必ず待ち受けている。
彼女は、何度も見てきた。
誰かを助ければ、誰かが消える。
自分から動けば、見える範囲は広がるが危険も増える。
それでも彼女は、今日も傘を差して立っている。
なぜなら、彼女が自分に課した役目は『選ぶこと』ではなく、『選ばれた未来に責任を持つこと』だから。
傘の窓——彼女の左目にだけ映る、未来の断片を覗くための“視界”——に映る影は、最初はただの黒い塊だった。
形もなく、顔もなく、ただ赤い雨の中に立ち尽くしていた。
でも、彼女の左目がそれを捉えたとき。
断片が、流れ込んできた。
誰かが叫んでいる。
誰かが逃げている。
誰かが、振り返らずに走っている。
その『誰か』の顔は、見覚えがあった。
制服の裾、背を丸めて歩く姿勢、右の肘を左手で庇う癖。
「・・・嘘でしょ」
彼女は傘の窓から目を離せなかった。
断片は、次々と繋がっていく。
赤い雨の中、虫たちが舞う。
その中心に立つ影は、かつての仲間——『駆馬』だった。
彼は、あの日、誰にも助けられずに消えたはずだった。
でも、傘の窓が見せたのは違った。
彼は生きていた。
そして今、顔を失ったまま、復讐の使者として戻ってきた。
彼女の心臓が、ひとつ脈打つたびに、断片が鮮明になる。
彼は声を上げなかった。
彼は誰のことも見なかった。
見ていたのは、自分の失われた未来。
「・・・私たちが、見殺しにしたんだ」
その言葉は、誰にも聞かれなかった。
でも、傘の窓はそれを確かに映していた。
彼女は、傘を閉じる。
赤い雨が肩に落ちる。
彼女は、『彼』の影へと歩き出す。
傘を閉じた瞬間。
赤い雨が彼女の髪に、肩に、頬に落ちた。
冷たいはずなのに、熱を持っているように感じた。
それは、罪の重さだった。
周囲の少女たちが悲鳴を上げる。
虫たちが傘の外を這い回る。
でも彼女は、静かに一歩を踏み出す。
傘を閉じたことで、彼女は『結界の中にいる者』ではなく、『外に出て選択する者』になった。
けれど、同時に『守る者』になった。
それは、傘の中にいた自分を、外にいる彼へと繋げるための選択だった。
『彼』の影が、ゆっくりとこちらを向く。
顔はない。
でも、彼女には見えた。
あの日、雨の降る世界で——ノイズだらけの光景の中で——差し出されなかった手。
誰もが目を逸らした、彼の最後の視線。
「・・・ごめんね」
その言葉は、雨に溶けて消えた。
でも、『彼』の影は動きを止めた。
赤い雨が少しだけ弱まった。
虫たちがざわめき、空が揺れる。
そして——傘の窓が、最後の断片を映した。
それは、『彼』が手を差し出される未来。
誰かが、彼に手を伸ばす未来。
それは、彼女が『選ばなかった未来』——でも、誰かが選んでいたかもしれない可能性。
機会はあったはずだ。
でも、顔を逸らして見えなくしていた。
自分の視界を傘で隠していたのだ。
それを今、取り戻そうとしている。
虫たちの羽音が、空気を裂いていた。
赤い雨は、もう静かではなかった。
それは怒りの色。
それは、忘れられた者の叫び。
彼女は、傘を閉じたまま立っていた。
肩にかかるレインコートが、雨に濡れて重くなる。
髪が頬に張り付き、視界が滲む。
でも、彼女は目を逸らさなかった。
『彼』の影は、そこにはいない。
彼女の行動は、誰にも見られていない。
それでも、彼女は選んだ。
「・・・これが、私の未来なら」
その声は、誰にも届かない。
虫たちは構うことなく襲いかかる。
傘の力がなければ、守られる術はない。
そして、未来予知の断片すら、今は何も映していない。
それでも、彼女は傘を開き直さなかった。
目を閉じることもなかった。
ただ、その瞬間を受け入れるために、目を開けたまま立ち尽くしていた。
赤い雨が、彼女の瞳に落ちる。
虫たちの影が、彼女の輪郭を覆う。
そして——。
静寂が、訪れた。
傘の窓が、静かに光った。
彼女の目が閉じる直前、視界の端にそれは映った。
——雨は止んでいた。
——空は澄んで、雲がゆっくり流れていた。
——校庭には、色とりどりの傘が咲いていた。
その中に、『彼』がいた。
顔のない影ではなく、制服姿のまま、笑っていた。
「ああ」
小さく息が漏れた。
『彼』のことは何度か見たことがある。
この左目でも、普通の右目でも。
なのに、『コレ』は初めてだった。
「彼も笑うんだ」
笑っているのを見たことがなかった。
それを『おかしい』とも思わずにいた。
『人間』として見ていなかったのだと気付く。
笑わない人間はいない。
笑えない人間はいるとしてもだ。
『彼』は笑えなくされていた。
『誰に?』
「私たち、よね?」
自明だった。
もう一度、『彼』を見る。
手には、壊れた傘。
でも、その傘には、誰かが貼った修復のテープが残っていた。
きっと『ソレ』が『彼』を笑えるように『変えたモノ』。
変わらないモノ。
変わったコト。
戻らない破壊の暗示。
修復の可能性。
彼女は、その傘の隣に立っていた。
彼女の傘は開いていない。
ただ、彼女は『彼』の傘に手を添えていた。
「・・・ごめんね」
「ううん、もういいんだよ」
その断片は、言葉にならないほど静かだった。
それは、選ばれなかった未来。
でも、彼女が命をかけて『差し出した未来』。
傘の窓は、ゆっくりと曇っていく。
赤い雨が、断片を溶かしていく。
そして、最後に残ったのは——。
『彼』の目が、彼女を見ていたという記憶。
それだけが、そこにあった。
その光景は現か幻か。
未来なのか過去なのか。
雨に煙って定かではない。
それでも、確かに『見えた』のだ。
それが、彼女の命と引き換えに見せられた最後の選択、だったのかもしれない。
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