異境の人 ~鈴音が紡ぐ世界~

葉月奈津・男

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第25話 呉越同舟 ① ~眼下に~

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 夜もすっかり更けているはずなのに、空はまだ夕暮れ前のように明るいままだった。

 鈴音たちは、長く伸びた魔龍アイオーンの背を伝って、地界へと降りていく。

 その体は、まさに巨大な蛇そのもの。
 背中はウロコでごつごつしていたが、腹側は意外にも滑らかで柔らかかった。

 鈴音、リカート、バンボラの三人は、登山のようにウロコの隙間に手足を引っかけながら、慎重に背中側を下っていた。
 ありがたいことに、アイオーンが体をわずかにくねらせてくれているおかげで、完全に寝転ぶのは無理でも、座って一息つくくらいの余裕はあった。

 ウロコも年季が入っているのか、角が丸くなっており、鈴音の肌を傷つけるようなこともなかった。

 下を見なければ、案外快適――そう思えるほどだった。

 だが、下を見たら終わりだった。

 その高さに足がすくみ、動けなくなるのは目に見えていた。
 鈴音もそれはよく分かっていた。

 ……分かっていたのに、だからこそ気になってしまうのが人間というもの。

「見ちゃダメ」と思えば思うほど、見たくなる。

 誘惑に勝てず、鈴音はついに視線を地平線の方へと向けた。

 そして――

「……!」

 思わず息をのんだ。

 そこに広がっていたのは、山も荒野もない、血のような色をした雲の海。
 しかも、それがものすごい勢いで渦巻いていた。

 まるで地獄の手前、いや、それ以前の混沌。

 あまりの光景に、鈴音は思わず笑ってしまった。
 怖すぎて、笑うしかなかったのだ。

 それでも彼女は気を取り直し、そっと視線を足元へと戻す。

 アイオーンは落ち着いており、体もまったく揺れていない。
 ということは、あの雲海が地界のすべてというわけではない。

 案の定、雲の下には砂漠、荒野、マグマの海、火山――そして、ようやく町らしきものが見えてきた。

 まだ豆粒のように小さかったが、確かに文明の気配があった。

 アイオーンの尻尾は、その町の西の端、ちょうど太陽が沈みかけて止まっているあたりに降りていた。

 それを確認し、鈴音は再び降下を再開する。

 リカートとバンボラは、すでにだいぶ下の方で、鈴音を待っていた。

「早く降りてきなさいよ! ここで野宿なんてごめんだからね!」

 リカートの怒鳴り声に、鈴音はふっと笑った。

「登るんじゃなくてよかった……」

      ◇

「行ったわね」
「おう、行っちまったな」

 艶やかな女性の声と、年季の入ったしわがれ声が交差する。
 話題は、鈴音たちのことだ。

「……天界、精霊界、妖精界、人間界。全部片付いたんだな?」
 問いというより、確認のような口ぶり。

「ええ。天界は主神ケイファスタン、精霊界は運命の女神アルタミラ、妖精界は書物の女神エスティリア。そして人間界は、私ラファエラがそれぞれ取り込んだわ。あとは、あなたが地上界を収めれば、計画の八割は完了よ」

 即答するラファエラの声には、ほんの少しの哀しさと、それ以上の寂しさがにじんでいた。

「『八割終われば、まだ半ば』って言葉が人間界にあったな」
 魔龍の乾いた声が、皮肉っぽく響く。
 ラファエラの安堵したような口調に、ちょっとした嫌味を添えたのかもしれない。

「そうね、まだ半分……いえ、それ以下かもしれない。でも、私たちにできるのはここまで。あとはオーリンと、彼がすべてを託したあの少女に任せるしかないわ。女神の私が言うのも変だけど、『人事を尽くして天命を待つ』って気持ちよ」

 自分の言葉に自分で納得したように、ラファエラはどこか晴れやかな声で言った。
 やるべきことはやった。
 あとは流れに任せるだけ。
 そんな心境だった。

「でもさ、本当は全部話しちゃった方が早いんじゃないのか? あの娘に」
『あの娘』とは、もちろん鈴音のことだ。

「それも考えたわ。でも、もし裏目に出たら、すべてが水の泡。遠回りでも、今のやり方が一番うまくいく可能性が高いの」

 ラファエラは穏やかにそう答えると、地界の方へ視線を向けた。
 その目は、少しずつ崩れていく世界をじっと見つめている。

「……正直に言うとね。世界なんて、このまま終わってしまった方がいいんじゃないかって、ふと思うこともあるの。無理に作り直すより、自然に壊れて、自然に再生されるのを待つ方がいいんじゃないかって」

 女神は瞬きもせず、まるでこの世界を心に焼きつけるかのように、静かに本音を漏らした。
 この世界は、もともと一つの意識の願いから生まれた。
 だからこそ、あちこちに歪みが生まれてしまった。
 それをまた誰かの意志で作り直したところで、本当に意味があるのか――そんな疑問が、彼女の胸に渦巻いていた。

「その気持ち、わからんでもない。だがな、それはわしらのエゴってもんじゃ。わしらは、ありえないほど長く生きて、やりたいこともやり尽くした。もう命に未練はない。 でもな、生きてる限り、生きようとする。それが命ってもんじゃ。たとえそれが悪あがきでも、生き抜くことに意味がある。……違うか?」

 老いた魔龍が、まだ若さを残す女神に静かに語りかける。
 ラファエラの顔に、ふっと微笑みが浮かんだのを見て、アイオーンはゆっくりと立ち上がった。

「鈴音たちが地界に降りた。わしも、そろそろ動くとしようか」

 そう言って、長年腰を下ろしていた『ストイックの魔窟』を後にし、空へと舞い上がる。
 残されたラファエラは、しばらくその背を見送っていたが、ふと何かを思い出したように呟いた。

「そういえば、アルタミラが言ってたわ。『運命は待つものじゃなく、自分で作るもの』だって」

 その言葉を胸に、ラファエラは他の三神が待つ『創命宮』へと歩き出した。
 アイオーンも、すぐに合流することになるだろう。
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