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第三章 隼人の穀璧

第15話 船出の団子

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 磐余彦いわれひことその一行は日向を出発し、陸路北へと向かった。
 黒潮に洗われる日向灘にも寒風が吹きすさび、白波が立っている。
 旧暦十月五日。季節はもはや冬である。
 一行は美々津みみつ(宮崎県日向市美々津町)の湊まで来た。
 この地に建つ立磐たていわ神社の由緒によれば、磐余彦はこの地で船を建造したのち出航したという。
 神社の境内には磐余彦が腰掛けたとされる腰掛岩がまつられている。

 ヤマト行きに同行するのは磐余彦のほかは五瀬命いつせのみこと稲飯命いなひのみこと三毛入野命みけいりののみことの三人の兄と、日臣ひのおみ来目くめのみ。
 このうち稲飯命と三毛入野命は、もし戦闘になった場合、ほとんど役に立たない。
 ただし前述したように稲飯命は稲作の名人である。
 これから訪れるさまざまな土地で稲作の指導を行えば、それと引き換えに遠征への協力も得やすい筈だ。
 そして三毛入野命もまた優れた薬師くすしであり、養蚕の指導者でもあった。
 訪れる土地で病人を診たり養蚕の技術指導をすれば、歓迎されることは間違いない。
 その意味で二人の兄は、先進技術を用いた渉外担当者として真に頼れる存在であった。
 
 さらに三毛入野命にはもう一人(一匹)頼れる相棒がいた。猫のミケである。
 イエネコの起源は古代エジプトまで遡る。
 収穫した穀物や野菜をネズミから守るために、リビアヤマネコを飼い慣らしたのが始まりと伝えられる。 
 実は養蚕においても、猫は重要な役割を果たしてきた。
 カイコはネズミの大好物で、貴重なカイコを守るためにも猫は不可欠な存在だった。
 ただし日本列島には猫は元々おらず、米作りが本格的に始まった弥生時代に大陸から連れて来たと考えられている。
 余談だが、二〇一四年、長崎県壱岐市の弥生後期のカラカミ遺跡で日本最古のイエネコの骨が発掘され、大きな話題となった。
 ミケは仲間の猫とともにカイコ棚をよく守った。
 お陰で質の良い生糸(絹)がとれ、日向の絹布には遠く三韓(朝鮮半島)からも引き合いが来て、大きな富をもたらしてくれた。

「昨日もミケがネズミを捕ってくれたんだってな」
「そうよ、夜も見張りしてくれるおかげでカイコが無事だよ」
 村人たちが口々に褒めるのを、三毛入野命は少々苦い思いで聞いている。
 三毛入野とミケ、名前が紛らわしいのである。
 だから三毛入野命は、はじめは別な名前をつけて呼んでいた。
 だが皆が勝手にミケと呼ぶうちに猫のほうが慣れてしまい、呼べば「にゃあ」と返事をするので諦めざるを得なくなった。
 ミケは見た目はごく普通の白と黒、茶の三毛猫なのだが、歴としたオスである。
 三毛猫の殆どがメスである中できわめて珍しい存在で、そのおかげで神の遣い「神猫しんびょう」とも見做されてきた。
 神猫の噂を聞きつけて、発情期になると遠くの村からもメス猫を連れて種付けにやってくるほどである。
「神猫の子種を頂戴したい」という想いなのだろう。

 出航に際し、磐余彦とその一行はわずかな食糧と武器を積んで一隻の小舟に乗り込んだ。
 ミケを入れた葛籠つづらは、水で濡らさないように毛皮でくるんである。
 舟を漕ぎ出そうとしたとした時、
「おーい!」
 叫びながら走ってくる影が見えた。阿多隼人あたはやと隼手はやてである。
「吾も、行きたい!」
 たどたどしい言葉で隼手が言った。
「ヤマトに仕返しするつもりか?」
 五瀬命が尋ねた。
 父である隼人王をヤマト兵に殺されただけに、復讐を考えたとしても無理はない。
 しかし隼手は大きく首を振った。
「そうじゃねえ、ヤマトってところが見てみたいんだそうです」
 来目が通訳した。

 本来なら隼手は、阿多隼人の族長となるべき男である。
 しかしその地位を捨ててまで仲間に加わることを望んだのだ。
「舵取り、やる!」
 隼手が身振りを交え、顔を真っ赤にして叫んだ。
「そうだ。こいつに舟を任せたら安心でさあ」
 来目が嬉しそうに言うと、皆がはっとした。
 たしかに、熊襲くまそと並び南九州の先住民である隼人族は、漁撈ぎょろう採取に長けていることで知られる。
 さらに海上交通でも隼人の右に出る者はいない。日本列島ばかりか、南シナ海や玄界灘を渡って大陸や半島と交易している。
 それに比べ磐余彦たちは山の民である。水先案内人もなしに大海に乗り出すのは無謀といえる。
 その点海人族である隼手が加われば、こんなに心強いことはない。

穀璧こくへきはどうしたのだ?」
 磐余彦が訊ねた。
「妹に。もともと、あいつ巫女。阿多の、女王」
 隼手は王の証である穀璧を妹に託し、ヤマト行きを選択したのだった。
 その心意気は磐余彦にも伝わってきた。
「ありがとう。よろしく頼む」
 そう言って磐余彦は右手を出した。一瞬きょとんとした隼手は、腰に巻いた毛皮に掌をこすりつけ、慌てて磐余彦の手を握った。

 磐余彦とその一行は、全長二十尺(約六メートル)ほどの丸木舟にわずかな食料と武器を積み、夜明けを待って出航することになった。
 夜もまだ明けきらない時刻、漁師の小屋で眠っていた磐余彦の夢枕に一人の男が立った。
〈起きよ、起きよ〉と男は言った。
〈昼になれば風向きが変わる。早く船出するがよい〉
 何者なのかは分からない。
 だが磐余彦には、幼い頃から精霊や獣たちの「声」を聞き分ける力が宿っていた。
 そのお陰で何度も災いを避けることができた。

 飛び起きた磐余彦は、お告げに従い皆を起こした。
「みな起きよ。今すぐ船出するぞ」
「なんだ、なんだ?」
 寝ぼけ眼で五瀬命がしかつらをした。
「間もなく嵐が来ます。ぐずぐずしていると湊を出たところで波に呑まれてしまいます!」
 ふだんは控えめで温厚な磐余彦が、かっと目を見開き頬を紅潮させて、何かに取り憑かれたように強い口調で言った。
 明らかに神懸かみがかりしていた。
 はじめは渋っていた五瀬命も、磐余彦のただならぬ様子に驚き、いそぎ支度をして舟に乗った。

 磐余彦のお告げ通り、広々とした日向灘にも寒風が吹き荒れ、白波が立ち始めた。
〈東へけ〉
 そのとき磐余彦は、たしかに天の声を聞いた。
 磐余彦は手を高く掲げ、力強く宣言した。
「いざ行かん、ヤマトへ!」
「ヤマトへ!」
 みなが唱和した。
 のちに「神武東征」と呼ばれる、長く苦難に満ちた旅の始まりである。

 宮崎県日向市美々津町では、今も八朔はっさく(旧暦八月一日)の日に磐余彦の船出を祝う「おきよ祭り」が開かれている。
 朝早く、子供たちが短冊飾りのついた笹を手に、各家の戸を「起きよ、起きよ」と叩いて回り、集まって「お船出団子」を食べる。
 「お船出団子」は小豆あんと餅が一緒になった団子である。
 その昔、磐余彦の出航が急に早まったために、あんを餅でくるむ時間がなくなった村人たちが、米粉と小豆をかき混ぜてつき、団子にして磐余彦に献上したという故事にちなんだものである。
                             (第三章終わり)

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