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第四章 軍師の鳩
第17話 方術使い
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今宵は新月である。
あたりは漆黒の闇に包まれている。草木も鳥も獣も寝静まって遠く波の音だけが聞こえる。
「あっちだ」
鼻先も見えぬほどの深い闇の中で、しわがれた声がした。
「音を立てるなよ」
声の主は狛である。丑、鰐、田亀の三人がうなずく。
「いいか、鳥は夜は目が見えねえ。そっと近づいて袋に押し込むんだぞ」
「鳥餅は使わねえんで?」
「ばか、あれはスズメとかツグミとか小せえ鳥用だ。あのでかい鳥には効かねえだろう」
丑の問いに狛が吐き捨てるように答える。
「兄貴、あの鳩ってやつ、肉がいっぱいあって旨そうだな」
「ああ、たらふく食わしてやるぜ」
狛の返事を聞いた鰐が嬉しそうにひひひと笑った。
他の破落戸どもも顔を寄せ、舌なめずりした。
倭国よりはるかに進んだ文化や技術を持った渡来人たちは、各地に流れ着いたのちも、その土地を支配する豪族たちに重用された。
ここ豊後にも、そうした渡来系の住民が数多くいた。
だが庶民にはそれが面白くなかった。
「どうせ奴は唐土から逃げてきた腰抜けだ。大したことはねえ」
四人の悪党どもは、根は小心だが、相手を低く見ることで勇を鼓舞する類の小物だった。
珍彦が気づかぬふりをしたのをいいことに、月のない夜に鳩小屋を襲う計画を立てたのである。
盗人どもがそろそろと鳥小屋に近づいた時、闇の中にふいに火が灯った。
人の頭ほどの大きさの火が、宙に浮かんで燃えている。妖しい火の玉である。
「なんだありゃ!」
ぎょっとする四人は、魅入られたように立ち止まった。
火の玉はひゅうと上に上がったと思うと、ぱんと破裂した。
その途端、中心からどっと水が溢れてきた。
まるで堰を切ったような大水で、留まることを知らない。
いずれも泳ぎの達者な漁師たちだが、怒涛のように押し寄せる大洪水に、泳ぐ暇も与えられなかった。
男たちはたちまち激流に呑み込まれてしまった。
「助けてくれ!」
「苦しい!」
叫びながら必死で水を掻くが、水の勢いに抗しきれず息をすることもできない。
あっぷ、あっぷと苦悶する声が闇夜にむなしく響く。
しかし、よく見るとあたりには一滴の水もない。盗人たちは何もない空間で手足をばたばたさせているだけである。
水に慣れているはずの男たちが、陸の上で必死に泳ぐ格好をしているさまは滑稽でしかない。
そのとき闇の中から珍彦が現れ、ぱちんと指を鳴らした。
男たちは夢から覚めたように我に返った。
「あれ、水は?」
「てっきり溺れたと…」
「濡れてない……」
うろたえるばかりである。
「狛」
呼ばれた狛が振り返る。
すさまじい殺気を放った珍彦が、長剣を構えて仁王立ちに立っている。
「そなたら、鳩を食おうとしたな」
「えっ、いえ、その」
しどろもどろになる狛。
珍彦が鋭く剣を振り下ろす。
途端に身につけた衣がはらりと落ち、狛は汚れた下帯一つの哀れな姿になった。
「あああ…」狛が言葉にならない呻きを発する。
「次は許さぬ」
鬼の化身を思わせる形相で珍彦が言い放った。
男たちは恐怖のあまり転がるように逃げ出した。
そのさまを見て、珍彦はふんと鼻を鳴らした。
「ふん、腰抜けどもが」
珍彦は不快そうに吐き捨てて陋屋に消えた。
珍彦が用いたのは方術である。幻術ともいう。
道教の中の一部で、呪符や呪禁、蠱毒、医術、男女和合の性戯指南をする房中術などをさす。
中国では古くからこれら方術士が活躍していたとされる。
珍彦が用いたような呪文で相手を惑わす術のほかに、呪いをかける術や雨を降らせたり雷風を起こす齋醮術、鬼神を操って人々を惑わす術などもあったようだ。
日本では平安時代に式神を自在に操ったという陰陽師の安倍晴明が名高いが、方術はその源流といってよい。
珍彦の家は代々呉の軍師を務め、叔父が方術士だった。本格的に方術を学んだわけではないが、叔父に習って簡単な術なら使うことができた。
そのころ磐余彦たちを乗せて日向の美々津湊を出航した舟は、日向灘を北上し豊後水道の手前まで来ていた。
大木をくりぬいて造った丸木舟で、左右に三人ずつ漕ぎ手を配し、船頭役の隼手が椎でできた杖を舵代わりに握っている。
舟が速吸之門に差し掛かる手前で風が強くなった。海面に白波が立っている。
大波が舟の横腹を叩くたびにしぶきがどっと上がり、舟が大きく傾く。
「うわっ!」
「くそう!」
磐余彦たちは懸命に櫂を漕ぐが、思うように手が動かない。
みな頭から波を被ってずぶ濡れである。
にゃあ、にゃあ・・・
葛籠の中から、悲鳴のような猫の鳴き声がひっきりなしに聞こえてくる。
「ミケ、大丈夫だよ」
飼い主の三毛入野命が必死に声をかけるが、舟が揺れるたびに不安気に鳴いてしまうのは仕方がない。
木の葉の如き丸木舟は、その後も波に弄ばれるように揺れ続けた。
このままではいつ転覆してもおかしくなかった。
「難しい……」
操船中はずっと無口だった隼手が珍しく弱音を吐いた。
「たしかにこいつは難しいぜ。晴れていても潮の流れが一定しないときやがる」
来目が引き取って同意する。
隼人族は古くから琉球など南の島との交易を行ってきたので、隼手も舟を扱うことにかけては相当の自信があったはずだ。
ところがこの辺りの潮の流れは、日向灘とはまるで勝手が違っていた。
隼手が慣れ親しんできた黒潮は幅百キロメートルにも及び、メキシコ湾流や南極還流と並ぶ世界最大級の海流である。
ただしほぼ一定の速さで同じ方向に流れ、沖に流されさえしなければ、さほど恐れることはない。
太古の昔、南太平洋の島々からはるばる海に漕ぎ出た原日本人たちも、この大いなる海流に乗って日本列島に辿り着いたのである。
一行は愚かにも出航するまで、海はどこへ行っても同じようなものだと考えていた。
ところが豊後水道を北上するにつれ、様子ががらりと変わった。
深い藍色だった水の色が鈍色に変わり、櫂に纏わりつくように重くなった。
もちろんそれは気のせいだが、それは序の口で、潮の満ち干で流れの向きが正反対になるのにはお手上げだった。
海流と潮流の違いをひとことで言うなら、海流は常に一定方向から流れるのに対し、潮流は時間によって流れの向きが正反対になる現象である。
これを潮汐作用という。
潮汐は月や太陽の引力によって起きる海面昇降で、ほぼ十二時間半サイクルで繰り返される。潮の干満はこのようにして起こるのだ。
豊後水道でいえば、たとえば午前中は瀬戸内海から太平洋側に向かって流れていたのが、午後は反対に太平洋側から瀬戸内海に流れ込むのである。
潮の入れ替わりの時間は、流れが複雑で遭難事故も起きやすい。
海の難所といわれる所以である。
「速吸之門ってのは、ここよりも潮の流れが速いんだってな」
来目の言葉に、皆がごくりと唾をのんだ。
あたりは漆黒の闇に包まれている。草木も鳥も獣も寝静まって遠く波の音だけが聞こえる。
「あっちだ」
鼻先も見えぬほどの深い闇の中で、しわがれた声がした。
「音を立てるなよ」
声の主は狛である。丑、鰐、田亀の三人がうなずく。
「いいか、鳥は夜は目が見えねえ。そっと近づいて袋に押し込むんだぞ」
「鳥餅は使わねえんで?」
「ばか、あれはスズメとかツグミとか小せえ鳥用だ。あのでかい鳥には効かねえだろう」
丑の問いに狛が吐き捨てるように答える。
「兄貴、あの鳩ってやつ、肉がいっぱいあって旨そうだな」
「ああ、たらふく食わしてやるぜ」
狛の返事を聞いた鰐が嬉しそうにひひひと笑った。
他の破落戸どもも顔を寄せ、舌なめずりした。
倭国よりはるかに進んだ文化や技術を持った渡来人たちは、各地に流れ着いたのちも、その土地を支配する豪族たちに重用された。
ここ豊後にも、そうした渡来系の住民が数多くいた。
だが庶民にはそれが面白くなかった。
「どうせ奴は唐土から逃げてきた腰抜けだ。大したことはねえ」
四人の悪党どもは、根は小心だが、相手を低く見ることで勇を鼓舞する類の小物だった。
珍彦が気づかぬふりをしたのをいいことに、月のない夜に鳩小屋を襲う計画を立てたのである。
盗人どもがそろそろと鳥小屋に近づいた時、闇の中にふいに火が灯った。
人の頭ほどの大きさの火が、宙に浮かんで燃えている。妖しい火の玉である。
「なんだありゃ!」
ぎょっとする四人は、魅入られたように立ち止まった。
火の玉はひゅうと上に上がったと思うと、ぱんと破裂した。
その途端、中心からどっと水が溢れてきた。
まるで堰を切ったような大水で、留まることを知らない。
いずれも泳ぎの達者な漁師たちだが、怒涛のように押し寄せる大洪水に、泳ぐ暇も与えられなかった。
男たちはたちまち激流に呑み込まれてしまった。
「助けてくれ!」
「苦しい!」
叫びながら必死で水を掻くが、水の勢いに抗しきれず息をすることもできない。
あっぷ、あっぷと苦悶する声が闇夜にむなしく響く。
しかし、よく見るとあたりには一滴の水もない。盗人たちは何もない空間で手足をばたばたさせているだけである。
水に慣れているはずの男たちが、陸の上で必死に泳ぐ格好をしているさまは滑稽でしかない。
そのとき闇の中から珍彦が現れ、ぱちんと指を鳴らした。
男たちは夢から覚めたように我に返った。
「あれ、水は?」
「てっきり溺れたと…」
「濡れてない……」
うろたえるばかりである。
「狛」
呼ばれた狛が振り返る。
すさまじい殺気を放った珍彦が、長剣を構えて仁王立ちに立っている。
「そなたら、鳩を食おうとしたな」
「えっ、いえ、その」
しどろもどろになる狛。
珍彦が鋭く剣を振り下ろす。
途端に身につけた衣がはらりと落ち、狛は汚れた下帯一つの哀れな姿になった。
「あああ…」狛が言葉にならない呻きを発する。
「次は許さぬ」
鬼の化身を思わせる形相で珍彦が言い放った。
男たちは恐怖のあまり転がるように逃げ出した。
そのさまを見て、珍彦はふんと鼻を鳴らした。
「ふん、腰抜けどもが」
珍彦は不快そうに吐き捨てて陋屋に消えた。
珍彦が用いたのは方術である。幻術ともいう。
道教の中の一部で、呪符や呪禁、蠱毒、医術、男女和合の性戯指南をする房中術などをさす。
中国では古くからこれら方術士が活躍していたとされる。
珍彦が用いたような呪文で相手を惑わす術のほかに、呪いをかける術や雨を降らせたり雷風を起こす齋醮術、鬼神を操って人々を惑わす術などもあったようだ。
日本では平安時代に式神を自在に操ったという陰陽師の安倍晴明が名高いが、方術はその源流といってよい。
珍彦の家は代々呉の軍師を務め、叔父が方術士だった。本格的に方術を学んだわけではないが、叔父に習って簡単な術なら使うことができた。
そのころ磐余彦たちを乗せて日向の美々津湊を出航した舟は、日向灘を北上し豊後水道の手前まで来ていた。
大木をくりぬいて造った丸木舟で、左右に三人ずつ漕ぎ手を配し、船頭役の隼手が椎でできた杖を舵代わりに握っている。
舟が速吸之門に差し掛かる手前で風が強くなった。海面に白波が立っている。
大波が舟の横腹を叩くたびにしぶきがどっと上がり、舟が大きく傾く。
「うわっ!」
「くそう!」
磐余彦たちは懸命に櫂を漕ぐが、思うように手が動かない。
みな頭から波を被ってずぶ濡れである。
にゃあ、にゃあ・・・
葛籠の中から、悲鳴のような猫の鳴き声がひっきりなしに聞こえてくる。
「ミケ、大丈夫だよ」
飼い主の三毛入野命が必死に声をかけるが、舟が揺れるたびに不安気に鳴いてしまうのは仕方がない。
木の葉の如き丸木舟は、その後も波に弄ばれるように揺れ続けた。
このままではいつ転覆してもおかしくなかった。
「難しい……」
操船中はずっと無口だった隼手が珍しく弱音を吐いた。
「たしかにこいつは難しいぜ。晴れていても潮の流れが一定しないときやがる」
来目が引き取って同意する。
隼人族は古くから琉球など南の島との交易を行ってきたので、隼手も舟を扱うことにかけては相当の自信があったはずだ。
ところがこの辺りの潮の流れは、日向灘とはまるで勝手が違っていた。
隼手が慣れ親しんできた黒潮は幅百キロメートルにも及び、メキシコ湾流や南極還流と並ぶ世界最大級の海流である。
ただしほぼ一定の速さで同じ方向に流れ、沖に流されさえしなければ、さほど恐れることはない。
太古の昔、南太平洋の島々からはるばる海に漕ぎ出た原日本人たちも、この大いなる海流に乗って日本列島に辿り着いたのである。
一行は愚かにも出航するまで、海はどこへ行っても同じようなものだと考えていた。
ところが豊後水道を北上するにつれ、様子ががらりと変わった。
深い藍色だった水の色が鈍色に変わり、櫂に纏わりつくように重くなった。
もちろんそれは気のせいだが、それは序の口で、潮の満ち干で流れの向きが正反対になるのにはお手上げだった。
海流と潮流の違いをひとことで言うなら、海流は常に一定方向から流れるのに対し、潮流は時間によって流れの向きが正反対になる現象である。
これを潮汐作用という。
潮汐は月や太陽の引力によって起きる海面昇降で、ほぼ十二時間半サイクルで繰り返される。潮の干満はこのようにして起こるのだ。
豊後水道でいえば、たとえば午前中は瀬戸内海から太平洋側に向かって流れていたのが、午後は反対に太平洋側から瀬戸内海に流れ込むのである。
潮の入れ替わりの時間は、流れが複雑で遭難事故も起きやすい。
海の難所といわれる所以である。
「速吸之門ってのは、ここよりも潮の流れが速いんだってな」
来目の言葉に、皆がごくりと唾をのんだ。
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